学校帰りにお店によると、店内はいつもより緊張感が走っていた。理由を聞くと今日は特別な日らしい。未来の朝と夜の王となるかもしれない人が来るのだから。
「候補者を呼んでいます。まひるもよく知っている人たちですよ。2人呼んでいます」
「私の知り合いで能力が高い人いたかな?」
かわいらしい10歳の姿になったまひるは少し考えたようだが、それらしき人物は思いつかなかったようだ。まひるは営業モードになる。
「こんばんはー。お招きされたライチ参上!!」
元気に店に入ってきたのは時の国のライチという10歳くらいの女の子だった。
「アサト、美味しいの食べたい! 腹へったよ」
言葉づかいは男っぽく育ちがいいとはいいがたい。この女の子を候補として考えているのだろうか、まひるは少し疑問だった。
「ライチ、今日はドリアでいいですか?」
「うまいメシが食べたいなぁ」
不思議な異世界の客がやってきた。時の国から来た常連客のようだが、見た目は小学生くらいの女の子供だ。名前はライチっていうのかな? 一見普通なのだけれど、髪の毛の色がピンクだ。やっぱり私たちとは違う人種なのだろう。
「新人か?」
私に対する言葉遣いは荒く、ぶっきらぼうな女の子だ。男っぽいとでも言ったほうがいいのかもしれない。見た目は、かわいい顔をしているので、しゃべらないほうが人気が出そうなタイプだ。
「こちらは、日本世界からやってきた夢香さん。2時間程度のボランティアをしてくれています」
「日本の国の住人か。料理ができるのか? 日本世界はすごく飯がうまいっていう話だ。期待するぞ」
期待されても、ほとんど料理初心者ですが。そう思い、苦笑いを浮かべた私。
「私、家では全く料理ってやらなくって……。今修行中です。アサトさんに教えてもらっているから」
私のいいわけに、
「なんだ、使えないなぁ」
直球な言葉で言われると正直辛い。それにしても毒舌ガールだ。本当にお腹が空いているらしく、元々やせっぽちな少女は少々ぐったりしているようにも思えた。
「はい、召し上がれ。トマトづくしですよ」
アサトさんがおいしそうなドリアをテーブルに並べた。熱々だ。
「ジューシートマトドリアです。たっぷりとろーりチーズが乗っているので、チーズが大好きなライチにぴったりのドリアですよ。さらに、中身はトマト入りのジューシーライスが入っています。フルーツトマトとリンゴも横に飾りました」
「冷凍トマトをすりおろして、はちみつをかけたしゃりしゃりデザートよ。カルシウムとビタミンがたっぷりよ」
まひるがデザートを運ぶ。
「わあ、おいしそー。めっちゃ腹減ってるからさ、いただきっ」
一口食べると、ライチが目をつぶって大きな口をあけて叫ぶ
「めっちゃジューシー!! やっぱりうまいよ、ドリアっていう食べ物」
艶やかなメニューをひとくちひとくちあっという間に口の中に運ぶ。見た目は小さいけれど早食いなのか、皿の中身があっという間になくなっていく。そのとき、ライチがスプーンを床に落としそうになった。
「やべ」
と言った瞬間たしかに、スプーンは手のひらから離れて床に落ちたと思った……のだけれど、手に戻っていたのだ。
「ライチちゃん、今、スプーン落ちなかったの?」
私が不思議な現象に質問する。
「落ちそうになったけれど手のほうに戻したんだぞ」
「そんなことができるの?」
私はライチという少女の超能力のような不思議な力を見せられたという印象しか残らなかった。
「オイラ、ものを自由に動かす力を生まれつき持っているんだよな」
「超能力者?」
私は目を見てじっくり尋問したくなってしまった。
「それは初耳だわ」
まひるが友人の意外な一面を知ったらしく興味深そうに見つめていた。
「オイラの能力は秘密にしておけってかーちゃんに言われていたからな。今はうっかり使っちまったがな」
「すごい力を秘めた少女ですよ。ライチ。あなたには素質があります」
アサトさんが公認するような言葉をかけた。
「冷たいデザートもトマトなんだけど、甘いんだよね。はちみつがトマトの酸っぱさを抑えていていい感じだ」
「お母さんは、今日も仕事が忙しいのかな?」
アサトさんが優しく聞いた。
「まあね、うちのかーちゃんは仕事がかなり忙しくて、料理は自分で作れっていうけれど、あんまり上手に作れないから、アサトのごはんが恋しくなるんだな」
「なんだか、子供食堂みたいですね。今、子供の貧困って結構問題になっていて、お金もないし、栄養のあるものを食べることができないという子供がたくさんいるんですよね、そういった子供たちに無料で食事を提供している場所が私の世界にはあるんです」
私はふと最近ニュースで目にした話を思い出して、アサトさんのやっていることと同化させていた。
「たしかに、うちは子供からはお金はとらないし、ボランティアレストランみたいなものだからね」
「今日はザクロ君は来ないの?」
まひるが同年代の友達らしく気軽に話し始めた。
「手伝いが終わったら来るって言ってたよ、まひるも毎日大変だなぁ」
「私は、お兄ちゃんのお手伝いが楽しいから手伝っているだけだよ」
まひるはこんなときばかり、アサトさんをお兄ちゃん呼びする。化けの皮を被るのが本当に上手だ。
「ザクロ君って誰?」
「ザクロってのはあたしの幼馴染で家が近所の男子なんだけどさ」
ライチが説明するとすぐに本人がやってきた。百聞は一見にしかずだ。
「こんにちはー」
水色の髪の毛をした男子がやってきた。もしかして、ザクロ君? やっぱり地毛なんだよね、水色の髪の毛なんて間近で見るのは初めてだ。
「はじめまして、僕の名前はザクロです」
八重歯がかわいい子供だ。こちらの世界の小学生くらいだろうか。
「いつも無料でおいしいご飯をありがとうございます」
手を合わせたザクロ君は、とても礼儀正しくて、ライチとは正反対のタイプだった。例えるならばザクロは優等生。ライチは不良生徒のようだ。
「ザクロ君にもおいしいトマトドリアを作ってあげるよ」
アサトさんとまひるの手際よさには驚くばかりだ。あっという間に、ジューシートマトドリアの出来上がり。横に添えた色とりどりのフルーツトマトとりんごもとってもおいしそう。栄養バランスもよさそうな一品だった。
「いただきます」
お辞儀をしてから、ザクロ君は食べ始めた。
「今日は僕たちに話があったのですよね。僕はあなたたちの心が読めるので、話さなくてもわかります。僕はあなたたちに従います。将来の国王様」
「ザクロ君はすごい能力を秘めていることは感じていたけれど、まさかここまでとはね」
アサトさんは予想以上の大物がいたことにすこし驚いていたようだった。
「基本は日本世界の食材を使っているんですか?」
ザクロ君は食材に興味があるらしく色々質問する。
「そうだね、日本の食材は天下一品だと思うよ。僕たちの世界の料理は見た目こそきれいだけれど、味は日本に比べたら劣ることは確実だから。だから、時の世界の住人は日本世界の食事が食べられるということで、僕たちのレストランを利用する者が多いんだ。僕たちの国にはないものばかりだからね」
ふと見ると、口のまわりにごはんつぶをつけたまま、ライチが完食していた。食べる速さがかなりの速度だ。飢えているのだろうか。そういえば、ここのお客さんは早食いで大食いが多い印象だ。おいしいからかもしれないが、そう言った人をここの空間が寄せ付けているのかもしれない。
「ごっちそうさまー」
やんちゃ全開で、ライチがお腹をさすっていた。満腹という至福の笑顔だった。もしかして、この子は貧しい家の子で、生活が大変なのかもしれない。そう感じた。ゆっくり丁寧にザクロ君がデザートの最後のひとくちを食べ終わると満足な表情を見せる。
「ごちそうさま」
ここを手伝っていて一番幸せな瞬間は食べたあとに見せる笑顔をみることだと思った。一番幸せを感じる瞬間だ。
「いただきます」から「ごちそうさま」に至るまでの時間。食べた人がいかに幸せになれるのか、それは食べることの尊さを感じる出来事だった。人はおいしさを感じることで満足感を得て、幸せになることができる。魔法ではないけれど、不思議な力だと感じた。
「この子たち、お腹空かせているのかな?」
「この国は、貧しいからね。国王がなんとかしなければならない問題なのだけれど、僕はできることをやっているよ」
「この子たちの親も仕事で忙しいの?」
「この子たちの親は片親だったり、仕事をしても裕福にはならないことが多くてね、大変な時代だよ。子供も仕事をしているよ。王室は裕福な暮らしをしているのにね」
何となく、苦労を知らないおぼっちゃまという印象だったアサトさんの優しさとボランティア精神が伝わってきた。人間として良い人だ、と思えたのだった。
「君たちは将来お金に困らない暮らしをしてみたくない?」
「そりゃ、お金がいっぱいあればうまいもん食えるからな」
「じゃあ、もしもお金に困らなかったらという未来を見てみない?」
アサトさんはもしもの世界を見せるつもりなのだろうか、記憶を奪うということだろうか? 不安な気持ちになる。
「噂の虹色ドリンクなら飲んでみたいぞ」
ライチがまだまだお腹に入るぞというポーズをとる。ザクロが優等生らしい意見を述べる。
「僕は母さんたち家族が困らない仕事に就きたいと思っているけれど、なかなか時給が低い仕事しかないからね、勉強はしているけれど進学は難しいと思っているよ」
「あなたたち、特別夢がないならば、将来、朝の王と夜の王になってみない?」
まひるが提案した。
「僕はここに来るまでに承諾する覚悟を決めてきました。特別な夢なんてまだ僕にはないですよ。大学で研究してみたいとは思っているけれど」
ザクロが述べる。
「大学で研究したあとに、朝の王になったら? 今の国王の後釜がアサトお兄ちゃんなの。国王が逝去したあとにアサトお兄ちゃんが国王になると朝の王の席が空くのよね」
能力の高さを評価したまひるがスカウトする。
「毎日食べるものに困らないなら、どんな仕事でもやってやるって」
ライチが力こぶを作るポーズをする。
「あなたたちが前向きに検討してくれるならば、記憶をなくす必要はないから虹色ドリンクは飲む必要なんてないのよ」
「うまいなら飲みたかったなぁ、虹色ドリンク」
ライチががっかりする。
「あれは、危険なドリンクなのよ。記憶がなくなるということはとても怖いことなのよ。できればお勧めはしないわ」
まひるが冷静に諭す。やはり頼りになるお姉さんのような存在だ。
「ライチには礼儀作法を1から訓練します。能力を伸ばして将来夜の王となるべく勉強しませんか?」
アサトさんは厳しい家庭教師のようなまなざしだった。
「オイラやってみる!!」
「じゃあ、近々ご家族にご挨拶に伺います。ライチ、オイラではなく、私と言う習慣を身に着けてくださいね」
きっとライチの指導には時間がかかりそうだけれど、アサトさんならばしっかりじっくり面倒を見そうだと思えたが、ライチが音をあげなければいい、それだけが気がかりだと思えた。
※【ジューシートマトドリア】
トマトを混ぜたごはんにとろーりチーズをかけたドリア。
カラフルなフルーツトマトとりんごを添えて。
カルシウムとビタミンが豊富。
【冷凍トマトのしゃりしゃりデザート】
冷凍トマトをすりおろしてはちみつをかけたひんやりデザート。
駅前を歩いていると、黒服に身を包んだモデルのような男が占いをしている。そうそういないであろう端正な容姿を併せ持つヨルトがいた。少し目立つ彼の風貌を見た瞬間、久々のヨルトに少し興奮してかけよった。
「ヨルト、今日はここでバイト?」
「今日は休業日だからな」
「そっか、今日は水曜日だもんね」
週に一回はここでヨルトと話す時間が楽しかったりもする。
「まひる悪いことしていないか?」
「相変わらず10歳の姿で子供のふりをしながら生意気だけれど、悪いことはしてないよ」
「アサトは……元気か?」
「うん、元気だよ」
「そうか」
いがみ合っていても、やっぱり実の兄弟なのだろう。ヨルトは実は情に厚い。だからこそ、人から記憶を奪いたくないのかもしれない。仕事に徹するアサトさんとは正反対の性格だな。
「久々に占ってやろうか?」
「じゃあ、私の将来の運勢について占ってよ」
「アサトのお嫁さんってとこか?」
笑いながら、からかうヨルトは見た目がミステリアスなのに実は親しみやすいキャラクターだったりする。アサトさんとはミステリアスなところは似ているのに、光と影のように違うタイプだということは話しているだけでよくわかる。
「どれどれ、生命線長いな~、夢香は長生きするな」
なんて私の手相を見ながらほほ笑むヨルトは反則だと思う。何が反則かって? 説明が難しいのだが、私の心情の中で反則なのだ。
「将来はキャリアウーマンか?」
カードを並べながらヨルトは話し始めた。
「おまえ、なかなか就けない仕事に就いてるって出てるぞ。喜べ、孤独ではないみたいだな。結婚して仕事をして子供に恵まれて……アサトとうまくいくってことかもな」
「予知能力で本当は見えるんでしょ?」
「そこまで細かい未来は見ることはできないよ。割と先の話だしな。今日明日ならば見ようと思えば見るけれど、基本見ないんだ」
「なんで?」
「だって、明日死ぬのがわかっていたら嫌だろ?」
「納得」
「予知能力はそこまで万能ではないんだよな。おまえは俺の姉になるかもしれないからな、ひいきにしておかないとな」
「バカ、ヨルト。あなたこそどうなの? 彼女は?」
「とりあえず付き合ってるけど」
「まだ未成年なんだから健全な付き合いにしなよ」
「わかってるって」
無駄話をしていたら、突然雨が降ってきた。通り雨なのかもしれないが、徐々に雨足が強まる。予想外の豪雨だ。
「とりあえず、店じまいだな。俺の店近いから雨宿りしていけ」
たしかに、裏通りにいけばすぐ古書店なのだけれど、雨の強さが半端なくって、私は走りながら制服も髪の毛もびしょぬれになってしまった。
「制服のブラウス、透けてるから、このまま電車に乗るのはまずいだろ」
私は自分の胸をちらっと見ると……ブラウスが雨で濡れて透けている。たしかに、恥ずかしい。
「見ないでよ!」
私は多分頬を赤らめていたと思うけれど必死で平静を装った。
「ちょうど視界に入って見えたのだから仕方ないだろ! 店で制服乾かしていけよ。乾燥機に入れている間、俺の服を貸すから」
必死で弁解するヨルトが少しおかしくも思えた。ヨルトが私なんかを異性として見ることはないなんてことは自分が一番よくわかっている。突然のお店訪問だったが、奥の部屋に入るのは初めてだった。奥には自宅になっているスペースがある。
「時々、一人になりたいときはここに泊ったりするんだ。普段はマンションに母親と住んでるんだけどさ」
「生活家電もちゃんと一通りそろってるんだね」
「乾燥機に入れて、乾かすと結構速く乾くぞ、そこの奥にあるから使ってみて」
「ありがとう」
「これ、俺のTシャツと短パン、ちゃんと洗ってあるから安心しろ」
何が安心しろよ。別にヨルトのことが嫌いなわけでもないのに、そんなこと言われると私が嫌っているみたいじゃない。ヨルトは男性だけあって洋服のサイズが大きいけれど、ヨルトの香りがする。なんだか安心するなぁ。って私は何を考えているんだろう。そういえばアサトさんはどんなにおいがするんだろう? 私は料理のにおいしか知らないということに今頃気づく。
「サイズ大きくて悪いな。俺の服しかここにはないから」
「でも、助かったよ。透けているのを見られたのは災難だったけれど」
「仕方ないだろ、あれは誰でも目に付くぞ。むしろ俺様に感謝してほしいな。それこそ、透けた状態で電車なんて危険だ」
「いやらしいこと言わないでよ」
ヨルトの顔をまともに見ることができなかった。話を逸らすかのようにヨルトが提案する。
「ホットミルクでも飲むか? 体が温まるんだよな。眠れないときに砂糖を入れて飲むと安心する定番商品だよな」
「ヨルト、眠れないときってあるんだ?」
「俺だってそういった夜くらいあるよ、夜の王を継承しないことは罪じゃないよな、とか心のどこかで自由に生きていることに罪悪感があるのは本当だよ。アサトは自分の運命から逃げないで仕事をこなしているのに、俺は投げ出している、だめな人間だからな」
気にしているのか。意外と繊細なんだな。
「ダメなんかじゃないよ。ヨルトは優しすぎるんだよ。人から記憶を奪うことに抵抗があるからあえて関わらないのでしょ?」
「そんなこと言われたのははじめてだ。俺、優しすぎるのか?」
「いや……それはわからないけれど。きっと優しさが邪魔することだってあると思うの」
「ほれ、ドライヤー使え。風邪ひくぞ」
「ヨルトだってずぶ濡れでしょ、先に乾かしなよ」
「俺は、いつもドライヤー使わない自然乾燥派だからな」
ヨルトはまるで風呂上がりのような髪の濡れ方をしていた。バスタオルで濡れ髪を拭く姿はいつもと違う雰囲気の大人っぽさがあって、いつもよりもさらに美しく見えた。
「ありがとう。先にドライヤー使わせてもらいます」
「おう、ホットミルク飲んで、体温めろよ。俺も着替えて来るから」
やっぱり優しい人なんだ。いつも優しさを見せないのだが、この人は秘めた優しさがある。まるで優しさを隠すかのように普段は見せている、他人のことばかり、自分のことは後回し、そんな人なのだろう。私はほんのり甘いホットミルクを飲みながら自分の制服が乾燥するのを待つ。優しい甘さが心地いい。ヨルトの香りに包まれながら。
「実は、次期朝の王と夜の王の候補が決まったの」
ヨルトに報告する。
「本当か?」
「日本人にも候補者はいたのだけれど、断られたんだ。まぁ、普通断るよね。時の国の住人の子供の二人が高い能力者だったんだ。快諾してくれたんだ、ヨルトに伝えようと思っていたの」
「これで時の国も安泰だな。夢香もアサトとの結婚は国が違うと色々障害があると思うけどさ、愛があればなんとかなるって」
「掛け持ちで時の国とこちらの生活ってできないかな?」
「できるとは思うけど、実質日本だとおまえは独身だよな。アサトは日本に国籍がないからな」
「今はまだ高校生だから大学に進学だってするし仕事もするし、結婚なんてずっと先の話だけどね、ヨルトは夢とかあるの?」
すぐにでも結婚って思っていたのに、将来のビジョンを描けるようになってる? 短期間で働く楽しさを感じられたからかもしれない。社会の一員として何かをすることは労働であり対価がある。自立した大人になりたいと漠然と描くことができたように思う。
「そんなこと言ってたらあっという間にばばあになっちまうぞ。俺は日本で勉強して仕事をするという夢がある。断固、時の国には戻らないという気持ちは変わらないけど」
「じゃあ、別な人が夜の王を継承することはOK?」
「大変だろうけれど、アサトが認めた子供なら大丈夫だろ。俺は継承権を放棄しているから今更意見する権利もないし」
強い意思を見せる瞳はきれいな透き通ったブルーのような色を放つ。長い手足に端正な顔立ち、つい見とれてしまいそうになる。私はうっかり見とれてしまった自分を正すようにとりあえず会話をはじめる。
「この服着ていると、ヨルトに包まれているみたい」
Tシャツの裾をつまみながら茶目っ気たっぷりに言ってみる。
「はぁ? 何言ってるんだよ。馬鹿かお前は」
意外にもヨルトは照れる。女性慣れしていそうなのに、変にピュアなところがある人だ。二人だけの空間はちょっと緊張と甘い空気が漂う。目と目が合う。Tシャツ姿のヨルトはいつもとは違って、部屋着という雰囲気が近い存在に感じられた。一定の距離を保ちながらおしゃべりを続ける。
「今は成り行きだけど、二人でいるんだから、楽しもうよ。だって……なかなか会えないし」
「そうだよな……俺たちって結構波長合うと思わないか?」
「アサトさんと一緒にいると緊張するんだよね。ヨルトは同級生みたいで壁がないんだけどさ」
「だいたい、彼氏にさんづけってどうかと思うぞ。なんで俺のことは呼び捨てなんだよ」
「アサトさんは年上だし、見えない壁があるの。デートも1回謝りたいと言われた時だけだし。優しいけれど、遠いんだよね。アサトさんは私に対しても丁寧語だし。まひるには丁寧語は辞めたみたいだけど。義理だとはいえ、妹だから近いのかな?」
「ああみえて18歳の美女だからな。まひるに妬いてるのか?」
「ち、違うよ。そういった感情にならないんだよね。アサトさんが聖人君子みたいな存在で」
「アサトってさ。小さい時は俺よりも悪ガキだったんだぞ。いつのまにか聖人君子になったみたいだけれど」
「意外!!! 小さい時の話を聞かせて」
ヨルトの話は芸人並みに面白くて思わず聞き入ってしまう。もっと聞きたいと没頭していると、乾燥機の終了音が鳴る。これで帰りの時間が近づくさびしさが心の中で芽生えていたが、決して顔には出さない。
「乾いたな、着替えてこい」
「もっと話聞きたい!!」
「じゃあ今度店に来いよ」
「でも……彼女さんいるでしょ?」
「彼女は最近来てないんだ」
「うまくいってないの?」
「そうじゃなくて。彼女の部活が忙しいから」
うまくいってるんだ……。別に人の不幸を願っているわけではないのだけれど。甘く酸っぱい時が流れた。長いようで短い時間だった。時間の流れはその時によって早く感じたり長く感じるもので不思議だと思う。そういった時をつかさどる国の王になる血筋なのはすごい人なのかもしれない。肩と肩が触れ合わない程度の距離で私たちは離れることもなくそれ以上近づくこともない関係を保つ。それは、とても心地の良い時間だった。
「制服も乾いたし、洋服貸してくれてありがとう。これ、洗ってくるよ」
「いいよ、俺が洗っておくから」
「じゃあ今度お礼するね」
「期待してるぞ」
雨が少し弱くなってきたのだが、ヨルトの傘を借りた。そして、ヨルトは最寄りの駅まで送ってくれた。
「暗いから気ぃつけろ」
やっぱり優しい。浮足立っていたと思うが、それを悟られないように帰路についた。
アサトさんがまひるにデートを促されたらしく、デートをすることになった。たしかに、あれ以来一度もデートはなく、恋人らしいことは何一つなかった。一応、口では付き合っていると言っても、実質メッセージを送りあうことも時の国に帰ったアサトさんとはできないし、そんなにどうでもいいことを送ることなんていう間柄には進展していなかった。まひるは18歳だけあって女心をわかっている。アサトさんは恋愛に関しては淡白だ。
結局前回と同じいちごのカフェにいったのだが、行ってみるとそこには良く見慣れた金髪長身のヨルトがいた。ありえない、なんでこんなところに。しかもヨルトの彼女まで。
アサトさんは奥のほうの席に座ろうと、すたすた歩いていく。私は、みつかりませんように、なんて無駄な願いを唱えながら忍び足で歩く。この店は狭いので、見つからないなんていうことは絶対にありえないのに。
「ヨルトじゃないか」
「アサトかよ」
久々の再会だがヨルトがいることをアサトさんは店に入る前に気づいていたように思った。もしかしたら後継者が決まったことを話すいい機会だと思っているようなそんな感じだ。アサトさんは常にビジネスモードで、私はそんな彼にはたとえデート中でも、プライベートな隙間がないように感じていた。彼との壁はそこなのかもしれない。本当に愛されているとか好かれているという自信はゼロだ。
「もしかして、おにーさま? それに夢香ちゃん、久しぶり」
相変わらずテンションの高い彼女に少し閉口する。
「デートか? ラブラブだな」
ヨルトのからかいは相変わらずだ。
「後継者は決まったよ」
「そうか」
ヨルトはあえて後継者が決まったことを初めて聞いたふりをした。そうか、私と頻繁に連絡していたということはアサトさんには内緒にしているのか。今更だが、あまり気にしていなかったけれど、アサトさんは私がヨルトの服を借りたとか、メッセージを送りあっていたと知ったらやっぱりやきもちを妬くのかな? アサトさんはそこまで私のことが好きじゃないだろうから、もし知ったとしてもそうなんだ、という程度の反応のような気がしていた。あえて隠していたわけでもなかったけれど、普通の男性ならば他の男と仲良くしていたら不機嫌になるだろう。ヨルトは私のことを恋愛対象に見ていないし、超絶かわいい彼女がいるのだから問題ないのだろうけれど。
「なに? 後継者?」
ミサが聞く。
「身内の話だから気にしないで」
「お兄様、お話聞きたいからここに座ってくださいませ。夢香さんも」
「あ、はい」
断る理由もないので、言われるがままに座ったが、少々気まずい。ヨルトも視線を合わせようとしない。
「ヨルト、いつも《《僕の夢香》》が世話になっているようだね」
意外なことを口にする。しかも、僕の夢香という表現が少し意外だ。この組み合わせ、微妙。だいたい、この兄弟は不仲だと思うし、ヨルトの彼女と私もそんなに仲良しでもない。
「ヨルトお気に入りのお店なのよね。フレーバーティーがおすすめよ」
「じゃあ炭酸ピーチティーにしようかな」
「僕も夢香と一緒で」
店員さんにオーダーする。
「ヨルトはコーヒーが好きだからってブレンド注文したんだよね」
ミサ、距離が近い。ヨルトにくっつきすぎだって。心の中でつっこむ。
「俺さ、将来はアンティーク古書カフェをしようと思ってるんだ。アサト、母さんがたまには顔見せろって言ってたぞ」
「こちらのことは僕に任せて、ヨルトはこの世界で夢を実現しろ」
腹をくくったアサトさんは覚悟を決めたようだ。もうヨルトとは違う世界で生きていくということを。
「そのつもりだ。アサト、そちらのことは任せたぞ」
兄弟の誓いを私たちの目の前で行っていいものだろうか? 正直ミサさんなんて意味もわからないだろう。まさか、この人たちが時の国の王子様なんて思うはずがないのだから。
「俺、大学で建築学を学ぶつもりだ。自分の店を設計してみたいっていうのが夢のきっかけだよ」
ヨルトが夢を語る。
「夢のきっかけなんて、ささいなことかもしれないよね、何かと出会ったことがきっかけで夢が見えて、そのためにがんばるっていうのって素敵だよね」
同意をする。
「僕は父の後を継ぐよ。今、帝王学を学んでいるんだ」
アサトさんの自国愛は深い。
「炭酸ピーチティーお持ちしました」
あまくて酸っぱい香りがたまらない。フレーバーティーって不思議だ。酸味、甘みが絶妙な香りや味で口の中に広がる。じゅわっとした食感と味覚に口全体が支配される感じが病みつきになる。冷たい紅茶の炭酸は初体験だった。
「ミサさんは? 進学とか考えているの?」
「私は、女子アナウンサーになりたいんだ。だからなるべく偏差値の高い大学を狙ってるの。やっぱりマスコミにOB,OGがたくさんいる大学がいいでしょ」
「夢香さんは?」
「私は、図書館司書と栄養士に興味があるんだ。何か資格がほしいなって」
「ヨルトは来年受験だから、カフェをするならば僕が手伝っても構わないよ」
アサトさんが兄らしい優しさを見せる。
「アサトには幻のレストランがあるだろう? 俺は普通のカフェがやりたいだけだし。それにしても、夢香いつもよりおとなしいな、やっぱり恋人の前だと緊張してるとか?」
ヨルトの意地悪な口調でいじってくる。恥ずかしい、アサトさんの前なのに。
「僕は夢香が大好きだから、ヨルトには渡すつもりはないよ」
アサトさんが珍しく独占欲丸出し発言をする。珍しい。
「いらねーし」
あっさり興味ない発言のヨルト。
「ちょっと!! いらないとか私を全否定するのはやめてくれない!!」
ムキになってヨルトに絡む。
「だいたいアサトはこいつのどこに魅力を感じているんだ?」
本当に意地悪発言しかしないヨルトは小学生男子のようだ。
「見ての通り、全てが素晴らしい女性だからね」
こんなに優しい言葉をかけられたら砂糖のように私は溶けてしまうかもしれない。アサトさんとヨルトは飴とムチのようだ。美少女のミサさんが蚊帳の外になっている不満げな感じが出ていたので、ミサさんに話題を振ってみる。
「ミサさんは美人だし、やっぱりヨルトは優しいの?」
「とーっても優しいよ、ねぇヨルト」
ヨルトに寄りかかる。恋人同士の距離だ。見ているこちらが恥ずかしくなりそうだ。ヨルトはミサさんには優しいのか……。ヨルトはまるで天使と悪魔のように二面性を持ち合わせた男なんだな。
「僕たちも仲良しですよね」
アサトさんがはじめて私の手を握る。
「ラブラブなお兄様と夢香さん」
ミサさんが私たちを盛り上げようとひとこと放つ。でも、アサトさんって普段こんなに積極的じゃないよね。意地を張っているだけ?
「夢香、今夜、僕の部屋に泊っていかない?」
アサトさんが意味深発言をする。
「え……?」
ダメに決まってるのに私は動揺する。
「じゃあミサたちもお泊りしよう」
ミサさんが便乗してヨルトを誘う。
「何言ってるんだよ」
ミサの提案に戸惑うヨルト。若干気まずい空気が漂う。
「冗談ですよ、高校生の思いあう異性同士がお泊りなんて不謹慎だからヨルトもだめですよ」
アサトさんが笑った。本当は笑っていなかったのかもしれない。私はアサトさんの本心を気づけないでいただけなのだ。
「ここでお茶をしたら、僕たちは二人きりでラブラブタイムなので」
アサトさんが挑発する。今日は何かが変だ。アサトさんは少しむきになっているような気がする。
「不謹慎とかいっている傍でなんだよラブラブって」
ヨルトはいつも通り突っ込みを入れる。
「じゃあ今日はこれで。僕たちは二人っきりで楽しみます」
アサトさんが立ち上がり、私の手を引いて店を出る。こんなに強引で積極的な人だったかな?
「今日のアサトさん、ちょっと変じゃない?」
いつもの冷静なアサトさんに戻ってほしくて話しかける。
「そうですか?」
公園で立ち止まって話をする。
「いつも、手をつないだり好きだとか言わないのに、今日に限ってどうして?」
「僕は自信がないんです。夢香の視線の先にヨルトがいると胸がざわつくのです」
さびしそうなまなざしで私を見つめる。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの、ただ話の合う友達という位置づけが心地よくてヨルトのお店に行っていたのは謝ります」
「夢香はヨルトが好きですか?」
「そんなわけないですよ。ありえません」
「きっぱり否定するのですね」
「どこかであなたの心の近くにいるヨルトがうらやましかったのかもしれません、僕らしくもないですよね」
素直に話すことを決意した。アサトさんに申し訳ない気持ちが込み上げてきたから。
「多分アサトさんの言う通りで、いつも私の中にヨルトがいるんです。彼女もいるし、私なんて相手にされていないけれど、一緒にいると心地よくて楽しくて……アサトさんのことは好きですが、ヨルトのほうが多分もっと好きなんです。これ以上嘘はつけません。アサトさん、付き合うという話はなかったことにしてください。私は、アサトさんをはじめてみた時になんて美しい人だと思い、好意を持ちました。しかし、なぜかアサトさんとの間には壁があって心が通わなかったです。アサトさんは完璧すぎて大人ですが、一緒の目線で笑ったりできない。価値観とかそういったものが違うのだと思うのです。本当に私のわがままでごめんなさい。もう、お店のお手伝いも辞めます。さようなら」
一方的にアサトさんに別れを告げた。多分いつか言おうときっかけを伺っていたのだと思う。私の中ではヨルトといる時間が楽しくて大好きだという確信があって、これ以上作り笑いをしたくなかったのだ。
アサトさんは美しい男性だからいくらでも代わりになる女性はいるだろう。ヨルトには彼女がいるし、振り向いてもらえないけれど、自分にもアサトさんにも嘘をつきたくない。そのまま振り返らず帰宅した。
はじめての恋に破れた僕はズタボロになったぞうきんのように、いや、ぞうきんよりももっと薄っぺらい紙切れのように泣いていた。レストランの自室に閉じこもって誰にも見られないように大泣きしていた。もう1日以上泣いている。2,3日は経っていたかもしれない。時間の感覚もなく昼か夜かもわからず暗い部屋の中で泣いている僕は男の中でも1番の弱い男に違いない。
着の身着のまま暗い部屋で泣く。今まで生きてきた中で、こんなにも身なりに気を付けもしていない自分は初めてかもしれない。はっきりいって今の容姿は情けないと思う。一国の王になる男が女性に振られたくらいでそんなにめそめそ泣いているなんて。それだけ大事な人だったのだ。大好きだったのだ。僕は恋に不器用なのかもしれない。
泣いて泣いて、涙が枯れ果てたころに、はじめて腹が減ったことに気づいた。生きているということは正直で、悲しい時には涙が出る。どんなに辛いことがあっても腹が減る。生きているということはそういったことなのだろう。何か食べたいけれど、作るのも面倒だな。カップラーメンとかドリンクゼリーみたいに手軽に食べられるものを探しにキッチンのほうへむかう。
一人になりたかった僕は幻のレストランのキッチンへ向かった。シェフが作った立派な料理ではなく、ちょっと何かを食べたい、胃に軽くものを流し込みたい。そんな気持ちだった。正直そこまでお腹がすいているわけではなかったけれど、2日くらいほとんど何も食べていない僕はグロッキーな顔をしていただろう。
食にこだわりのある僕がとりあえず食べられれば何でもいいとか思っている時点でおかしなことだ。泣きはらした目は真っ赤に充血していただろうし、一睡もしていないので、くまも相当出来ていたと思う。正確には鏡を見ていないのでなんとも言えないが。夢香には見せたこともないようなぼさぼさの髪の毛でしわしわになったシャツとズボンをはいたままよろけながらキッチンで食材を探す。
「情けない姿」
そこには18歳になる義理の妹のまひるが立っていた。いつのまにレストランに入ってきたのだろう。しばらく閉店すると言っていたのに、勝手に入ってきたのだろうか。
18歳のまひるは刺すようなまなざしで僕を見下すように憐れむ。情けない姿という言葉を否定も出来ず、ぼさぼさのしわくちゃな僕はまひるのまなざしを無視して簡易な食材を漁る。まるで侵入した泥棒のような怪しい風貌だったかもしれない。
「私が作っておいたからありがたく食べなさい」
僕は彼女の足元にひざまづいたような格好で見上げた。
「ちゃんと栄養をとって店を再開しないと」
彼女の視線の先にはあたたかなスープが湯気を立てていた。
「失恋くらいどうってことないわよ、あなたがここまで腑抜けになるなんてね。みんなにはあんたの情けない姿は秘密にしておいてあげるから。栄養取ったら体が温まるわよ」
気丈なまひるの態度が心強く思えたのかもしれない。悲しみに打ちひしがれた僕はそのまままひるの目の前で号泣していた。18歳にもなる男が情けないと思う。義理の妹に涙を見せるなんて自分でも予想もしていなかった。未来を見る力があるはずだけれど、自分自身も予想外の出来事だった。
「いっぱい泣けばいい、失敗と悲しみを乗り越えて人はそうやって大人になるのよ」
悟りきった目の前の18歳の女性が頼もしくもあり、誰かに寄りかかっただけだったのかもしれないという自分の弱さを発見して僕は母親を欲する幼子のようだった。母親と生き別れた僕はずっと母性というものを求めることに蓋をして生きてきた。母性をどこかで求めていたのかもしれない。そんな自分の意外な一面を発見する。情けない自分を受け入れてくれた目の前の女性は、まるでペットにでも接するかのように、僕の髪の毛を撫でた。
「本当にばかね」
と言い放つ。まひるの言い方はきついが、世界一頼りになる女性だった。一晩泣いて枯れたと思ったが、まだまだ涙は枯渇していないようだった。泣きはらした目を隠すこともなくさらに泣く。情けないの窮地とはこのことだ。
少し落ち着くとスープをひとくち飲む。これは、あたたかなコーンスープだ。自分で作るよりもまろやかでクリーミーでコクがある。こんなにコーンスープっておいしかったかな? そう思えるほど鮮やかな黄色いスープは僕に衝撃を与えた。
多分これからどんなことがあろうと僕はこのスープの味を忘れないだろう。僕に生きる力を与えてくれた愛情のこもった優しいスープの味はどんな味にも勝てないだろう。記憶というものはそういった経験から作ることができる。だから、人から記憶を奪うという行為は罪になるのかもしれない。はじめて記憶への執着が芽生えた瞬間だった。
「人は生きるために食事をするの。食べることは生きるためには必要なのよ」
「兄なのに、どうしようもないな。ごめん……。ありがとう」
正直にお礼と感謝を述べていた。
「私、アサトよりも誕生日早いから正確には姉なのよね」
「……そうか。ずっと年上としてしっかりしないとって思っていたけれど、これからはまひるに頼りながら生きていくかな」
「いつもキラキラオーラを身にまとっているのがアサトらしいんだから、ちゃんとシャワー浴びて、小綺麗にしておきなさいよ」
「めんどくさい」
「なにそれ」
「なんかさ、頑張りすぎていたのかもな。全てどうでもよくなった……」
僕はすねた子供のようだったかもしれない。幼少時に母親が離婚して甘えられない寂しさもどこかにあったのかもしれない。
でも、なぜまひるの前だと飾らない自然体でいられるのだろう? 格好つける必要がないから? 彼女の心の器が多分広いからなのかもしれない。はじめて感じる安堵感。
「優等生でいい子にありがちなのよね。反抗期なかった分、大人になってから問題が起きるパターン。でも、これからは気負わなくてもいいんじゃない」
「もっと自然体でいかないとな。夢香に気に入られようと完璧な人間を演じていた結果ふられたからな。ヨルトにはかなわないよ。でも、まひるってこんなに優しいスープを作るなんて意外だよな。もっと突き放しそうで、冷たい印象だったけど」
「私って意外と優しいのよ。捨てられた小汚い子犬を放っておけない性分なの」
僕は彼女に救われたのだと思う。今まで失敗したことも手に入れられないことも経験したことのない完璧主義者の男が絶対的な自信を失うと、正直立ち直ることは容易ではなかった。プライドという名の見えない高い壁が崩壊したのだから。小汚いみっともない自分を誰かが受け入れてくれた事実は生きる力を与えてくれた。
彼女に感謝しながら僕はこの国のためにこれからも働いていこう。そして、学ぼうと一歩を踏み出したのだから。一杯のスープが生きる力を与える。料理というのはそういう生きるための魔術なのかもしれない。
ヨルトのお店にとりあえずカフェを併設することが決まった。店内の一角を改装してテーブルと椅子を置く。本を読みながらコーヒーを飲むそういった場所だ。古書カフェってわりと珍しいから意外とコアな客が来るかもしれないということで、それなりに座ることができるソファーやベンチも置いてある。
ヨルトのアイディアを聞いたお母さんが好きなことはどんどんやってみなさいという主義だったのが幸いした。事業家でお金もあるので、善は急げで、さっそく店内を改装したらしい。
「本棚の場所を変えて、座るスペースを作ったり、コーヒーを淹れるスペースを作っただけだけどな。いずれ、ここでの資金をためて自分の設計した建物で店を経営してみたいな。コーヒーソムリエの資格も取ってさ」
「私、食のコーディネーターの資格をとっておいしいものを作ってみたいの。あと、図書館司書の資格も取って本のことも学ぼうって思ってる」
「この店に必要な人材になりそうな予感だな」
腕組みしながらヨルトは笑う。
「私ね、勉強することは好きじゃなかったし、何のために進学するのかも目標がないときには見えなかったの。でも、夢があると勉強することが楽しくなったんだ。不思議だよね」
「俺もそうかも。とりあえず偏差値の高い大学に行こうとか、そういったことを考えていた時期もあったけど、とりあえずって気持ちだと目の前の教科書の内容が頭に入らないんだな」
「わかるわかる。強制的に勉強させられているっていう気持ちになるよね」
「自主的に学ぼうとする自分は古書カフェのおかげなのかもな」
「……アサトさんと別れたの」
「……マジか? 何かあったのか? 俺も彼女と別れたから人のこと言えないけどな」
「ちょっと彼女と別れたってどういうこと? 実はね、私が彼を好きでいることが難しいって気づいたの。ただかっこいい彼氏がいるという事実が欲しかっただけのような気がして」
「アサトでだめなら、どんだけ理想が高いんだよ。俺の場合、彼女にフラれたんだ。1番に自分を好きになってくれない人とは付き合えないって言われてさ」
「私、好きな人がいるんだよね。ヨルトは彼女を1番に好きじゃなかったの?」
「まぁ、俺が彼女を1番好きになれなかっただけなんだ。夢香の好きな人って俺が知っている人だったりするのか?」
「秘密だよ」
「めっちゃ気になるなぁ。もしかして、俺のことが好きだったり?」
冗談交じりに笑いながらヨルトが自身を指さす。
「そうだよ」
私は、あっさり肯定する。
「……」
何も言えなくなり固まるヨルト。心なしか赤面しているようにも思える。
「だから、最初の占いで言ったんだよ。おまえは気が多いって」
「ヨルトと私の相性ってぴったりだよね」
「占いでは……そうなっていたけどな」
「ヨルトのことは大好きだよ、私はもう自分の気持ちを隠さずに正直に生きるんだから」
「アサトのやつ今頃泣いてるな。夢香のこと本気だったからな」
「そうかな、アサトさんってクールで去るもの追わずだよね」
「意外とあいつはしつこいんだ。執着心があるしな。ガキの頃からお気に入りのオモチャを俺が壊したときなんか1週間は毎日号泣してたからな」
「アサトさんだって大人だよ。もう、そんなことはないし、私のことをそこまで好きだったとは思えないし」
「いや、今頃号泣して泣きはらした目をしているな」
そんなことありえないと思っていたのだが、兄弟の勘は高確率で的中しているらしい。
「こんにちは。夢香さん」
ヨルトのお母さんがやってきた。アサトさんの母親でもある美しい聡明な女性だった。いかにも仕事ができますという顔立ちでビジネススーツをばっちり着こなす女性だ。
「アサト元気かな? アサトにも会っていないから、今度アサトのレストランに行ってみたいわね」
久々の母子再会だ。
「アサトに伝えておくよ。母さんが会いたがっているって。でも母さんは多忙だからな」
「お店、夢香ちゃんも手伝ってね。普段は知人の美織さんにオーナーとしてここを任せるつもり。放課後や休日はヨルトがこの店を手伝う、ヨルトが学生のうちはそうするつもりよ。私もこういったカフェ作りたかったのよね」
そんなことを話しながら分刻みの行動をするお母さんは慌ただしく仕事へ行ってしまう。
「美織さんもう少しで来るから、打ち合わせするんだよな、夢香もこの店の大事な一員だから参加しろよ」
「ありがとう。ヨルトは私のこと好き? 彼女とも別れたわけだし」
大胆な質問をする。
「まぁ、好きっちゃ好きかな……」
「なにその告白。声小さくて聞き取りづらいし、もっと素敵な言葉を選びなさいよ」
「俺はアサトと違って気が利いた台詞って苦手なんだよ。二度と言わねーけど」
本当にいじわるで照れ屋のヨルトが私をまっすぐ見てくれる。彼を温かいまなざしで見つめる。
私たちは古書カフェで笑いあう。それはとても贅沢な時間で、この時間が永遠に続けばいいなんて馬鹿げたことを考えたりもする。好きな人がそばにいて、好きな仕事をする。最高の贅沢がここにある。たとえ不純な動機だとしても、何がきっかけだとしてもやりたいことがみつかることは幸せだし、人生に終着点なんてないのだと思う。
自分に甘んじることなく己を貫きたい、そんなことを心のどこかで無意識に思っていた。そして、離婚したとしても親子としてのつながりや兄弟としてのつながりはアサトさんとヨルトに続いてほしい、そう感じていた。
「コーヒー飲むか?」
ヨルトがコーヒーを淹れてくれた。両思いになったあとのコーヒーの味を一生忘れないだろう。大好きな人が淹れてくれたコーヒーを大好きな人と飲む。そんな贅沢な時間を味わう。
次期国王の一角になる王を教育するべく、アサト教官の鬼の訓練がはじまった。それは、失恋でボロボロになっていたときと比べると一皮むけたような感じだ。少し何かがふっきれたような明るさがアサトにはあった。決して空元気ではなく、アサトらしい笑顔がそこにはあった。作り笑いではない本当の笑顔がある。最近、アサトは後継者育成教育に目覚めたようだった。国のために記憶を集めるのではなく将来国を担う若い力を育てることが国のためになる、そういった話を最近よくするようになった。
王の一角になるには学ぶことがたくさんある。まずは国の歴史、教養、礼儀作法、言葉やマナーから時の力を使う拳銃や剣の使い方。心と知性と体を作ることがまずは先決なのだ。ヨルトならば学ばなくとも身についているマナーや教養だったりするが、ゼロから育てることの面白さがあったりする。
ライチとザクロはそう言った意味では白紙から始まるプロジェクトだ。年齢もまだ小学生程度だし、ライチはほとんど学校に通ったこともなく知識が乏しい。ザクロは我流の独学で知識はあるが、自分に興味のあることばかり深く知っているという感じで、一般教養を幅広く学ぶ必要性があった。2人とも従順に何でも吸収する力があるので、メインで教えているアサトは生き生きしていた。もちろんその道のエキスパートに任せる分野も多々あるけれど、それを総合的にプロデュースする仕事はアサトだった。彼は以前より生き生きしている。まひるは、そんなアサトを見ることが少し楽しくなっていた。
「まひる、わしは18歳だろうと10歳だと娘だと思ってかわいがっているからな」
国王が10歳の姿のまひるに向かって意外な言葉を放った。
「知っていたのですか?」
「もちろん、今の妻が生活が厳しく、わしと結婚したことも全部わかっていたよ。でも、わしも再婚する必要があった。だから、結果往来じゃ」
「母に悪気はないのです。罰するならば私を罰してください」
「娘がほしかったのでな、何人も娘がいるみたいで変身できる娘はありがたいのじゃ」
「罰するというわけではないが、これからもアサトを支えてほしい。あの子は昔から我慢していい子を通してきた。だから、欲しいものを欲しいといえないかわいそうな子供だった。人一倍打たれ弱いのがアサトなのじゃ。ようやく記憶に変わるエネルギーを作り出す機械を実用化できそうなんだ。今まで記憶の力に執着していたアサトも解放されるだろう」
「もちろん、妹……姉として支えるつもりです」
「義理の姉なのだから、恋愛は自由じゃぞ」
「な、なにをおっしゃるのですか?」
「この国に義理の姉弟が結婚してはいけないなんていう決まりはないからの」
「……私は別にそんなつもりは1ミリもありません」
ついムキになって返答してしまった。まひるはバカみたいだと思う。
「まひる、ライチにここの問題教えてやってくれないか」
「了解」
即席先生になる。まひるは密かに人知れず勉強をしていた。18歳程度の知識はつけておかないとと思っていたからだ。
「やっぱりまひるは人一倍努力家だ。子供のふりをしながら陰で勉強していたのだから」
アサトはさりげなく思ったことを口にする。それは優しい時間を運んでいるように思う。時間は使い方次第で優しくも恐怖にも楽しくもつらくも変わる。それは過ごし方や考え方次第で同じ時間なのに全く違う時を過ごすことになる。
「まひる、僕は国営のレストランを展開するよ」
アサトがはじめて自分の夢を語った。
「国営のレストラン?」
「貧しい子供や国民に開かれたレストランを低価格で何店舗か展開したいと思っているよ。レストランから経済を活性化させたい。雇用も国民の就職につながるし、食は生きる源だからね。記憶の力にだけ頼らずに多方面から国を建て直したいよ」
アサトの瞳は希望にみちあふれていた。
「アサトにぴったりね」
「まひるは何かやりたいことはないのか?」
誰にも話したことのない夢をはじめて口にする。
「そうね、もう少しここの国の食材でおいしい味が表現できないのか料理を研究したいな」
「たしかに、ここの味は日本に比べたらおいしいとは言えないからね」
「この国が少しでも良くなるように、僕たちが何かできるかもしれない。だから学ぶことは常に必要なのだよ」
「おいしい料理が食べたいという欲求が、結果みんなのためになるのかもしれないわね」
二人の共通の夢が重なり合った瞬間だった。それは、心が通じ合うということとも共通していた。
きっとアサトと家族としてずっと一緒に暮らしていくのだろう。その形が恋愛になったとしても家族愛になったとしても。そして、18歳の姿で過ごすことが増えた今日この頃。本当の姿でいることは楽であると同時に子供騙しはきかなくなっている。大人として扱われるからだ。
「みんな、おいしい手巻きずしつくったわよ」
「手巻きずし!! お腹が空いていたのでうれしいです。いただきます」
ザクロが丁寧に笑いながらおにぎりをつかみ、頬張る。
「うまそう!! いただきます」
ライチが女の子にもかかわらず、獰猛な動物のようにかじりつく。肉食動物みたいだ。
「先ほどテーブルマナーを学んだばかりですよ」
アサトが注意する。
「でも、うまいものを目の前にすると、ついかじりついちゃうんだよ」
言い訳気味なライチ。
「ライチ、ザクロ。これからは衣食住全て国で用意するので、家族のことも含め心配いりません。そのかわり、学び吸収して実行することがあなた方に求められるのです」
アサトが二人を安心させつつ自覚を求める発言をする。
「はーい、わかりました。オイラ、じゃなくって私、この国の時をつかさどる一人となるために努力します。みんなが幸せになれる国を作ること、それが私の夢であります」
ライチが選手宣誓のように右手を上げながら宣言する。この国で生まれての国で育った少女だからこその愛国心もあるだろう。この国の良い点も悪い点も知り尽くしている子供だからこそ、苦労を知っている庶民の子供だからこそきっとこの国のために能力を使うのだろう。
「僕も、この国のためによりよい国を作るべく毎日精進いたします」
アサトに宣誓を毎日言わされているかのようなサクサクとした選手宣誓は滑稽でもあり、純真な彼らの心を映しているようで心が熱くなる。
「ライチ、能力を使ったほうが楽なことでも敢えて使ってはいけませんよ。ザクロ、普通の人として生活することを忘れないでください」
「なんだか、2人は僕たちのお母さんとお父さんみたいだよね」
ライチが屈託のない笑顔でつっこむ。
「ちょっと、私たちは夫婦じゃないのよ。先生とおよびなさい」
すかさず彼らを諭す。夫婦とか父母とかくすぐったい言葉にテレが隠れていたというのもある。
「僕はまひるみたいな妻がいたほうが実際心強いですけどね」
アサトが無邪気な顔をして平気でそんなことを言う。そういった対象で見ていないから言えるのだろうけれど。
「私はごめんよ。あなたみたいな男は」
「ふられてるぞ、アサト」
「このおねえさんはああみえて、捨て犬を放っておけないような優しい人だからね」
まひるは彼に本心を見抜かれていることが複雑な気持ちになっていたが、確実に距離は縮まっていると実感していた。
「簡単手巻きずしはたくさんのものが詰め込まれているでしょ。これ、ラップとのりとごはんと具材があれば簡単にできるのよ。詰め込んでも色々な味が混じっておいしいの。不思議でしょ」
「僕たちの思いは巻きずしみたいにたくさんの思いを詰め込んでいる、でもすごくそれが合わさることでおいしい、そういった相乗効果がありますよね」
「僕は手巻きずしみたいな人生を送ってみたいです。食事は生きるためのエネルギーになり、命を形成します。全ての食べ物に感謝を込めて、ごちそうさまでした」
ザクロが名言を言う。初めて聞く手巻きずしみたいな人生という言葉。手を合わせて、礼儀をわきまえた立派な少年だ。
「オイラ、じゃなくて、私は手巻きずしを気兼ねなく食べられる人生、みんなに手巻きずしを分けることができる人生を送りたいです。おいしくいただきました。ごちそうさま」
ライチも笑顔で感謝する。
アサトの教育が効果てきめんだったのか、二人は即席の作文みたいなことを話すようになった。
「手巻きずしみたいにお互いの味を尊重しながら結果素晴らしくおいしい味を作り出す、それを目指してみましょう」
「はーい」
青空教室のような二人だけの教室はさわやかな未来の国造りの一歩を踏み出す。
「まひる、ほんとうに天才的だな。料理の腕。嫁にもらいたいくらいだ」
「シェフ雇ってるでしょ」
タメ口になったアサトと表情を表に出すのが苦手なまひるは、今日もおいしいものを一緒に食べる目標ができた。国営のレストランを作り、おいしい料理を研究し作っていくということだ。食からこの国を立て直す。従業員は国民を雇えば、国の経済効果にもつながるだろう。
※【手巻き寿司】
ごはん、のり、たまご、ほうれん草、かんぴょう、さくらでんぶ。彩華やか。お好きな具材でラップに大きなのりを敷いて、ごはんを乗せる。
「おひさしぶりでーす」
女性の元気な声が店内に響く。久々の来店、女性の方は二回目の来店だ。印象深い二人なので記憶に残るお客様だ。一人は人気女優の姫野美雪、もう一人は常連客となってしまった人気作家の黒羽さなぎだ。
「今日はおそろいでお越しですか?」
「はじめてのデートはここで、と思ってこの店探していたんですよ」
美人女優は以前よりも生き生きしていた。実際、さらに売れっ子になってテレビで見かけない日はないくらいCMにも複数出ているし、ドラマでは高視聴率をたたき出し、映画でも主演を務めるなど活躍は幅広い。
でも、横にいる黒羽という不気味な雰囲気の男はまだまだ世間的には認知度は低く、ウェブ小説で拾い上げされ書籍化の打診がきたという程度にしかまだ時間は流れていなかった。少々未来が変わっており、新人賞ではなくウェブ小説での拾い上げということがまず違う。未来は虹色程度には果てしなくパターンがあるという話の通りになった。見た未来が全てではない。しかし、二人の願いはかないつつある。
女優、姫野美雪はどこで黒羽と知り合ったのだろう。まだ映画化されるまでには至っていないはずだ。姫野は明るく楽しそうだが、横にいる暗そうな雰囲気と不気味さしか醸し出していない男は迷惑そうな感じで、どう見ても楽しそうではない。しかも、二人が並ぶと外見的には釣り合いが取れそうにない。黒羽は相変わらずの上下黒ジャージといういでたちにぼさぼさの髪の毛、目は前髪に隠れていて全く見えない。猫背姿勢も変わらずだ。黒羽は背が低い上、猫背なのでハイヒールを履いた姫野と並ぶと同じくらいかもしれない。いや、姫野よりも黒羽は小さく見える。
「いらっしゃいませ。今日は二人でのご来店ですね」
「ぐひひ……どうも。おかげで夢はかなったけれど、この女が付きまとう未来は知らなかったし、迷惑っすね、ケケケ……」
相変わらずのくせのあるしゃべり方をする黒羽。白い歯が光る。
「あの日、未来で読んだ本、未来の俺氏の作品だろ、ぐひひ……」
「気づいていましたか?」
アサトはいつもどおりの涼しい顔だ。
「ぐひひ……俺氏の本名って黒羽っていうんだよ。本名は「なぎさ」なんだ。なぎさを並び替えれば「さなぎ」、これは以前から考えていたペンネームだし。ケケケ……頭脳戦な生き残りの話も考えていたんだよねぇ。未来の世界で見かけてさあ、これ、俺氏の作品だってテンション上がったよ」
「じゃあ未来を見て、確信したのですね、自分には才能があるって」
「ぐはは……まぁ、才能はあるっちゃあると思ってたさ。でも、それってうぬぼれとかよくある勘違いってやつかもしれないしね。あんたらのおかげで自信が持てたよ、ぐひひ……」
薄ら笑いを浮かべながら猫背気味で椅子に腰かける男は、目が髪に隠れたままで、髪の毛を整えることもしない、見た目なんてどうでもいいという雰囲気全開で初デートに来たようだ。
「デートですか、おめでとうございます」
それを聞いて、女優の姫野が残念顔をする。
「デートっていうより、無理やり連れてきたというのが正解なのよね。映画化されるまでは数年かかるだろうし、少しでもこの世界のどこかにいる彼に早く会いたくて、ネットで黒羽さなぎって検索したらさ、ウェブサイトで小説書いていたんだよね。だから、毎日彼にメッセージを送って会いたいと口説いているの。口説いているのは現在進行形。今日は編集部に用事があるっていうので外出するのを見計らって待ち伏せしただけなんだから」
「ぐひひ……この人、まじで怖いし……自宅も特定されるし」
悪寒を感じるしぐさをする黒羽の言うこともわからなくもない。普通はストーカーな女に付きまとわれたら迷惑だろう。しかし、相手は名の知れた美人女優だ。
「私、毎日彼にメッセージを送っているのですが、鬼対応なんですよね」
「ケケケ……この人、ドン引きするくらい怖い女っす」
「有名女優だということも知らなかったの?」
まひるがあきれながら質問した。最近は18歳でいることが多い。本当の自分を見せているのかもしれない。
「ぐひひ……俺氏、あんまりテレビとか見ないし、芸能人わかんないっつーか、この人本当に有名人か? ケケケ……」
「この人、普通の男ならば会えただけで泣いて喜ぶレベルの有名人よ。好かれているんだから少しは彼女に関心持ちなさい」
まひるが彼女がいかに有名ですごい人なのかを説明する。本当に黒羽にはもったいない女だ。豚に真珠、馬に念仏とはこのことだ。
「黒羽さんもこのレストラン来たことあるの?」
姫野が意外な顔をする。
「ケケケ……常連客だし」
「常連客? 私は二回目なの。ここで未来に行ってあなたに会って一目惚れしたっていう流れなんだけど」
「ぐはっ? どんな流れだよ。俺氏、人間に興味ねーし」
「私が黒羽さんに興味あるんだから、二人でこの店に来たかったの。黒羽さんを知るきっかけになった店なんだから」
「姫野さんがここに来たいと念を送ってくれたので、今日は招待しました。無料でごちそうしますよ」
「ぐははっ!! ここの料理超うめーからな。今日の気分はお茶漬けだ。お茶漬けを出しておくれぃ!!!」
食欲だけは人一倍ある黒羽はさっそくお茶漬けを催促する。黒羽が食べたい食事は基本、家でも食べることができるメニューが多い。黒羽は食べ物に関しては大食いで雑食系なので基本何でも食べる。好き嫌いがないことがこの男の自慢かもしれない。しかし、人間に対しては絶食系らしく、ヒトに興味がない。重大な欠陥を持ち合わせた奇才だ。
「私も同じお茶漬けを。生の黒羽様に会えてうれしゅうございます」
この女優は本当に変わった性格であり変わった感覚を持ち合わせているようだ。不気味な奇才にはこの手の風変わりな女性がお似合いなのかもしれない。
「あれ、以前いた小さな女の子は?」
姫野が以前の印象深い女の子、まひるを思い出した。
「あの子のかわりに、今日は超絶美人な女性がいますから」
アサトがまひるに視線を向ける。まひるはそういった甘い言葉が苦手なようで苦い顔をした。
「今日は幸せ茶漬けでも作りましょうか?」
「幸せ茶漬けかぁ? ぐひひ、初めての一品だ。どんな味だろ……ぐひひ」
「黒羽さん、あなたは能力者ですよね。記憶力が普通ではない。確かに過去に戻って読んだのは黒羽さん自身の作品ですが、全部の文章を記憶していましたね。その時に、記憶能力が特殊で、頭の回転が速い方だということに気づきました。いつか僕たちが困ったときにあなたの能力が必要になるかもしれません。その時は助けてください」
「ぐひひ、コミュ力ない分そういった能力には優れているんだな。うまいもんが食えるならば、手伝ってもいいしな、ぐはっ」
「そんな知的でハイスペックな黒羽様も好きです」
そう言うと、黒羽の腕に自分の腕を絡めてくっつこうとする。
「ぐっおいっ、俺氏の領域、パーソナルスペースに入るなって」
黒羽が本気で嫌がるが、美雪は全く離れる気配がない。美人女優はさっきから黒羽に告白しかしていない。むしろ本当にこの人はあの有名美人女優なのだろうか。惚れた弱みなのだろうか。黒羽に弱みでも握られているのではないかと一般的には心配になる案件だ。
「幸せ茶漬けができあがりましたよ」
二人の目の前に夫婦茶碗が並べられた。何かの儀式のようだ。そこには、つやつやした米粒が食べてほしいといわんばかりに二人を魅了する。そこには梅干しとシャケと海苔が入っていた。だしの香りが部屋に漂う。
「ぐひひ、いただくぞいっ。腹が減ったぞい」
といってまっさきに箸をわしづかみにしながら懸命に食を欲する男が黒羽だ。その食べっぷりは豪快で胃に流し込むかの如くすすりながらまるでスープでも飲むかのような勢いでお茶漬けを食す。ズズズという音を立てた食べ方は正直上品な食べ方ではないが、見ているほうは食欲が増す食べ方でもあった。とても豪快においしそうに食べる黒羽はお腹が空いていたのだろう、飢えていたのだろうということが容易に想像可能な食べ方だった。無言で食べる黒羽。
「梅干しにシャケ、二つともしょっぱいのに二つともしょっぱすぎない味付けが絶妙ですね」
姫野が食レポしているような絶賛をする。仕事で食レポの機会もあるのかもしれない。
「これは、程よく減塩しています。しょっぱすぎないように加減して味付けしているので」
「何事もほどよくがいいのですね」
「実はこれはお二人をあらわしています。海苔は二人の間にある壁です。梅干しは天才黒羽氏、シャケは人魚姫のように一途に愛を貫く姫野さん。姫野さんは相手のしょっぱさを引き立てるためにあっさりした味を出す。姫野さんをみていると全てをなげうってでも傍にいたいと願う人魚姫のストーリーを思い出します。人魚姫は声を失ってもいいからと人間になりたいとねがいましたよね」
あっという間に黒羽の少し大きめの茶碗には米粒ひとつなく完食されていた。お茶漬けもこんなにも、ぺろりとたいあげられて幸せにちがいない。
「ごちそーさま、ケケケ」
「黒羽さん、私、あなたのために毎日ご飯をつくりますので、会いに行ってもいいですか?」
「ぐひひ? ごはん? おまえ料理うまいのか?」
本当に小説家なのだろうか? 日本語が片言だ。黒羽は変人で変わり者だ。変人イコール変わり者だから、2回も言う必要はなかったが、2回も言いたくなるほど変な人だということだ。黒羽は人間には興味がないが、食欲だけは人の10倍くらい欲深い男だった。その男に、毎日おいしいものを作ってあげるという口実はまさに餌づけにはもってこいのセリフだ。まさに動物をおびき寄せる餌作戦だ。
「私、料理は得意なんです、そのかわり、好きな時に会いに行きますよ」
「ぐはっ? 俺氏の領域にこいつが入るっていうのは気に食わないが、うまい飯にありつけるのならば、背に腹はかえられぬ、ぐひひ」
何かを覚悟した変人人嫌いの黒羽は食欲には勝てないようだった。人間嫌いよりもおいしいご飯のほうが彼の中で勝利したようだった。
「女優さんだから忙しいでしょ? 無理することないわよ、こんな奴のために」
相変わらずの毒舌まひる。
「今後は仕事のペースも落とすつもりだし、私は彼に人生を捧げてもかまいません」
「でも、こいつがとんでもなく嫌な奴だったら人生棒に振るわよ」
「私が選んだ道だから後悔はしません」
美人女優の顔はすがすがしく、まるでドラマのワンシーンのようであった。
「きっとお二人はうまくいくと思いますよ」
アサトは笑顔でほほえましく二人を見つめる。そんなアサトを見て、まひるは心の中で思う。自分自身の恋はだめだめなのに、他人のことだと客観的でいつも冷静なアサトは不器用な男なのだろう。
※【お茶漬け】
ごはん、梅干し、しゃけ、のり、だし汁が食欲を誘う。程よい塩加減がお茶漬け全体のおいしさの秘密。
「今日は母とヨルト、夢香が来店するから」
アサトがまひるに確認する。
「お母さんに会うのは久しぶりなんでしょ。夢香と会うのは気まずくないの?」
「今日はまひると付き合うことをみんなに発表するからね」
「なにそれ? 付き合ってないし」
まひるが動揺する。
「だって、僕が好きになった女性だからみんなに紹介したいんだ」
「好きになったから紹介って意味が分からないし」
「まひるには相手がいないし、僕たちは幸い血がつながらない兄妹だしね。僕のこと嫌い?」
「大っ嫌い」
天邪鬼なまひるの恋愛慣れしていない様子にアサトはかわいいと感じていた。
「まひるに好きな人がいないならば、付き合う予定の彼氏ってことで紹介するから」
「なにそれ!!」
二人が楽しそうに久々の対面のために料理を作る。それには愛情がたっぷりはいっている。見えないけれど、人の思いというものが人が作る食べ物にはあふれている。
「ヨルトと夢香、付き合っているみたいじゃない。兄として悔しくないの?」
「ヨルトは見る目があるよ。人には相性があるからね、僕の場合はまひるのほうがあっていると思うんだよね、もうあれだけ泣いたからふんぎりがついたよ」
「なにそれ」
相変わらずの塩対応のまひるだったが、彼女の表情にはうれしそうな笑みが溢れている。人は顔に出さないというのは難しいのだ。好きでもない人に好きだという顔をするのはプロの詐欺師でもなければ無理だろう。
「アサトに会うの、気まずいかも」
ヨルトが難しい表情をする。だって、兄の恋人を結果的に奪うということになってしまったのだから。
「でも、アサトさんにはまひるがいるでしょ」
「え? 何? 2人ってそういう関係?」
能力があるわりにはそう言ったことを見ようともしないヨルトは鈍感力があるようだ。
「私ね、お店を手伝っていた時に感じていたの。まひるとアサトさんって壁がないんだよね。だから、この二人はウマが合うのだろうって思ったの。私とアサトさんには壁があったから。アサトさんは完璧な姿しか見せないし敬語のままだったし」
「そういや、まひるの前だと敬語じゃないのか。アサトにしては珍しいな」
ヨルトのお母さんが走ってくる。
「ごめーん、久々に長男に会うのにメイクばっちり決めてきたから時間かかっちゃった」
ヨルトのお母さんはとても美しくて同年代の女性よりもずっと若くてやっぱり美しい息子の母親だと思えた。仕事もばりばりこなす女性は憧れでもあり、気さくな性格は私たちを笑顔にする。家族の食事会を定期的に開きたいとお母さんが提案していたので、これが記念すべき1回目になるのだろう。
「母さん、夢香。俺の肩につかまれ。この石を持っている人間につかまればあの異空間にあるレストランに行くことができるからな」
別れるときに夢香はアサトさんに赤い石を返した。もうお店を手伝うこともない夢香には必要がないのだから。ヨルトの耳には青い宝石が光り、胸元には王家の青い石が光っていた。
カランカランという少し懐かしい鈴の音と共に私たち3人は店に入る。おいしそうな香りが店内に広がる。久しぶりの幻のレストラン。懐かしいが、別れた元彼氏と会うのは少し緊張していた。アサトさんはいつもどおりのキラキラオーラをまとい、出迎えてくれた。さらさらな柔らかい猫っ毛の茶髪も相変わらずだ。アサトさんの髪の毛は若干くせ毛な茶色。ヨルトは金色のストレート。髪質も色も兄弟でも違う。アサトさんは何事もなかったかのような相変わらず変わらない、スキのない満面の笑顔で迎えてくれた。まさに王子様だ。
「いらっしゃいませ」
「アサト、久しぶり」
お母さんの顔がほころぶ。
「母さん、久しぶりだね。父も今度ヨルトと母さんと夢香も誘って宮殿に会いに来いって言っていたよ。時々、幻のレストランにも食事しにきてよ、大歓迎だから」
「はじめまして、次期昼の王となる、まひると申します」
まひるは18歳の姿でとても礼儀正しくアサトの母にお辞儀をした。
「まひるは僕の彼女だから、みんな大事にしてね」
アサトさんが爆弾発表をした。
「ちょっとまってよ、なんでここで発表?」
まひるが普段のクールな姿とは真逆に赤面しながら驚いた顔をした。
「僕が夢香にフラれて、落ち込んでいた時にまひるが力になってくれたんだ。今の僕があるのはまひるのおかげなんだ。僕じゃダメかな?」
「……まぁどうしてもっていうならば、付き合ってやってもいいけど……」
「アサトをよろしくね、まひるちゃん。この子母性に飢えているから、いっぱいかわいがってあげてね」
お母さん公認の仲になった二人は、照れながらも見つめあう。
ヨルトがアサトに事実を公表する。
「俺も、夢香と付き合ってるんだ。いずれ一緒にアンティーク古書堂カフェをもっと大きくして二人で経営していきたいって思ってる。そのために高校を卒業して大学で勉強して夢を実現する」
「ヨルト、おめでとう」
アサトが称賛した。アサトがかつての恋の戦友の成功を素直に喜べるまでの道のりはまひるにしか知らないことだったが、アサトの挫折はきっとこれからの彼の人生を彩る糧となるだろう、そう思っていた。
「今日はみんなの思いをたくさん詰めたいと思ってサンドウィッチを作ってみたよ。パンにたくさんの食材を挟むだけなんだけれど、相乗効果でうまみが増すのがサンドウィッチの醍醐味なんだよね。あとは、サイドにスティックサラダやポテトをそろえてみたよ。たくさんの物語が詰まっているサンドウィッチは色々な種類があるから食べ比べてみて。惣菜系からスイーツ系の甘いものもあるからね」
テーブルに並べられたパーティー料理が光って見える。レタスやトマトを挟んだもの、たまごとマヨネーズをまぜたもの、生クリームにフルーツをはさんだもの、たくさんの種類のサンドウィッチがほほ笑んでいた。
「レタスがシャキシャキしてる。シャキシャキしたレタスって難しいですよね」
「これね、一工夫しているんだ。50度のお湯に数分つけると、レタスが蘇るんだよ」
「さすが、アサトさん」
アサトさんと普通に会話できたことがとてもうれしかった。良好な関係を築くことは無理かもしれないと思っていたが、アサトさんは大人だった。
「飲み物は、ホットコーヒーにする? ヨルトと母さんはブラックかな。夢香はミルク入りだよね」
アサトさんが気を利かせてコーヒーの確認をする。まひるがコーヒー豆を挽いておいしい香りのコーヒーを淹れてくれた。店内にコーヒーの香りが漂う。
「これは、特別仕入れた豆だから絶対美味しいよ」
「おいしい」
お母さんが淹れたての熱々のコーヒーの感想を述べる。きっと舌の肥えた人だからこの人をうならせる味は上質なのだろう。久々に会えた息子を目の前にしているからそう感じているのかもしれないが。味というのは食べた相手や場所によってもおいしさが倍増するものだ。
アサトさんは以前よりも何かが吹っ切れて自分らしく楽しく生きているような気がした。記憶を集めるということに執着していない彼は心から料理すること、食べることを楽しんでいるように思える。作るときに隣にいる人と楽しい時間を過ごしているからなのかもしれない。そして、みんなと食べるという行為がその場に笑顔をもたらすということを感じる。人と人とがつながる、それは血縁かもしれないし、友情かもしれないし愛情かもしれない。どういった形でも、そこにおいしい食べ物があるということは場を和まし癒しとやすらぎを与えてくれるのだろう。おいしさのカタチは気持ちによって感じ方が変わるようにも思う。
いただきますからごちそうさままでの時間は幸せな時の流れを作り出す。そんな時間が大好きだ。
幻のレストランがあなたの前に現れたら、そのときは、虹色ドリンクは慎重に飲むかどうかを決めてください。ねがいをかなえるときは代償の大きさをよく考えることをお勧めします。
※【サンドウィッチ】
食パン、レタス、たまご、トマト、バター、マヨネーズ、生クリーム、フルーツ。
どんな食材でもお好みで。作り方に決まりはないのだから。