多くの部屋の前を通り抜けて、僕らは先輩のいうサークルの部室へと辿り着いた。
窓に貼られた画用紙には『文藝』と書かれて、色鉛筆やマーカーで明るく装飾されている。
先輩は鞄から鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。
ドアに施工された簡素なシリンダー錠がカチャリと解錠される。
鍵は古いもので、幼い頃に流行ったマスコットのキーホルダーがぶら下がっていた。
「ようこそ、文芸サークルへ」
二つがくっいた折り畳みの机に、それを囲むよう並べられたパイプ椅子。
窓の横には大きな棚があって、中身の日焼けを避けるためか緑の大布が被せられている。
床に積まれた段ボールには何が入っているのだろうか。
先輩は両手をふわりと広げて、歓迎のポーズを取った。
僕はいそいそとお辞儀をしてその歓迎に応える。
「広いですね」
「そうだね。 歴史のあるサークルらしいから」
パイプ椅子は一つだけが引かれていて、前の机にはお菓子の袋が幾つかと読みかけの本が一冊だけ置かれている。
他のところは理路整然としていて、雑多な生活感のようなものは無かった。
「そこに座って」
先輩が向かいの席の机をウェットシートで拭いて、僕に座るよう促す。
他の席にはうっすらと埃が積もっているのが見え、使われていたのは先輩の席だけのようだった。
僕は背負っていた荷物を下ろし、その席についた。
静かな部屋の中に、パイプ椅子が軋む音が聞こえる。
机に載っていたお菓子は、おかきの詰め合わせと小さな砂糖ドーナツの大袋。
差し出された二つの内、僕は砂糖ドーナツを貰った。
今日は書けないなりに頭を使って糖分が欲しかったから。
「去年までは上の先輩と、私の友達も居たんだけどね」
「やっぱり、今は一人なんですね」
先輩は黙って頷いた。
口許は弧を描いているけれど、目は何処か寂しそうに見える。
かつての賑わいを懐かしんでいるようだった。
僕たちの間に、しばらくの沈黙があった。
この日は風が強くて、窓の外からは轟々と風の声が聞こえていた。
ドーナツの個包装を破いて、端の方を少しだけ齧ってみる。
しっとりとした生地と、ざらついた砂糖の舌触り。
幼い頃によく食べていた駄菓子と同じ味がした。
先輩は机の上で手をゆるく組んで、その様子を眺めていた。
僕はゆっくりと時間を掛けてドーナツを食べた。
口の中でじんわりと甘みが広がっていく。
もそもそとした食感も、なんだか懐かしかった。
最後の一片を口に放り込んで、もぐもぐと咀嚼する。
名残惜しい気持ちはあったけれど、いつまでも口の中に入れていると喋れないと思い嚥下した。
「ねえ、小説を書くのって楽しい?」
「どうでしょう。
書き始めた頃は楽しかったんですが」
束の間の静寂。
息を吸って、吐いて。
トクトクと鼓動が早くなる。
初めて作品を作った頃は楽しかった。
心の中に閉じ込めていた綺羅星のような考え事を、軽やかな運筆で紙の上に、思うがままに書き連ねて。
楽しいこと、未来の夢、頭の中にあった空想の世界。
次はどんな物語を紡ごうかと頭を悩ませていた。
希望で胸がいっぱいだった。
だが今はどうだろうか。
「今はその、あんまりかもしれません」
「そっか」
笑うでも悲しむでもなく、先輩は只そう呟いた。
いつの間にやら目線は窓の外を向いて、四月の花曇りをじっと見ていた。
切れ間なく続く灰色がかった雲の群れ。
ころころと移り変わる春の天気が、今はずっしりと重たく感じられる。
僕は荷物から例のノートを取り出して机の上に開く。
先輩は僕がさっき食べたのと同じ砂糖ドーナツを袋から取り出して頬張っていた。
しとしと冷たい雨が降り始める。
段落を一マス空けて、手に持ったシャープペンシルがゆっくりと動き始める。
話の方向性を大まかに定めて、僕は小説を書き始めた。
冒頭は台詞から始めると良い、というのはインターネット上に流れる通説の一つだ。
数多くの作品が飽和する電脳の世界で、誰もが気軽に自分の著作を発表できる玉石混交の坩堝で、そんな場所でまことしやかに囁かれる方法論の一つである。
そこにはジャンルを限定しても尚読み切れないほどの数の物語があり、読者は面白くなければ次に行くだけ。
始まりの時点でより多くの興味を惹けた者が続きを読んで貰える機会を手にする。
そして、その過程で弾かれがちなものが幾つかある。
幾つかある内の一つが、冒頭ポエムと呼ばれるものだ。
冒頭ポエムは作者のイデオロギーを込めて書かれる。
中身は千差万別に人の数だけあるが、大抵の場合は面白くない。
面白くないものは読まれない。
これが終われば面白くなる、そんなことは知ったこっちゃない。
どんなに素晴らしい冒険劇が待っているとしても、ページを捲られなくては意味がない。
誰かに掘り出さなければ永遠に地の底で土に塗れたままで終わることになる。
台詞から始めるというのは、そんな事態に陥ることを避けるために考え出された手法だ。
キャラが喋れば自然と話が動き始める。
最初の見せ場は近ければ近いほど良いのだ。
こういう話が流れるよのは当然の帰結とも言えよう。
かたつむりのように緩慢な滑り出し。
しかし僕の書く物語もまた、そうしてゆっくりと動き始めた。
「好きだな。
そうやって机に向かってる人の顔」
独り言のような小さな呟き。
先輩はドーナツを食べ終えて、口の端についた砂糖をちろちろ舐めながらそう言う。
かつてもこの部室で、同じように見ていたのだろうか。
ペンを執って机に向かう人の姿を。
僕はなんだか羨ましい気持ちになった。
「いつでも来ていいよ。
なるべくこの部屋は開けておくようにするから」
「良いんですか?」
先輩は頷いた。
「まあ私は居るけど、見られたくなかったら出来るだけ見ないようにするしさ」
「ありがとうございます」
短い会話を終えると先輩は椅子から立って、布の掛けられた棚へと向かう。
緑の大布が捲られると、その棚は本棚になっていた。
背表紙を指でなぞって、並んだ本のタイトルを順繰りに確かめていく。
目当ての本が見つかったのか、その指は二段目の中頃で止まる。
ほっそりとした指先が、背表紙の上部を押す。
そうして飛び出した本の下部を持って引き出した。
ベストセラーの恋愛小説だ。
タイトルは記憶していないが、表紙に見覚えがあった。
「読む?」
視線に気がついたのか、先輩がこちらを振り返る。
差し出された小説の文庫本に、僕は慌てて首を振った。
その日はしばらく机に向かって自分の作品の続きを書いた。
先輩は本棚から取り出した小説を読んでいて、時折懐かしそうな顔をしてこちらを眺めた。
ほとんど毎日、僕はその部屋に通った。
もしかしたら迷惑かとも思ったけれども、行かなかった次の日に先輩が寂しそうな表情をしていたので、そういう考えをするのはやめにした。
先輩の居る隣で、僕は小説を書いた。
そして、ある日のことだ。