幕府政権が終焉を告げ、押し寄せる西洋文化が一斉に華開いた大正の世。

 帝都にはレンガ造りにガラス窓の西洋風建物が姿を現し、人力車が街中を行き交っていた。
 人々の多くは肌馴染みのある和装を纏いつつも、男は髷を落とし、女は流行りの束髪で華やかに装っている。

「ねえ、ほらあの人」
「わっ……いい男ね」

 そんな多文化の混沌に興じる帝都中枢地区の街を、朝川(あさかわ)龍彦(たつひこ)は一人歩いていた。

 年は数えで十九になる。

 眼光の強い目元に、鼻筋の通った精悍な顔立ち。
 紺色の帽子の端からは、散切りにされた髪先が短く見える。

 龍彦が通りを抜けるたびに、露店に夢中になっていた民衆は自然と視線を向け、道を空ける。

 それは龍彦の程よく鍛え上げられた体つきと、体躯にぴたりと嵌まる警察制服のせいだろう。

 龍彦はこの中央街に構える、警視庁帝都中央部所属の警察官だ。

 洋装文化をいち早く取り込んだ紺色のまといはぴんと立った詰襟にボタンが整然と並び、腰にはサーベルという細長い洋刀を携帯している。

 民衆とは一線を画した物々しい佇まいは、街の者から時に尊敬の眼差しで、時に嫌悪の眼差しで、時に畏怖の眼差しで眺められる。

 そんな周囲の視線を見向きもしないまま、龍彦は内心大きな舌打ちをしていた。

「ったく。これで今月何度目の上官室呼び出しだよ……」

 龍彦は、この春に転属が決まった。
 新たな人員編成で、地方から帝都中央に送られたのだ。

 名目上は人並み外れた身体能力をかわれての躍進とのことだが、龍彦もそれを鵜呑みにするほど馬鹿ではない。
 端的に言えば、規律違反や単独行動を繰り返す若人(わこうど)が手に負えなくなったのだろう。

 警察官というものの日常業務は、地味である。

 交通整理、失せ物や失せ人、痴話喧嘩、暴力沙汰。
 大小さまざまな諍いごとに派遣され、聞き込み張り込みを行い、始末を付ける。

 本日の龍彦は、とある市民同士の揉め事を収めるために街外れまで派遣された。
 その中で関係者の悪質な詐欺行為が芋づる式に発覚したが、直後、往生際の悪い犯人が逃亡を図る。

 ──待てやこらあ!!
 ──ぐわあっ!?

 そんな逃亡犯の頭上めがけて、龍彦は傍らに置かれた荷車を力一杯に叩きつけた。

 結果、無事犯人を捕獲するに至ったが、現場の上官から流石にやりすぎだと厳重注意を受けたのだ。
 少し頭を冷やしてこいと、すっかり伸びた犯人を単身遠方の警察病院まで送り届けたのち、龍彦はようやく帰宅の途につくこととなったのである。

「はっ、悪知恵働かせて他人から搾取する野郎なんざ、荷車喰らって当然だろ」

 正味一刻ほど歩いてはみたものの、龍彦の頭は特に冷えてもいない。
 むしろ自分が何故こんな罰を喰らわなければならないのか、疑問は深まるばかりである。

 現在の龍彦の住まいは、警視庁敷地内の単身者用宿舎にあった。

 物々しい塀で囲まれた敷地内には、最低限生活に必要な施設がひととおり揃っている。
 そのため業務に関わる事柄が発生しない限り、龍彦は街に出ない生活を送っていた。

 オペラなどの大衆娯楽が集う浅草六区や、巨大な百貨店、コーヒーを嗜むカフェー。
 転居する折に聞かされていた帝都の情報は、塵ほども活用されないまま今に至っていた。

 龍彦の興味があるものは、ただひたすらに自身の強さを磨くことだけである。

「ひええええっ!」
「あん?」

 警視庁の正門前に差し掛かったときだった。
 情けない男の悲鳴とともに、何かが弾け飛ぶ轟音が響いたのだ。

 騒ぎのほうへ視線を向ける。

 土埃を立たせた中には、倒れ込んだ体勢で大仰にむせ込む男。
 そして建物の戸口には、一人の若い女が立っていた。

「どうやら、随分と不躾な御方が紛れこまれたようですね」

 凜とした声色に、龍彦は目を見張る。

 長く艶やかな黒髪を首の後ろで結いまとめた、龍彦と同世代らしき女子(おなご)だ。

 白い肌に際のはっきりした大きな目と、ほのかに色づいた桜色の唇。
 裾に牡丹を咲かせた藤色の着物をまとい、上には白いエプロンを締めている。

 この女が投げ飛ばしたのか?

 珍妙な光景を前に、周囲の聴衆もなんだなんだとすでに人だかりを作りつつあった。

「生憎ここは客人に美味しい料理をお出しするための食堂。下品なチンピラはハナからお呼びじゃあございません」
「な、なんだこの女! ちょっと若い女に話しかけたくれえで、客を投げ飛ばしやがって……!」
「あらまあこれは面白いことを仰る。女給の子のお尻を撫で回さないと、あなたは世間話もできないというわけですか!」

 よく通る女の声は、辺り一帯まで響き渡った。
 どうやら食堂で働く女給へ、男が下卑た行為を働いたらしい。

 事情を汲んだ野次馬からはいつの間にか拍手がわき、辺りは女側に味方する空気に包まれる。
 土埃でどろどろになった着物をもたつかせ、男は歯ぎしりをした。

「人の矜持を平気で踏みつけにする無礼者に出すものはございません。即刻、お帰りを!」
「畜生……調子に乗るなよこのアマ!!」

 最後の悪あがきに、男はいつの間にか手に持っていたこぶし大の石を女に向かって振りかぶった。

 周囲の野次馬から悲鳴が上がるのと、龍彦が地面を踏み込んだのは、ほぼ同時だった。

 男が投げつけた大石めがけて、龍彦は拳を真っ直ぐ入れ込む。
 ぱん、と乾いた音が響くと同時に、大石はあさっての方向へ軌道修正された。

 石相手の素手突きは、流石に少し痛かった。

「無事か、あんた」