「話って」

 安祐美の話は痺れが残っている左手のことだった。鍼灸整骨院に行ってみたらどうかというものだ。自分のことを考えてくれていたなんてありがたい。確かに、やってみる価値はある。

「ママのお料理だけじゃ治らないの」

 里穂はきょとんとした顔をしている。余程、安祐美の作る料理を信頼しているのだろう。

「先輩、ありがとうございます。治るかはわからないけど、行ってみます。じゃ」
「あっ、それ忘れ物」

 忘れ物?
 あっ、パンだ。

「あの、これ。商店街にあるパン屋のです。あげようと思っていたんです」
「それって藤井ベーカリーのパン。そうでしょ」
「えっと、店の名前はわからないけど、たぶんそうかな」
「やったー。里穂、そこのパン好きなんだ」
「よかったわね、里穂」
「うん。それでカレーパンある」
「あるよ」

 里穂は満面の笑みで袋を覗き込んでいた。里穂が喜ぶってことは辛くないのだろう。甘口のカレーパンってことか。

「ママの好きなうぐいすパンもあるよ。もうひとつはえっと、よもぎパンだ」
「淵沢くん、ありがとうね」
「いえいえ。というかこのパンは貰ったんでお礼はパン屋さんでお願いします」
「あら、そうなの」

 裕は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「ねぇねぇ、お兄ちゃん。このカレーパンね、福神漬けも入っているんだよ。面白いんだけど美味しいんだよ」

 そうなのか。確かに面白いかも。今度、買って食べてみよう。

「先輩、また来ますね」
「はい、お待ちしています」
「里穂も待っているからね」

 裕は微笑み、店をあとにした。

***

 裕は店を出るなり斜め向かいにある鍼灸整骨院の看板に目が留まる。あそこか。

「今日の料理はどうだったい」

 背後から声をかけられて振り返るとタバコ屋のフミが微笑んでいた。

「あっ、もちろん美味しかったです」
「そうかい、そうかい。それはよかった」

 そうだ、スクラッチも換金していこう。

「あの、これお願いします」
「おや、昨日の。ああ、なるほど。大当たりとはいかなかったようだねぇ」
「はい」

 フミの隣でぷくが小さく鳴いた。

「まあ、こんなものだろう。ここで運を使うことはないよ。きっと、もっといいことがあるはずだからねぇ」

 もっといいことか。大当たりするよりいいことってなんだろう。ぷくを見遣ると大口を開けて欠伸をしていた。呑気な奴だ。
 フミから二千二百円を受け取り、ぷくの頭を撫でると鍼灸整骨院のことを話して店をあとにした。
 鍼灸整骨院の安角先生は腕がいいからきっとよくなるよとフミも太鼓判を押してすすめてくれた。それでも正直なところ半信半疑だった。
 鍼灸整骨院の扉の前に来て裕は大きく息を吐く。もう診療時間は過ぎている。明日にしよう。
 大丈夫だ。きっと今より悪くなることはないだろう。
 淡い月明りに目を向けた瞬間、ポケットに入れていたスマホが鳴動してビクッとなった。
 辞めた会社の先輩からのメールだ。そうだ、返信していなかった。すぐに返信をしなきゃ。
『返信せずにすみませんでした。新田さんに連絡してみます。連絡先教えていただきありがとうございます』と送った。
 新田と向き合ってきちんと話をしよう。それが一番いい。
『しんどふじ』の料理のおかげで少しは前向きに考えられるようになった。
 帰ったら新田に電話をしよう。絶対に。