どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。




松風貴良(まつかぜたから)。高二。
私には、感情がない。機械みたいなものだ。
厨二病だとかなんとか、好きなだけほざけばいい。
人付き合いなんてくだらない。
友達?彼氏?そんなものいらない。
友情?恋愛?青春?は、つまらん。
そんなものが何になる。
何に泣いて何に笑って何に心を動かされて誰を好きになろうが、人生にとっては些事だ。
結局人は生まれてから死ぬまで、自分ひとりの力で立って歩いて、生きていくしかないのだ。
だから私は家族とすら必要最低限しか喋らない。
そもそも家族は叔母さんひとりで、しかもその叔母さんも仕事で家を空けていることが多いため、私は誰と会話をせずとも生きていけるのだ。
父と母は私が生まれて間もない頃に離婚した。
私は母方に引き取られ、父とは一度も会っていない。
うちは代々、女が短命な家系らしく、まだ若いうちに亡くなった祖母と同じような歳で、母も死んだ。
つまり私は親無しだ。
幼い頃は祖父に育てられた。
その祖父ですら、私が十二のときに死に、そこから今のように叔母と二人暮しをしている。
でも私は特に支障なく、誰から特別な助けを受けなくても生きていけている。
友情だとか恋愛だとか青春だとかが無くても、だ。
だからそんなことで悩んでいる人間どもを見ると、いかに自分の人生がイージーモードなのかがよく分かる。
厭世的価値観こそ至上。皆ニヒルに生きろ、ニヒルに。

_______松風さん

「松風貴良さん」

ああ、いけないいけない。 脳内独白が長くなってしまったようだ。

「…松風さん、出席」
隣の席の女子が、私にひそひそと告げた。
言われなくても分かっている。返事なら今してやるから。
すうっと息を吸い込む。

「ひゃ、ひゃい!」

教室が静まり返った。

いや、別に私が声を出す前から教室は静かだったのだが。
自分で自分の失態を意識しているようなことを言ってしまった。
なんだ、少し噛んだくらい。そんな些事を気にするのは愚か者だけではないか。

くすくすっ

噂をすれば、愚か者が己の愚かさを晒しているのか、はたまた思い出し笑いでもしているのか。
どちらにせよ呑気なことで羨ましい。
私にも感情とやらが欲しいものだよ、ははは。
思わず脳内での独白のみに留まらず、現実にも笑いが飛び出す。
もっとも、掠れたような、ほぼ息だけのものだが。
漏れ出た息が横髪を揺らして、うざったい。
担任のホームルームの声は、いつものごとく耳には届かず。
とろとろとしたこの時間は、専らよそ見をすることに費やされた。

青。
空と海、今日はどちらも白の要素がほぼ無かった。雲も無い。さざ波も立たず。
両者は穏やかな青をたたえている。
ここは田舎にある辺鄙な高校だが、窓の外の景色は、まあまあである。
特に見るものも無く、考えたいことも無いときは、窓の外を見れば良いのだ。
意味もなく景色の青白比を考えてみたりとか。けっこう楽しい。
だとか、いろいろ考えていても
なんとなく浅くしか呼吸出来ない自分がいて、自嘲してしまうな。

煙たがるなら、好きに煙たがれ。

涼しい風を感じながら眠るでもなく、まぶたを閉じているとチャイムが鳴る。
たしか次は移動授業だった。
授業が終わり、教室の空気が一気に緩む。
皆がもたもたしているこの隙に、私はもう席を立ち移動の準備を始めるのだ。
移動ラッシュの群れに巻き込まれるのはごめんである。
スっと席を立ち、スマートに椅子をしまい、ツカツカと歩く。
なかなか颯爽とした振る舞いではないか。
孤高の一匹狼然としているだろう。
扉を閉めるために振り返るときには、スカートの翻り方を気にしていた。

*

やっぱり目で追ってしまう。

彼女が今しがたスカートを翻して教室を出たところも、しっかりと観察してしまった。

松風貴良さん
高貴な雰囲気を身に纏う彼女のことが、私はなんとなく気になってしまっていた。
艶やかな黒髪が特に目立つ彼女は、和的な雰囲気を感じる美女だ。さらに、この町の大地主の家系で正真正銘のお嬢様。
入学当初はみんなも噂していたくらいに目立っていた。
今もまあ、別の意味で噂にはなっているが。

高嶺の花かと思われていた彼女は、今ではすっかりクラス内で陰キャの残念美人扱い。
彼女をバカにして笑うような人も少なくはない。しかし。

"ひゃいっ"
さっきの彼女を思い出して口元が笑んでしまう。
バカにしているとかそういう意図はなく。

彼女が高嶺の花だったときから、気にはなっていた。仲良くなりたいなーなんて思ったり。でもやっぱり近づきがたかったり。
しかし彼女が残念美人なんて呼ばれ初めてから、不思議とその思いはさらに強くなった。
存外人間らしい彼女と関わってみたい気が強くして、いつもそのきっかけを探している。
見ていると、完璧な、凛々しい無表情だけではなく、いろんな表情を持ち合わせていたりする。
さっきは口笛でも吹いていたのか。口元に笑みをたたえながら横髪をかすかに揺らしていた。
一体なにを考えていたのか、

真帆(まほ)~次移動授業だってさ」
「あ、うんー!」
そこで思考は途切れ、私も急いで支度をして友人たちに加わった


*


もう少し下校の時間を遅らせれば、日光も和らぐのか、しかしそうすると今度は、下校ラッシュで周りを歩く人間どもがうざったい。
もろに顔にあたる陽の光を鬱陶しがっても、やはりそれは避けたかった。

この町は天気が良いか悪いか、暑いか寒いかしかないのか。ちょうどいい日を作れ、と毒づく。なんとなく世界を包んでいるような太陽の匂いを吸い込んで、ため息に変えた。
ここは典型的な海沿いの田舎町。
水平線が近くて、静かで、退屈だ!
そんなところに私は生まれてからずっと住んでいる。とにかく世界が退屈なのだから、厭世的になるのも仕方がないではないか。
ローファーが少しがたついたアスファルトを叩いて淡白に鳴る。うんざりする。
いと近き水平線に手を伸ばして、ふと、このままどこかに身体が沈みこまないかなどと考える、人生。
ああ今日も世界は、なんて簡単で、つまらない!

からんころん

「んあ?」
なんの...音、

角から飛び出してきた。なにかが。突如として。あれは猫だ。
などということを脳が処理しているうちに、飛び出してきた猫はあっという間に目の前を通り過ぎ、車道へと駆けていく。
そこへ最悪なタイミングで、いつも大して通らない車が丁度やってくる。
「ちょっ...まっ!」

目の前に広がる暗灰色。これは...
スローモーションのように暗灰色が広がっていき、受け身をとらなきゃ、とかなんとか頭の中で考えていることに身体は追いつかない。

そして、叩きつけられるような衝撃が走った。

「く、あー...」
考えるより先に身体が動いたらしい。
じんじんと熱がこもるような身を抱えて我に返ると腕の中で猫が動いている。
みに濁点が付いたような鳴き声を出して、いかにもふてぶてしく顔などを洗っていた。

「なんだ、その様子だと私の助けなど不要だったようだな。」
嫌味のように言ってやったが、猫は我関せずと顔を洗うのを止めない。
車の運転手はウィンドウを開けて大丈夫ですか、とだけ聞いたら走り去って行った。

やれやれ...世界がいくら退屈だからって、こんな想定外はお断りだ。
身体中が痛み、まだ起き上がることは難しい。
ゆっくりと身体の向きを変え、熱いアスファルトに背を擦るようにして、歩道の方に身体を移動させた。

なんか、さっきよりも眩しくなってないか?
刹那の間に起こったことがなかったかのように、私と猫以外は何も変わらない穏やかな世界。
こんなときでも息苦しいような。深く吐いて吸えない息。浅い呼吸。どんどん浅くなっていくような。
視界が霞みがかっていた。
数瞬が永遠かのように錯覚させられる。
じくじく、じくじくと、熱と痛みが身体に染み込んでいって、じくじく、じくじく...

と、急に澄んだ風が吹いてきた。
ひんやりとした風に当たると熱と痛みが鎮められるような心地で落ち着く。
次第に明瞭とし始めた視界に、それは飛び込んだ。

からんころん、と小気味良い音を立てながら男が現れたのだ。
下駄履きで和装、ぼさぼさな髪に、眼鏡の男。

「いやー、助かったよ。その猫すけが急に、韋駄天のごとき勢いで走っていくから追いつけなんだ。」
「い、いや...」
唐突なことに脳が追いついていないらしい。
言葉が出てこない。そういえば、私は人間と話すことが苦手だった。
「猫すけが車道に突っ込んでくのも、おまえさんが咄嗟に猫すけを助けて少し車に跳ねられたのも見えてはいたが...何分この履物と着物じゃあすぐに追いつけず」
時折息を切らし、よく見ると髪も肌も汗で濡れている。本当に急いでは来たらしい。
男が言葉を切って、手を差し伸べてきた。
「すまない、立てるか?」
「...いや、別に大丈夫です。うぐっ」
自力で立ち上がろうとすると、面白いくらい反射的に身体がまた地面に崩れ落ちた。
「こらこら無茶をするなよ。素直に甘えておけ。」

結局私は無様にも、その男に引っ張りあげられるはめになった。
「俺のせいでもあるし、放ってはおけん。
自力で動けるようになるまで俺の家で手当てさせてはくれんか?」
いろいろと不満ではあったが、今はびっくりするほど身体が動かない。あまり選択肢は無さそうだ。
無言でいると、唐突に世界がぐらつく。
男が急に横抱きにしてきたのだ。
「...は、!?」
「なに、家はすぐ近くだから安心しろ。」
いや、そんなことは問題では無い。
田舎故の人通りの少なさが救いではあった。
まあ私は感情を持たないため、すぐに現状を受け入れることにしたが...。
だらりと全身の力を入れず、というか入れられずに男の腕に全てを委ねる。
私の腕を抜け出して地に座っていた猫は、ゆるりと後ろをついてきた。

*

「俺の家は昔っからここで和菓子屋をやっててなー。店をやってたばあ様が死んだから俺が店を継ぐことにして、経営の勉強をするためにしばらく東京に出てたんだ。」
なるほど。田舎の割に見ない顔だと思っていたら、そういうことか。
この家自体は近所でもあるし、まあなんとなく見覚えがあるような。
和菓子屋というのも、たしか祖父が昔頻繁に通っていた店があったような気もする。
痛むところを氷嚢で冷やしながら、いつの間にか私はだらけきって人の家の縁側で、でろりと寝ていた。
男はそれを咎めることもなく、先程から自己紹介のような話を続けている。
「おまえさん、見たところ人と話すのはあまり得意では無いだろう。ずっとほとんど何も話さんから俺からいろいろ喋ってみたが、おまえさんからは何か話したいことや聞きたいことはないのか?」
人と話すのが苦手なことを悟られていた。
何も言わずとも向こうから話してくれるから楽だ程度にしか思っていなかったが、意外に鋭いらしい。
しばし逡巡して尋ねた。
「名前...は」
「ああ!そういえば、ここまで一度も名乗らなかったな。失敬失敬」
男は吹き出して、わざわざ紙に文字で名前を書いて寄越してきた。
田平三好(たひらみよし)だ。良い名前だろう?」
自信たっぷりといった態度で言い切る。
別に良いのだが、なんか、ふてぶてしいな。
一応こくりと頷いてみせると満足気に向こうも頷いた。
「あー、そういえば。そんなこんなで、ついこの間この町に戻ってきたばっかなんだがな。」
田平三好、は思い出したように言い出す。
「この辺で人探しをしているんだよ。さっきも、そこの猫すけと、探し回っていたんだが。」
猫は縁側で私以上にでろりと寛いでいた。
「この町じゃ、まあまあ有名な家だろうからもしかしたらおまえさんも知っているかもしれんな。松風っていう家名の人間を探しているんだが」
「な......」
それを聞いた瞬間、驚いて変な声が漏れてしまった。

「んー?な?どうかしたか?」
「松風は…うちの家名だ...。」

*


今もなお痛む場所は左肩から背中にかけての一帯、右膝、左肘のみになっていた。
少し落ち着いたところでため息をつく。
たしか今日は叔母は帰らないので、ゆっくりと考えごとができる。
いや、この悩みの種は叔母にも関係のあることなので叔母に相談などをした方が良いのかもしれないが。
だが今はとにかく、ひとりで状況を整理して、思考を整えたかった。



あまりの衝撃に、私は縁側から起き上がっていた。
「さっき店の経営の勉強をしに東京に行ったって話、しただろ?そのための学費をまるまる払ってくれたのが貴良のじいさんなんだよ。」
「は...?はあ」
何も飲み込めないまま、とりあえず相槌をうつ。
話の展開がハイスピードすぎるのだ。こっちは「なんだと!?それは奇遇だな...ってことは、おまえさんは貴良か!」などと言われたときから、この奇妙で唐突な展開に追いつけていないというのに。
だが、親族でもない他人のためにいとも容易く大金を動かすあたりはとても祖父らしい。
現実的な観点から言っても大学の学費くらい、何人にいくら払おうが祖父の負担にはなりえないのだから。

「おまえさん、貴良のじい様には随分世話になった。」
田平三好が懐かしむように言う。
「私に言われても困る。祖父は死んだ。」
現実を現実として述べると冷えていく頭に、ついていくように亮然とした声が出る。
「ああ、知ってる。」
そういう顔が、ほんのりと厭世的な色に染まったので私は少し驚いた。目の前の男が私にそんな顔を見せるのは出会ってから初めてのことだった。
いや、そもそもこの男とは出会って数時間足らずである。
馬鹿らしいと首を振る。
「じゃあこれ以上うちになんの用があるんだ。」
「じい様から貰ってしまった学費を、少しづつでも松風の家に返そうと思っている。」
「はあ?別にいらん。祖父がばらまいた金なんて、いちいち回収していたらキリがないし、祖父があげたつもりの金なのに祖父でもない私たちが返済に応じるつもりはさらさらない 。
ばっさりと切り捨てた私の言葉にも動じず、田平三好は悠然と聞いている。
「第一、叔母は仕事で忙しい。今の松風でまともに対応できるのは私のみだ 。まとまった金銭のやり取りなどめんどくさすぎる。」
"めんどくさい"
これが本当のところは、私の心の大部分を占めていた。
それに、無駄に人間と関わりたくもないし。
心の中で付け足す。

「とにかく、もらった金のことなど何も気にせず好きに生きればいい。」

「敬語、俺が松風の話をしはじめてから解けたな。」
話が噛み合っていないだろ、と思いながら、とりあえず謝った。
「......すみませ」
「いや、親しみが感じられて良いなっていう意味だ、そのままで居てくれよ。」
なんのつもりだ...。
田平三好はまるで私の話を聞いていなかったかのようにマイペースに振る舞っている。
目を細めてこちらを見つめる田平三好に、なんだか居心地が悪くなってきた。
どうしたら良いかも分からない。仕方なく田平三好の言葉を待つ。
彼は、やおら伸びをしたりして、思い出したように変なタイミングで口を開いた。

「生前にじい様から手紙を貰っていてなあ、いわゆる遺言書みたいなやつなんだが、困ったときは孫の貴良に頼れって書いてあったんだよ。お前が戻ってくる頃にはあいつも良い大人だろうからって。」

いや、良い大人とはなんだ。十六だぞ?明らかに子供だろう。
祖父の良い大人の定義に疑問しか感じないが、やはり、そんなところも祖父らしいといえば祖父らしい。

「祖父が書いた文字」を、やけに生々しく感じてしまって少し身体が震えた。
なぜだかもう少し三好の話を聞きたい気になって口を開いてみる。

「で、田平三好には」
「三好で良い」
「...三好には、今どのような困りごとがある?」
「まあ、今はないんだが」
「はあ?」

「でもそのうち困りごとなんてたくさん出てくるだろう。だからほら、よろしくを言わせてくれないか?」

三好はそう言って、ゆるりと手を差し出してきた。


ここまでが本日昼間の回想である。
枕にボスンと顔を埋める。
今日はいろんなことがありすぎて疲れた。
今日の昼間には世界が簡単だからつまらないとか言っていた自分を、ふと思い出す。馬鹿か!何事も簡単な方が良いに決まってるだろう!
ボスボス、ボスボス
柔らかい枕は私の拳を受け入れる。
心地よい感じが病みつきになってしまうな。
ボスボス、ボス! み゛!ボス...
「......」
ボス...みーみ゛!
気のせいではない。この"み"に濁点。
さっと振り返ると、そこには薄茶色で、ふてぶてしい面構えの猫がいた。


*


ドタドタと駆け込むと、三好は縁側で肘枕などして実にお気楽な様だった。
「おや貴良、早速来たな。ずいぶんと勝手知ったる様子じゃないか。」
「来たくて来たわけじゃない。こいつのせいだ!」
首根っこを掴んで持ち上げると、そいつは不機嫌そうにみ゛と鳴いた。
「おお、猫すけじゃないか。昨日貴良についていっていたな。」
「は?気づいてたのか!?」
「逆に気づいていなかったのか。」
平然と言ってのける三好に耳を疑う。なぜ言わなかった。
つっこむのもめんどくさく、結局
「じゃあ、置いていくからな...」とだけ言って、やつを縁側に置き、踵を返す。
昨日からとんだ災難続きだ。
「あー、貴良、」
数歩も進まないうちに呼び止められる。
「なんだ!私はもう用は」
足を止めた途端に、あの猫が私の脚に擦り寄ってきた。
「その猫すけ、ずいぶん貴良のことを気に入ったようだからな。置いていっても、すぐついていっちまうだろう。」
「...じゃあ、どうすれば良いんだよ。」
三好に問いを投げかけると、なにか意味ありげにニヨニヨ笑い出す。嫌な予感がするのだが。

「ここはやはり貴良が飼う他ないだろうな。」

「嫌に決まってるだろ。めんどくさい。」
咄嗟に本音で嫌がると、三好は何故かさらに楽しそうに笑う。なんて変人だ。
「そうは言っても、猫すけがついていってしまうならどうにもできんしなあ。」
それに、と三好はさらに付け足す。
「貴良の父母が亡くなったことは知っている。
じい様もおっちんで、叔母さんも仕事が忙しいってことは、おまえさんほぼ一人だろ。
猫を飼うってのはなかなか良いと思うんだがなあ。」
「くだらん。生活に余計なものが介入するよか一人でいる方が良いに決まっている。
家族だけではなく、友人も、恋人も、当然ペットも!不要だ。」
「おまえさん、本当にそう思っているのか?」
「ああ。」
絶対的確信を持って言い切る。
「"不要"なのではなく、"出来ない"の間違いではないのか?」
「...断じて違う。」
「立て続けに百人から友達になってくれと言われたら?」
「むろん、全員断る。」
「立て続けに百人から交際の申し込みを受けたら?」
「当然、全員断る。」
「立て続けに百匹の動物から飼い主になってくれと頼まれたら?」
「いや、なんだその状況は。」
自分から言い出しておいて三好はカラカラと笑いだした。なんなのだ。ノリツッコミか。
三好のテンポに巻き込まれて、どうも調子が狂う。咳払いをして己を落ち着けた。

「...だが実際私は一人でも平気だ。」
「ほう、意地っ張りだなぁ。」
間延びした声にイラつく。
出会ったときから、三好の雰囲気はへんてこで私に合わんのだ。
そもそも私は人間全般と合わないから当然といえば当然なのかもしれんが。
三好は、いかにも何不自由なく幸せに生きてきたタイプの人間だ。
私のことなど分からないのが当たり前だろう。
試しに家族について聞いてみたりするのが一番分かりやすい。
「そういう三好は、どういう家庭で育てられたらそんな考えになるんだ。」
「んあ、なんだ、やけに唐突だな。
俺は幼少期に両親が死んでから、遠縁のばあ様に拾われて育てられたから...まあ環境自体は貴良とそう変わらんかもなあ。」
「そ、そうだったのか。」
あまりにも意外な返しに言葉を失ってしまう。
三好は完全に"向こう側"の人間だと思っていたのに。
呆然としていると、三好は肩を叩いてきた。
「まあまあ、なんにせよ猫すけがついてっちまうんじゃ仕方がないというものじゃないか。」
有無を言わさぬ響きを感じる。
「それに、じい様の遺言には何かあったら貴良に頼れって書いてあった。
俺としても年下に頼るのは忍びないが、じい様の遺言だしなあ...」
な、なんてずるい。それは禁じ手だろう。
文句を言いたかったが三好は口を挟ませず、畳み掛けるように言った。
「昨日言ったろう、これから困りごとが出来るやも知れんと。これがその困りごとだ。」
ニヤリ、と音でもしそうな程綺麗に、唇が弧を描く。
「悪いなあ世話になってしまって。」


*


なんで私がこんなにも頭を悩ませなければいけないのか。

ついぞあの性悪に押し切られてしまい、私はふてぶてしい猫を渋々家に置くことにした。
そして小一時間、その憎らしい毛むくじゃらと、にらめっこをしている。

仕方なく私が諦めることにするかしないかの辺りで、三好はすでに満足気な顔をして「名前でも決めてやれよ」などと言いだした。
名前は猫すけだろうと返したら、特に名前と決めていた訳でも無いらしい。
まったく!そんな適当な呼称で呼んで
可哀想だとは思わないのか。
もちろん一番可哀想なのは私だが。
そんな適当な男に、理不尽な状況。
間違いなく私が頭を悩ませる必要などないだろう。
しかしもう引き受けたことをなあなあにするのも気が済まない。
こうなったら徹底的に悩み切るしかないのだ。

薄茶色で、瞳も茶色、小さくて、不細工な顔をした特になんの変哲もない猫。
茶色、茶色、不細工、茶色、ぶちゃ...いやダメだ...小さい...ミニ、リトル、りと...
もうすでに私の精根は尽き果てていて、これ以上まともに思考が働きそうもなかった。

「よし、おまえの名前は今日からリトだ!」
猫、あらためリトは相も変わらずふてぶてしい顔をして " み゛" と一言鳴いた。
「どうやら気に入ったらしいな。」
相手の反応などは関係ないのだ。
どうせどんな名前でも、こいつは可愛らしい鳴き声を出して喜んだりはしない。

「おまえも私の猫ならニヒルに生きるんだぞ。」
不本意ながらも初めて出来た飼い猫の頭を撫でてやりながら、ニヒルに生きることの重要さを言い聞かせてやった。

そして怒涛の日々は始まった。

「なんっだこの有様は......。」
学校から帰ると家中ティッシュの残骸だらけになっていた。
哀れに千切られ転がるティッシュ、またティッシュ...
これは間違いなくリトの仕業である。
しかし当のリトの姿は見当たらない。
頭を抱えながらティッシュを回収しつつ家中を探し回るも、やつは居ない。
いよいよ困り果てたところで、あることに気づいた。
縁側から日本庭園の方までティッシュの残骸が続いていたのである。
もしかしてなくても、これはヘンゼルとグレーテルのような流れなのでは...。ところどころ散らばるティッシュを追い続けながら飛び石を踏み、手水鉢や鯉のいる池の横を抜け、ついにたどり着いた先には、こんもり丸い低木。
ざわざわと動いている。観念しろ。

...そんなような事件はもはや毎日起こり、広い邸内中動きまわるリトを探し回る回数は日々増えていく。
物はあっちこっち散らかすわ、静かに過ごしたい心持ちのときに限ってお得意の、みに濁点鳴きを連発するわで、はちゃめちゃな生活が繰り広げられた。


*


____疲れ果て、どろりと溶けた意識の向こうで懐かしい声が怒鳴った。

「泣くな、泣くな貴良!泣いたってどうにもならんのだ。おまえはこれから、自分自身の力のみで自分の人生を進まねばならない。その覚悟を今ここで決めろ。」
そこで酷く咳き込む音が脳内に響いて、ぐるぐる回る。ぐるぐる回って、回って、
いつのまにか音が変化して泣くな、泣くな貴良 という言葉だけが繰り返し響いて脳を侵した。

泣くな、泣くな貴良!
泣くな
泣くな
泣くな
泣くな________

「はっ...」
カヒュー、カヒューと喉が変な音を鳴らす。
夢から覚めても消えない息苦しさが私をパニックにさせた。
呼吸が浅い。どうしたら。苦しい。苦しい苦しい。
こんなときにも涙は出ない。そんな事実が余計苦しかった。
あの日からずっとまとわりついてきた息苦しさが、脳を支配して定期的に私に悪夢を見せる。
生きている心地がしなくて、どうしようもない閉塞感が渦巻いている。
それでも、誰も助けてはくれないのだから...

みぃ゛~
もふもふの毛玉から舌が伸びてきて私の顔をべろりと舐めた。
「...り...り、と」
二度、三度と繰り返し舐められるうちに、次第に呼吸は落ち着いていった。

「心配をかけて、すまなかった。」
肉球が無遠慮に顔をぺたぺた触る。
「ああ...ありがとうリト。」
夜に光る猫の目は私が眠るまで、じっとこちらを見つめていた。



*


「少しクマが濃いな。昨日の夜はよく眠れなかったか?」
別に、と返しながら、私は内心焦る。
こいつは無駄に眼が良い。自分が苦い顔になるのを感じた。

私はリトを引き取ってから定期的に三好の家に出向くようになった。
毎日てんてこ舞いで、どうしても猫の飼い方についてたずねる必要があったし、祖父との関係性も気にはなっていて、あれこれ聞きたかったからだ。あと、出される和菓子が美味い。
でかい厄介事を引き受けさせられたのだから、私も三好に厄介がられるくらいふてぶてしく居座ろうという悪戯心もあった。
接していると三好はなかなかに頭がきれて、洞察力があることが分かる。
たまにハッとするようなことを言ってくるので心臓に悪い。
昨日の夜のことも言い当てられるとは。


気づいたら泣けなくなっていた。

最初は気づいてすらいなかったし、気づいてもしばらくは、そのことについてなんとも思わなかった。
しかし、違和感を認識し始めてからは。
当たり前に備わっている人間の機能が、私は欠けているのだと認識しはじめてからは、どんどん崩れていった。
感動すると話題の映画をみても、小説を読んでも、勝負事で勝っても負けても、友達が出来なくても、痛みに襲われても、泣けない。
悔しくても悲しくても。というか、そういった感情の動き自体、次第に無くなっていった。

生まれて間もない赤子は息をするために泣くらしい。
なら私は
泣けない私は
そのうち息をすることすらおぼつかなくなるのか。
己に人間としての欠陥を感じると、なんとなく息がしづらくなって、なぜかその感覚がずっと抜けなくなってしまった。

ため息はつけるのにな。と、ため息をつきながら思う。
「なんだ、やっぱり何か悩みでもあるんじゃないか?」
しばし考えて、
「必ず涙するなんちゃらとか、号泣必至とか、キャッチコピーでよくあるだろう」
とりとめもないようなことを浮かんだままに返した。
「それって、泣けない人間を排除しているようで、なんか嫌だ。」

「ふむ、そんなふうに感じるなら、いつものように斜に構えて...」
わざとらしく首を傾げたりして、
「泣けない私を排除する世界が悪いんだ、って思って良いと思うよ。泣けないのは悪いことじゃない。」
だから堂々としていなよ。
凪ぐようにそう言う三好。

は、
「別に私が泣けないだなんて一言も言っていない。」
見透かされたことを認めたくなくてプイッとそっぽを向くと、三好はなぜか猫みたいな人だねえ、などと言ってにんまりと笑う。

何を言うんだか。
目を細めたり、にんまり笑ったりする行動一つ一つにしても、のんびりしているように見えて抜け目なくて、性悪で、変に感が鋭かったりする性格にしても
猫みたいなのは、明らかに三好の方だろ。


*


私のイージーモードな毎日が、ドタバタに侵略されてから少し経った。
もう心を乱されずにいられる場所は、もはや学校だけだ...と思っていた矢先、事件は怒ったのだ。

先程からやけに慌ただしく教師たちが廊下を走っている。
普段は廊下は走るななどと言っているくせに、どうしたどうした。
とはいえ、愚かな野次馬どもに加わる気もない。うるさいし、めんどくさい。
ぼんやりと窓の外を眺めるのが一番、と程よく無視していたのだが今しがた聞き捨てならないことを聞いてしまった。
「なんか薄茶のー、子猫?、が校内に入り込んじゃったらしいよー。」

急いで席を立ち確かめにいくと、たしかに。

うちの猫が人々の隙間を縫ってあっちこっち走り回っていたのだ。
一体どういう状況だ。
激しく頭を抱えたかったが、さすがにこれは言わなくてはならない。

「す、すみません…その猫、うちの猫で…」
思ったより、声が掠れたな。
野次馬や教師たちの視線が一斉に集まり、ついでにリトも私を見つけると私の元へ一目散にやってきた。

私の後をついてくる習性は理解していたが、まさか学校にまで来るとは思わなかった。
いつも戸締りはしっかりしているから大丈夫だと思っていたが、ついてきているということは何処かから抜けてきたらしい。
教師と生徒たちの視線が痛い。
「す...すみませ...」
さっき出した声よりもさらに掠れた声が、己の喉を漏れ出ていった。

結果から言うと、とりあえずこの事件はことなきを得た。
野次馬たちの反応はあくまで野次馬程度のものに過ぎず、さすがに呼び出し事情聴取は食らったが、詳しく説明し謝罪したら先生諸君からのお咎めも軽いものですんだ。

ようやく下校の時間になったので、先生に預かってもらっているリトを引き取りに行ける。
今日は何ともまあ疲れる一日であった。

「ね、松風さんちの猫ちゃん、かわいいね。」
「え...あ」
急なことに判断が追いつかず間抜けな声を出してしまった。
「あ、りがとう...?」
咄嗟に言葉を捻りだして現状把握に脳を動かす。
「ふふっ、なんで語尾にはてな」
ずいぶんと柔らかく、女の子は笑った。
「私、右斜め後ろの席の真帆っていうんだけど、覚えてる?」
覚えていなかったので、自分から名乗ってくれて助かった。
「...猫ちゃん、よかったら今度撫でさせてほしいなー。」
あまりにはにかんだように真帆が言うので、逆にこちらの緊張が少しとける。

「今から先生に預かってもらってたうちの猫、迎えに行くから...一緒に行く?」


*


生活が急変してから二ヶ月程過ぎ、縁側で寝転がっていても、とくに冷たい茶などを飲みたいとは思わなくなってきていた。
三好もそう感じているのか、今日出された茶は暖かい。
じゃれつくリトを適当に撫でながら三好の家の縁側で和菓子と茶を出され寛ぐことは、もはや日常である。

「そういば貴良、少し前まで友人は不要だ!とか言っていたが、その考えは変えたのか?」
「なんでまた急に。」
「いや、貴良が友人らしき人間と帰っているところを見たのでなあ。」
いつの間に見られていたのか。
あの一件以来真帆とはよく話し、一緒に下校することも増えてきたのだ。
「友人というわけでは...」
「では友人ではないのか?」
そう尋ねられたとき、すぐに肯定せず、沈黙する自分に驚いた。
よく考えると自分でも自分の心境の変化が分からず、答える代わりに話を逸らす。
「別に考えを変えたとかいうことは無い。」
「ほーう」
懲りもせず、いらぬことを考えているであろうムカつく顔は無視だ無視。
だが不思議と、自分の心境の変化にはムカつかない。いや、それどころか期待とすら言えるような胸の高まりを感じた。




雲間から光のきざはしが降りるのを見て、少し微笑んでみたり。
明日は自分から真帆に一緒に帰ろうと誘ってみようかなどと考えたり。
リトの夏毛が冬毛に生え変わるように、自然に。
自分は確かに変わっているようだった。
何事も移り変わる。
そう、何事も。
色なき風が心地よく頬に触れた。


*


私が行くと三好はすぐにやってきて出迎えた。
「やあ、ずいぶん来なかったから心配していたぞ。たしか七日ぶりだ。」
私が何も言わずに縁側に腰掛けると、少し怪訝な顔をする。
「なんだ、リトは一緒じゃないのか?」
三好は目がいいから、噛み締めた唇を見られないように俯いた。

「池に落ちやがった」
「は、」
「死んだよ。」

「それは…」
三好が何事かを口にしようとする気配を感じたが、それは音にならず、しばらく沈黙のみが流れた。
「そうか…それは、寂しくなったな。」
重苦しく流れる空気が、いっそ今は心地よかった。

こんなときにも

「こんなときにも涙が出ないんだよ。」

両膝を引き寄せてうずくまった。
「いつか三好は泣けないのは悪いことではないと言ったが、やはり私は、どうしてもそうは思えないんだ。
こんなときに泣けない自分が、心の底から気持ち悪い。」
口から吐き出される言葉は、激情にまみれた人間らしいものではなく、どこまでも空虚に響く機械的なものだ。
「祖父が死ぬ少し前くらいから泣けなくなって、祖父が死んだときも、一滴だって涙は出なかった。」

思い当たるきっかけは、祖父の死期が近づいていると分かって泣きそうになったときに、祖父に泣くなと言われたこと。
今でも夢に見る程に印象に残っている。
でも祖父は悪くない。
祖父が私を元気づけるためにそう言ったのは分かっていた。
"泣かない"のと"泣けない"のは違う。

「辛いはずなのに、苦しいはずなのに、私の中にあるのは空っぽだけなんだ。」

ぽつりぽつりと言い出すと止まらなくなった。

「生きているのに常に息苦しい。死んでいるみたいな心地なんだよ。」
声が震える、しかし私の瞳は乾いたままだ。

「なんでこんな空っぽな私が生きていて、母さんが、おじいちゃんが、リトが死んでいく。
それならいっそ...みんなの代わりに私が、」

「馬鹿なことを言うなよ。」
発せられた声にこもった、言葉に出来ないほどのものを感じて私は顔をあげた。

「馬鹿なことを言うな。」
繰り返す三好は、本当に辛そうに顔を歪めている。

「意地張るのも世界を憂うのも、泣きたくないのも泣きたいのも、全て貴良の心の動きには違いない。それら一つ一つが全て豊かな彩りだ。俺がこの数ヶ月見てきた貴良は、ぜんぜん空っぽなんかじゃなかったよ。」
そういう三好の声が、私の耳にあまりにも優く響く。
「どんな小さな心の動きでも、貴良のなかには確かに残っているはずだ。」

リトとの日々も。

「貴良は、それを全部無かったことにしたいのか?」

視界が、
揺れた、気がした。

私は。

本当はずっと、これでもかってくらい、心を揺れ動かしたくて。感情を貪りたくて。
でも、おじいちゃんが言うように、泣いたってどうにもならないし。
心を動かせば動かすだけ、苦しくなるのは私で。誰も助けてはくれなくて。だから。

両膝に顔を押し当てると、想いの結晶がじんわりと滲んでくる。

何かが優しく頭に触れ、一拍遅れてそれが三好の手だということに気づく。

なぜか悪夢を見た夜に顔を舐めてきたリトのことが思い起こされ、
私は久しぶりに決壊した。

どんなに大きく声を張り上げても、三好は私が収束するまでずっと、穏やかに頭を撫で続けていた。


*



疲れて寝たのか、ただ静かにぐったりしているだけなのか、しばらくすると貴良はピクリとも動かず、音も発さなくなった。

"再会"した当初は、ずいぶん変わったなという印象だった。
幼い頃の貴良は、ためらわず笑って、泣いて、ころころ表情を変えるような女の子だったから。

大して深い関わりを持ったわけでもなかった。貴良が俺を覚えていなくても当然だろう。
しかし俺は貴良のことを、それなりによく覚えていた。
急に両親が死んで大きく環境が変わってから深く世話になった人の孫だから、ということもあるのだろうが。
しかしやはり、
お世話になりっぱなしだったじい様と比べると圧倒的に関わりは薄かったが、それでも貴良が印象に残っているのは、あのとき交わした言葉が俺を救ったと言っても過言では無いからだろう。

ある日。
なにやらうちのばあ様と松風のじい様が二人で長話を始めたから、それぞれの連れである俺と貴良は自然二人で話し始めた。
最初は社交辞令のような意味の無いことを話していたが、やがて不思議に、俺の隠れていたほの暗さが首をもたげた。

「貴良は、お父さんもお母さんも居ないんだろ。生きていることが辛いって思ったことは、ないのか。」

「なんで?
両親がいなくても私はいるから。
おじいちゃんが言うの。迷うことなく誇り高く生きろって。
だから私はだいじょーぶ。」

たったこれだけ。

たったこれだけの言葉なのに、その言葉によって、俺の心のほの暗さは消え失せた。
たったこれだけの言葉なのに、なぜかそれは俺の中に強く響いて、今日まで残ってしまった。


時が経ち、再会して、
最初はずいぶん変わったと思ったものだが、付き合っていくうちにそうでもなかったということに気づいた。
意外ところころ変わる表情に、打ち解けると軽く動く口、うちの菓子を食べて幸せそうにしている表情まで。変わっていない部分はところどころある。


かすかに寝息が聞こえてきた、ということは寝ているのか。

さっきまで聞いたことがないくらいの大声で号哭していた少女の頭を、また一撫でした。

「大丈夫。」

おまえは「だいじょーぶ」だ、貴良。

以前救われたように、俺も、おまえの助けになれるのなら。

松風のじい様の置き手紙に書かれていた文言は、実は「困ったときは孫の貴良に頼れ」でない。

____貴良を頼む

言われなくても。

目の前で寝息を立てている「可能性」を見つめながら、己の唇がニッと弧を描くのを感じた。


*


軽く寝てしまっていたらしい。
顔を上げたら、辺りが少し暗くなっていた。

「平気か?」
三好の尋ねる声で、いろいろな事を思い出し、その上で「うん」と返事する。
声を出すまで気づかなかったが鼻声になっていた。
本当に私は、泣いたのだな。

実際に泣いてみると、それは簡単で、私がずっと泣けなかっただなんて信じられないほどだ。

でも、世界は確かに変わっている。これからも変わっていく。

私の世界には三好がいて、真帆がいて、リトがいること。
そんな奇跡が、今となっては当たり前のように私に馴染んでいるのだ。
そう思うと、さすがに世界が簡単で、つまらないだなどとは言えないな。
世界は難しくて、だけど、だからこそ美しい。
「くっ...ふふ」
思わず吹き出してしまった。
だって、それはすごい違いだ。

吹き出す私に、三好は不思議そうに首を傾げたが、口元はどこか楽しそうに綻ばせていて。

群青の空にはもう点々と星が光り、あまねく空を輝かせていた。


きっと久しぶりに泣いたせいだな。
子供みたいに鼻をグズつかせながら、そう結論づける。
少しだけ息がしやすくなった気がした。