今日からこの店で新たな生活がはじまる。期待感と不安感が入り交じって複雑な気持ちだけど、それもまた心地いい。
 ここなら娘の里穂とも一緒にいられる。旬の食材での料理を食べさせてあげられることもいいこと。高級レストランの華やかさと厳選された高級食材の美味しい料理を食べることを否定はしない。それどころか食べに行きたいくらいだ。たまには贅沢(ぜいたく)もしたい。
 まあ、それはそれ。ここでは質素ながらも優しい味わいの料理を楽しんでもらいたい。素材そのものの味を知ってほしい。
 ふと父の顔が頭に浮かび、頬が緩む。

『身土不二』か。
 この言葉を教えてくれたのは父だ。最初は、何を言っているのだろうと思っていた。子供の頃から採れたての野菜を食べていたせいか、それが普通だった。両親のもとから離れて一人暮らしをしたとき、スーパーで買った野菜に違和感を覚えた。
 美味しいけど、何かが違う。そう感じた。
 父の作る野菜の美味しさをそのときはじめて痛感した。いや、父の野菜が特別美味しいわけではない。その土地の農家さんから貰う野菜も父の野菜と同じく何とも言えない美味しさがあった。
 スーパーがいけないわけじゃない。スーパーだとどうしたって朝採れってわけにはいかない。市場経由になるわけだから。それでも最近のスーパーにも地元で採れた野菜を置いてあるところもある。だから一概には朝採れがないとは言えない。

 採れたての野菜はやっぱり違う。スーパーで売っていない野草だってなかなかいける。朝採れたばかりの野菜や野草はやっぱり美味しさに差が出てくる。大自然の中で育てられた野菜や野草たちには思っている以上に生命力が宿っている。その野菜や野草たちを活かせる料理を作って振舞いたい。元気になってもらいたい。それでこそ『からだにおいしい料理店』だと自負できる。
 そういえば父がこんな言葉を口にしていた。
『人は土の上に生まれ、土の生むものを食って生き、(しこう)して死んで土になる。我らは畢竟(ひっきょう)、土の化物である』
 確か、明治の作家だか思想家の人の随筆の中の言葉。
『人の身体と土は二つではなく一体である』
 そんな話も父はしていた。それが身土不二の意味だと。土って大事なものなのかとそのとき考えたっけ。その教えを大切にしてこの店でもてなしたい。『そんな考え古いよ』なんて言われそうだけど、そこから新たに何か生まれることもある。つまり温故知新だ。
 頭で喜ぶものだけじゃなく、身体が喜ぶものも食べてもらいたい。それが健康にも繋がるはず。

「ママ、そっちの煮物も食べたいな」
「えっ、これ」
「う、うん」
「じゃ、これも味見してもらおうかな」

 安祐美は小皿に少しだけ煮物を入れて里穂の前に置いた。
 筍と春人参、新玉ねぎ、厚揚げの煮物だ。

「人参が甘い。玉ねぎも甘い。これ、お砂糖の味なのかな」
「違うわよ。お砂糖は入れていないわよ」
「ええ、嘘だぁ」
「嘘じゃないよ。これが自然の甘さなの」
「ふーん、そうなんだ。私、これ好き」
「そう、よかった」

 里穂の満面の笑みはどんな調味料よりも美味しさを増す隠し味かもしれない。里穂のためにも亡くなった夫のためにもこの店を頑張らなきゃ。

「ねぇねぇ、玄米おにぎりも食べたいな」
「里穂ちゃん、ちょっと食べ過ぎじゃない」
「だって、だって、ママの料理はみーんな美味しそうなんだもん。あっ、違った。みーんな美味しいんだよね」
「もう、しかたがないわね」

 安祐美は里穂の頭を撫でるとすぐに軽く塩味をつけただけの玄米おにぎりを握り手渡した。

「わーい、おにぎり、おにぎり」

 里穂は玄米おにぎりを勢いよく頬張り(むせ)はじめた。

「里穂ったら。ほら、お水飲んで」

 里穂は水を手に取りゴクリと飲むと息を吐き出す。そんなに急いで食べなくてもおにぎりは逃げないのに。

「ママ、このおにぎりいままでで一番おいしいかも」

 嬉しいこと言ってくれる。

「そう、よかった。けど里穂、手についたご飯粒もちゃんと食べなきゃ」

 里穂は両手をみつめて「本当だ。ごはん粒、ついている。お米の神様に怒られちゃうね」と手についたご飯粒を綺麗に食べた。
 安祐美は口角を上げ、里穂をみつめた。
『一粒の米には三体の神が宿る』なんて話を里穂にもしたっけ。それくらい米は尊いもの。だからこそ、米の神様の命をありがたくいただかなきゃいけない。
 食事の前に手を合わせて『いただきます』と口にするのはそういうことだ。この言葉も父に教わったんだ。いや、祖母だったか。

「ママの料理、最高。これならお客さん喜ぶね」
「ありがと」

 喜んでくれるかな。ちょっと心配。里穂は美味しいって笑ってくれるけど、みんながそうとは限らない。早くお客様の生の声を聞きたい。