七月七日。

 六時四十八分。

 駅のプラットホームにて、一人の女子高校生が自ら電車に轢かれ即死で自殺したというニュースが報道された。

 名前は宗方柚葉(むなかたゆずは)。性別は女。歳は十七歳。家庭には問題あり。


「うん、間違いない。…………───────私だ」


 わたしは、死ねなかったのだろうか。傷一つない体で、なぜ床に寝転んでいるのだろうか。

 ただ一つ、思い当たることがあるとするならば電車がわたしの体に勢いよくぶつかり、もう死んだと思われたその時、一瞬にして誰かに猛烈に責められている感覚に嫌気が差したのだ。

 わたしの口から言いようのない心の叫びが吐き出された瞬間、わたしは一瞬にして眩しい光に包まれた。

 そこからの記憶は本当に曖昧で何も覚えていないけれど、光に包まれた後、私は長い時間何も見えない真っ暗闇をずっと幽霊のように彷徨っていた気がする。

 そしていつの間にか、自室のベッドの上で目をパチリと覚ましたのだ。

 いつもは七夕の特集ばかりが放送されていたテレビでは沢山の局が私が死んだという自殺事件で大騒ぎだった。


「死ぬ日、間違えちゃったかな……」


 わたしは少し世間に申し訳なく思いながら、改めて自分の体を見た。別にいつもと変わらない生身の人間の体。幽霊でも、死神でもない。

 一体なぜ死ねなかったのかは、当の本人にさえ分からない。これこそ、重大な怪事件と言えよう。

 いつまでもこうしてただぼーっとテレビに映る自殺事件のニュースを見ている訳にもいかないから、取り敢えず私は重い腰を上げて立ち上がった。

 わたしの部屋のテレビでこのニュースが流れているということは、きっとわたしのお母さんもわたしが死んだことを知っているはず。

 ……涙を流して、ちゃんと悲しんでくれているかどうかは分からないけれど。母子家庭で育ったわたしには、勿論父親というものはいない。

 女手一つで私を育てていくことはお母さんにとって、きっととても大変で辛いことだったろう。

 だから別に、悲しんでくれなくてもいい。

 ペタ、ペタ…と素足で階段を降りて行き、リビングに顔を覗くと、一人酒を飲んでいるお母さんがいた。

 わたしが死んだというニュースを見ながら、お母さんは沢山のお酒に囲まれて感情の読めない目をしていた。


「お母さん……」


 呟いた私の声は、少し遠くにいるお母さんには聞こえない。わたしがいるリビングの扉から、テレビを見るお母さんの横顔は見えているけれど、あっち側からではここは死角になっていてわたしの姿は見えない。


「自殺……?何やってんの、馬鹿じゃないの?」


 冷たい声で、そして心底呆れた声で、そう言い放ったお母さん。お母さんのその言葉を聞いた途端、わたしの期待は見事に崩れ落ちた。

 やはり期待するだけ、無駄だった。わたしはぶるぶると震える右手を必死に左手で握り締め、声にならない嗚咽を漏らした。


「…うっ……、っ」


 お母さんの瞳は、冷めていた。テレビ越しにわたしの死体を見つめる母の顔は、世間の母親の顔じゃなかった。なぜ、わたしはそのことにこんなにも悲しんでいるのだろう……。

 わたしをここまで追い詰めたのは、わたしの学校でのことを知っても母親らしく寄り添ってくれなかったお母さんのせいなのに……っ。全部全部、あの人のせいなのに……っ。

 ここまで来ても、わたしはまだ愛されたいと思っている……?そんな疑問が頭に浮かんだ途端、わたしはどうしようもないほどの絶望に駆られた。


『キャハハハッ、こぉ〜んなに陰気臭い子にはこれくらいがお似合いなのよ!』


 濡らされていく制服。トイレの中に閉じ込められて、ホースから吹き出した大量の水がわたしの体に降りかかる。

 どうして世界はこんなにも、残酷なんだろう。全てに疲れ切っていたわたしは、抵抗なんて出来なかった。だって、抵抗した分だけ、虐めは加速する。今よりももっと酷いことをいっぱいされる。

 わたしを救ってくれる人はいない。話を聞いてくれる人もいない。寄り添ってくれる友達も、家族も、先生も……、わたしにはいなかった。

 だからわたしに出来る最低限の抵抗は、自殺しかなかった───。

 わたしを虐めた奴らに、この現状を知っていても見て見ぬふりをしていた担任に、学校の人たちから虐めを受けていると話しても救ってくれなかった母親に、少しは後悔して欲しかった。

 お前らのせいでわたしは死んだのだと、一生悔やめばいいと思っていた。

 それでも、どうだろう……?

 現実は変わらないままだ。


「全く、変わってないじゃない……っ!」


 頬に熱いものが流れるのを感じながら、わたしは耐えきれなくなって何も履かずに素足のまま家を飛び出した。夜風が濡れたわたしの頬に触れて、ひんやりとした感覚が脳内に伝わる。

 無我夢中で走りながら、わたしは何度も何度も流れてくる涙を制服の袖で拭う。まだ制服を夏服に変えていなかったのは、腕の痣が目立ってしまうからだ。

 わたしが小さい頃からお母さんはよく、機嫌が悪くなると殴ってきた。足も手も顔も、隠しきれない時だってあるくらい、沢山沢山殴られてきた。

 それでもわたしはそれで良かった。私を殴ることでお母さんが不安や焦燥から解き放たれるのなら、わたしはその手駒となっても良かった。


「ううっ、……ぐっ…ぁ…、ふぅっ」


 泣きながら全力疾走していると、息が続かなくなる。靴下も靴も履いていないわたしの素足に、沢山の尖った石や木の枝が突き刺さって凄く痛い。わたしはさっきよりも激しい嗚咽を漏らしながら、ある目的地へと向かってひたすら走った。

 この世界にわたしが生きていられる場所なんてない。ずっとそう思っていたけれど、あの場所だけは───…。

 あの場所だけは、いくつもの鉛がのしかかって今にも押し潰されそうなわたしの心を、少しは軽くしてくれると思った。

 走って走って、もう足が限界を迎えていた時、わたしはその場所に辿り着いた。そこはやっぱり、何も変わっていなかった。

 夜の風に揺られてギィギィと錆びれた音を出すブランコと、薄汚れた滑り台。公衆トイレを設置できるほどの広さの公園ではないけれど、どこか安心する場所。

 まるで世界から切り離されてしまったような、人影のない寂れた公園がわたしは小さな頃から好きだった。

 何か嫌なことがあるといつも決まってここへ来ては、このドでかい紅葉の木に話しかけるのだ。もちろん、それは木なのだから返事はくれない。

 それでもわたしの唯一の話し相手は、雨風に揺らされ、嵐にも耐え抜いてきた樹齢の長いこの木だけだった。


「……今日ね、本当に泣きたくなるくらい、悲しいことがあったの───」

『そうだったんだね……』

「…っ───!?」


 静けさだけが残る公園にわたしの声だけが溶けていく。───だけど、もう一つ。思わず涙が出るほどの優しい声が、わたしの体を温かく包み込んだ。


「……っ!?」


 わたしは突然のことに開いた口が塞がらなくて、辺りを勢いよく見渡した。……でも、そこには誰の姿もなく、人の気配は全くしない。

 それなら、わたしの言葉に返事をしたのは目の前に高々と威厳を持って存在する、この紅葉の大樹だということになる。

 ────が、無論そんなことはありえないと思った。もしそれが本当だったとしても、わたしは怖くて足を動かすことさえ出来なくなるだろう。


「あなたは、誰なの……───っ?」


 拭いきれない不安に襲われながらも、わたしは勇気を振り絞ってその声の主を探す。するとどこからかガサガサッと草木が揺れる音がして、わたしよりも背丈のずっと高い男の人が、現れた───。

 その姿を視界に捉えた瞬間、わたしの体はビクリ、という効果音が付きそうなほどに激しく震えた。不審者かな……っ、とも思ったが、なぜかわたしはその男の人に対しての恐怖心をあまり抱いていなかった。


「この名前を聞いたら、俺が誰かってこと、分かってくれるかな……」

「え……?」

「───……“蛍”」

「…っ……!!」