リン チリン

引き戸を開けると、ドアベルと言うには随分と軽い鈴の音が店内に鳴り響いた。

「いらーっしゃい。ほら、空いてるところ座ってね。ちょいと、ポンさん。もっと左に避けてやって。あんただけの店じゃないんだよ」

多分この人が店主だろう。暖簾の招き猫そっくりな全体的に丸い猫目の女性が、カウンター席の長椅子に座っていた丸い黒縁眼鏡の男性に景気の良い声で「ほら、早く」と急かす。

「荷物は足元の籠に入れてね。その手持ちの紙袋、忘れないように一緒に置いておくんだよ」

ビジネスバッグに入らなかった珈琲の紙袋を見ながら言った。

「す、すみません」

「兄ちゃん。悪いねぇ、たぬき腹で機敏に動けなくて。ほら、こっち座んな。どうしよう、これ要る?」

大きなお腹をテーブルに押し付けながら、手元の赤いボタンを押すと、ぽこん、という可愛い音と共に間を区切るパーテーションが現れた。

「ここ最近はこういうのある方が良いかなって思ってねぇ。ぷらいばしーって言うの?あ、あたしはここのお母ちゃん、おはぎさんって呼んでね」

店主――もといお母ちゃんのおはぎさんが、ぷらいばしー、ぷらいばーしーとぎこちないイントネーションで繰り返す。

「い、いえ。大丈夫です」
言うと、ぽんさんと呼ばれていた大きなお腹――たぬき腹の男性が「そうかい」ともう一度赤ボタンを押して仕切りを下げた。

「好きなの頼みな。メニューはあそこ」

むっちりとした太く白いおはぎさんの指が、カウンターの中の壁を指す。

肉料理(鶏・牛・豚) 魚料理 サラダ チーズマシマシ 白米はおかわり自由(おにぎり、お茶漬け、ねこまんま歓迎)
ビール 麦茶 牛乳 (オレンジジュースはおはぎさんの気分次第)

突っ込みどころしか無いような、メニューと呼べないような内容に困っていると、隣でビールを煽っていたポンさんが肘で小突いて来た。

「まぁ、何頼んだってここの料理は美味いんだよ。オレンジジュースを頼んだら、おはぎさんの苦手に耐える面白い反応が見れるぜ」

「何言ってんのさ。良いんだよ、頼んだら。あたしの気分も悪くないしねぇ。まぁ、苦手なのには変わりないけど。これくらいしないと、人間のお客さんが楽しめないでしょ」

どうしても気になったチーズマシマシは、好きな料理にチーズを好きなだけ乗せ放題という意味らしい。

「はいよ、ぽんさん。カレイの煮つけが出来たよ。米、大盛りね」

店の前まで漏れ出ていた匂いの正体はこれらしい。肉厚のカレイの背中にバツに切り目が入り、ふっくらとした白身が覗いている。湯気と共にたちのぼる甘辛い匂いが、美咲と別れて以来の僕のお腹の虫を呼び起こし、恥ずかしさに身を縮込めてしまう。

「なーによ、恥ずかしい事なんてないさ。同じの食べるかい?」
こんな風にお腹が空いた感覚を味わうのは久しぶりだ。食欲がわかないどころか、食べ物を見るだけで気分が悪くなってしまっていたのだから。

箸でほぐした白身がほろりとタレに浸かって茶色く染まる。それを大盛の白ご飯に乗せて大きな口で頬張り一言。

「うんまぁ」

それに釣られて、つい「同じのをお願いします」と頷いた。

雰囲気に飲まれて頼んでしまったカレイの煮つけをおはぎさんが皿に盛り、ふたを開けた途端にぼわあと沸き立った湯気のお釜から白ご飯を茶碗についでくれるのを待っていると、勢いよく滑るように入り口の引き戸が開いた。