はじめての恋に破れた僕はズタボロになったぞうきんのように、いや、ぞうきんよりももっと薄っぺらい紙切れのように泣いていた。レストランの自室に閉じこもって誰にも見られないように大泣きしていた。もう1日以上泣いている。2,3日は経っていたかもしれない。時間の感覚もなく昼か夜かもわからず暗い部屋の中で泣いている僕は男の中でも1番の弱い男に違いない。

 着の身着のまま暗い部屋で泣く。今まで生きてきた中で、こんなにも身なりに気を付けもしていない自分は初めてかもしれない。はっきりいって今の容姿は情けないと思う。一国の王になる男が女性に振られたくらいでそんなにめそめそ泣いているなんて。それだけ大事な人だったのだ。大好きだったのだ。僕は恋に不器用なのかもしれない。

 泣いて泣いて、涙が枯れ果てたころに、はじめて腹が減ったことに気づいた。生きているということは正直で、悲しい時には涙が出る。どんなに辛いことがあっても腹が減る。生きているということはそういったことなのだろう。何か食べたいけれど、作るのも面倒だな。カップラーメンとかドリンクゼリーみたいに手軽に食べられるものを探しにキッチンのほうへむかう。

 一人になりたかった僕は幻のレストランのキッチンへ向かった。シェフが作った立派な料理ではなく、ちょっと何かを食べたい、胃に軽くものを流し込みたい。そんな気持ちだった。正直そこまでお腹がすいているわけではなかったけれど、2日くらいほとんど何も食べていない僕はグロッキーな顔をしていただろう。

 食にこだわりのある僕がとりあえず食べられれば何でもいいとか思っている時点でおかしなことだ。泣きはらした目は真っ赤に充血していただろうし、一睡もしていないので、くまも相当出来ていたと思う。正確には鏡を見ていないのでなんとも言えないが。夢香には見せたこともないようなぼさぼさの髪の毛でしわしわになったシャツとズボンをはいたままよろけながらキッチンで食材を探す。

「情けない姿」
 そこには18歳になる義理の妹のまひるが立っていた。いつのまにレストランに入ってきたのだろう。しばらく閉店すると言っていたのに、勝手に入ってきたのだろうか。
 18歳のまひるは刺すようなまなざしで僕を見下すように憐れむ。情けない姿という言葉を否定も出来ず、ぼさぼさのしわくちゃな僕はまひるのまなざしを無視して簡易な食材を漁る。まるで侵入した泥棒のような怪しい風貌だったかもしれない。

「私が作っておいたからありがたく食べなさい」
 僕は彼女の足元にひざまづいたような格好で見上げた。

「ちゃんと栄養をとって店を再開しないと」
 彼女の視線の先にはあたたかなスープが湯気を立てていた。

「失恋くらいどうってことないわよ、あなたがここまで腑抜けになるなんてね。みんなにはあんたの情けない姿は秘密にしておいてあげるから。栄養取ったら体が温まるわよ」

 気丈なまひるの態度が心強く思えたのかもしれない。悲しみに打ちひしがれた僕はそのまままひるの目の前で号泣していた。18歳にもなる男が情けないと思う。義理の妹に涙を見せるなんて自分でも予想もしていなかった。未来を見る力があるはずだけれど、自分自身も予想外の出来事だった。

「いっぱい泣けばいい、失敗と悲しみを乗り越えて人はそうやって大人になるのよ」

 悟りきった目の前の18歳の女性が頼もしくもあり、誰かに寄りかかっただけだったのかもしれないという自分の弱さを発見して僕は母親を欲する幼子のようだった。母親と生き別れた僕はずっと母性というものを求めることに蓋をして生きてきた。母性をどこかで求めていたのかもしれない。そんな自分の意外な一面を発見する。情けない自分を受け入れてくれた目の前の女性は、まるでペットにでも接するかのように、僕の髪の毛を撫でた。

「本当にばかね」
 と言い放つ。まひるの言い方はきついが、世界一頼りになる女性だった。一晩泣いて枯れたと思ったが、まだまだ涙は枯渇していないようだった。泣きはらした目を隠すこともなくさらに泣く。情けないの窮地とはこのことだ。

 少し落ち着くとスープをひとくち飲む。これは、あたたかなコーンスープだ。自分で作るよりもまろやかでクリーミーでコクがある。こんなにコーンスープっておいしかったかな? そう思えるほど鮮やかな黄色いスープは僕に衝撃を与えた。

 多分これからどんなことがあろうと僕はこのスープの味を忘れないだろう。僕に生きる力を与えてくれた愛情のこもった優しいスープの味はどんな味にも勝てないだろう。記憶というものはそういった経験から作ることができる。だから、人から記憶を奪うという行為は罪になるのかもしれない。はじめて記憶への執着が芽生えた瞬間だった。

「人は生きるために食事をするの。食べることは生きるためには必要なのよ」
「兄なのに、どうしようもないな。ごめん……。ありがとう」
 正直にお礼と感謝を述べていた。

「私、アサトよりも誕生日早いから正確には姉なのよね」
「……そうか。ずっと年上としてしっかりしないとって思っていたけれど、これからはまひるに頼りながら生きていくかな」
「いつもキラキラオーラを身にまとっているのがアサトらしいんだから、ちゃんとシャワー浴びて、小綺麗にしておきなさいよ」

「めんどくさい」
「なにそれ」
「なんかさ、頑張りすぎていたのかもな。全てどうでもよくなった……」

 僕はすねた子供のようだったかもしれない。幼少時に母親が離婚して甘えられない寂しさもどこかにあったのかもしれない。

でも、なぜまひるの前だと飾らない自然体でいられるのだろう? 格好つける必要がないから? 彼女の心の器が多分広いからなのかもしれない。はじめて感じる安堵感。

「優等生でいい子にありがちなのよね。反抗期なかった分、大人になってから問題が起きるパターン。でも、これからは気負わなくてもいいんじゃない」

「もっと自然体でいかないとな。夢香に気に入られようと完璧な人間を演じていた結果ふられたからな。ヨルトにはかなわないよ。でも、まひるってこんなに優しいスープを作るなんて意外だよな。もっと突き放しそうで、冷たい印象だったけど」

「私って意外と優しいのよ。捨てられた小汚い子犬を放っておけない性分なの」

 僕は彼女に救われたのだと思う。今まで失敗したことも手に入れられないことも経験したことのない完璧主義者の男が絶対的な自信を失うと、正直立ち直ることは容易ではなかった。プライドという名の見えない高い壁が崩壊したのだから。小汚いみっともない自分を誰かが受け入れてくれた事実は生きる力を与えてくれた。

 彼女に感謝しながら僕はこの国のためにこれからも働いていこう。そして、学ぼうと一歩を踏み出したのだから。一杯のスープが生きる力を与える。料理というのはそういう生きるための魔術なのかもしれない。