その言葉に顔をあげた琴葉は、いつにも増して渋い顔になる。顔を上げた琉斗たちや父親が驚く中、彼女は懐から一通の手紙を取り出して掲げながら言った。

 「実はそろそろ復帰することを、予め本部に送っていたのですが、『西の領土の当主の元にすぐに行ってほしい』との連絡が昨日来たんです。なので、西の方を巡りながら都に向かう予定なので、明日中には出発しようかと。」

 「明日か、了解した。・・・・・・必要なものを揃えなければな。」

 そう言って柏手を打って側用人を呼ぶと、琉斗達の隊士祝いの準備をするように言う。それに頷いた彼に続いて、琴葉も必要なものを揃えさせるために静かに礼をしてついて行った。半分はそれだと思うが、もう半分は家族の最後になるはずの会話を邪魔しないようにしてくれたのだろう。

 彼女がその場を去っていくと、家族しかいない書斎には重い沈黙が流れていた。やっと元通りになれたのに、また離れ離れになる悲しみと、父親に何もできていない後悔が重なった重く苦しい沈黙だった。

 しかし、一番最初に口を開いたのは、一番辛い思いでいるはずの父親だった。彼は重いため息をついて寂しそうに言った。

 「お前たちも、もう旅立ちの日か。まあ、そうだな。二人共、十六になったんだな。」

 「・・・・・・そうですね、もうそんな歳です。」

 琉斗が相槌を打つと、それに続いて玲斗も静かに頷いた。だが、寂しそうな表情で頷いている琉斗とは違い、表情は暗くてずっと唇を噛んでいた。幼い頃に蔵に閉じこもってから、父には迷惑をかけていた。やっと出られたので、父に恩返しをするつもりだったのに、父に何も出来ずに旅立とうとしている自分に腹立たしかったのかもしれない。しかし、それを表情一つで読み取った父親は、儚く笑って言った。

 「覚えてないだろうが、お前たちの母親はすごく繊細な人でな。自分のことより相手のことを気にする人だった。玲斗のようにな。お前たちを産んだ後に衰弱し、起き上がれなくなって翌日に死ぬ時まで、ずっと私のことやお前たちの未来ばかりを心配していた。『自分の家系に迷惑はかけていないか』とか『もし、息子たちが貴方より先に死んでしまったらどうしよう』とか、そんなことばかり言ってた。」

 「・・・・・・母上が?」

 恐る恐る聞いた玲斗に、父親は頷いた。そして、昔を思い出すかのように目を細めながらふと笑って言った。

 「そういえば、彼女が亡くなる前にこんなことを言っていたな。

   ———— その日は季節外れの霙がシトシトと降っていた。
    お前たちの母 ——— 雪は上半身を起こして外を見ていた。
    この時にはもう死期が迫っていたのを、彼女は分かっていたのだろうな。
    俺は彼女の隣で彼女が今にも死にそうな顔になっているのを心配しながら見ていた。
    だが、彼女はそんな状態にも関わらず、「最後のお願い」とか言って私を困らせた。
    本当に最後のお願いになるとは、この時は微塵も思っていなかった。
    彼女は外から私に目線を移して、うっすらと笑って言った。

    『旦那様、ごめんなさい。
     私はもう長くないし、これであの世へ行くことでしょう。
     ですが、一つだけ心残りがあるのです。私の愛しい息子たちのことです。

     琉斗と玲斗はこれからいろんな困難に立ち会うでしょう。
     二人は成長して、貴方の役に立ちたいと、強く思っているでしょう。
     そんな時に後悔しないように、後押ししてほしいのです。
     二人の意思を尊重してほしいのです。
     そして二人が強くなり、人に優しくなり、
      人々に尊敬されるような子に育つことが、私の願いです。』

   本当はもっと違うことを言って、彼女を励ましたかった。
   そんなこと言うな、とも言いたかった。
   だが、この時俺はこう言うしかできなかった。

   『分かった。尽力尽くして願いを叶えよう。』

   その言葉を聞いた彼女は優しく笑うと、私にそっと寄りかかってきた。
   彼女が体重をかけてきたので驚いた俺は彼女を支えようとしたが、
       その腕の温もりが消えかかっていることに気がついて彼女の顔を見た。
   彼女は安らかに眠っていた。私に息子たちとお前たちへの願いを残して。

  ・・・・・・母はずっとお前たちを愛していた。
  お前たちに期待してくれていた。そのことを忘れずにいてくれ。」

 確実に重い話ではあったが、母親が残した強い思いを感じ取った二人はしっかりと頷いた。すると、父親は不意に立ち上がって二人の元に歩み寄っていく。そして、二人を引き寄せて強く抱きしめると言った。

 「大きくなったな、琉斗、玲斗。私がお前たちに言えることはもう何もない。くれぐれも気をつけて行ってくるんだぞ。絶対に帰ってくると約束してくれ。それが私の願いであり、母親の・・・・・・雪の願いだからな。」

 「「はい、父上。」」

 二人がハッキリと返事をした時、父親は抱く我が子たちの後ろに彼らの母親の姿を見た。彼は一瞬驚いた後、二人に気がつかれないようにそっと呟いた。

 「・・・・・・雪、私は君の願い通りに動けているだろうか。」

 その言葉が聞こえたのか、母親は苦笑した。そして、二人の様子を見ながら嬉しそうにしている。そして、静かな雪の如く優しく笑って、彼の頭に響くような声で返してきた。

 『貴方は十分やってますよ、焦らず、慌てず、ゆっくり見守っていってください。』

 その言葉に彼が嬉しそうに彼女に微笑んで頷いた時、彼女の姿は刻然と消えていた。それが幻想だったのか、本物だったのかは分からない。しかし、琉斗と玲斗のことを誰よりも案じていて、家族を一番愛していた彼女の言葉は、なぜか重く深く彼の心に染み渡っていったのを感じていた。


 次の日の朝、滝川家はいつも以上にドタバタしていた。琉斗と玲斗が剣士として出陣する時を迎えていたからだ。

 お付きとして同行する琴葉は、いつも通りフードを目深に被って、足首まで掛かるローブを身に纏って着慣れた隊服を隠すようにしている。彼女はぼんやりとドタバタ走りまわっている使用人たちの影を追いながら、静かに主役たちを今か今かと待ち侘びていた。

 すると、騒がしい使用人たちの向こう側から、ふと見慣れた三人が近づいてくるのに気がついた彼女は静かに姿勢を正した。使用人たちも同様に姿勢を正し両端にはけると、彼らに一礼した。

 軍服に身を包んだ当主の父親は、堂々としていて威厳ある姿であった。いつになく思い足取りで歩く父に続いて、隊士服に着替えた琉斗と玲斗が歩いてくる。

 琉斗は紺色の男性隊服に、水を連想させるような色の羽織を着ている。玲斗は同じく紺色の隊服に淡い色の袿を羽織り、首には白いマフラーを巻き風に靡かせている。

 三人が屋敷の入り口にいる琴葉の元に歩み寄ると後ろを向いた。先程まで彼らを通すために道を作っていた使用人たちが横一列に並び直すと、それぞれが悲しそうな声をあげた。

 「琉斗様、玲斗様、お気をつけて!」

 「ご子息方、きっと戻ってきてくださいね!」

 「いつでも帰ってきてください、ずっと待ってますから!」

 その言葉に二人の胸が暖かくなると同時に、彼らとも当分会えなくなることが寂しくも感じた。不意に後ろから握られた手の温もりに驚いて振り返ると、二人を見上げている琴葉の姿があった。「大丈夫、会えますよ。」とでも言ってくれてるかのようにギュッと手を握ってくれる彼女に、二人は笑みを浮かべながらお互いの顔を見合わせて頷くと、使用人たちに顔を戻して言った。

 「ありがとう、皆さん。頑張ってきますね。」

 「ちゃんと帰ってくるから、心配しないでね。」

 彼らの優しい言葉に、使用人たちはまだ寂しそうな表情で頷いた。すると、今まで黙って聞いていた父親が二人の前に歩み寄ってくると、それぞれの肩に手を置いて優しい声で言った。

 「琉斗、玲斗、今回の旅は自分の実力を高める良い機会だ。成長して、私なんて追い抜かしていってくれ。そして、人を街を国を、全てを守れるような剣士となって必ず帰ってこい。」

 ポンポンと肩を叩きながら言う父親に、昨日で話し合ったことを思い出して暗い表情になった二人の手を、またギュッと握ってくれる琴葉に目線を移した父親は、今度はハッキリと言った。

 「・・・・・・琴葉、お前には本当に世話になった。二人のことを頼んだぞ。」

 「御意、お二人のことは必ずやお守りいたします。」

 そう言って頷く彼女に期待を寄せた父親は、使用人たちの方に何か合図を送った。何かを用意していたのか、一人の使用人が小さな箱を持って来る。琉斗が箱を受け取ると、玲斗と琴葉が近づいてきた。一番背の低い琴葉に見えるように身を屈めた琉斗は、同じく身を屈めた玲斗と箱を見ている琴葉が見守る中、ゆっくりと箱を開いた。

 中には三色の紐飾りが並んでいた。二つは青色と水色の玉飾りがそれぞれ付いている銀色の紐で、一つは花型に結われた紅色の紐だ。琴葉の目がキラキラ輝き、琉斗と玲斗は驚いたように父を見上げた。

 父親が嬉しそうな表情になると、使用人たちの数人も嬉しそうに笑った。父親に頼まれて、この日のために作ってくれたのだろう。しかし、箱を持ってきた使用人が嬉しそうに言った言葉を聞いて、双子だけでなく琴葉も驚いた。

 「よかったですね、旦那様。頑張ってお作りした甲斐がありましたね。」

 「えっ?父上が作った?」

 言ったのは玲斗で、琉斗も琴葉も同じ心情だろう。父親はそんな彼らを見て、慌てたように言った。

 「いや、その、・・・・・・お前たちの無事を祈っての気休めだ。」

 照れくさそうにそっぽを向く父に呆気に取られた息子たちは、箱にある紐のうちの花形に結ったものをヒョイっと取った琴葉の手に気がつく。ローブの左側を払って脇差を取り出すと、その肢の部分に縛りつけた。取れないようにしっかりと結ぶと、剣帯に差し戻した。

 それを一通り見た琉斗・玲斗も箱からそれぞれ気に入った紐を手に取った。琉斗は青色の玉飾りのを、玲斗は水色の玉飾りのを取って、少し話し合った後に刀の塚の穴に通して固結びをした。綺麗なお守りに思わず見惚れていた二人に、琴葉が太陽の位置を確認しながら言った。

 「琉斗様、玲斗様、そろそろ行きましょう。西部まで距離ありますから。」

 その言葉に気を引き締めた二人は琴葉と共に歩き出して、門のところまで見送る父親と使用人たちの方を向いた。名残惜しそうな表情の人々を見た途端、まだここにいたい思いが二人の中に過ぎったが見て見ぬふりをして言った。

 「父上、お元気で。」
 「ちゃんと手紙書きますね。」

 「ああ、気をつけてな。」

 その言葉に頷いた二人は、琴葉を促して屋敷の外に新たな一歩踏み出した。数歩歩いたところで振り返ると、二人は屋敷の皆に手を振った。父親をはじめ、何人かの使用人たちが手を振り返してくれた。それを見て二人は、早朝の冷たい空気を感じながら先導してくれる琴葉に付いて行く。

 屋敷が見えなくなった所でもう一度振り返った二人は、自分たちが父と今は亡き母の願いを叶えることを胸に誓う。そして、少し先を歩いている琴葉との距離が開いた事に気がついて、二人はもう後ろを振り返ることはなく慌てて駆け出した。———— 三人の壮大たる大戦記は、まだ始まったばかりである。