「お願いします――」

「おはぎ殿、今日はこれにて失礼致します」

そう言って、さっきと同じ『ごちそうさま』を行って、ちゅうさんが足早に店を出て行った。

「相変わらず、ちゅうさんは忙しそうだなぁ」

「ぽんさんみたいに、お遊びで人間騙して生きてるわけじゃないからねぇ」

おにぎり片手に吉子さんが言う。

「騙すって失礼な言い方だなぁ、きっちゃん。化け狸なりに人間界に貢献してるんだぞ。俺にはこういうやり方しかねぇんだから仕方ないだろう」

「まぁ、うちらに比べたら生きやすそうで羨ましい事だわ」

吉子さんの向かいに座っている闇子さんは、黙ったまま、たくあんを咀嚼し続けていた。

闇子さんと吉子さんの表情が心なしか暗くなったような気がした。

おはぎさんが淹れてくれた温かいお茶を飲み、ひとつ息を吐く。

「こんなところに食堂があるなんて知りませんでした」

言うとおはぎさんが「誰でも来られる場所じゃないからねぇ。夜しか開いてないし」と、椅子に腰かける。

「おはぎさんって、あだ名ですか?」

言ったとたん、一瞬にして空気が凍り付いた。

「え、あ……あれ」

目を合わせてくれないぽんさんは、まるで「俺は聞こえていない」をアピールするように出鱈目な鼻歌を口ずさむ。

「あたしが丸いからかい?まんまるだからかい?」

おはぎさんの笑顔が怖い。目が全く笑っていない。頬の筋肉がぴくぴくと痙攣しているのがわかって、思わず座ったまま身を引いた。

「ふぎゃあっ!」

突然両手を顔の横に上げたと思うと、肉厚の人間の手が瞬く間に白い毛むくじゃらの手になり、鋭利な爪が現れた。

「えええっ?!」

「あーあ、やっちまった」

ぽんさんが苦笑しながら、日本酒の最後の一滴をお猪口に垂らす。

「ふにゃああっ」

カウンターから飛び出してきたおはぎさんは、突風のように玄関から飛び出して行ってしまった。

「な、なんですか今の……どうしたんですか」

全開の玄関から、呑気な夜風が店内に流れ込む。

「走りに行ったの」

闇子さんが、おはぎさんが消えた夜の闇を見つめて言う。

「レディだからねぇ。めちゃめちゃ気にしてんのよ。おはぎさんは招き猫。ここらに祀られてる猫神様でね。ずっと昔、まだ人間の信仰も熱かった頃に、たーくさんおはぎがお供えされてたのよ。その時にもう馬鹿みたいに鱈腹食べちゃったみたいで、今が出来上がってるの」

吉子さんが、やれやれ、と肩をすくめた。

「まぁ、二・三時間もしたら戻って来るよ。気が済んだ顔で戻って来るから。間違っても謝ったりするなよ。蒸し返すことになるからさ。あぁ、でも酒のおかわりだけ先に頼んどきゃ良かったなぁ」

さらりとした乾いた風が吹いて、リン、と軽やかな鈴の音が鳴った。

リン チリン

それはまるで猫の首につけられた鈴みたいな。

あの時、人生を終わらせようとした間際に聞いた音みたいだった。