なぜ、柚葉は昔のことを忘れてしまっているのか。今までずっと、柚葉は俺との昔のことを知っているものだと、そう思い込んできたけれど、それは違った。

 出会ったときから柚葉は俺のことを知っているようだったし、もちろん“幼馴染”としての俺として話してくれているのだと勝手に決めつけていた。

 まさか、柚葉が、過去を忘れてしまっていたなんて───……。

 どうしてだろう。なんで、柚葉は記憶を失ってしまっている?


『柚葉はきっと、沢山の苦しみに追い詰められて、過去の記憶さえ失ってしまったんだと思う。……そうでないと、柚葉が“あの頃”のことを忘れるはずがないから……』


 俺は自分が柚葉に向けて言った言葉を思い出し、一度深く唸った。だって、俺が言った通りでなきゃ、柚葉が俺のことを忘れるなんてこと、有り得ないんだ。

 だけど、これは単なる俺の欲望で、柚葉との過去に執着し続けてしまっている何よりの証拠だ。


「───俺と柚葉は、昔、幼馴染だったんだよ」

「っ、え───?」


 柚葉のひどく動揺した顔が、俺の真っ黒な瞳に映し出される。柚葉があの大昔の夜のことを覚えていないのなら、俺がもう一度話す必要がある。

 あの日は、二人にとっての“運命の日”だったのだから……。


「柚葉、今から俺が話すことを聞いて欲しい。これを話すことで柚葉が記憶を取り戻すとは限らないけど、聞いて欲しいんだ」

「……うんっ」


 不安そうな顔をしている柚葉の頬に優しく手を添えて微笑んだ。


***


 俺と柚葉は、柚葉が生まれた時から家が近くで、柚葉が成長して外で遊べるようになってからは毎日この公園で遊んでいた。

 本当の兄妹のように仲が良くて、俺と柚葉は近所に住んでいる沢山の人たちから愛されて育ってきた。柚葉のお父さんはもうその頃には亡くなってしまっていたけれど、ずっと柚葉を見ていた俺は知っている。

 柚葉のお父さんは生前、本当に我が子を愛して、とても可愛がっていたということ。そして柚葉のお母さんも、昔はとても優しい人だったのだ。

 柚葉がツイッターで俺に呟いてくれたことを読みながら、正直信じられない気持ちでいっぱいだった。だけど悲しいことに、それは本当のことなのだろうと、受け入れることが出来た。


『柚葉、こんな所で何してるの?』

『あっ、ホタル!ゆずね、ホタルのために泥だんご作ってたの!』

『そうだったんだ、……柚葉のこと家に迎えに行ってもいなかったから、すごい心配したんだよ』

『そ、そうだったんだ……!ごめんね、ゆず、ホタルを驚かせたくて』


 小さなお手々に泥団子を乗せて、ふっくらと膨らんだ柔らかい頬を嬉しそうに膨らまして笑う柚葉を見ていると、本当に幸せな気持ちになれた。


『そっか、ありがとう』


 当時柚葉は四歳で、俺は八歳の小学二年生だった。俺はその頃人気者で、沢山の人たちから無条件の愛をもらえていた。

 俺を気にかけてくれる周りの人たちや友達、先生、そして俺を愛してくれる優しい両親に恵まれて、何不自由ない人生を謳歌していた。

 ───だけど。

 その翌年、俺の両親は高速バスの転落事故で、二人とも息を引き取ったのだ。

 何も考えられないまま葬式を迎え、沢山の人たちに「辛いよね、悲しいよね」と貰いたくもない言葉をかけられ続けた。

 葬式が終わってからも、俺の心からまるで何かがすっぽりと抜け出したような、妙な無気力感だけが残っていた。

 明かりも付けずに、ご飯を口にすることもなくただぼーっとして壁によりかかり、ただ時間が立つのを待つ日々は、本当に辛くて、寂しくて、苦しかった。

 息の仕方も忘れて突然過呼吸になって救急車に運ばれたこともあったり、前は大好きで仕方がなかった学校にも、行けなくなった。

 みんなから“可哀想な子”として気遣われることに、怖さを覚えていたからだ。

 ピーンポーン……、と家のインターホンが鳴った。だけど俺は立ち上がる気にもなれず、鳴り続けるそれを無視した。

 鳴り止んだと思った途端に、ガチャリ、と玄関の扉が開かれる音が俺の耳に届く。その音でようやく現実へと引き戻された俺は、大きく目を見開いた。


『ホタルー……?』


 だけどその声を聞いた瞬間に、警戒心がすぐに解けて、泣きたくなるほどの安心感に襲われた。俺の体を蝕んでいたものが、一気に薄れていくような感覚がして、泣きたくなった。

 
『ゆず、は……』


 俺の声のした方へバタバタッと音を立てて走ってくる柚葉を見た途端、俺は思わずその小さな体を抱きしめいた。


『ホタル、どうかした?どっか痛いの?よしよし、頑張ったね。怖かったね』


 柚葉の小さくて温かい手が、俺の背中を優しく撫でた。柚葉の声を聞いているうちに、今までの不安や焦燥が波が引いていくようにしてゆっくりと消えていった。


『俺にとって、柚葉は希望の光だよ───』

『……きぼうの、ひかり?』

『……ふふっ、うん。そう』

『ゆず、ホタルを元気にできてる?ホタル、もう泣かない?』


 そこで初めて、自分は泣いていたということに気付いた。頬を流れる熱い正体に、自分でもとても驚いた。一人になっても、親戚の前でも、葬式の時でさえ流すことのなかった涙が、今無意識に溢れ出てしまっていた。

 きっと柚葉の前だから、俺は思いっきり泣くことが出来た。日が沈み、夜が訪れる。いつもは眠れなかった夜が、今日は違うものに思える。

 柚葉が俺の側にいてくれるから、俺は生きることを頑張ろうと思えたんだ。俺が死にたいと願った夜に、大切な人がいてくれた。

 もうそれだけで十分で、それが俺にとって人生最大の幸福だったことを、あの頃の柚葉は知っていたのだろうか。

 幼いながらも俺の苦しい気持ちを汲み取り、優しく慰めてくれた柚葉のことを、何が何でも守り抜きたいと思った。

 こうして今、高校生になった柚葉を抱きしめていられるのなら、俺が死にたいと願った夜にもきっと意味はあったんだって、胸を張って言える。


『柚葉、俺は君に何があろうとも、必ず守り抜く。君のためなら、何だって出来る』

『ふふ、ホタルかっこいいー!じゃあホタルはわたしのたった一人のヒーローだねっ!』


 俺にぎゅっと抱き着いた柚葉の体温を、俺は今も覚えている。俺が今この世界に生きていられるのは、柚葉───……。

 君という存在があったからこそなんだよ。だから俺は、柚葉が自殺した駅のプラットホームで、生きた心地がしなかった。そして俺はその日、偶然そこに居合わせていたんだ。


【みなさん。どうか、俺に力をください】

【蛍さん、どうしたんですか?私で良ければ、何か手伝います!】

【力なら、いつでも分け与えられます!】

【遠慮なく私にも言ってくださいね。蛍さんは、私を救ってくれた人だから】

【“どうか、まだこの世界で生きてほしい”という言葉を、ツイッター全体に呟いてくれないかな。みんなが一斉にツイートしたら、きっと沢山の人にそれが届くと思うから】


 俺が、死んでしまった柚葉を救うことが出来た、たった一つの方法。それは、みんなの温かい言葉だった。

 ずっと、気になっていたんだ。俺のツイッターページにだけ公開されている、謎のボタン。そのボタンには、【@inochi_reset button】と記載されており、たった一人の大切な人を救うことが出来る、という説明が書かれていた。

 当然そんな馬鹿げたことなんて全く信じていなかった。だけど、ついに狂ってしまったのだろう。柚葉の体が電車に轢かれ、真っ赤な鮮烈な血が辺り一面に飛び散った光景を見ながら、俺はただ漠然と思ったのだ。

 『あの表示がもし本当なら、あれを試すしかない』と。

 死者を生き返らせる条件は二つ。

 一つは、自分の半分の命と代償にすること。死者は生き返っても他人の目には視えないが、死者を生き返らせた人間の側にいる時だけ、ようやくその姿が他人にも視えるようになる。

 そしてもう一つは、十万人以上の人間から、“どうか、まだこの世界で生きてほしい”とツイートしてもらうことだった。

 俺はそれをすべて達成し、ようやく死んでしまった柚葉を生き返らせることに成功したというわけだ。

 ……今思えば、この選択が本当に正しかったのかどうかは、分からない。けれど、こうしてまた柚葉の笑顔が見れたのだから、それで良かったとも思った。


***


「そんなことが、あったんですね……」


 今までずっと、蛍さんがなぜわたしの名前を知っていたのかということに関して、わざと目を背けて考えないようにしてきた。

 お母さんやお父さんが昔わたしのことを愛してくれていたという事実と、わたしはどこかで蛍さんのことを救えていたのだという事実に、胸がいっぱいになった。


「蛍さんの半分の命は、どこに行ってしまったんですか……?」


 怖くて、ずっと聞けていなかった質問。だけど、過去のお話を聞いてからは、少しだけ勇気が湧いたんだ。それに、多分これはわたしが知っていなければならないことなのだろうと、思っていた。


「ここに、あるよ───」


 蛍さんの大きな手が、わたしの心臓の位置に添えられた。

 ドクン───ッ、と心臓が大きく鳴った。蛍さんがくれた命が、わたしの心臓の中にある。何だかとても変な気持ちがして、わたしは非現実的な出来事に冷や汗が流れた。

 今思えば、蛍さんと出会ったあの日から、非現実的なことばかりだった。今まで張り詰めていた疲れがどっと押し寄せてきて、急激な眠気に襲われる。


「蛍さん、わたし、もう、死にたいだなんて思いません」


 今まで沢山、死にたいと思った夜があった。だけどきっと、今日からは、この世界で唯一のわたしの愛しくて大切な人が、側にいてくれるから。

 どんなに辛い夜にも、きっと意味はあった。

 そうでなきゃ、きっとわたしと蛍さんはもう一度巡り逢えてはいないのだから───。


「柚葉……、これから一緒に沢山生きていこう。他の人よりも寿命は短いけれど、それでも良かったと思えるように、これまでしてこれなかったこと、いっぱいしていこう」


 蛍さんの優しくて低い声が、子守唄となってわたしの耳に入ってくる。蛍さんは優しくわたしを抱き寄せて、そっと胸にわたしの頭を傾けてくれた。

 今はもう、静かに眠りたい。この人の腕の中で、沢山の朝を迎えたい。


「ありがとう、ホタル。大好き。わたしは今、すごく幸せだよ───」


 あの頃の幼いわたしが、眠気の中に現れた。蛍さんは一度大きく目を見開いてから、世界で一番愛おしいものを見つめるような涙に濡れた瞳で、ふわりと優しく微笑んだ。