こんなことが、わたしの身に起こっても良いのだろうか。そう真剣に問い質したくなるくらい、わたしは今起きている現実を簡単に受け入れることなんて出来なかった。
まさか、今わたしの目の前にいる人があの“蛍さん”だなんて───……。久しぶりに心が震える感覚に、わたしは驚きを通り越して感動さえも覚えていた。
前にこんなにも心が震えたのは、わたしがツイッター上で蛍という名前を初めて見た時だ。その人は、辛い悩みを抱えた人たちからの相談に、親身に乗っているような、そんな人だった。
画面上に浮き出される文面だけで、その人がどんなに心優しい人なのか、一目で分かってしまったのだ。
わたしもこの蛍さんという人と、一度でもいいから話してみたい───。
その時から、わたしはずっとそれだけを望み続けて、生きてきた。
「本当にあの…っ蛍さん、なんですか……っ」
驚きに言葉が詰まって、わたしは上手く喋れなくなる。目の前の蛍さんは、そんな私をとても優しい瞳で見つめていた。
なぜそんな瞳をして見られているのか、わたしには分からなかったけれど、心臓の音が一気にうるさく鳴り出し、血液がふつふつと煮えたぎりわたしの全身に一気に駆け巡る感覚がして、一瞬目眩を覚えた。
目眩がしただけだと思ったのに、私の体は自分の意に反して、ぐらりと世界を反転して地に倒れていく。
その感覚に、体にある全ての穴がゾワリ──、と鳥肌が立ったようにしてわたしは初めて恐怖を感じた。
「…あ、───っ」
思わず助けを求めて蛍さんへと伸ばしたその手は、全然届きそうにない。今日の朝のことを思い出して、わたしの瞳からまた涙が溢れ出る。決して、死ぬのが怖くなかった、というわけじゃない。
駅のホームに降り立つ感覚は今でも忘れないほどわたしの体に染み付いてしまっていて、体が地へと落ちていく感覚に絶望を覚えたのだ。
死にたいと願ったのはこのわたしのはずなのに、電車に轢かれる寸前、わたしの体はこれ以上ないくらいに強く強く、強張っていた。
まるでそれは死を拒んでいるかのようで、心の何処かで、まだ死にたくないっていう感情があったんじゃないかと思うと、わたしはどうしようもなく怖くなる。
だって、もし本当にそうならわたしが今この世界で息をしていることなんて、奇跡としか言いようのないものなんだから……。
わたしは恐る恐る蛍さんのその端正な顔へと目を向けた。この人は一体、わたしの何を知っているというのか。なぜこんなわたしなんかに、こんなにも優しく接してくれているのか。
蛍さん───…、わたしはあなたのことが全く分からない。……でも、これだけは何だか、分かる気がする。
きっと蛍さんは人よりもずっと他人に優しくすることが出来る人だから、見知らぬわたしのこともこうやって慰めてくれているわけだ。
ツイッターで学生たちの神として沢山の人たちに崇められていた蛍さん。沢山の子たちが蛍さんの言葉に救われて、もう一度前を向いて強く生きようとした。
そんな子たちが、わたしはどうしようもなく羨ましかった。他人に自分のことを話すのが大の苦手なわたしには、学校での悩みや家での悩みなんて尚更相談することなんて出来なかった。
───体が、地面へと落ちていく。今度こそ、わたしは助からない。倒れてしまっただけでは死には至らないと分かっていながらも、なぜかそんな気がするのだ。
ゆっくりと瞳を閉じて、わたしは体中の力を抜いた。ドサリ───、と地面に倒れる。
……はずだったのに。
「柚葉……っ!!!」
駅のホームで聞こえた、必死にわたしの名を叫ぶあの声に、それはとても似ていた。なんで、わたしの名前を知ってるの……っ!?
わたしの体は蛍さんの腕の中へと倒れて、蛍さんはわたしを庇うようにして勢いよく地面に倒れる。ドサリ、という蛍さんの肩がとても強く地面に当たる音が聞こえた。
「……っ、」
強張っていた体は地面に叩き付けられることなく、蛍さんの体温に温かく包まれていた。蛍さんは、わたしを庇ってくれたのだ。
こんなわたしなんかのために、蛍さんの体を傷付けてしまった……っ。体中の血が引いていくのを感じながら、わたしはあたふたと青ざめた顔をして、蛍さんの肩に手を触れた。
「あの…っ、大丈夫ですか……っ⁉︎」
わたしは決して、蛍さんのような人に怪我を負わせてまで救ってもらえるような、そんな価値のある人間ではない。そしてそれ以前に、なぜ蛍さんがわたしの名前を知っているのかは正直全く分からない。
……というか、わたしには知らないことが多すぎだ。蛍さんがなぜこんな公園にいるのかも、一度死んだはずのわたしがなぜまだこの世界で息をして生きているのかも。
蛍さん、……にはさすがにこれは相談出来ることじゃないし……。わたしは迫りくる不安から逃れるようにして、蛍さんの体の上からササッと離れる。いつまでも女子高校生の体が乗っかってしまっていては、蛍さんも辛いだろう。
「柚葉が無事で、本当に良かった……──っ」
蛍さんから離れようとしたわたしの体は、蛍さんの細くて引き締まっている、だけどとてもたくましい腕に抱きしめられていた。それは本当に突然のことで、一瞬理解が遅れる。
蛍さん……?なに、してるの…っ?わたしの瞳が大きく見開かれて、息をしていられなくなる。体中の血液が一気に顔へと集まる感覚がして、わたしは反射的に顔を手で覆い隠した。
やだ…っ、何、この感情───まるで、これじゃあ……、わたしが蛍さんのことを意識しているみたいじゃない…っ!
すぐに離れて欲しかった。だけど蛍さんがわたしを抱きしめる力はどんどんどんどん強くなって、ぎゅうっと力いっぱいに抱きしめられる。それに伴ってわたしの頬の熱も今以上に上がっていく。
「本当に、良かった……っ!」
立派な成人男性が、女子高校生のわたしの首元に顔を埋めて、声を押し殺して泣いていた。なぜ、わたしが倒れそうになったというだけで、この人はこんなにも心配したのだろうか。
わたしが蛍さんによって庇われ怪我をしなくて済んだという今、どうしてこの人はこんなにも安心して声を押し殺して泣いているのか。
「ほ、蛍さん……?大丈夫、ですか」
動揺を隠しきれずにいるわたしを蛍さんの濡れた瞳が映し出した。この人は泣いても、かっこいい顔のままだ。きっとこういう人が沢山の人から愛されて、幸せになれる人間なんだろう。
わたしを助けてくれた蛍さんに少しの皮肉を持ってしまったわたしは、その一点の曇もない真っ直ぐな蛍さんの瞳に、やっぱり心底歪んで見えるのだろう。
「大丈夫、……じゃないよ」
ほっと息を吐いたのも束の間、蛍さんは大丈夫だという言葉を否定した。心臓がギュッと鷲掴みされたように痛くなる。蛍さんの服やわたしの素足に公園の砂利が鬱陶しく纏わり付いている。
だけど今はそれさえも気にしていられない。蛍さんは一度何かに耐えるような、そんな苦しげな表情をした後、わたしの体を優しくゆっくりと離した。
だが、体の一部は離れることなく、蛍さんに強く肩を掴まれる。それは不思議と痛くはないから、蛍さんがちゃんと力加減をしてくれているんだなって思った。
そんな小さな気遣いにわたしは泣きそうになる。なぜなら、その優しさは乱暴者のわたしのお母さんとは全くかけ離れたものだったからだ。
「……ねぇ、一つだけ、俺に教えてくれないかな」
唇を噛んで、舐めて、これから発する言葉を慎重に選んでいた蛍さんの口から、そんなお願いをする言葉が発された。
「……はい、」
蛍さんがこれから言わんとしていることが、なぜだか少し分かる気がした。ごくり、とつばを飲み込んで、わたしは深く深呼吸をしてもう一度蛍さんの瞳に恐る恐る自分の目を合わせた。
長い、長い沈黙だった。この沈黙が、今のわたしにとってはとても気持ちの悪いものだった。蛍さんは、きっと───……
「────君はなぜ、あの時死んだんだ」