「君の書く小説は、誰に向けたお話なの?」

 夜空のように黒い双眸が僕を見詰める。

 これは誰に向けた話だっただろうか。
 靄が掛かったようで上手く思い出せない。
 あるいは最初から考えていなかったのかもしれない。

 読んで欲しかった相手は誰だ。
 僕は今まで誰に向けた話を作っていた?

 昔に書いた話は、面白いと褒めてもらえたあの頃の作品は、あれらはみんな身近な友達に向けて書いたものだった。
 ターゲットを絞れば絞るほど相手の心には深く刺さる。

 逆に、すべての人に向けて作った物は誰にも刺さらない。
 興味を持つ要素は人それぞれ異なるが、だからといってドリンクバーで作るジュースのように全部を混ぜこぜにする訳には行かない。
 相性の良い要素を組み合わせてジャンルを決める必要がある。

 今の僕にそれができるだろうか。
 コンテストに応募された作品を読むのは運営側の審査員、それと読者投票に参加する多くの目が肥えた読者たちだ。
 会ったことも話したこともない人たちだ。

 人の心を打つためには読者層を絞り込んで、しかし審査のことを考えれば絞り過ぎてもならない。
 曖昧な境界線を見極めて、バランスを取らなければならないのだ。
 きっとプロはみんなそうしている。

 言われて初めて気づいた。
 知識としてはあったのに分からなかった。
 僕にはそれができない。

 次から次へと嫌なことが浮かんでくる。
 何かを見落としているような嫌な感覚が背筋をじわじわと這い上がってくる。

 きっと何かが足りない。
 これだけじゃない、けれども判らない。
 何も書かずにいた間に、知識だけは人一倍蓄えてきた筈なのに。

 そうだ、敵う訳がなかったんだ。
 叶う理由なんてなかった。
 僕じゃホンモノの舞台には適わない。

 一筋の雫が伝ってゆく。
 こんなはずじゃなかったのに。

 どんどん涙が溢れてくる。
 止め処なく頬が濡れて、緩んだ涙腺はもう締められない。

 そっと肩に手が置かれた。

「ごめんね、大丈夫?」

 先輩は心配そうな目をしていた。

 しかし止められない。
 ひとつ頷いて、また泣き出した。
 随分と久しぶりに泣いたので、ここで泣き止むと涙が出ないようになってしまうのではないかと思って、全力で泣くことにした。

 気が済むまで泣くと、やがて段々と収まってきた。
 濡れた頬は袖で拭って、目頭を揉む。

 大きく深呼吸をする。
 ゆっくりと鼻から息を吸って、それと同じくらいの時間を掛けて口から息を吐く。
 それを数回繰り返すと、心が少し落ち着いた。

「すみません、もう大丈夫です。
 大丈夫になりました」

 返事を返す。

「ええと、さっきの問いについて、答えにはならないのですが」

 軌道修正だ。
 没となる文章も多くなるだろうが、まだリカバリは利く。

「結末を変更します。
 先輩、貴方の好きなものを教えてくれませんか?」

「ええっ!?」

 ターゲットを絞るほど、心に刺さる作品になる。
 しかし今の僕にはその相手がいなかった。

 ならばせめて今からでも。
 想定する読者を先輩一人に絞る。
 誰にも刺さらないよりも、誰かに刺さるものを。

 先輩を刺し殺すくらいの気概で書く。
 いや、本当に殺してしまう訳ではないのだけれど、そのくらいの意気込みで。
 でなければ僕の実力では何処にも届かない。

「僕に付き合ってください。
 お願いします!」

「あわ、あわわ……。
 そのええと、その、はい!!」

 あれ、何か間違えただろうか。
 なにやら先輩の顔が赤くなってしまっている。

「あ……」

 自分の言い回しが思い当たった。
 泣き止んで熱が引いた筈の頬が、また熱くなってくるのを感じる。

「あいやごめんなさい変な意味では無くてですね。
 告白とかそういうのではなくて、あの」

「わわ、わかってるよ!?
 オーケーおーけー完全に理解したから!!」

 僕が言葉遣いを誤ったせいで、そういう変な一幕も生まれてしまったが、まあ何とかなった。
 二人して茹で上がった顔であたふたと弁明の言葉を並べた場面も閉幕して、僕は本格的に原稿の修正を始めた。

 先輩の好み、好きな小説、キャラクター、台詞、シチュエーション、その他エトセトラを質問した僕に、先輩は快く答えてくれた。
 感謝してもしきれない。

 僕は小説の結末を書き換えて、新たな筋書きの構想を練った。

 どんな要素を入れるか決めれば、何を書くかも自ずと決まってくる。
 これまでの経験や読書歴から、自分の中に築いてきた創作の型だ。

 創作は自由だとは言うが、小説や漫画、アニメなどを見て育った人間であれば、ある程度の王道やお約束というものを自分の中に持っていて、よほど突飛なものを書こうとしない限りはその中に収まる。
 新しいものを取り入れるにしても、これまで築いてきたその型は必ず役に立つ。

 書くことに夢中になっていた昔の頃を思い出して、僕はひたすらに書いた。
 いつも通りに先輩と同じ部屋で書いた後も、家で続きを書いて、気がつけば夜が明けていた、なんてこともあった。

 締め切りまでの残りの一週間、僕はノートを枕にして眠るような生活を送った。
 途中で変なテンションになってしまい後で大幅に書き直すようなこともあったので、睡眠の時間はきちんと取った方がよいと学習した。

 睡眠を抜いても良いことは無い。
 効率が落ちるから大した時間短縮にはならないし、質だって落ちるので徹夜明けの文章は読めたものじゃない。

 徹夜をして意味があるのは、締め切りギリギリでどうしても時間が欲しいときくらいだ。
 睡眠時間とパフォーマンスはトレードオフで、求め過ぎれば痛い目を見ることになる。

 そのときの一件で学んだのだ。
 同じ過ちは繰り返すまいと誓った。
 とはいえ夜更かしには抗いがたい魅力があるもので、結局僕の生活サイクルはあまり変わらなかった。