いのちとはなんなんだろうか。
 そんな問いを自分自身に投げかけたことのない人はいないのではないかと私は思う。

 いのち、誰しもが知っていて、かつ誰もその実態を知らない。

 まずはじめに、いのちの形について考えてみよう。
 いのちにはおそらく形がない。形について考えようと言っておきながらなんだが、いのちに形はないだろう。いや、ないと言うのは少し違うかもしれない。
 おそらく私達は、いのちの形を目で認識することはできない。
 それは周知の事実だ。
 いのちは概念の様なものであり人間が認識できるものではない。
 認識できないのに形などあるわけがない。と言う問いがおそらく今、あちらこちらから飛んでいるだろう。
 しかし、認識できないものにもおそらくおおよその形はある。
 その形を考えよう。
 いのち、その形はおそらく人や生物たちの生き方に由来するのではないだろうか?
 幸せの形がたくさんある様におそらくいのちにもたくさんの種類がある。
 そして、幸せの形はたくさんあれどその本質を抽出できる様にいのちにもその本質があるのではないだろうか。
 私がこの短編集の一コマで考えるのは“いのち”と言われるものの本質そのものである。

 私は小説や評論を書くと言う経験が薄い。それゆえにまずは幸せと言うものと比較しながら考えてみたい。
 
 では、いのちの本質を考えるために幸せというものの本質を考えてみたい。
 まずはじめに共通認識として、幸せを感じる瞬間は人それぞれである。
 好きな人と共に過ごす時間に幸せを覚える人もいれば、
 好きなことをしている時間に幸せを覚える人もいる。
 友人と遊びに行ってボウリングやカラオケで楽しんだり、
 会社の同僚と吞みに行ったり。

 幸せは自分が好きなことや、楽しいことをしているときに感じる。
 逆に怒っている時や悲しんでいる時など、マイナスの感情を持っている時に幸せは感じられない。
 ここから導き出される幸せの本質は
 “自らの日々を満足させるもの”と言う様なものなのではないだろうか。

 では同じ様にして、いのちの本質を考えてみよう。
 しかし、ここにきて問題が出てくる。
 そもそも、いのちと言うものは自身で感じれれるものなのだろうか?
 例えば、生きていることを実感するために自分の手首を剃刀で切る人がいる。
 その切った時の痛みでその人は生きていることを実感させる。
 しかし痛みをもってしても、いのちは実感できない。

 それに気付いてふと思った。
 もしかしたら、いのちと言うものは自身の体の中にあるものではないのかもしれない。と。

 いのちが体の中にない。
 そう考えるといのちを実感できない理由も本質でなければ形を表せない理由も人間が認識出来ない理由も説明がつくのではないだろうか。

 では、いのちはいったいどこにあるのか。
 おそらくそれは人と人との間、であろう。
 理由として、
 いのちは体の中には無いこと。
 そして、体の中に無いと言うことはそもそも、所有していないと言うことなのでは無いか。
 であれば、いのちと言うのは人が人との繋がりの中に生まれるのでは無いかと言うことだ。
 では、その形は自分ともう一方の人との関係性によって変化するのでは無いだろうか?

 であれば、もしかするといのちとは人と人との関係性を表すものなのかもしれない。

 いのち、誰しもが知っていて、かつ誰もその実態を知らない。
 いのちとは何か、その問いの答えを私は知らない。