「何書いてるの?」
僕の肩越しにノートを覗き込んでいた。
書いては消しを繰り返して少しよれた僕のノートは、まだ真っ白で何も書かれていない。
白いシャツを着たこの人は誰だったか。
僕は人の名前を覚えるのが得意でない。
しかし、夏空に浮かぶ白雲のような立ち姿が妙に印象に残っていた。
「先輩ですよね。
おはようございます」
「うん、おはよう」
僕が朝の挨拶をすると、その人も挨拶を返してくれる。
よかった、まだ僕の声は錆び付いてなかったと安堵する。
夏空の雲のような人、その先輩は興味津々といった顔をして僕のノートを覗き込む。
筆を手に取ってしばらくが経つというのに、ノートの中身は空のままだ。
僕はなんだか恥ずかしくなった。
「それで、何書いてるの?」
「それは、ええとですね」
僕は言い淀む。
何も書けていないからだ。
なんと言って誤魔化そうか迷った。
いっそ走り去ってしまおうかとも思った。
けれどもそうはしなかった。
先輩が助け舟を出してくれた。
「もしかして、小説?」
「あ、はい!
まだ中身は何もありませんけど」
会話がなんとか繋がった。
僕の成果では無いけれども、繋がったことはきっと確かだ。
とはいえ言葉ひとつも出ないのは流石に情けがない。
一応は物書きの端くれだった身としては、なんとも不甲斐ない話だ。
頬に血がのぼって、じんわりと耳が熱くなるのを感じる。
顎に手を当て思案して、先輩は一つの提案をした。
「よかったらウチのサークルに来る?
私、文芸サークルなんだ」
僕は黙ったまま頷いて答えた。
今度は喉が絡まって、声をうまく出すことができなかった。
やはり僕の声は錆び付いてしまっていたのかもしれない。
僕たちは部活棟の中を連れ添って歩いた。
先輩に先導されて、この棟にあるという文芸サークルの部室を目指していた。
なんとも贅沢な話だ。
この棟では校内に存在するそれぞれのサークルに部屋が与えられて、なんとその中で活動できるほどのスペースがある。
運動部だけでなく、文化部にも部室が与えられていた。
高校までの頃には、部活動で専用の部屋が与えられるなんて話は聞いたこともなかった。
母校で一番大きな陸上部でさえ、せいぜいがコンクリートブロックを積んで組まれた物置くらいのもので、美術部や文芸部は教室をひっそりと間借りして活動するのが常のことだった。
ちなみに僕は文芸部の幽霊部員で、実質的にはほとんど帰宅部だった。
その頃にはもう、ほとんど何も書かなくなってしまっていたからだ。
今になって、真面目に行っていれば良かったと思う。
そうすればもう少し明るい色の青春を遅れただろうに。