いつからか、蓋をした。
短く切りそろえた髪が慣れなくて、首ばかり触ってしまう。
キチッとしたブレザーに、短いスカート。
いかにも普通のJKなのに、ただひとつ違うのは、私の髪からのぞく耳栓ぐらい。
校門を前にたちつくす私の横を、同級生らしき女の子たちが笑いながら通り過ぎた。
思わずバッと耳に手を当て、耳栓が緩んでいないことを確認する。
すっかり習慣化してしまったこの行動は、最後に安心するまでがセットだ。
「憂鬱だなあ……」
耳の奥で小さく響いた自分の声を聞いてから、一歩を踏み出した。
「みなさん初めまして、担任の松吉です!僕も今日この学校に初めて来たから分からないことだらけだけど、これから一緒に成長していこうな!」
始業式が終わって、新しいクラスでの担任の挨拶。
私の苦手な熱血系の男性教師で、思わずため息がもれた。
こういう、「友達をつくることはいいことだ!」「青春を楽しめ!」とか言ってくるような暑苦しい人、苦手なんだよな。
高校生活も、耳栓はバレないようにしなきゃ。
特別指導になるのはごめんだもん。
「じゃあ、一人ずつ自己紹介してってくれ!」
ああきた、憂鬱なイベント。
別に自己紹介なんかしなくたって、人の顔と名前なんて覚えられるじゃん。
自分の番がまわってきたら、短く自己紹介を終える。
できるだけ皆の記憶に残らないように。
印象がない、当たり障りのないことを言う。
何事においても、関心をもたれたら面倒だ。
「最後に、順番はずいぶん前なんだが、皆とは違った方法で自己紹介をしてくれるやつがいる」
クラス全体に聞こえるように話す先生の声は、耳栓をしていても聞こえるんだけど、個人で話す自己紹介の声は聞こえない。
まあ、もともとクラスメイトと関わる気なんてないし。
そう思って密かに机の下で英単語を覚えていたら、先生が気になる言葉を言った。
海梨くん、と先生に肩をたたかれた彼は、バッと顔を上げ、立ち上がった。
そして私たちの視線を集めたまま、教卓へと歩いていく。
細く長い指先でチョークを持ったかと思うと、文字をかきだした。
『海梨 羽瑠』
彼は振り向いて、ニコリと笑った。
その顔面の整いようと、サラサラの色素の薄い髪が、彼の不思議な雰囲気と相乗していた。
だけど、それだけ。
女子だけでなく男子も、彼の美しさに見とれていたけれど、彼が何もしゃべらないことに疑問を浮かべ始めた。
「海梨くんは、小さい頃に耳が聞こえなくなって、それから声が出せないんだ。まあ、文字を書いたりはできるから、話せなくても、仲良くしてやってくれ」
話せなくても、仲良くしてやってってなに一一?
クラスの皆も、彼を同情のまなざしでみつめる。
彼は先生の言葉、聞こえてないんだよね。
今の言葉を聞いたら、どう思うんだろう。
教卓で終始微笑む彼の笑顔が、ただつらくて。
私は単語帳へと目線を戻した。
始業式から今日で、一週間がたった。
未だに友達は一人もいない。
つくろうともしない私が悪いんだけど、一番の原因は、休み時間ごとに教室を抜け出しているからかな。
昼休みは屋上でぼっち飯。
なんだか典型的な漫画のヒロインみたいだな、と思ったら笑えたけど。
こうやって屋上で一人でいるときでさえも、耳栓ははずせない。
誰か人が来るかもしれないんだもん。
できるだけ、家以外の場所でははずしたくない。
無音の世界で、お弁当を食べていたとき、ガチャ、と音が聞こえた。
扉を見ると、同じクラスの男子一一海梨くんだった。
彼の手元にはノートと、お弁当。
入学初日の翌日から、屋上を利用していた私の記憶では、海梨くんがここにくるのは初めてだ。
なんとなく気まずくて、下を向いてお弁当を食べていたら、彼の足が視界に入った。
上を向けば、目先にノートがつきつけられている。
そこにかかれている丁寧な文字。
『こんにちは。今日は天気がいいですね』
思わずもっと上を見上げれば、微笑んでいる海梨くんと目があった。
「えっと、そうですね…?」
反射で返事をしてから、しまったと口をふさいだ。
彼には聞こえないんだった。
ノートを受け取ったのはいいものの、かくものがない。
どうしようと迷っていると、今度は目の前にシャーペンがだされた。
まるで使ってもいいよと言うように。
私はペンを受け取り、彼の文字の下に、小さく文を書き連ねる。
『そうですね。屋上で食べると気持ちいいです。海梨くんは、ここ来たの初めてだよね?』
最後が質問になってしまったけれど、海梨くんは私なんかと会話したいと思っているのだろうか。
おそるおそるノートを返すと、彼が私の隣に腰をおろした。
その顔は、とても嬉しそうに笑っている。
サラサラとペンを走らせたかと思うと、また文字を見せてきた。
『うん。クラスの人たちと会話したくて、ずっといろんな人にノートを渡してみたんだ。最初はみんな会話してくれたんだけど、みんな忙しいみたい。最近は話にまぜてもらえなくて。だから、蓬莱さんが話してくれて、うれしい』
海梨くんにとって、会話は言葉だけではないっていう認識なんだ。
人の声を聞くことが怖い私にとって、それはなんだか素敵な考えのように感じた。
私はお弁当箱をしまい、また文字をかく。
これを幾度か繰り返すと、遠くで昼休み終了のチャイムがなった。
彼にそのことを伝えると、寂しそうな顔をしてから、『明日もここに来ていい?』と書き加えていた。
その様子がなんだかかわいらしくて、首を縦にふる。
人と話さずに会話をするのって、なんて気が楽なんだろう。
久しぶりに他人と関われたような気がして、心がふわふわとしていた。
彼と屋上で、ノートを使って会話をする日々が続いてから一ヶ月ぐらいたった。
『蓬莱さんってさ、なんでいつも屋上にいるの?』
心なしか昼休みを楽しみにしている自分に気づき始めたころ、彼がたずねてきた。
ペンを渡されたけれど、思わず手が止まる。
受け取っても、なかなか書き出せずにいた。
どこまで話そう。
友達がいないのはバレてるけど、耳栓をしてることも言う?
だけど、どうしよう。
ずっと髪をくくらずに、耳栓を隠してきた私にとって、この秘密を他人に明かすという行為が、とてつもなく恐ろしいことのように思えた。
またいつものように、髪の上から耳栓を確認してから、ペンを動かした。
『普通に馴染めないだけだよー。それと、気になってたんだけど、蓬莱って漢字で書くの、しんどくない?ひらがなでもいいよ?』
なんとなく話題をそらすと、彼は少しの間のあと、ノートを見せてきた。
『じゃあ、花凪』
思わず、彼がかいた二文字の漢字を2度見した。
友達がいない私にとって、下の名前で呼ばれることは憧れだったから。
しかも、名字だけじゃなくて下の名前まで覚えてたんだ。
密かに感動していると、動きが止まった私が不快に感じたと思ったのか、あわててすぐ横に、やっぱなしで、とつけたした。
私もあわてて、彼の手を止める。
「違うの!名前呼びが嫌なんじゃなくて……」
思わず声がでてしまったけれど、彼にわかってほしくて、ペンを奪い取ってガリガリと書き上げる。
彼の膝で書き終わったときには、なぜか海梨くんの顔は少し赤かった。
『名前で呼んで。花凪って。じゃあ私も海梨くんのこと、羽瑠って呼んだほうがいい?』
彼はハクハクと口を開け締めしてから、『うん』と小さすぎる文字でつけたした。
なんだか本当に友達みたいだ。
少しずつ縮まる海梨くんとの距離。
近すぎず、遠すぎず。
なんて心地がいいんだろう。
私が学校にくる意味は、もはやこの昼休みの時間のためにあると思っていた。
放課後。
今日は日直だったから、日誌を担任に渡しに行ってきた帰り。
教室の扉を開けようとすると、窓から見て中に人がいることに気がついた。
男女数人。名前は知らない。
彼らはなぜか羽瑠くんの席をとりかこんで、不満げな表情をしている。
耳栓をつけるきっかけがあってから、声だけでなく表情にも敏感なんだ。
耳栓をつけていたらここからは全く聞こえない。
たぶん、良いことではないはず。
だけど、羽瑠くんに関することかもしれない。
私はおそるおそる、耳栓をはずしてドアに耳をつけた。
「海梨ってさ、なんか最初らへんノートで俺らに会話しようって言ってきたよな。あれめんどかったんだよな。わざわざ文字でかくか?普通」
「あんなの会話じゃないよねー」
「海梨くん、顔はせっかくかっこいいのに、しゃべれないのもったいないなー。もし耳が聞こえてたら、私アタックしたのに」
「ええー、やめとけよあんなつまんないやつ」
ドッと笑いがおきた。
耳が不快になって、まだ続く彼らの言葉を両手で塞ぐ。
それでも、薄汚い笑い声は響いてくる。
ああ、これだから嫌なんだよ、人間は。
耳なんてなければよかった。
なんで耳なんてあるんだろう。
なんで声なんてあるんだろう。
簡単に、人を傷つけてしまうんだよ。
中学のころの私を思い出す。
あのとき私は、言い返さずに、己に蓋をして、傷つくことを恐れた。
だけど今は、羽瑠くんが傷ついてる。
あの人たちは、羽瑠くんにバレなきゃいいと思ってる。
だからわざわざ、文字じゃなくて言葉で傷つけるんだ。
ペンを渡してくれるときの、ふわりとした笑みを思い出す。
私が羽瑠って書く度、少しくすぐったそうな表情をする。
純粋に皆と"会話"がしたいと思う海梨くんの気持ちを、踏み潰さないで。
気がつけば、私は耳栓をはずしたまま、ドアを思いきり開けていた。
彼らが、授業中しか見ない私の姿に驚いている。
「えーっと……?」
誰だっけ?と小声で確認しあう彼らに、キッと強い視線を投げた。
そんなのはどうだっていい。
私だって知らないよ、あんたたちの名前は。
「海梨くんのこと、そんなふうに言わないで」
「あっ、もしかして聞いちゃってた?なんか悪いふうに捉えてるのかもしれないけど、みんな思ってることだよ?」
「そうそう。だって今どき高校生で障害者って珍しいしねー。ちょっと気になるっていうか?」
次から次へと口から流れる汚い言葉。
なんでそんなふうに、言葉を使うの。
話したくても、話せない人だっているんだよ。
ああ、教室に入ってくる前に耳栓をしておけばよかった。
こんな人たちのこんな言葉、聞きたくなかった。
「羽瑠くんは、純粋に皆と会話したいだけなの!自分なりの方法で、相手との共通の話題をなんとかみつけて。その純粋な気持ちを、めんどくさいの一言でかたづけないでくれる!?」
気をつけていたはずなのに、海梨くんのことを羽瑠くんって呼んでしまった。
彼らはぽかんとしてから、そのうちの一人が、「え、羽瑠くんって呼んでるの…?」と声を出した。
「あなたと海梨くんって、たしかいつも昼休み教室にいないよね?どういう関係なの!?」
「まさかつきあってたり…!?」
「ばーか。あんなやつと付き合うもの好きなんているかよ」
私は男子の言葉にカッとして、思わず大きな声をだした。
「友達だよっ!」
そう、私のたった一人の、大切な友達。
一緒にいて心地いい、大事な人。
肩で息をする私に、彼らは不快な目を向ける。
私がずっと向けられるのを怖がった、気持ち悪い目。
「あんなやつと友達とか、頭おかしいじゃん」
「正気で言ってる?なんかかわいそう(笑)」
怖いよ。怖くてたまらない。
手と足はブルブルしてるし、心臓の動機もおかしすぎて、体がすごく熱い。
耳栓が潰れるぐらい、ぎゅうっと手に力をこめる。
やめて。そんなふうに、私と羽瑠くんの関係を否定しないで。
耳栓をつけていない耳をおさえる。
私を苦しめた、あの笑い声と、目の前にいる人たちの笑い声が重なる。
だけど目は、笑ってないんだ。
聞きたくない。聞きたくない一一!
バンッと、壁をたたく音がすぐ近くで聞こえて、ビクッと体が震えた。
先生かと思って振り向いたら、そこには一一話題の本人、羽瑠くんがいた。
「なんで、ここに……」
いるの……?
もちろん、羽瑠くんが返事を返してくれることはない。
だけど彼は私の前に来て、背中で視界をふさいだ。
彼らからの視線が絶たれて、すごくホッとしてしまった。
すぐに耳栓をつける。
「や、やっほー海梨くん?」
ひらひらと手をふる女子にどんな表情をしたのかはわからない。
だけど、隙間から見えた彼らの顔が、凍りついたのがわかった。
海梨くんはクルッと後ろを向いて、優しく私の肩に手を乗せる。
何事もなく、じゃあ行こっかって言うみたいに。
羽瑠くんの右手は、クシャクシャになったノートを握っていた。
「は、羽瑠くん!」
肩をもったまま、どこまでも廊下を歩いていこうとする羽瑠くんの手をほどき、目の前に立ちはだかった。
彼は、顔を上げてくれない。
きれいな唇を横に引き結んで、眉も下がってる。
いつも微笑んでいる彼のこんな顔は初めて見たから、心臓がきゅうって縮まったきがした。
窓からさしこむ夕日が、彼の茶色の髪を照らす。
「ごめん、羽瑠くん……」
彼には届かないとわかっていても、謝らずにはいられなかった。
私が怒ってるふうだったから、たまたま近くにいたときに教室に様子を見にきてくれたのかもしれない。
らしくなく、大声をだしてしまった。
また、中学のときのような生活になるのだろう。
そう思うと、ブルリと心臓が震えた。
彼は少し歪になったノートに、らしくもなく乱暴に文字をかいていく。
そしてバッとそれを広げた。
『謝ってほしいんじゃない。花凪は、僕をかばってくれたんでしょ?花凪が何か言ったあと、あの人たち怒ってたみたいだから。僕のこと、見捨てたっていいのに』
彼のぐちゃぐちゃな文字に、絶句する。
一部始終見られてたんだ。
羽瑠くんにはバレてないと思ってたのに。
結局、彼を傷つけてしまった。
だけど悲しい気持ち以上に、ふつふつと怒りがこみあげてきた。
私は彼からノートとペンを奪って、同じ勢いで文字をかきあげる。
そして同じように、目の前につきだした。
『大事な友達をかばうのは当たり前でしょ!見捨てていいなんて言わないで!耳が聞こえなくたって、悪口言ってる人の視線や動作で、傷つく人がいるんだってこと、私も知ってるんだから』
羽瑠くんが、やっと目をあわせてくれた。
その目はいつものきれいな輝きと一緒に、どこまでも続く深い闇ももちあわせている気がした。
彼が震える手で、ペンをもつ。
頼りなさげに、私がもつノートに書き連ねた。
『僕と友達になって、いいの?』
その瞳は、まるで身分をわきまえた奴隷のようだった。
あなたとは友達になれるような人間ではありません、とでも言うかのように。
「友達だよ」
大きな声で、ハッキリと伝えた。
文字にかかなくても、人の口の動きで言葉がわかる彼に納得してもらえるように、もう一回。
羽瑠くんは信じられないものを見るような目をして、それから苦しそうに、笑ってくれた。
そんな顔で、笑わないでよ。
どうしてそんなに辛そうなの。
あなたはその理由を、教えてくれないの。
たくさんたくさん、聞きたいことがあるのに、ペンをもつ余力がない。
彼の話は、文字でしか聞くことはできないんだ。
どんどん暗い色に染まっていく廊下に、私と羽瑠くんだけが取り残されていた。
短く切りそろえた髪が慣れなくて、首ばかり触ってしまう。
キチッとしたブレザーに、短いスカート。
いかにも普通のJKなのに、ただひとつ違うのは、私の髪からのぞく耳栓ぐらい。
校門を前にたちつくす私の横を、同級生らしき女の子たちが笑いながら通り過ぎた。
思わずバッと耳に手を当て、耳栓が緩んでいないことを確認する。
すっかり習慣化してしまったこの行動は、最後に安心するまでがセットだ。
「憂鬱だなあ……」
耳の奥で小さく響いた自分の声を聞いてから、一歩を踏み出した。
「みなさん初めまして、担任の松吉です!僕も今日この学校に初めて来たから分からないことだらけだけど、これから一緒に成長していこうな!」
始業式が終わって、新しいクラスでの担任の挨拶。
私の苦手な熱血系の男性教師で、思わずため息がもれた。
こういう、「友達をつくることはいいことだ!」「青春を楽しめ!」とか言ってくるような暑苦しい人、苦手なんだよな。
高校生活も、耳栓はバレないようにしなきゃ。
特別指導になるのはごめんだもん。
「じゃあ、一人ずつ自己紹介してってくれ!」
ああきた、憂鬱なイベント。
別に自己紹介なんかしなくたって、人の顔と名前なんて覚えられるじゃん。
自分の番がまわってきたら、短く自己紹介を終える。
できるだけ皆の記憶に残らないように。
印象がない、当たり障りのないことを言う。
何事においても、関心をもたれたら面倒だ。
「最後に、順番はずいぶん前なんだが、皆とは違った方法で自己紹介をしてくれるやつがいる」
クラス全体に聞こえるように話す先生の声は、耳栓をしていても聞こえるんだけど、個人で話す自己紹介の声は聞こえない。
まあ、もともとクラスメイトと関わる気なんてないし。
そう思って密かに机の下で英単語を覚えていたら、先生が気になる言葉を言った。
海梨くん、と先生に肩をたたかれた彼は、バッと顔を上げ、立ち上がった。
そして私たちの視線を集めたまま、教卓へと歩いていく。
細く長い指先でチョークを持ったかと思うと、文字をかきだした。
『海梨 羽瑠』
彼は振り向いて、ニコリと笑った。
その顔面の整いようと、サラサラの色素の薄い髪が、彼の不思議な雰囲気と相乗していた。
だけど、それだけ。
女子だけでなく男子も、彼の美しさに見とれていたけれど、彼が何もしゃべらないことに疑問を浮かべ始めた。
「海梨くんは、小さい頃に耳が聞こえなくなって、それから声が出せないんだ。まあ、文字を書いたりはできるから、話せなくても、仲良くしてやってくれ」
話せなくても、仲良くしてやってってなに一一?
クラスの皆も、彼を同情のまなざしでみつめる。
彼は先生の言葉、聞こえてないんだよね。
今の言葉を聞いたら、どう思うんだろう。
教卓で終始微笑む彼の笑顔が、ただつらくて。
私は単語帳へと目線を戻した。
始業式から今日で、一週間がたった。
未だに友達は一人もいない。
つくろうともしない私が悪いんだけど、一番の原因は、休み時間ごとに教室を抜け出しているからかな。
昼休みは屋上でぼっち飯。
なんだか典型的な漫画のヒロインみたいだな、と思ったら笑えたけど。
こうやって屋上で一人でいるときでさえも、耳栓ははずせない。
誰か人が来るかもしれないんだもん。
できるだけ、家以外の場所でははずしたくない。
無音の世界で、お弁当を食べていたとき、ガチャ、と音が聞こえた。
扉を見ると、同じクラスの男子一一海梨くんだった。
彼の手元にはノートと、お弁当。
入学初日の翌日から、屋上を利用していた私の記憶では、海梨くんがここにくるのは初めてだ。
なんとなく気まずくて、下を向いてお弁当を食べていたら、彼の足が視界に入った。
上を向けば、目先にノートがつきつけられている。
そこにかかれている丁寧な文字。
『こんにちは。今日は天気がいいですね』
思わずもっと上を見上げれば、微笑んでいる海梨くんと目があった。
「えっと、そうですね…?」
反射で返事をしてから、しまったと口をふさいだ。
彼には聞こえないんだった。
ノートを受け取ったのはいいものの、かくものがない。
どうしようと迷っていると、今度は目の前にシャーペンがだされた。
まるで使ってもいいよと言うように。
私はペンを受け取り、彼の文字の下に、小さく文を書き連ねる。
『そうですね。屋上で食べると気持ちいいです。海梨くんは、ここ来たの初めてだよね?』
最後が質問になってしまったけれど、海梨くんは私なんかと会話したいと思っているのだろうか。
おそるおそるノートを返すと、彼が私の隣に腰をおろした。
その顔は、とても嬉しそうに笑っている。
サラサラとペンを走らせたかと思うと、また文字を見せてきた。
『うん。クラスの人たちと会話したくて、ずっといろんな人にノートを渡してみたんだ。最初はみんな会話してくれたんだけど、みんな忙しいみたい。最近は話にまぜてもらえなくて。だから、蓬莱さんが話してくれて、うれしい』
海梨くんにとって、会話は言葉だけではないっていう認識なんだ。
人の声を聞くことが怖い私にとって、それはなんだか素敵な考えのように感じた。
私はお弁当箱をしまい、また文字をかく。
これを幾度か繰り返すと、遠くで昼休み終了のチャイムがなった。
彼にそのことを伝えると、寂しそうな顔をしてから、『明日もここに来ていい?』と書き加えていた。
その様子がなんだかかわいらしくて、首を縦にふる。
人と話さずに会話をするのって、なんて気が楽なんだろう。
久しぶりに他人と関われたような気がして、心がふわふわとしていた。
彼と屋上で、ノートを使って会話をする日々が続いてから一ヶ月ぐらいたった。
『蓬莱さんってさ、なんでいつも屋上にいるの?』
心なしか昼休みを楽しみにしている自分に気づき始めたころ、彼がたずねてきた。
ペンを渡されたけれど、思わず手が止まる。
受け取っても、なかなか書き出せずにいた。
どこまで話そう。
友達がいないのはバレてるけど、耳栓をしてることも言う?
だけど、どうしよう。
ずっと髪をくくらずに、耳栓を隠してきた私にとって、この秘密を他人に明かすという行為が、とてつもなく恐ろしいことのように思えた。
またいつものように、髪の上から耳栓を確認してから、ペンを動かした。
『普通に馴染めないだけだよー。それと、気になってたんだけど、蓬莱って漢字で書くの、しんどくない?ひらがなでもいいよ?』
なんとなく話題をそらすと、彼は少しの間のあと、ノートを見せてきた。
『じゃあ、花凪』
思わず、彼がかいた二文字の漢字を2度見した。
友達がいない私にとって、下の名前で呼ばれることは憧れだったから。
しかも、名字だけじゃなくて下の名前まで覚えてたんだ。
密かに感動していると、動きが止まった私が不快に感じたと思ったのか、あわててすぐ横に、やっぱなしで、とつけたした。
私もあわてて、彼の手を止める。
「違うの!名前呼びが嫌なんじゃなくて……」
思わず声がでてしまったけれど、彼にわかってほしくて、ペンを奪い取ってガリガリと書き上げる。
彼の膝で書き終わったときには、なぜか海梨くんの顔は少し赤かった。
『名前で呼んで。花凪って。じゃあ私も海梨くんのこと、羽瑠って呼んだほうがいい?』
彼はハクハクと口を開け締めしてから、『うん』と小さすぎる文字でつけたした。
なんだか本当に友達みたいだ。
少しずつ縮まる海梨くんとの距離。
近すぎず、遠すぎず。
なんて心地がいいんだろう。
私が学校にくる意味は、もはやこの昼休みの時間のためにあると思っていた。
放課後。
今日は日直だったから、日誌を担任に渡しに行ってきた帰り。
教室の扉を開けようとすると、窓から見て中に人がいることに気がついた。
男女数人。名前は知らない。
彼らはなぜか羽瑠くんの席をとりかこんで、不満げな表情をしている。
耳栓をつけるきっかけがあってから、声だけでなく表情にも敏感なんだ。
耳栓をつけていたらここからは全く聞こえない。
たぶん、良いことではないはず。
だけど、羽瑠くんに関することかもしれない。
私はおそるおそる、耳栓をはずしてドアに耳をつけた。
「海梨ってさ、なんか最初らへんノートで俺らに会話しようって言ってきたよな。あれめんどかったんだよな。わざわざ文字でかくか?普通」
「あんなの会話じゃないよねー」
「海梨くん、顔はせっかくかっこいいのに、しゃべれないのもったいないなー。もし耳が聞こえてたら、私アタックしたのに」
「ええー、やめとけよあんなつまんないやつ」
ドッと笑いがおきた。
耳が不快になって、まだ続く彼らの言葉を両手で塞ぐ。
それでも、薄汚い笑い声は響いてくる。
ああ、これだから嫌なんだよ、人間は。
耳なんてなければよかった。
なんで耳なんてあるんだろう。
なんで声なんてあるんだろう。
簡単に、人を傷つけてしまうんだよ。
中学のころの私を思い出す。
あのとき私は、言い返さずに、己に蓋をして、傷つくことを恐れた。
だけど今は、羽瑠くんが傷ついてる。
あの人たちは、羽瑠くんにバレなきゃいいと思ってる。
だからわざわざ、文字じゃなくて言葉で傷つけるんだ。
ペンを渡してくれるときの、ふわりとした笑みを思い出す。
私が羽瑠って書く度、少しくすぐったそうな表情をする。
純粋に皆と"会話"がしたいと思う海梨くんの気持ちを、踏み潰さないで。
気がつけば、私は耳栓をはずしたまま、ドアを思いきり開けていた。
彼らが、授業中しか見ない私の姿に驚いている。
「えーっと……?」
誰だっけ?と小声で確認しあう彼らに、キッと強い視線を投げた。
そんなのはどうだっていい。
私だって知らないよ、あんたたちの名前は。
「海梨くんのこと、そんなふうに言わないで」
「あっ、もしかして聞いちゃってた?なんか悪いふうに捉えてるのかもしれないけど、みんな思ってることだよ?」
「そうそう。だって今どき高校生で障害者って珍しいしねー。ちょっと気になるっていうか?」
次から次へと口から流れる汚い言葉。
なんでそんなふうに、言葉を使うの。
話したくても、話せない人だっているんだよ。
ああ、教室に入ってくる前に耳栓をしておけばよかった。
こんな人たちのこんな言葉、聞きたくなかった。
「羽瑠くんは、純粋に皆と会話したいだけなの!自分なりの方法で、相手との共通の話題をなんとかみつけて。その純粋な気持ちを、めんどくさいの一言でかたづけないでくれる!?」
気をつけていたはずなのに、海梨くんのことを羽瑠くんって呼んでしまった。
彼らはぽかんとしてから、そのうちの一人が、「え、羽瑠くんって呼んでるの…?」と声を出した。
「あなたと海梨くんって、たしかいつも昼休み教室にいないよね?どういう関係なの!?」
「まさかつきあってたり…!?」
「ばーか。あんなやつと付き合うもの好きなんているかよ」
私は男子の言葉にカッとして、思わず大きな声をだした。
「友達だよっ!」
そう、私のたった一人の、大切な友達。
一緒にいて心地いい、大事な人。
肩で息をする私に、彼らは不快な目を向ける。
私がずっと向けられるのを怖がった、気持ち悪い目。
「あんなやつと友達とか、頭おかしいじゃん」
「正気で言ってる?なんかかわいそう(笑)」
怖いよ。怖くてたまらない。
手と足はブルブルしてるし、心臓の動機もおかしすぎて、体がすごく熱い。
耳栓が潰れるぐらい、ぎゅうっと手に力をこめる。
やめて。そんなふうに、私と羽瑠くんの関係を否定しないで。
耳栓をつけていない耳をおさえる。
私を苦しめた、あの笑い声と、目の前にいる人たちの笑い声が重なる。
だけど目は、笑ってないんだ。
聞きたくない。聞きたくない一一!
バンッと、壁をたたく音がすぐ近くで聞こえて、ビクッと体が震えた。
先生かと思って振り向いたら、そこには一一話題の本人、羽瑠くんがいた。
「なんで、ここに……」
いるの……?
もちろん、羽瑠くんが返事を返してくれることはない。
だけど彼は私の前に来て、背中で視界をふさいだ。
彼らからの視線が絶たれて、すごくホッとしてしまった。
すぐに耳栓をつける。
「や、やっほー海梨くん?」
ひらひらと手をふる女子にどんな表情をしたのかはわからない。
だけど、隙間から見えた彼らの顔が、凍りついたのがわかった。
海梨くんはクルッと後ろを向いて、優しく私の肩に手を乗せる。
何事もなく、じゃあ行こっかって言うみたいに。
羽瑠くんの右手は、クシャクシャになったノートを握っていた。
「は、羽瑠くん!」
肩をもったまま、どこまでも廊下を歩いていこうとする羽瑠くんの手をほどき、目の前に立ちはだかった。
彼は、顔を上げてくれない。
きれいな唇を横に引き結んで、眉も下がってる。
いつも微笑んでいる彼のこんな顔は初めて見たから、心臓がきゅうって縮まったきがした。
窓からさしこむ夕日が、彼の茶色の髪を照らす。
「ごめん、羽瑠くん……」
彼には届かないとわかっていても、謝らずにはいられなかった。
私が怒ってるふうだったから、たまたま近くにいたときに教室に様子を見にきてくれたのかもしれない。
らしくなく、大声をだしてしまった。
また、中学のときのような生活になるのだろう。
そう思うと、ブルリと心臓が震えた。
彼は少し歪になったノートに、らしくもなく乱暴に文字をかいていく。
そしてバッとそれを広げた。
『謝ってほしいんじゃない。花凪は、僕をかばってくれたんでしょ?花凪が何か言ったあと、あの人たち怒ってたみたいだから。僕のこと、見捨てたっていいのに』
彼のぐちゃぐちゃな文字に、絶句する。
一部始終見られてたんだ。
羽瑠くんにはバレてないと思ってたのに。
結局、彼を傷つけてしまった。
だけど悲しい気持ち以上に、ふつふつと怒りがこみあげてきた。
私は彼からノートとペンを奪って、同じ勢いで文字をかきあげる。
そして同じように、目の前につきだした。
『大事な友達をかばうのは当たり前でしょ!見捨てていいなんて言わないで!耳が聞こえなくたって、悪口言ってる人の視線や動作で、傷つく人がいるんだってこと、私も知ってるんだから』
羽瑠くんが、やっと目をあわせてくれた。
その目はいつものきれいな輝きと一緒に、どこまでも続く深い闇ももちあわせている気がした。
彼が震える手で、ペンをもつ。
頼りなさげに、私がもつノートに書き連ねた。
『僕と友達になって、いいの?』
その瞳は、まるで身分をわきまえた奴隷のようだった。
あなたとは友達になれるような人間ではありません、とでも言うかのように。
「友達だよ」
大きな声で、ハッキリと伝えた。
文字にかかなくても、人の口の動きで言葉がわかる彼に納得してもらえるように、もう一回。
羽瑠くんは信じられないものを見るような目をして、それから苦しそうに、笑ってくれた。
そんな顔で、笑わないでよ。
どうしてそんなに辛そうなの。
あなたはその理由を、教えてくれないの。
たくさんたくさん、聞きたいことがあるのに、ペンをもつ余力がない。
彼の話は、文字でしか聞くことはできないんだ。
どんどん暗い色に染まっていく廊下に、私と羽瑠くんだけが取り残されていた。