「あれ……、えっと……」

 えっ、なに。こっちを指差してどうした。

「あっ、思い出した。淵沢くんでしょ」

 突然そう呼ばれてドキンと心臓が跳ね上がる。覚えてくれていたのか。裕は笑顔になりかけたところで嫌な記憶がカットインしてきた。
 空手部の勧誘を断れず入部し、二ヶ月でギブアップ。情けない記憶だ。
 先輩はそんな自分に「元気にしている」なんて気軽に声をかけてくれたっけ。
 やばい、やばい。ウルッときてしまった。先輩の優しさが心に沁みてくる。

「あれ、ママ。知っている人なの」
「まあね。本当に懐かしい。相変わらずおじさん顔だけど」

 おいおい、それはないだろう。涙が引っ込んじまったじゃないか。事実だけど。なんだかな。

「淵沢くん。淵沢くんってば」

 えっ、なに。

「どうしたんだい。ぼうっとして」

 安祐美先輩と木花の大旦那が心配そうな目をしている。

「あっ、その。ちょっと考え事をしていただけです」
「本当にそうなの。顔色悪いし」

 突然、安祐美先輩が顔を近づけてきて、またしても心臓が跳ね上がる。

「おじさん、顔色悪いよね。ママの料理で元気にしてあげようよ」
「そうね。淵沢くん。私の料理、食べてくれる」

 またまた心臓が跳ね上がる。『私の料理、食べてくれる』の言葉が頭の中を駆け巡る。特別な意味に思ってしまう。料理屋で料理を食べる。ただそれだけのことなのに。

「はい、いただきます」
「じゃ、どうぞ」

 さてと、メニューは。んっ、ないな。

「そうそう、淵沢くん。ここはね、おまかせ料理しかないんだ。ここは再会を祝して、というか体調悪そうだし、特別に何か食べたいもの作ってあげる。何がいい?」
『特別に』って、なんていい響きなんだろう。なんか好きになりそうだ。いやいや、ダメだ。先輩は人妻だ。子供だっている。不倫なんて絶対にダメだ。

「あの、食べたいものないのか訊いているんですけど」
「あっ、はい、あのチャーハンが食べたいです」

 んっ、なぜチャーハン。まあいいか。それよりも今の安祐美の顔は怖かった。そういえば、空手の試合のときも同じような顔をしていた。けど今の顔は接客業をする上でやめたほうがいい。隣をチラッと見たら木花の大旦那は頬を緩ませていた。
 なんだか孫娘でも見ているような顔をしている。年齢的にはそうなのだろうけど。
 木花の大旦那と目が合うと、「あの睨みつけるような顔がチャーミングだろう。安祐美ちゃんらしくて」と耳元で囁いてきた。
 チャーミングなのか。人それぞれ感じ方は違うか。だとしても、はじめて来たお客さんにあの顔はしないほうがいい。
 先輩に伝えたいが、言葉が引っ込んでしまう。
 まあいいか。

「チャーハンか。それなら、納豆玄米チャーハンにしよう。納豆は平気だよね」
「はい」
「じゃ、決まり。それと、敬語は使わなくていいから」

 敬語を使わなくていいって言われても、さっきみたいな怖い顔を見せられたら敬語になってしまう。いやいや、ここは安祐美の言う通りにしよう。また怖い顔しそうだし。
 納豆玄米チャーハンか。楽しみだ。

「この料理はね、スタミナ不足に効果あるの。地元の旬の食材を使って、他にも出すから。結局、旬の食材ってそのときの身体に必要だったりするのよね。淵沢くんの活力になってくれるはずよ」

 安祐美の言葉はその通りなのかもしれない。
 カウンター越しに料理を作る安祐美の姿は本当に高校時代と変わらない。十年くらい経っているというのに。空手と料理とやることは違えど、真剣に取り組む姿勢は一緒なのだろう。
 手元ではアスパラガスに続いてパプリカをみじん切りにしている。
 今、作っているのはチャーハンなのか。

 安祐美はフライパンに油を入れてあたためると、卵を投入した。玄米ごはんも入れて、野菜も入れて炒めていく。もちろん納豆もそこに入る。なにか調味料を入れたみたいだけどなんだろう。
 手際がいい。あっという間に出来上がりだ。
 裕は湯気とともに立ち昇るいい香りの納豆玄米チャーハンに、ごくりと生唾を呑み込んだ。血行促進になると『生姜入りの春キャベツの味噌汁』も出してくれた。『ハーブチキンサラダ』なるものも出してくれた。あとは『自家製キムチ』だ。
 どれも絶品。食べていると自然に笑みが浮かんでくる。身体もあたたまった気もする。食べるってこんなに幸せな気分になるものなのか。
 まさに、からだにおいしい料理店だ。