寄せては返す波が手招きしている。
 波の誘いにのって、永遠の眠りについてしまえば楽だろうか。何を馬鹿なことを。そんな勇気なんてないくせに。
 淵沢裕(ふちさわゆう)は砂浜の手前にある石段の一番上に座り、遠くに見える水平線へと目を向けた。
 んっ、子供のはしゃぐ声がする。
 あそこか。浜辺で遊ぶ親子の姿にほんの少し頬が緩む。なんだかいいな。
 自分も結婚していたら、あれくらいの子供がいただろうか。
 事故がなければ、今頃は普通に仕事をしていたはず。そこで未来の奥さんと出会うこともあったかもしれない。溜め息を漏らし、左手を見遣る。
 振り返るな、前を向け。なんて言うのは簡単だ。わかっていても出来ないこともある。
 ほら、見てみろ。あの雲。
 のんびり自由気ままでいいじゃないか。自分もあんなふうにすればいい。なんて、勝手な思い込みだ。あの雲だって悩みを抱えているかもしれない。そもそも自由っていうのは思っている以上に大変で難しいことじゃないのか。
 裕は吐息を漏らし、細波(さざなみ)に目を向けた。みんなそれぞれ大変なんだ。自分だけじゃない。そう思って頑張れ。実家のあるこの町で再スタートを切れ。
 大丈夫、大丈夫だ。自分になら出来る。
 本当にそうだろうか。

「よう青年、暗い顔してどうした」
「えっ」
「女にでもフラれたか」

 急になんだ。誰かと間違っているんじゃないのか。そんなことより『フラれた』ってなんだ。違う、自分はフラれてなんていない。

「あの」
「あっ、リストラにでもあったか。まだ若いのに大変だ」
「いや、そうじゃ」
「まあ、まあ。生きていればいろんなことがある。良いこともあれば悪いこともある。それが人生ってもんだ。人生、楽しまなきゃ損だ。そうは思わんか」

 確かにそうだけど。って、リストラなんてされていない。

「美味いもん食べて頑張れ。それで万事うまく」

 いったいなんだ、この人は。逃げたほうがいいのか。そう思いつつもずっと笑顔のお爺さんを見ていると楽しくなってくる。不思議な人だ。

「ほら、これでも食って元気出せ」

 手渡されたのはアンパンだった。しかも、半分だけ。まさか食いかけか。おいおい、そんなものが食えるか。アンパンを返そうとしたところですぐにお爺さんに押し返されてしまう。

「まったく無口な奴だ。美味いもんは幸せを呼ぶぞ。遠慮しないで食え。食いかけじゃないから安心しろ。じゃあな」

 バシンと背中を叩き、大笑いをして歩き去ってしまった。何が『無口な奴だ』だ。一人でずっとしゃべりっぱなしじゃないか。お爺さんがおしゃべりで話せなかっただけだ。

 アンパンか。
 ほんのりあたたかくて甘い匂い。そのうえ、はみ出た粒あんが誘ってくる。
 裕はアンパンに噛りつき、フッと笑みを零した。

『美味いものは幸せを呼ぶ』か。そうかもしれない。この餡子(あんこ)の甘さは優しくて心に沁みる。
 自分は生かされた。それなら頑張らなきゃ。震える左手をギュッと握りしめ、気持ちを盛り上げる。なのにうまく力が入らない。
 ダメだ、ダメだ。こんなんじゃダメだ。
 なんだよ、空まで暗くなってきた。

『おい、太陽。まだ沈むのは早いぞ』

 心の中で叫んでみるが『はいそうですか』と返事をするわけもなく、空は紫がかった朱色に染まっていく。
 大丈夫だ。考え方を変えろ。今日一日、生きられた。それだけでも偉い。そう思え。

 心地いい波音に、岩にぶつかる力強い波飛沫(なみしぶき)
 ほら、波が励ましてくれている。一日よく頑張ったと言っている。
 大丈夫、指は動く。弱くても握ることもできる。小石だって摘まみ上げることが。

 あっ、小石が。指の間から転げ落ちた小石をみつめた。
 事故さえなければ。