───…ミーンミンミンミンミンミン。

 七月という立派な立夏の季節にわたしは一体なぜこんな所で蝉たちの大合唱を聞かされているのだろうか。

 夏が嫌いなわたしは、この状況に酷く呆れていた。はぁー、という暗い暗い溜め息を吐き、わたしは真っ青な空を掴もうと上へ上へと手を伸ばす。

 一体いつまでそうしていたのか。全ての感情を失ったように草藁に寝転がって、海のように深く透き通った深い空の水色を、ただぼーっと見ていたわたしは突然意識を取り戻したようにして、勢いよく起き上がった。

 あの日からわたしは気の向くままに放浪生活を送っている。どこに行くわけでも何をするわけでもなく、ただ世界の隅っこを眺めている。そんな感じだ。

 死にたいと願いながらもただ必死に生きていた頃は時間の流れというものを感じながら息をしていたというのに、今のわたしには時間に囚われなくなった瞬間に、本当に何をして良いのか分からなくなる。

 そしてこの放浪生活をしているうちに分かったことがある。わたしのこの姿は、他人の目には視えていない───。

 となると、多分わたしは幽霊なのだと。死者は生き返りはしないから、そのことが判明してからというものわたしの心の突っかかりは少しだけだけど、軽くなった気がする。

 だけど、そんなわたしが突然体を起こした理由。それは、やっぱり蛍さんにあった。

 なんで蛍さんは、幽霊のわたしを視ることが出来たのだろうか……?自分が幽霊だと自覚した瞬間に湧き上がってきた真っ当な疑問。

 こめかみから冷や汗が流れるのを感じ、わたしはそっと掌でそれを拭った。


「───……あぁ、恐ろしや恐ろしや、」


 しわがれた老婆の声が、背後から聞こえてきた。わたしは突然のことにびっくりして、恐る恐る後ろを振り向く。

 ───そこには、青褪めた顔をした一人のお婆さんが曲がった腰に腕をやりながらこちらに視線を向けていた。

 わたしのこと、だよね……?もしかして、このお婆さんもわたしのことが視えるのかな……。そう思い、また一つの疑問が生まれる。


「あ、あの……」

「ありゃまこれは驚いた。───お前さん、幽霊人間じゃの?」


 ゆ、幽霊、人間……?

 聞き慣れないその単語に、わたしは眉を顰めた。だけど、その言葉には何か大切な意味が込められている気がして、わたしは食いついた。


「あ、あの……っ!お婆さんはわたしのこと、視えてるんですか?」


 わたしの必死な質問に、お婆さんは一瞬暗い表情をして、うーんと唸った。そしてまたしわがれた低い声で、「……あぁ、そうじゃよ」と言った。

 ……っ!!やっぱり!!

 だけど、なんでだろう。お婆さんの意味深な暗い声に、少し違和感を覚えたんだ。何かを真剣に考えているような、そんな雰囲気を醸し出すお婆さんに、また不安な気持ちになる。


「お前さんは、幸せ者じゃなぁ。こんなにも他人に愛されとる人間に、私は初めて出会ったよ」


 だけどお婆さんは真剣な顔から一変、本当に心からそう思って言っているような、満面の笑みを湛えた。


「私は大切な人を救えんかったからなぁ……、こうやって誰かに救ってもらえとるお前さんを見ると、私もあの頃の苦しみが少し軽くなった気がするよ」


 このお婆さんは、本当に何を言っているのだろう……?

 疑問に思えば思うほど、焦る気持ちはどんどん胸の中に広がっていき、違和感の正体が霧が晴れたようにしてその姿を表すかのように、明確になっていく。

 ねぇ、お婆さん────。もしも、そのわたしを救った人が、あの人だったら、わたしは何を持って償えば良いのだろう……っ。

 まだ確信はないけれど、あの夜の日のあの人の反応。わたしを責めていた時の苦しそうな表情。

 世界から夜が消えてしまったような、そんな絶望感を抱いて、わたしの顔からどんどん生気が失われていく。


「お婆、さん……っ!あの、それ…っどういう意味、なんですかっ!?」


 悪い予感というものはよく当たると言うけれど、今の私のこの予感だけは、当たって欲しくなんてなかった。だから、どうか……っ。この予感だけは間違っていると、誰か言って───。


「お前さんを救うために、誰かの命が削られてしまったという、そういう意味じゃよ───」


 途端に、ひゅっ、とわたしの心の中に冷たい吹雪が襲った。顔は青褪め、今はもう夏だというのにわたしの肌には鳥肌がぞわわっと立っている。


「それ、どういう意味……っ、いやでも、そんなはずは……!!だって…っ「───お嬢ちゃん」


「過去は、どんなに悔やんだって変えられんのだよ」


 わたしの嗚咽ばかりの声を静かな声で遮ったのは、怖いほどに静かな表情をしたお婆さんだった。


「どんなに後悔しようとも、どんなに泣き叫んで許しを請おうとも、失った過去は変えられん。失ったものはもう二度と、この手には戻ってきてくれない。自分で自分の尊い命を終わらせようとしたお前さんを、許してくれる人はどこにもおらん」


 正論だった。ずっと他人にも、この自分自身の心にも嘘ばかりを吐いて生きてきたそんな汚くて恥ずかしい人間には、あまりにもその言葉が真っ直ぐに心の一番深いところに突き刺さった。

 あの時のわたしの選択は、間違いだったのだろうか……。

 苦しみから逃れるために死を選ぶのさえ厭わなかったのに、それは間違いだったとあなたも蛍さんのように言うの……っ?

 分からないよ、あなたたちに、わたしの苦しみは分からない。誰にも救ってもらえなかった可哀想なわたしに寄り添ってくれる、そんな優しい人はいないんだよ。

 ───…っ、それなのに、なんで。苦しい時に、あなたが一番にわたしの頭に浮かぶの……っ。

 どうしようもなく誰かに救って欲しかった時に、なぜあなただけはずっと、わたしの希望の光で居続けてくれたの……っ。

 これは、わたしの一方的な思い。あなたがわたしの希望の光だったということは、この世界でわたししか知らない。あなたは知らない。


「会いに行きなさい。お前さんを、自分の命を削ってしまってでも助けたいと願い、救ってくれた人に───。その人は今、きっと悲しみの中で彷徨っているじゃろう」


 もう二度と、お前さんの希望の光を無下に傷付けてはいけないよ───と。お婆さんは全てを知った深い漆黒の瞳をわたしに向けて、強く強く、そう言った。

 その瞳には、世界の全てが、映っていた───。