「えっ、ついに転職決めたんだ? 灰音の会社、めちゃくちゃブラックだったもんね」
「あはは……うん、まあ……」
「でも、何年も勤めてたじゃん? ずっと心配だったんだよねー……辞めるって選択できて良かった。何かきっかけでもあった?」
「……こうやって、ゆっくりお茶する時間もいいなって、思ったから」
「……? なにそれ?」

 久しぶりに会った六花ちゃんが教えてくれたお店は、あの夜訪れた紅茶店と違い広くて明るい雰囲気だった。
 人も多くお洒落な雰囲気に少し緊張してしまうけれど、広げたメニューの中に見覚えのあるお茶の名前を見つけて、何だか少し嬉しくなる。

 味や香りをひとつひとつ想像しながら、どれにしようかなと脳内で理想のティーセットを組み上げていると、不意に綺麗なネイルの施された指先がわたしの見るメニューに伸びた。

「灰音はこれかなー、色味が映えるんだよね。ケーキもさ、系統違うやつにして食べ比べしよ」
「あ……」

 いつもの六花ちゃんセレクト。わたしは自分で悩まなくて済むし、六花ちゃんも好きなものを並べて写真が撮れて嬉しい。
 いつもならすぐに頷く、いいことずくめだったはずのそれに、わたしは一瞬躊躇する。

 あの夜のときめきを、王子が硝子の靴に合う唯一の姫を探すように、たくさんの中から悩みたったひとつを選ぶことすら楽しかったあの時間を、思い出したのだ。

 そして、わたしは勇気を振り絞って告げた。

「あの、ごめんね六花ちゃん……もう少し、待って貰っていい?」
「え?」
「時間はかかっちゃうかもしれないんだけど……わたしも……その、自分で選びたいなって」

 メニューを持つ手が僅かに震える。けれどわたしの言葉に、六花ちゃんは驚いたように目を見開いてから、すぐに嬉しそうに笑った。

「……そっか。うん、そうだね、じっくり選びなよ! 灰音のセレクト、楽しみ」
「……! うん!」

 あれでもない、これでもない、それは甘くて、こっちは酸っぱい。メニューひとつで広がる会話と想像の世界は、悩む時間さえ楽しかった。

 やがてティーセットは、理想の形を伴ってテーブルに届く。わたしが選んだひとつひとつを積み重ねてやって来るのだ。

 転職までの引き継ぎ期間、辞めるまでの居心地の悪さと申し訳なさ、転職後の未知の新しい環境。
 まだまだ悩みも不安も尽きないし、考え込みがちな性分だってそう簡単には変わらない。きっと疲れも抜けない日々が続く。

 それでも、流されるだけではなく、これからは逃げずに、わたしの手でひとつひとつ選んでいきたい。

「ねえねえ。やっぱり灰音、ちょっと変わったよね。どんな心境の変化?」
「……んー……ときめきを知った、からかな?」
「えっ、なにそれ恋話!?」
「あ、えっと、そんなんじゃなくて……」
「えー、なになに、ちょっと詳しく!」
「いや、本当に違うんだって……」
「アフタヌーンティーセットお二つ、お待たせ致しました。ご一緒に内容のご確認お願いします」
「あ、はぁい……!」

 結局、あの紅茶店のことは六花ちゃんには内緒のままだ。あの場所はわたしだけの、秘密の宝物。

 無事転職出来たら、最初の休みにはまたひとり、あの『硝子の靴紅茶店』に行こうと心に決める。
 一歩踏み出せた勇気へのご褒美、疲れた夜を癒す空間、夜の片隅に切り取られた非日常。
 遊ぶことも、悩むことも、働くことも、生きることも、全部に疲れた夜の終わりに、わたしだけの特別な時間を選びたい。

 たくさんのときめきを閉じ込めた紅茶やクッキーの甘い香りを纏い、素敵な夜のその先も、灰被りは硝子の靴を履いて自ら選んだ道を進み、きっと幸せな夢を見る。

 午前零時を過ぎても消えることのない、硝子の靴。暗闇から踏み出すための解けない魔法は、きっともう、あの夜を越えたわたしの中にあるのだから。