事故なんて起きなかったら。
いやいや、タラればの話をしていても仕方がない。裕は空を見上げて肩を落とす。
フォークリフトと衝突して助かったんだから、よしとしなきゃ。一時は意識不明だったんし。
そういや新田はどうしているだろう。会社を辞めたと聞いた。あれは不慮の事故だ。地面が凍り付いていて避けられなかった。新田が責任を感じることはない。
いつか会って、大丈夫だと伝えたい。
『新田、自分も頑張るからおまえも頑張ってくれよ』
ふと辛いリハビリを思い出して、顔を歪める。今更、思い出さなくてもいい。今は普通に歩けている。左手はまだうまく使えないけど。
前を向かなきゃ。大丈夫だ。海をみつめて、足元の砂に溜め息を落とす。
「おっ、青年まだいたのか」
出た。謎のおしゃべりお爺さん。
「あの、今」
「そうか、今、このジジイのこと考えていたんだな。そりゃ光栄だ」
いや、違う。今、帰るところだと言おうとしただけだ。
「それはそれとして、まあ、なんだ。まさかとは思うが死のうなんて思っていないだろうな」
笑顔から真顔になったお爺さんにドキッとした。
「ま、まさか」
思わず声が上擦ってしまった。
「ふむ、それならよろしい。青年よ、大志を抱けなんて言葉があるだろう。未来に向けて新たな一歩を進め。美味いものは幸せを呼ぶ。しっかり食べるんだぞ。それじゃな」
お爺さんは再び笑顔に戻りバシンと背中を叩いてきた。
『それ、痛いんですけど』とは言えず、ただただ苦笑いを浮かべた。
いったいなんなんだ。またしても言いたいことだけ言って行ってしまった。それに、『青年よ、大志を抱け』じゃなくて『少年よ』だろう。
本当に不思議な人だ。もしかして心配してくれていたのか。そうかもな。
『ありがとう。お爺さん』
なんか腹減ってきた。商店街でも行って何か食べよう。母はまだ帰っていないだろうし。
「よお、フミさんにぷくちゃん」
「いらっしゃい。木花の大旦那」
「安祐美ちゃん、頑張っているようだね」
「ええ、あの子は頑張り屋だからね」
「本当にそうだ。でね、安祐美ちゃんの料理が早く食べたくて来ちまったよ。ちょっと早過ぎたようだけど」
木花の大旦那はすでに隠居の身。さっきまで来ていた怠け癖のある黒部や藤とは違う。安祐美のことを心配して来てくれたんだろう。顔に滲み出ている。
「ぷく、おまえも安祐美ちゃんの料理食べたいか」
「フニャ」
「そうか食べたいか」
「木花の大旦那、ぷくは安祐美の料理を食べられませんよ」
「そうなのかい、残念だな」
ぷくはきっとそんなことは思っていない。ぷくにとっての美味しいものはたくさんある。けど、安祐美ならぷくが喜ぶ料理も作れるだろう。今度話してみようか。
それにしても『からだにおいしい料理』とはよく考えたもんだ。
『身土不二』だったか。一汁一菜を基本にしているらしいが、安祐美の料理はいろいろ足されている。よく考えられたものだ。
この間、試食させてもらってびっくりした。本来の野菜の味がしっかり残っていて幸せな気分にさせてもらった。本当に長生きしてよかった。
安祐美には感心させてもらった。あの繊細な味わいはなかなか出せるものではない。見た目は幼いし、行動は荒っぽいところもあるし繊細の『せ』の字も感じられない子だと思っていたけどたいしたものだ。それはちょっと言い過ぎだろうか。修行の賜物ってことか。
フミは安祐美が子供だったころのことを思い出して頬を緩ませた。
『目指せ、全国大会』
そんな言葉を安祐美は声を張り上げていた。一時期は空手で日本一になるなんて稽古に励んでいたけど、結局日本一にはなれなかった。怪我で断念したときのあの涙を思い出すと泣けてくる。けど、あの子はそこで落ち込むことはなかった。空手はスパッとやめてしまい料理人になると言い出して、びっくりさせたものだ。
そうかと思ったら、数年後には働いていた店の板前と結婚だろう。安祐美はいい笑顔していた。なのに、まさか交通事故死してしまうとは。未亡人になるのが早過ぎる。
辛い思いしだだろうに。それでも安祐美は負けなかった。店を構えるまでになったんだから、人生何が起こるかわからない。
旦那の遺志を継ぐため頑張ったのか。娘の里穂がいたから頑張れたのか。どちらにせよ、強い子だ。
一度決めたらとことんやり抜く子だ。その意志の強さには感心する。空手で精神も鍛えられていたってことだろう。
そんな安祐美だからこそ、今がある。
大丈夫、きっと成功するはず。占いでもそう出ていたから問題ないだろう。
自分で言うのもなんだが、的中率は良いほうだと思う。もちろん占いを本業にしている占い師には敵わないだろう。趣味にちょっと毛が生えた程度の占いだから。それでも少しは自信がある。そんな占いの結果で花が咲くと出た。それを信じようじゃないか。安祐美にとっていいことが待っているはずだ。
『手伝えることがあればいつでも協力するつもりでいるからねぇ』
壁越しにフミは声援を送った。そのとたん、安祐美の顔が頭に浮かび少しだけ口角を上げた。
「どうしたんだい、フミさん」
「いや、ちょっと安祐美の幼い顔を思い出しちまってねぇ。まるで子供が料理をしているみたいじゃないか」
「確かにね。知らない人が来たら、子供が手伝っていると勘違いするだろうね」
木花の大旦那は目尻を下げて笑みを浮かべている。
「あっ、安祐美にはこの話は内緒だよ」
「わかっているよ」
「安祐美の料理の味は絶品だからねぇ。顔で料理の腕を判断する客がいたら乗り込んで叱ってやるつもりだよ」
「フミさん、それはいけないよ」
「あっ、もちろん冗談だよ。安祐美の邪魔はしないさ」
そうだとも、乗り込んだりしたら迷惑かけちまう。そんなことはしない。料理を一口食べればわかることだ。きっと安祐美に惚れちまうかもしれない。いやいや、それもいけない。悪い虫がつかないようにしっかり目を光らせていなきゃ。
「ああ、早く食べたくなってきた。開店まで待てないな」
「しょうがないねぇ。ところで木花の大旦那、宝くじでもどうだい」
「宝くじかい。そうだね、たまにはいいかもしれないね。じゃ十枚だけいただこうか」
「ニャ」
ムクッとぷくが起き上がり、ペシッとひとつの宝くじの束を押さえつけた。
「流石、ぷく。これがいいようだよ」
「そうかい、そうかい。ぷくちゃん、ありがとう」
木花の大旦那に首筋を撫でられてぷくは気持ち良さそうに目を細めていた。もしかしたら大当たりするかもしれない。いや、木花の大旦那には大当たりは必要ないだろうか。なら、小当たりだろうか。ぷくの反応が怠け者の黒部とは違っていたから、ハズレはないだろう。
福猫とはよく言ったものだ。白猫だから余計に縁起がいいなんて巷では噂されている。
ぷく目当てにやってくる客は多い。一等を引き当てた人は今のところいないが、二等と三等の高額当選金を引き当てた幸運な人はいる。ここ三年で二等が二人、三等が六人だ。まあまあの高確率だと思う。
ぷく様様だ。
「あっ、フミさん。開店するまでちょっと待たせてもらうからね」
「ちょっと寒くなってきたから、出直してきたほうがいいんじゃないかい」
「いや、大丈夫」
木花の大旦那はにこりとして店の脇にあるベンチに腰を下ろしていた。
「里穂ちゃん、ちょっと味見してくれるかな」
「うん、いいよ」
「生姜入り春キャベツのお味噌汁よ。どうかな」
里穂はちょっと熱そうにしながらもゆっくりと一口飲んだ。
「おいしい。なんかキャベツが甘く感じるよ。なんで、なんで」
「なんでだろうね」
小首を傾げる里穂が愛らしい。
「ママってもしかして魔法使えるの」
「えっ、魔法。そんなの使えないな」
「そっか。でも、でも、ママはやっぱり天才だね」
「ありがとう。けどね、凄いのはママじゃなくてお味噌のほうかな」
「お味噌?」
小さな手でお椀を持ち、味噌汁をじっとみつめる里穂。その仕種に思わず微笑んでしまう。
「そうよ。お味噌は美味しいお薬みたいなものなの。だから、お味噌汁を飲めば元気いっぱいになるんだから」
味噌は身体を養う礎。白味噌、麦味噌、米味噌、玄米味噌、豆味噌といろいろある。その人に合った味噌を食べるのが一番。味噌にも陰陽があるって教わった。身体をゆるめる陰性の白い味噌、身体を温める陽性の赤い味噌がある。
ここでは陰性の米味噌と陽性の豆味噌を使っている。自慢の手作り味噌だ。
本当に凄いって思う。
発酵が進むと豆が膨らんで重石が持ち上げるんだから。それくらい力がある。生命力溢れる味噌を食べて元気にならないわけながい。聞いた話では夜の営みが弱い旦那さんの精力剤にもなるらしい。本当かどうか試したことはないけど。あっ、何を考えているんだか。
「味噌ってすごいんだね。あれ、ママの顔が赤いよ。なんで、なんで。熱あるの? あっ、味噌で元気になっちゃったのか」
「えっ、あっ、そ、そうね。ママも味噌で元気になったみたい」
ああ、恥ずかしい。変なこと考えないで料理のこと考えなきゃ。
「じゃ、じゃ里穂も元気いっぱいになりたいから、お味噌汁毎日飲む」
「そうね。ママが毎日美味しいお味噌汁作ってあげるからね」
「うん」
里穂は味噌汁をキラキラした瞳でみつめていた。本当にいい子に育ってくれた。ひとつひとつの里穂の仕種が堪らなく愛おしい。
初日の今日はこの味噌汁でいこう。里穂のお墨付きをもらえた。きっとお客様も気に入ってくれるはず。けど、来た人に合せて臨機応変に対応しなきゃいけない。好き嫌いってものがあるだろうし。
ごはんのほうも準備OK。
今日のごはんは玄米焼きおにぎりとキノコの炊き込みご飯の二つから選んでもらおう。キノコはハタケメジに椎茸、キクラゲだ。
父と母が農家をやっていて本当に助かった。キノコまで作っているとは思わなかったけど。
やっぱり朝採りの野菜は新鮮で甘みがあって美味しい。この店ではそんな野菜たちで勝負だ。他にも商店街の柳原豆腐屋、藤井ベーカリー、和菓子屋・竹林にも協力してもらっている。魚はなべや鮮魚店から生きのいい魚介類が仕入れられたし、肉は辻精肉店で仕入れられた。魚は地元の港からだし、肉も地元の畜産農家さんのもの。素晴らしい。もちろん、野菜が主役。
『身土不二』を店名に掲げているわけだし。ただ商店街活性化のためにも肉や魚も使いたい。ダメだろうか。誰かに指摘されてしまうだろうか。そんなことはない。お客様もわかってくれるはず。
身土不二って仏教用語だっけ。マクロビオティックも身土不二の考えからきているはず。そうなると肉と魚は入らないってことか。
肉は身体によくないからダメだという話もあるけど、食べたほうがいいという話も聞く。正直、迷った。迷ったけど、決めたの。肉や魚も身体を作るうえで大事。
人の性格が違うように、その人に合う食材も違う。マクロビオティックが身体に輝きをもたらす人もいれば、そうでない人もいる。きっと食も十人十色。そう思う。
『食』は人を良くすると書くってこのあいだテレビで話していたけど、自分もそう思う。肉だって魚だって野菜だってみんな人を良くしてくれるはず。そう信じよう。
そうなると店名変えたほうがいいのか。
『しんどふじ+』とか。それもなんか違う気がする。『+』じゃなくて『しんどふじ・つけたし』にするか。
やっぱり変だ。今更、看板は直せない。
広い意味では間違っていない。安祐美流『身土不二』ってことで頑張ろう。
そうそう、決め手は手作りの調味料。麹作りからはじめたんだから最高の調味料と言える。
稲穂についた黒い粒状の稲玉のことを知ったときはなんとも不思議な感覚になった。
本当に手間がかかるんだから。『はじめまして』ばかりで感心しっぱなしだった。
麹菌を取り出すために蒸した米に木の灰をまぶすなんて驚き。稲玉をまぶして保温していくと緑色になるのもびっくり。里穂なんか「お米が緑の絨毯になっちゃった」なんてはしゃいじゃって。
そんなこんなで取り出した麹菌から作り上げた調味料たち。
安祐美は、味噌、醤油、みりん、ポン酢に目を向ける。
本当にありがたい。ひとりではここまで出来なかったかも。農業している両親にも、調味料を作っていた祖母にも感謝だ。商店街の皆さんにも感謝ね。
安祐美は上に目を向け、亡き夫にも『ありがとう』と微笑んだ。きっと見守ってくれている。
今日からこの店で新たな生活がはじまる。期待感と不安感が入り交じって複雑な気持ちだけど、それもまた心地いい。
ここなら娘の里穂とも一緒にいられる。旬の食材での料理を食べさせてあげられることもいいこと。高級レストランの華やかさと厳選された高級食材の美味しい料理を食べることを否定はしない。それどころか食べに行きたいくらいだ。たまには贅沢もしたい。
まあ、それはそれ。ここでは質素ながらも優しい味わいの料理を楽しんでもらいたい。素材そのものの味を知ってほしい。
ふと父の顔が頭に浮かび、頬が緩む。
『身土不二』か。
この言葉を教えてくれたのは父だ。最初は、何を言っているのだろうと思っていた。子供の頃から採れたての野菜を食べていたせいか、それが普通だった。両親のもとから離れて一人暮らしをしたとき、スーパーで買った野菜に違和感を覚えた。
美味しいけど、何かが違う。そう感じた。
父の作る野菜の美味しさをそのときはじめて痛感した。いや、父の野菜が特別美味しいわけではない。その土地の農家さんから貰う野菜も父の野菜と同じく何とも言えない美味しさがあった。
スーパーがいけないわけじゃない。スーパーだとどうしたって朝採れってわけにはいかない。市場経由になるわけだから。それでも最近のスーパーにも地元で採れた野菜を置いてあるところもある。だから一概には朝採れがないとは言えない。
採れたての野菜はやっぱり違う。スーパーで売っていない野草だってなかなかいける。朝採れたばかりの野菜や野草はやっぱり美味しさに差が出てくる。大自然の中で育てられた野菜や野草たちには思っている以上に生命力が宿っている。その野菜や野草たちを活かせる料理を作って振舞いたい。元気になってもらいたい。それでこそ『からだにおいしい料理店』だと自負できる。
そういえば父がこんな言葉を口にしていた。
『人は土の上に生まれ、土の生むものを食って生き、而して死んで土になる。我らは畢竟、土の化物である』
確か、明治の作家だか思想家の人の随筆の中の言葉。
『人の身体と土は二つではなく一体である』
そんな話も父はしていた。それが身土不二の意味だと。土って大事なものなのかとそのとき考えたっけ。その教えを大切にしてこの店でもてなしたい。『そんな考え古いよ』なんて言われそうだけど、そこから新たに何か生まれることもある。つまり温故知新だ。
頭で喜ぶものだけじゃなく、身体が喜ぶものも食べてもらいたい。それが健康にも繋がるはず。
「ママ、そっちの煮物も食べたいな」
「えっ、これ」
「う、うん」
「じゃ、これも味見してもらおうかな」
安祐美は小皿に少しだけ煮物を入れて里穂の前に置いた。
筍と春人参、新玉ねぎ、厚揚げの煮物だ。
「人参が甘い。玉ねぎも甘い。これ、お砂糖の味なのかな」
「違うわよ。お砂糖は入れていないわよ」
「ええ、嘘だぁ」
「嘘じゃないよ。これが自然の甘さなの」
「ふーん、そうなんだ。私、これ好き」
「そう、よかった」
里穂の満面の笑みはどんな調味料よりも美味しさを増す隠し味かもしれない。里穂のためにも亡くなった夫のためにもこの店を頑張らなきゃ。
「ねぇねぇ、玄米おにぎりも食べたいな」
「里穂ちゃん、ちょっと食べ過ぎじゃない」
「だって、だって、ママの料理はみーんな美味しそうなんだもん。あっ、違った。みーんな美味しいんだよね」
「もう、しかたがないわね」
安祐美は里穂の頭を撫でるとすぐに軽く塩味をつけただけの玄米おにぎりを握り手渡した。
「わーい、おにぎり、おにぎり」
里穂は玄米おにぎりを勢いよく頬張り咽はじめた。
「里穂ったら。ほら、お水飲んで」
里穂は水を手に取りゴクリと飲むと息を吐き出す。そんなに急いで食べなくてもおにぎりは逃げないのに。
「ママ、このおにぎりいままでで一番おいしいかも」
嬉しいこと言ってくれる。
「そう、よかった。けど里穂、手についたご飯粒もちゃんと食べなきゃ」
里穂は両手をみつめて「本当だ。ごはん粒、ついている。お米の神様に怒られちゃうね」と手についたご飯粒を綺麗に食べた。
安祐美は口角を上げ、里穂をみつめた。
『一粒の米には三体の神が宿る』なんて話を里穂にもしたっけ。それくらい米は尊いもの。だからこそ、米の神様の命をありがたくいただかなきゃいけない。
食事の前に手を合わせて『いただきます』と口にするのはそういうことだ。この言葉も父に教わったんだ。いや、祖母だったか。
「ママの料理、最高。これならお客さん喜ぶね」
「ありがと」
喜んでくれるかな。ちょっと心配。里穂は美味しいって笑ってくれるけど、みんながそうとは限らない。早くお客様の生の声を聞きたい。
懐かしい。裕は街並みを眺めて頬を緩めた。
あれ、あんな店あったっけ。新店舗なのか。花輪がある。
『からだにおいしい料理店・しんどふじ』か。
んっ、今猫の鳴き声がしなかったか。どこだ。
「そこのお兄さん。こっち、こっちだよ」
突然の声にそっちへ目を向けるとタバコ屋からお婆さんが手招きしていた。その横に真っ白な猫もいる。右と左の目の色が違う。オッドアイだ。幸運の猫なんて話をどこかで聞いたことがある。
さっき鳴いたのはあの猫だろうか。
「ほら、お兄さん。こっち来なって」
お婆さんの言葉に我に返り、タバコ屋の前まで歩みを進める。
何の用かわからないけど無視はできない。というか、白猫を撫でたい。
ベンチでは白髪頭の優しそうなお爺さんが座って微笑んでいる。
「あの、何か」
「何かじゃないよ。お兄さん、青白い顔をして大丈夫かい」
青白い顔。そうか、そんな顔をしていたのか。体調は悪くはないけど。
「あの、そんなに青白い顔をしていますか」
「そうだねぇ。木花の大旦那もそう思うだろう」
「確かに、心配になる顔をしているな」
心配になる顔か。そう言われると考えてしまう。
「病み上がりだからかもしれません」
「そうなのかい」
たぶん、そうだと思う。海風に吹かれたせいもあるのかな。
「なあ、フミさん。占ってやったらどうだい」
占い。このお婆さんは占いができるのか。そういえばここって、先輩の家じゃなかったか。もしかして先輩のお婆さんだろうか。先輩は空手をしていたっけ。隣の店と繋がっているのか?
「そうだねぇ。ちょっと手相を見せてもらえるかい」
裕は言われるまま両方の掌を見せた。
「左手だけでいいよ」
裕は左手という言葉に一瞬事故のことが頭を過り、息を漏らす。そのときチラッとお婆さんがこっちに目を向けたがすぐに掌へと目を戻した。
どんなこと言われるだろうか。なんだか緊張してきた。
「なるほどねぇ。ちなみに生年月日を教えてくれるかい。名前もお願いするよ」
「えっと、一九九七年十月二十日生まれの淵沢裕です」
フミは頷き「不運続きだったようだねぇ。けど、これから上向きになるはずだよ。雨のち晴れ、ときどき猫が降るでしょうって感じかねぇ」
『猫が降るでしょう』ってなんだ。雨のち晴れっていうのはなんとなくわかるけど。
「わかりづらいこと言ってしまったかねぇ。つまり、これから上向きな人生になる。それから思ってもみない嬉しいことが起きるってことだよ」
フミはニコリとして、自分の手をパシンと軽く叩いてきた。
一瞬ドキリとしたけどフミの笑顔に思わず頬を緩めた。
思ってもみない嬉しいことか。
「よかったじゃないか」
お爺さんにそう声をかけられて「はい」とだけ返答した。
「そうだ、あんたもここの店で食べて行ったらいい。からだにおいしい料理店だからね。少しは顔色もよくなるかもしれないよ」
「木花の大旦那、そりゃいいね。そうしなさいよ。孫娘の作る料理は私が言うのもなんだが絶品だよ。身体にもいい。その左手の冷たさも解消されるかもしれないよ」
左手が冷たいか。吐息を漏らし、白猫に目を向けた。
それはそうと、この店は孫娘がやっているのか。先輩かな。
先輩だとしたらどんな料理を出すのだろう。空手の胴着の先輩の姿がふと浮かぶ。男っぽい料理だろうか。顔は幼い感じだったから、優しい感じの料理だろうか。どっちにしろ気になる。
「ほらほら、ここ座りな」
「あっ、はい」
お爺さんの隣に座り、先輩を思い描いた。
「えっと、淵沢さんだったかな。あんた、ついているよ。ここ、今日から開店なんだ。いいときに来たよ」
えっ、今日から開店。これも何かの縁だろうか。
「そうなんですね。それにしても美味しそうな匂いがしますね」
「そうだろう、そうだろう」
「安祐美ちゃんの料理を食べたら、きっと惚れちまうよ」
『アユミ』って。先輩の名前か。どうにもはっきりしない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
「ちょっと、木花の大旦那」
「あっ、フミさん。もしかして変なこと言っちまったかい」
木花の大旦那って。何者だろうか。和服姿だし、生け花とかお茶とかの師匠なんだろうか。違うか。師匠だったら大旦那とは言わないか。
んっ、扉が開いた。そう思ったら、可愛らしい女の子がひょっこり顔を出してきた。
「あっ、着物のお爺ちゃんだ。お客さん、第一号だね」
「おっ、里穂ちゃんもお手伝いしているのかい」
「うん、けど、もうお祖母ちゃんところに行くの。ママの邪魔になっちゃうから」
「そうか、そうか」
ママって、この子は先輩の子供なのか。どことなく先輩に似ている。結婚しているのか。ちょっと残念。
おい、何が残念だ。先輩といい関係になることを期待していたっていうのか。そんな感情が自分の中にあったのか。先輩のこと、ここへ来るまで思い出さなかったのに。なんだか変な気持ちだ。
「里穂、お客さん来ているんだったら店に案内してくれる」
奥から可愛らしい声がしてきた。先輩の声だろうか。よくかわらない。
「泥棒、誰か、誰か。その人捕まえてぇー」
突然の叫び声にハッとして商店街の奥へと目を向けた瞬間、店から小柄な女性が飛び出してきた。
細身で華奢な感じの後姿は中学生か高校生か。もしかして先輩なのか。それとも娘がもう一人いるのか。いや、年齢的に考えてそんな大きな子供がいるはずがない。ならば、やっぱり先輩か。
「邪魔だ、どけぇー」
無精髭で野球帽を被った男が女性もののバッグを手にして向かって来る。
あいつが泥棒か。
「どけ、どけ、どけ」
泥棒は殺気立っている。危険だ。ナイフでも持っていたら大変だ。そう思いつつも裕は動けず立ち尽くす。
まずい、突き飛ばされると思った瞬間、細身の女性の上段回し蹴りが泥棒の顎にクリーンヒットした。
「おお」との声が通行人から湧き上がり、気づけば泥棒が大の字になって倒れていた。
凄い、鮮やかな蹴りだ。
「ママ、カッコイイ」
あの蹴りは間違いなく先輩だ。怪我をして空手はやめたと話は聞いていたけど、高校時代を彷彿させる。
「ねぇねぇ、おじさん。ママってすごいでしょ」
おじさんって。
この子にはそう見えるのか。さっきは『お兄さん』って呼ばれたのに。お婆さんから見ればお兄さんってだけか。
『まだ二十六歳だぞ。おじさんじゃない』とこの子には言えない。老け顔だと自分でも認識している。小さなこの子にはどうみてもおじさんにしか見えないだろう。
まあいいか。そう思っていたら警察官が二人駆けつけて倒れている泥棒を立たせていた。どうやら脳震盪は起こしていないらしい。
バッグを取られたおばさんと鮮やかな蹴りを決めた女性に警察官は簡単な事情聴取をしていた。泥棒のほうはすでに連行されている。
おばさんは女性にお礼を言うと、警察官について歩いていった。
「流石だね、安祐美ちゃん」
商店街の人たちからの拍手とともに褒め称える声。後ろ姿で女性の表情はわからないけど照れた顔をしているんじゃないだろうか。
「ねぇ、ねぇ、おじさんの手、冷たいね」
「えっ」
「手だよ。冷たいよ。どうしちゃったの」
痺れた左手から里穂の手のぬくもりが伝わってくる。
「そうだね、冷たいね」
「あれ、おじさんの顔もなんだか白いね。大丈夫なの。間違って冷蔵庫に入っちゃったの」
思わず頬が緩む。面白いことを言う。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「本当に大丈夫なのかな」
里穂は両手で自分の左手を包み込むように握り「ママの料理食べれば、きっと元気でるよ」とニコリとした。
すぐ横で木花の大旦那が頷いている。
「里穂ちゃんもそう思うよね。やっぱりここで食べていくといい」
「ママ、このおじさんに元気になれるごはん作ってあげて」
「えっ」
振り返った細見の女性の顔を見て、やっぱりと裕は思った。間違いなく先輩だ。高校時代と変わっていない。高校時代にタイムスリップしたのかと錯覚してしまう。可愛いのに強いって有名だったのを思い出す。
先輩と再会できるなんて思ってもみなかった。胸の奥がほんのりあたたかくなる。
「あれ……、えっと……」
えっ、なに。こっちを指差してどうした。
「あっ、思い出した。淵沢くんでしょ」
突然そう呼ばれてドキンと心臓が跳ね上がる。覚えてくれていたのか。裕は笑顔になりかけたところで嫌な記憶がカットインしてきた。
空手部の勧誘を断れず入部し、二ヶ月でギブアップ。情けない記憶だ。
先輩はそんな自分に「元気にしている」なんて気軽に声をかけてくれたっけ。
やばい、やばい。ウルッときてしまった。先輩の優しさが心に沁みてくる。
「あれ、ママ。知っている人なの」
「まあね。本当に懐かしい。相変わらずおじさん顔だけど」
おいおい、それはないだろう。涙が引っ込んじまったじゃないか。事実だけど。なんだかな。
「淵沢くん。淵沢くんってば」
えっ、なに。
「どうしたんだい。ぼうっとして」
安祐美先輩と木花の大旦那が心配そうな目をしている。
「あっ、その。ちょっと考え事をしていただけです」
「本当にそうなの。顔色悪いし」
突然、安祐美先輩が顔を近づけてきて、またしても心臓が跳ね上がる。
「おじさん、顔色悪いよね。ママの料理で元気にしてあげようよ」
「そうね。淵沢くん。私の料理、食べてくれる」
またまた心臓が跳ね上がる。『私の料理、食べてくれる』の言葉が頭の中を駆け巡る。特別な意味に思ってしまう。料理屋で料理を食べる。ただそれだけのことなのに。
「はい、いただきます」
「じゃ、どうぞ」
さてと、メニューは。んっ、ないな。
「そうそう、淵沢くん。ここはね、おまかせ料理しかないんだ。ここは再会を祝して、というか体調悪そうだし、特別に何か食べたいもの作ってあげる。何がいい?」
『特別に』って、なんていい響きなんだろう。なんか好きになりそうだ。いやいや、ダメだ。先輩は人妻だ。子供だっている。不倫なんて絶対にダメだ。
「あの、食べたいものないのか訊いているんですけど」
「あっ、はい、あのチャーハンが食べたいです」
んっ、なぜチャーハン。まあいいか。それよりも今の安祐美の顔は怖かった。そういえば、空手の試合のときも同じような顔をしていた。けど今の顔は接客業をする上でやめたほうがいい。隣をチラッと見たら木花の大旦那は頬を緩ませていた。
なんだか孫娘でも見ているような顔をしている。年齢的にはそうなのだろうけど。
木花の大旦那と目が合うと、「あの睨みつけるような顔がチャーミングだろう。安祐美ちゃんらしくて」と耳元で囁いてきた。
チャーミングなのか。人それぞれ感じ方は違うか。だとしても、はじめて来たお客さんにあの顔はしないほうがいい。
先輩に伝えたいが、言葉が引っ込んでしまう。
まあいいか。
「チャーハンか。それなら、納豆玄米チャーハンにしよう。納豆は平気だよね」
「はい」
「じゃ、決まり。それと、敬語は使わなくていいから」
敬語を使わなくていいって言われても、さっきみたいな怖い顔を見せられたら敬語になってしまう。いやいや、ここは安祐美の言う通りにしよう。また怖い顔しそうだし。
納豆玄米チャーハンか。楽しみだ。
「この料理はね、スタミナ不足に効果あるの。地元の旬の食材を使って、他にも出すから。結局、旬の食材ってそのときの身体に必要だったりするのよね。淵沢くんの活力になってくれるはずよ」
安祐美の言葉はその通りなのかもしれない。
カウンター越しに料理を作る安祐美の姿は本当に高校時代と変わらない。十年くらい経っているというのに。空手と料理とやることは違えど、真剣に取り組む姿勢は一緒なのだろう。
手元ではアスパラガスに続いてパプリカをみじん切りにしている。
今、作っているのはチャーハンなのか。
安祐美はフライパンに油を入れてあたためると、卵を投入した。玄米ごはんも入れて、野菜も入れて炒めていく。もちろん納豆もそこに入る。なにか調味料を入れたみたいだけどなんだろう。
手際がいい。あっという間に出来上がりだ。
裕は湯気とともに立ち昇るいい香りの納豆玄米チャーハンに、ごくりと生唾を呑み込んだ。血行促進になると『生姜入りの春キャベツの味噌汁』も出してくれた。『ハーブチキンサラダ』なるものも出してくれた。あとは『自家製キムチ』だ。
どれも絶品。食べていると自然に笑みが浮かんでくる。身体もあたたまった気もする。食べるってこんなに幸せな気分になるものなのか。
まさに、からだにおいしい料理店だ。
あっ、思い出した。箕田安祐美だ。これも料理のおかげなのか。それともこの店のアットホームな雰囲気がいいのか。なんだか頭が冴え渡っている。チラッと安祐美に目を向け、ほんの少し口角を上げた。
料理に集中する安祐美のキリッとした表情が素敵だ。
本当に手際がいいな。もう木花の大旦那の前に料理が。
『キノコの炊き込みご飯』と『豆乳シチュー』『奈良漬け』『桜エビと春大根のサラダ』を堪能していた。小鉢には煮物もある。もちろん、春キャベツの味噌汁もある。
「シチューが食べたいのかい」
木花の大旦那にそう告げられて「あっ、いや、そういうわけじゃ」と頭を掻いた。
「その豆乳シチューはね。新じゃがいも、春人参、ブロッコリー、新玉ねぎ、菜の花を入れたの。あと鶏肉も入っているわ。そうそう、玄米粉に塩麴も入っているんだから栄養満点よ」
安祐美の説明を聞いているだけで、涎が出てきそうだ。
「よかったら、ちょっと味見してみる」
「えっ、あっ、じゃ一口だけ」
安祐美の言葉に甘えてしまった。なんだか食い意地が張っているみたいで恥ずかしい。
「どうだ、若いの。美味いだろう」
「ええ、最高です。なんだか野菜のやさしい甘味がありますね」
「そうだろう、そうだろう」
「ありがとう」
安祐美の笑みが輝いて見えた。心臓がドキドキする。胃袋を掴まれるとはこういうことなのか。安祐美が独身だったらよかったのに。
自分はいったい何を思っているのだろう。変な考えは起こしちゃダメだ。
「どれも美味しくて、通いたくなるな」
「嬉しい」
「そういえば、ここってメニューはないの」
「メニューはないの。日替わりおまかせ料理だけ。というか言わなかったっけ」
うわっ、睨まれた。
「ごめん、そうだった」
「まあいいか。でね、『料理で健康に』がこの店のコンセプトなの。だから淵沢くんに出した料理は特別なのよ」
また『特別』だなんて。完全に安祐美に心が持っていかれちまう。
「特別だなんて、羨ましいねぇ」
裕は頭を掻いて照れ笑いを浮かべた。
「淵沢くんは、本当に不健康そうだからよ」
そんなに不健康に見えるのか。そりゃそうか。少し前まで意識不明だったんだから、すぐに元には戻らないか。
裕は気づくと、自分のこれまでの境遇を話していた。安祐美も木花の大旦那も最後まで聞いてくれた。それだけでほんの少し心が軽くなった気がする。
「あっ、そうそうデザートに『ニンジンゼリー』があるからね」
「おお、いいね。もらおうか」
木花の大旦那はすぐにそう応じたが、裕は迷った。財布にいくら入っていただろうか。今更だけど、お金、足りるかな。
「淵沢くん、どうかした」
「あっ、いえなんでもないです」
「もしかしてお金の心配かな」
す、鋭い。
「図星みたいね。気にしないで、デザートはサービスするから。それに私の店は良心的な値段だから心配ないわよ」
「なんでもお見通しってことだな」
木花の大旦那が目尻を垂れ下げて微笑んでいた。
裕は頭を掻いてニンジンゼリーを受け取り、「ちなみに、いくら」と訊ねると安祐美は「おまかせセットで一律九百八十円よ。で、デザートとドリンク付きがプラス二百円ね」と告げた。
なるほど、高くはない。いや、この料理が出てくるとなると安いか。
「おお、このゼリーも美味しいね」
「ありがとうございます。このニンジンゼリーは商店街の竹林さんでも売っていますから、気に入ったらそちらでも購入してみてくださいね」
スプーンで掬うい口に入れると、優しい甘さが口に中に広がった。これはニンジンだけじゃないかも。
「先輩、これもしかしてリンゴも入っていますか」
「あら、よくわかったわね」
「あと、ハチミツ」
「正解。淵沢くん、すごいね」
そんなに褒められると照れる。
「ああ、お腹いっぱいだ。安祐美ちゃんの料理のおかげで長生きできそうだよ。ありがとうよ」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。野菜たっぷりのスムージーもどうぞ」
「安祐美ちゃんすまないがもうお腹いっぱいで。申し訳ないが、私はこれで」
木花の大旦那は一万円札をカウンターに置くと「お釣りはいらないよ。少ないけど開店祝いだと思ってくれ。それと、これもなにかの縁だ。そっちのお兄さんのぶんもね。奢りだよ」と笑みを浮かべて店を出ていった。
「いや、ちょっと」
そう声をかけたが安祐美に「奢ってもらいなよ。断ったりしたら大旦那さんの気分を害しちゃうからさ」と頬を緩ませていた。
安祐美の言葉も一理あるか。
「あっ、僕も行くね。ごちそうさま」
「ちょっとスムージー飲んでいってよ」
そうだった。裕は一気にスムージーを飲み干して「じゃ、また」と手を振った。
「今日はありがとう。あと、事故のことだけどやっぱり新田さんって人ときちんと話をしたほうがいいと思うよ」
突然の安祐美の言葉に意表を突かれて一瞬動きを止めてしまった。
「ごめんね。大きなお世話だったかな。けど、私でよければ力を貸すからね」
「あ、ありがとう」
裕はそれだけ口にすると店をあとにした。
この町に帰って来てよかった。
『力を貸す』か。まさかそんなこと言ってくれるとは思わなかった。
『安祐美先輩、ありがとう』
もう真っ暗だ。ずいぶん長居していたようだ。
あっ、流れ星。
裕は目を閉じて手を合わせた。
うおっ、なんだ。なんか降って来た。猫か。
「驚かせるんじゃないぞ」
上から猫の鳴き声がして、なるほどとなった。あいつに落とされたのか。屋根の上から見下ろす白黒猫。下ではこっちをみつめるトラ猫がいる。
「言っておくが、おまえを落としたのはあいつだぞ」
裕はしゃがみ込み、トラ猫を撫でようと手を伸ばす。あっ、行ってしまった。残念。
そういえばここの商店街の名前は『猫沢商店街』だった。以前から猫が多いところだったっけ。
ひんやりする風にブルっと震えた。早く帰ろう。春だっていうのに、夜はまだ寒いな。
小走りで商店街を進み、親子連れとすれ違い不意に新田のことが頭に浮かんだ。あいつ、どうしているだろう。無職になって奥さんと離婚なんてことになっていなきゃいいけど。
痺れた左手をみつめ、息を吐く。
新田にも『しんどふじ』の料理を食べさせたい。あそこなら、きっと心を開いて話せる。誘ってみようか。ダメだ。連絡先を知らない。どうしたものか。
おや、あいつ。さっきの猫か。なにか銜えているみたいだけど。あれは鍵か。
もしかしてと思い裕はポケットに手を突っ込んだ。
ない、やっぱり、ない。
「その鍵、僕のだよな」
猫に向かってそう問い掛けたら、鍵を銜えたまま脇を走り抜けていった。
「おい、待てよ」
まったく悪戯猫が。まあ、猫と追いかけっこも悪くはないか。どうせ、暇だし。走れば身体もあたたまるだろう。一石二鳥だ。
「おーい、待て、待て。鍵を返してくれ」
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