蛍さんはそんなわたしの何かを察したのか、自分のスマホをわたしと同じように黒色のジーンズの左ポケットから取り出して、ツイッターのページを開く。

 文字を打つ手がどうしても震えてしまう。何も悪いことをしていないはずなのに、わたしは自分の心の内を話すことが、こんなにも苦手になってしまっていた。


【蛍さん】


 長い時間をかけて、やっと打てたのがこの三文字。わたしの初めての呟きが、瞬く間にみんなが見れる公開ページに表示された。

 蛍さんは自分のスマホをガン見して、大きく見開かれた目を画面上から逸らさない。わたしが呟いた、自分の名前を見ているのだろう。


「……柚葉、俺のアカウントのメッセージから話さないか?その方が、この会話は誰にも見られずに済……、「蛍さん」


 わたしは静かな、だけどどこか強い声で蛍さんの言葉を遮って、強く揺るがない瞳を蛍さんに向けた。そんな視線で見つめられたからか、蛍さんの少しの動揺が肌を通して伝わってくる。


「……わたしは、この画面上にいるみんなみたいに、自分の悩みを沢山の人たちに吐き出せることをずっと憧れていました」


 たどたどしい口調で、自分の気持ちを一生懸命に伝える。何年もの間、他人の心を理解するのを放棄してしまっていたわたしは、人との接し方さえこの数年で忘れてしまっていたのだろう。

 わたしがもっと明るい性格で、自分の家には優しい母親と厳しいけれど頼りになる父親がいてくれて、もっと素直になれていたら……。

 ───わたしは虐めっ子たちとも、真正面から戦えた気がするのに。


「だから、沢山の人たちの悩みを聞いてくれていた蛍さんと、わたしも話したいんです」


 わたしの意志を汲み取ってくれたのか、蛍さんはこれ以上ないほどの優しい顔をして笑った。

 まるでその微笑みは、真っ暗で薄汚いわたしの曇った灰色の世界に、一輪の鮮やかな花を咲かせたような、そんな錯覚に陥る。


「分かった。みんなが見れるツイートをしよう」

「……っはい!」


 蛍さんが知りたがっていた、わたしが“死んでしまった理由”

 あの時は全てに絶望したから、なんて曖昧過ぎる答え方をして蛍さんに怒られてしまったけれど、今回は違う。わたしが思っていること、全部言うんだ。

 目の前にいるたった一人を信じて、わたしは開けもしなかったこの世界への扉と、自分自身の心の扉にゆっくりと鍵を差し込んだ。


【わたしの世界には、誰一人味方がいませんでした。学校では毎日のように虐められて、今はまだマシになったけど前はもっと酷いことを沢山されていました】


 スポンッと呟きが完了した通知音を聞いて、文字を打っていたわたしのことを見つめていた蛍さんの目線が、スマホの画面上へと戻る。

 わたしの呟きを見た蛍さんの目が大きく見開かれる。その事実に驚愕し、切なそうな、悲しそうな瞳で見つめられるのが何だか怖かった。

 蛍さんに、わたしは“可哀想な弱い子”として扱われるのが、どうしようもなく嫌だった。

 だからわたしは平気なふりをして、蛍さんに声をかけた。


「ほ、蛍さん……!あそこにあるベンチに座って話しませんか!えっと、あの、…ずっと立って話すのも何だと思い、……」


 蛍さんがわたしを真っ直ぐに射抜く目を変えてくれなくて、自然と自分の言っていることに自信をなくしてしまう。


「はは、最後自信無くなってるじゃん」


 蛍さんはそんな慌て気味なわたしに、本当に楽しそうな笑みを返してくれる。蛍さんのその楽しそうな表情に、ほっと一安心したのはここだけの秘密だ。

 わたしと蛍さんは、隣に並び合うような形で座り、少しだけ体の向きをお互いへと向けた。そしてわたしは伝えたい言葉の続きを、ただひたすらに画面に打っていく。

 本当はこんなもどかしいことなんかせずに、口で伝えた方が簡単だし、何より受け取ってもらいやすいと思う。

 ……だけど、わたしは自分の気持ちを自分の口から言うことはまだ出来ないから。

 こうして文字を打っていると言うだけで、信じられないくらい震えるほどの緊張が体中を覆うのだ。


【わたしは、その人たちに何も言い返すことが出来なかった。何かを言われるかもとか、もっと酷いことをされるかもとか、そんな不安からじゃない。

……わたしは、もう何もかも諦めていたんです。自分がここで勇気を絞って立ち上がろうとも、何も変わらないとただ漠然と絶望感に沈んでばかりいました】

【わたしには、わたしを愛してくれるような両親がいません。父はわたしが物心つく頃には他界していて、母は女手一つでわたしをここまで育ててくれました。

……だけど、母から愛という感情をもらったことはありません。浴びせられるのはいつもわたしを非難する言葉だったり、機嫌が悪い時は本当に危険なくらい、殴られます。

……わたしはただ、愛のある家族に生まれたかった。どんなに求めてもすがっても決して手には入らない誰かからの愛を、ずっと渇望していたんです。】


 わたしのツイートをゆっくりと優しい瞳で読んでくれている蛍さんの横顔は、わたしがこれまで生きてきた中で、一番美しくて、綺麗な色をしていた───。


【多分、柚葉の気持ちは俺には分からないけど、これまで精一杯、柚葉なりに頑張ってきたってことだけは分かる。】

【すごく、すごく辛かったよね。親の愛は無償なはずなのに、それを与えてもらえず、本当に苦しかったよね。だけど、決してそれが寂しいことだなんて思わなくて良いんだ。

───世界は俺たちに意地悪な試練ばかり与えるけれど、それを乗り越えた先には必ず明るい未来が待っているから】


 これから先の未来のことなんて絶対に分かるはずないのに、蛍さんのその言葉はなぜかわたしの心にすんなりと溶け込んで、心地の良いものへと変わっていった。

 未来は、変えられないと思っていた。

 蛍さんと、こうして話をする前までは───。

 どれだけ傷付いても、どんなに頑張ろうとも、変わらなかった世界。あの頃のわたしにはそれが全てで、家と学校という狭い空間を誰よりも嫌って、恐れて、生きていた。

 だけど、蛍さんと話している今だから分かる。私の居場所は、きっとこんな狭い空間じゃなくて、この世界を見渡せばいくらでも見つけ出せるということに───。


【世界は、広いんだ───。若い頃は自分が勝手に作り上げてしまった小さな鳥かごの中に囚われているけれど、それから逃げ出した先には、きっとどこかに自分の“居場所”がある。

努力は絶対に、報われるから……だからどうか、生きることを諦めないで欲しい】


 生きることを諦めないで欲しいだなんて、初めて言われたよ……っ。辛いのなら逃げても良い。逃げ出した先が自分にとって最良の場所なのなら、迷わずに堂々と逃げたって良いんだって───……。

 そう、言ってもらえたような気がした。

 なぜ、今まで気付くことが出来ていなかったのかな……。

 わたしの世界は、学校と家だけではないのに、まるでそこに縛られ続けなければならないとばかり思っていて、自分で自分を苦しめていたんだ。

 隣を見ると、蛍さんがわたしを優しい瞳で見つめていた。わたしのツイートを読んでいた時の優しい目だった。

 この人の瞳は、なぜこんなにも澄み渡っているのだろう。真夏の澄み切った青空のように、何の陰りも曇りもなく、その嘘一つない瞳にわたしの心を見透かされてしまいそうになる。

 以前のわたしだったら、この瞳から目を逸らしていただろう。だけど、今はもう絶対に逸らさない。蛍さんにわたしの心の内の全てを、見て欲しいと思っているから……。


「蛍、さん……っ、わたし、」

「柚葉、───おいで」


 蛍さんの広い腕の中に、わたしは迷うことなく抱きついた。蛍さんの体はわたしよりもずっと大きくて、男の人の体格をしていた。

 ぎゅっと強く抱きしめられ、安心感が体中に伝わってきて、今まで我慢していたものが堰を切ったようにあふれ出てきた。

 蛍さんの腕の中は、想像以上に安心感に包まれた。たとえ両親から愛されなかった運命だったとしても、わたしには蛍さんがいた。

 今まで悩んで、考えて、苦しんで……流して良いはずの涙も流れることはなくて……、わたしは、この感情を誰かに吐き出したかったんだって、今気付いたんだ。

 「うわぁーんうわぁーん…っ!!」という幼い子供が母親にしがみついて泣くような、そんな泣き声を上げながら、わたしは蛍さんの腕の中で涙が枯れるまで泣いていた。


***


 わたしはものすごい力で蛍さんのことを抱きしめ返していたような気がする。蛍さんのような顔の整った大人の男性に、恥ずかしげもなく抱きつくなんて……っ。

 涙が枯れて落ち着くと、次はまた違う感情が一気に押し寄せてきて、わたしは赤くなる顔を隠した。

 わ、わたしったら……何であんな大胆なこと…っ。


「柚葉、俺と旅に出ない───…?」


 唐突に言われたその言葉。その言葉の意図がすぐには掴めなくて、わたしは戸惑った。そのおかげで熱くなっていた頬の熱がゆっくりと引いていくような感覚がした。


「旅、……ですか?」


 そのワードはわたしにはとてもじゃないけれど聞き慣れない言葉で、一瞬蛍さんが何を言っているのか分からなかった。

 家族旅行も、友達とどこかに遊びに行くことさえまだ一度もやってみたことがなかったわたしは、その言葉に憧れのような気持ちが膨れ上がった。


「うん、そうだよ。柚葉がこれまで出来なかった沢山のことを、俺が一緒にしたいって思ったんだ。それに、ほら……好きな子の初めては、やっぱり奪いたいものでしょ?」

「……っ、へ?」


 き、聞き間違いかな……?い、今、蛍さんの口から好きな子って聞こえたような気が、……ってそんなわけないよね。あはは…。

 そんな幻聴を聞いてしまうなんて、恥ずかしい。わたしはどこまで、欲張りで我儘な人間なのだろう。蛍さんと出会えたのだから、もうそれでいいじゃないか。ツイッターで蛍さんとお話することが出来たんだから、もうそれ以上は望んじゃだめじゃないか。

 わたしは心の中で羞恥心から自分自身を叱責し、何でもない風を装って蛍さんに愛想笑いを返した。


「あ、あの、……わたし、蛍さんと旅行に行ってみたいです」


 そう言った途端、わたしは「あ、でも……」と思い留まった。わたしは、今は他人の目には視えていない“幽霊”なのだ。そんなわたしが、生身の人間である蛍さんと一緒に旅が出来るのだろうか……?


「ん、どうしたの?」

「わたしってほら、もう死んじゃってるから幽霊じゃないですか。だから、みんなの目には視えないのに蛍さんと旅行することなんて出来るのかなって、……」

「…ああ、そのことなら大丈夫だよ。俺といれば、柚葉はちゃんとした人間だから」

「そうなんですね。……って、え?」


 蛍さんがあまりにもそのことを普通に話すものだから普通に受け取ってしまった後に、それがとんでもないことだということに気付いたわたし。


「そ、そんなことって、起こり得ることなんですか……?」


 震える声を必死に抑えながら、わたしは蛍さんを見た。蛍さんはそんなわたしの言葉に、はっとした顔をして、「ごめん」と言った。


「まだ、柚葉にこのことを言っていなかった。……言うつもりもなかったんだけど、柚葉だって少しは勘づいちゃってるよね?」

「え、……えと、はい」


 もし蛍さんがあのお婆さんが話していた“あのこと”について言っているのなら、わたしはそれを知ってしまっている。

 だけど、それはあまりにも非現実的過ぎて、本人に聞くまでは確かな確証が持てなかったのだ。

 ───だって、蛍さんがわたしを救うために命を削っただなんてことがあったら、わたしはどうすればいいのか分からないから。