「はぁっ、はぁっ、はぁっ───!!」


 本当にあのお婆さんには、感謝しなければならない。だってあのお婆さんの言葉がなければ、わたしはもう一生蛍さんとは会わないつもりだったから。

 蛍さんのあの冷たい言葉を鵜呑みにして、勝手に傷付いて、自分の思い描いていた蛍さんじゃなかったからといって逃げ出したなんて、今思えば本当に馬鹿みたい。

 わたしは目に涙が浮かぶのを感じながら、ただひたすらに走り続けていた。蛍さんが今、どこにいるのかは分からない。自分がどこへ向かっているのかも、正直よく分からない。

 ……それでも、呼んでるんだ。

 瞳を閉じて心をすっきりと落ち着かせたら、なぜか分からないけれどわたしは蛍さんの心の声が聞こえる気がする。

 これは馬鹿げたわたしの妄想かもしれないけれど、蛍さんがわたしの心に、ここにいる、と呼びかけてくれている気がしてならないんだ。

 冷たい言葉をかけてしまった。酷いことを言って、あの人から逃げてしまった。こんなわたしは、もう蛍さんには助けてもらえないのかもしれない。

 もう一生、あの力強い腕に抱きしめてはもらえないかもしれない。

 ……また、わたしを責める蛍さんの真っ直ぐ過ぎる嘘偽りない言葉に、傷付いてしまうかもしれない。

 それでも、わたしは聞きたいんだ。あの日、電車に轢かれて死んだわたしを救ってくれたのは、蛍さんだったんじゃないのかって。

 蛍さんはわざと他人が傷付くような言葉なんて絶対に言わないような人だと思うから。わたしはこれに賭けてみようと思う。

 答えがどうであってもいい。だけど、わたしはただ、謝りたいんだ。あんな酷いことを言った自分自身を、許すことなんて出来ない。


『全てに、絶望……?何だよ、それ』


 あの冷たい言葉は、わたしを非難する言葉だったとしても、悪意からのものではなかったのかもしれない。今では、そう思える。だって、蛍さんは───。


***


 朝からずっと寝転がっていた河川敷の草原から通りへ出て、ただ続く一本道を駆け抜ける。右手にはチカチカと光り続ける黄色の信号機。そこを渡って左に曲がり少し行くと、その公園はある。

 息を乱したわたしは、今はまだ明るい公園に辿り着いた。乱れた息は簡単には収まらずにわたしは激しく肩を上下させた。辺りをぐるりと見渡して見ても、一見誰もいないように見える。

 だけどあの日の夜も、誰もいないはずの公園に蛍さんの声が響いたのだから、きっと今日も……。


「───柚葉、…?」

「………っ、!!」


 その声を聞いた途端、わたしはやっぱり体中にのしかかっていた重い何かが離れていくような、そんな安心感に包まれた。

 蛍さんから逃げたのは紛れもないこの自分自身なのに、あんな酷い言葉を吐いて傷付けたのに、また自分の名前を呼んでもらえてわたしはどうしてこんなにも喜んでしまっているのだろう。


「っ蛍、さん……」


 そう弱々しい掠れた声でその名を呼び、蛍さんに駆け寄ろうとしたわたしの足は動かなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、わたしの足はあちら側へ行くのを許してはくれなかった。

 そんなわたしの様子に気付いたのか、蛍さんははっとした表情をしてわたしの元に走って来る。その顔には、わたしを酷く心配する疲労の色が浮かんでいた。


「……もう、ここへは来てくれないかと思った」


 悲しげな蛍さんの声が、まだ昼間なのに誰もいない公園に響く。そんなの、わたしが言うセリフなのに……。

 本来その気持ちを持つのは、わたしなはずなのに、蛍さんはなぜこんなにもわたしに優しく接してくれるのだろう。

 偽善者、だなんて。そんな言葉だけは絶対に蛍さんには似つかないのに。わたしは一体、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。

 自分の思い通りの返答が返ってくると、本気でそう思っていたのだろうか。そう思うと背中に寒気がするほどに、そんな自分自身に虫唾が走った。


「蛍さん……っ、あの時、あんな酷いことを言ってしまって、本当にごめんなさい……っ!!」


 悲痛に歪んでいるであろう顔を見られたくなくて、わたしは勢いよく頭を下げた。こんな顔をしていいのは、きっとわたしじゃない。

 わたしは、傷付いてはいけない。苦しむべきなんだ。


「わたしがあの日聞いた声は、蛍さん───、あなたですよね」


 表情からわたしを取り巻く全ての感情を押し殺して、わたしは顔を上げて真っ直ぐに蛍さんに向き直り、そう言った。

 蛍さんは驚いたように「え……っ」と小さな声を漏らし、わたしの瞳の奥を探るような視線で見つめてきた。

 きっと、わたしが何を考えているのか、そしてわたしが一体何を知っているのかについて、探っているのだろう。


「柚葉から前に言われた言葉の意味を、あの日から今までずっと考えていたんだ……」

「……っ、!」


 ぎゅっと眉間に皺が寄るのが分かる。感情を押し殺していたはずのわたしの顔は、また悲痛の色に歪んでしまった。


「偽善者、と言われたら俺がこれまでやってきたことはそれまでだったかもしれない。───それでも、これだけはどうか、知っていておいて欲しい」


 蛍さんはその続きを言うのを少し躊躇うかのように唇を強く噛んだ。何かに悩んで、苦しんで、葛藤して……。

 それでも蛍さんは、こんな臆病者のわたしとは違って、最後には必ず真剣な瞳で他人とぶつかろうとする。

 それが、今のは私にはどうしようもなく眩しかった。今思えば、画面上の蛍さんはわたしの世界の中でいつも輝いていて、まるでその人だけがわたしの生きる希望のように見えた。

 わたしじゃない他の誰かに向けられた言葉だったとしても、わたしにはそれだけで十分過ぎるほど、蛍さんの希望に満ちた文面に優しさと勇気をもらっていた。


「俺はただ、君を救いたかった───……」

「……っ‼︎」


 やっぱり、わたしの悪い予感は当たってしまっていた。あの日あの駅のホームで必死にわたしの名を呼んだのは、蛍さんで間違いなかったのだ。

 もし、それにあの時気付いていればこんなことにはならなかったのではないだろうか。……あぁ、たらればを考えても仕方がないじゃない。

 過ぎてしまった過去は変えられない。じゃあ、決められた未来は……?

 あの不思議なお婆さんの顔が頭に思い浮かんだ。あの人は、まるで世界の全てを知っているような、そんな慈悲深い瞳をしていた。

 それはわたしには到底理解出来るものではなくて、加えてお婆さんの言葉の意味をわたしはまだ完全に受け入れた訳じゃない。


「蛍、さん……っ」


 一度流れてしまった涙は、もう止まらない。わたしの目から何か熱いものが流れて、頬を濡らしていく。

 それが涙だと気付いたのは、蛍さんのたくましい腕に抱きしめられていると分かった時だった。

 蛍さんの心臓の鼓動が伝わってきて、わたしは宙で彷徨い続けていた手をその背中にそっと添えた。ゆっくりと瞳を閉じて、息が落ち着くのをただひたすらに待った。


「わたしのことなんか、…」


“わたしのことなんか、救ってくれなくても良かったのに”


 言いかけた言葉は続かなかった。

 たった一人の恩人に、この世界でたった一人、本当のわたしを見つけてくれた気がしたあなたにだけは、こんな言葉は言っちゃだめだと思った。

 だけど、今のわたしには自分を卑下する言葉しか言えないと思うから。わたしは青のジーンズの右ポケットからスマホを取り出し、ツイッターのページを開いた。

 そんなわたしの突然の行動を驚いたように不思議そうな目をして見つめてくる蛍さん。二人の間に少しの距離ができ、わたしはゆっくりと深呼吸をして文字を打ち始める。

 ずっとやりたいと思っていても、勇気が出なくて出来ていなかったこと。わたしが抱く、小さいけれど大きな夢。

 それは、───“蛍さんとツイッターで話すこと”


 ただそれだけだ。