委員会の仕事が終わると、まだ外は夕方なのに明るい。運動部の生徒の声が響く校庭をあとにして、喫茶店に二人は向かった。日の当たらない校舎から外に出ると、日光はまだ高く、光が素肌に突き刺さる感じがする。思わず手のひらをおでこに当てながら片目をつぶる。
「災難だったよ。委員会なんて入るつもりなかったのにさ」
時羽はわざとうんざりした顔を向けた。
「どうせ部活やっていないし、暇なんでしょ」
「まあ、部活の代わりだと思えばいいか」
時羽は開き直った顔をした。聞きづらいが、少し気になる質問をした。
「どうして、その能力を身に着けたんだ?」
「犯人を捜すため」
「犯人?」
雪月の意外な答えに時羽は驚いた顔をした。
「私のお母さんが事件に巻き込まれて死んでしまったの。工事現場の下を歩いていたら鉄骨が落ちてきたらしいの。だから、遺骨に触ると最後の記憶が見えるかもしれないと思って」
「たしかに、その人の一部や物にも人の念がついていることが多いから、物の記憶も見えるんだよな」
「でも、何も見えなかったの。突然の事故だったし、多分犯人の顔を見ていないのだと思う。周囲の物も調査したけれどだめだった」
「そうか」
時羽はそれ以上何も言えなかった。普段、仕事として幻想堂の客に接するよりもクラスメイトという近い存在は同情を感じるものなのかもしれない。自業自得の客たちはちゃんと寿命という対価を払って何かしらを手に入れる。これは同意の上だ。目の前のいつも明るい雪月の曇った顔は初めて見る表情だった。
「でも、散々調べても何もわからなかったから、少し諦めがついたっていうのはあるかな。だって、幻想堂に犯人逮捕できそうな商品、あんまりなさそうだし」
「たしかに、運とか人の心とかお金では買えないものを売っているけれど、過去に戻るとか、事件を解くとかそういった商品はないからな」
「誰にも話していない秘密、共有しちゃったね」
いたずらな笑顔で時羽の顔をのぞきこむ雪月は大きな悩みをかかえているようには見えない普通の女子高校生に戻っていた。
喫茶店に向かいながら並木道を歩く。人と一緒に帰るということ自体初めてで、歩調を合わせるという行為だけなのに、時羽はどうにもむずがゆい気持ちになる。
「今日は普通のコーヒーだから、前回とは違う普通の味だぞ」
「やっぱり時羽君って優しいよね」
「優しい?」
人に嫌われていると思っている時羽は耳を疑った。
「図書委員の話は断れないし、意外と私の話も聞いてくれるし。目つきが鋭いから、見た目は怖そうなのにね」
最後の一言が余計ではあるが、人に好意的な意見をもらったことがないと思い込んでいる時羽は少し、戸惑う。小学生の時以来、時羽の自己肯定感はだいぶ低い。
「それは優柔不断なのと、お客様のアフターフォローという観点で」
と言いつつ、咳ばらいをし、言葉につまる時羽。そうしているうちに、幻想堂に到着した。
「ただいま」
「おかえり」
夕方から夜にかけて開店する一見普通の喫茶店には、時羽の母親と妹が店にいた。
「あら、あなたは」
母親は何年も前の客のことをちゃんと覚えていた。
「時羽君のクラスメイトの雪月風花です」
「お友達なんて珍しいわね。もしかして、かわいい彼女ができたの?」
にやけながら母親は時羽に向かって言葉を投げかけた。
「まさか。また、この店のコーヒーが飲みたいと言われて、ここへ連れて来ただけだって」
時羽は大げさなジェスチャーで全力否定をする。
「うちのコーヒーは飲む人や日によって若干味は変わるのだけれど、味は保証するから」
妹がコーヒーの用意をする。
「あれから、能力は役になった? 本当は若い人と寿命の取引をしたくないのが本音だったんだけどね」
ため息交じりに母親が雪月に質問する。能力は持った者次第で、善にも悪にも使用できるし、役に立つかどうか、問題が解決するかどうかは幻想堂の責任の範囲外だ。
「事件は解決できなかったけれど、精一杯やるべきことはやったという達成感はあります。残り少ない人生を私は思う存分生きるつもりです」
「そうよね。楽しい時間を過ごしてほしいと思っているわ。その力でいつか解決することもあるんじゃない?」
「解決することはあるかもしれませんね。だから、あきらめずにこの能力は大切にします」
にこりと笑った雪月の顔は勇敢に見える。命と引き換えに何かを得た者は普通の人間よりも強いのかもしれない。あるいは、そういった強い精神を持っていなければ命と引き換えに何かを得るということはしないのかもしれない。
そして、残り少ないというワードが時羽は少々気になった。たしかに、見る力を得るにはそれなりに寿命をいただくが、10代であれば残り少ないということは普通はない。
「コーヒーをどうぞ」
妹がもってきたマグカップは真っ白だけれど、ふちにある模様がとてもきれいだ。客目線ではじめて幻想堂のコーヒーを時羽は見つめた。
「じゃあ、私は一旦自宅に戻るから、あとはよろしくね。金成《かねなり》となかよくしてあげてね。この子、友達少ないから」
母親がエプロンを外して、時羽に店のことを任せて帰宅した。
「この子、友達少ないからの部分はよけいだっつーの」
時羽は黒いエプロンをつけて、店に立つ。今の時間は客は他にいないので、時羽の自宅に雪月が訪ねたような雰囲気になっていた。
軽食やデザートの下準備やコーヒー豆のストックも母親が完璧にしてあったので、特にやることはなかった。
「ねぇ、この能力を使って自分以外の人のために生かせないかな」
「どういう意味だ?」
「たとえば、学校で落とし物があったら落とし主に届けるとか、いたずらがきの犯人をつかまえるとか学校の事件の解決に役立てたいなって」
「君の力は科学の力で証明できないし、事件解決の際に特殊能力をかくして解決するのは至難の業だぞ」
「名探偵みたいに解決するわけじゃないから、こっそり助けるとか届けるとか。そういったボランティアに活かそうかなって」
「まぁ、俺は関与しないけど」
面倒なことが大嫌いな時羽は断固拒否の姿勢を作り、見えない壁を作る。時羽バリアだ。小学生の時以来、嫌われ者だと思っている時羽は自分の壁に閉じこもる癖があり、外部と遮断する癖がついている。
ただまっすぐにこちらを見つめる雪月は何かたくらんでいるのかもしれない。時羽が断ることができない性格というのを熟知しているのだから。
「いらっしゃいませー」
夕暮れ時、営業用の笑顔で時羽が出迎える。そろそろ夕食を食べに来る客がやってくる多忙な時間帯だ。
スピードと誠実な接客が大切だ。ぽうっと喫茶店のランプが灯る。
ランプに導かれたかのように一人の少年がやってきた。
入ってきた男性客はとても暗い表情だった。絶望という表情はまさにこのことだろう。
「あの……ここって寿命を取り引きしているんですよね?」
「しておりますが」
メニュー表を時羽がもってこようとすると、高校生くらいの少年は申し訳なさそうに確認を取る。少年は一生懸命ネットなどで情報収集をしてこの喫茶店にたどりついたらしい。その答えに少しばかり安堵の表情を見せた。
「実は、寿命を譲渡したいのですが、手数料はどの程度かかりますか?」
「寿命譲渡のお客様ですね。少々お待ちください譲渡申込書をお持ちします」
譲渡が可能ということに少年の頬は緩むが、手数料がどの程度なのかとても不安に感じていた。少年はまだ17歳だった。高校生が払うことができる金額はしれている。
「ここに名前を書いてください」
譲渡希望申込書という紙を時羽が持ってきた。
「手数料はかかりますか?」
「ここのコーヒーを1杯注文をすればそれ以上のお金はとりません」
「本当ですか?」
少年の表情は明るくなった。
「あと、ひとつ何かお食事でもいかがですか?」
少し考えてサンドウィッチを指さした。
「俺、名前は森沢といいます。同じ高校の女子と付き合っているんですけど、彼女命がもう長くなくって。医学がダメなら俺の寿命を譲るしかないと思って」
「お客様は一途で優しい方なんですね」
「彼女とずっと一緒にいたいと思っています。結婚して、子供を育てて――」
「じゃあかなり寿命を譲らないといけないですね」
「そうですよね。俺、なるべく同じくらい生きていたいんです。今どれくらい寿命が残っているかわかりますか?」
「本当は積極的に教えることはしておりませんが、今回の場合は同じくらい長く生きたいという希望ですので、特別持ち寿命を教えます」
パソコンで何やらデータを確認したあと、時羽は森沢の隣に座って説明をはじめた。
「あなたは97歳まで生きますね。比較的長生きですね」
「あと、80年生きるってことは40年彼女に寿命を譲れば俺たちは57歳で死ぬってことですか?」
「40年も寿命を譲るのはどうかと思うので、せめて20年くらいにしたらいかがですか?」
「そしたら、彼女は37歳で死ぬことになるじゃないですか。俺は寿命を40年譲渡したいんです」
真剣な申し出だ。
ボールペンを取り出すと森沢は静かに名前を書いていた。森沢豊は川瀬えりに40年分の寿命を譲渡すると名前を記入して、最後にサインをした。少年は満足気な顔をした。若さゆえの一途な思いなのかもしれない。死ぬ時期がわかっていてもそれでも彼女と一緒にいたいという熱い思いは尊敬にすら値するものだった。
満足な表情で注文したコーヒーを砂糖とミルクを多めに入れて飲む少年の顔はまだ幼い部分と大人の部分が合い混じった表情だった。そして、シャキシャキレタスとたまごのサンドウィッチを頬張る。
「一途な人は好きよ。でも、愛って永遠とは限らないのにね」
時羽の妹が水をつぎ足しながら少年に問いかける。とても小学生とは思えない。
「俺たちは永遠だと思うんだ。これは直感だよ」
少年のまなざしには迷いがなかった。少年はコーヒーを飲み終わるとすっきりした顔をしてにこやかに帰宅していく。
「恋は盲目ってことかな」
時羽は皮肉めいた表情をした。
「あの少年は、彼女と別れることになることも知らずに寿命を譲渡するなんて、ボランティア精神豊富よね」
妹のアリスがため息をつく。
「若い時は特に一途で熱い想いを抱えている人が多いんだよ。それが人間さ」
明日のことなんて誰にもわからない。だから、命は大切にしたほうがよいと時羽は思っているのだった。誰よりも命と向き合っているからそう思うのかもしれない。
「私は、気持ちがわかるなぁ。まっすぐな気持ちでいたいけれど、相手は同じように想ってくれるとは限らないのがせつないよね」
雪月が同意する。
雪月は今日はアイスティーにガムシロップを入れて飲んでいた。放課後は読書や宿題などの勉強をしながら毎日ここで過ごすのが日課になっていた。一人暮らしの自宅に戻っても、ただ孤独が待っているだけだ。しかし、ここにいると様々な客が来て、人間ドラマを垣間見ることができる。そして、時羽の仕事ぶりを見ることが一種の楽しみにもなっていた。
「時羽君は、彼の気持ち理解できる?」
「理解できねーよ。そこまでお人好しじゃないし」
「人を本当に好きになれば、きっと理解できると思うなぁ」
「俺にそんな日は来ないと断言できるがな」
本当に時羽は寿命を譲渡する人の気持ちが理解できなかった。まさか、時羽本人がそんな気持ちを持つ日がくるなんて、この時は思ってもいなかったのだろう。
失恋した女性が仕事帰りにとぼとぼと歩いていた。彼女の名前は水沢。失恋と言っても詐欺にあった上に失恋したという最悪なパターンだ。貯金を全て彼のために使い、趣味だった貯金は底を尽きた。男は、元々金のために水沢に優しくしただけだったのだ。愛情を感じていた水沢は全ては金のためだという真実に気づいてとても辛くなった。今後どうやって生きていこう。今後を考えるだけで彼女を苦しめた。忘れることができたらいいのに。彼のことだけきれいさっぱり忘れることは普通できるものではない。そう思って悲しみのどん底状態で街中を歩いていると、素敵な雰囲気の歴史を感じる喫茶店があった。入り口には貼り紙があり、とても気になることが書かれていた。
『嫌な記憶を忘れることができます。あなたの時間を売ってください』
不思議なことがあるものだ。記憶を忘れることができるなんて。
さらに不思議なことがその下に書いてある。
『好きな人の気持ちを購入できます。詳細は喫茶店幻想堂へ』
まさに今自分が思っていたことを代弁してくれているようなポスターをくいいるように見つめた水沢は喫茶店の扉を開く。迷いはなかった。
「いらっしゃいませ」
若い男性が出迎えてくれた。優しそうで信頼をおけそうな雰囲気があった。
「入り口に貼ってあるはり紙なのですが……」
いたずらや冗談かもしれないと水沢は控えめに聞いてみた。
「記憶をなくしたいとお望みですか? それとも人の心を買ってみたいですか?」
「心を買うこともできるのですか?」
「もちろんです。ただし、お金ではなくあなたの寿命にて取引となります」
「寿命?」
驚いた水沢は少し大きな声を出してしまった。
「寿命と言うとみなさん驚かれますが、実際はあなたの時間を少し売ってくださいという意味です」
「時間というと、1時間とか1日とかそういったことですか」
「寿命は時間ですからね。ほんの少し生きている時間をわけていただければなんでも売ることは可能です」
「なんでも売ることができる?」
「うちの喫茶店は命の取引をする店なのです。お金では買えないものが手に入りますよ」
「寿命を売るって言うと怖いけれど、時間を分けると考えると少しくらいならって思いますよね。でも年単位とかそういったことですか?」
「相手の心を買うならば寿命に換算するとしたら5年くらいでしょうかね」
「でも、心っていっても永遠に自分の物にできるのですか?」
「はい。どんな相手の心でも永遠に自分の物にできますよ。浮気をすることはシステム上ないですね」
水沢の目が輝く。忘れるということも考えたのだが、相手の心を買うことのほうがいいようにも思えた。
「でも、もっと好きな人ができたらどうしますか? もっといい人がいるかもしれません」
たしかに、その通りだ。詐欺師なんかと一緒にいてもいいことはないのかもしれない。
「じゃあおためしで心を買ってみますか? お試しの場合はコーヒー1杯注文していただければそれで取引は成立です」
「お試しだから、本番じゃないのよね。あとで取引をやめてもデメリットはない?」
「大丈夫ですよ。コーヒー1杯でおためししますか?」
「はい」
水沢は特製のブラックコーヒーを注文した。コーヒー豆の香りが店内にたちこめる。コーヒーに包まれた水沢はなんだか不思議な気持ちになる。なんだろう? このやめられない香りは。とても不思議なのだが、今まで味わったことのない香りだった。とても心地よくやみつきになりそうな香りだった。今までたくさんの香りを嗅いできた水沢だが、このような深い味わいのある香りにはであったことがなかった。もちろんコーヒーの香りであり、怪しい薬の香りではない。
コーヒーをひとくち口に含むと、今まで飲んだコーヒーのどんな味わいよりもおいしく味わい深い香りにつつまれた。まるで天国という世界を体感してしまったかのような幸せな気持ちになった。
「ここのコーヒー豆は特別な香りですよね。今まで私が知っているどの香りとも違う。味もコーヒーならばどれも一緒だと思っていたけれど、ここのコーヒーは何かが違いますね」
「ここのコーヒーはみなさまの時間を抽出して作っているので、きっと特別な味わいがあるのでしょう。それぞれの時間の味わいによっても変わりますから。飲んだときによって味は違いますよ」
時羽の言っている意味が少々わからなかったが、とにかくおいしいことは間違いない。そして、いつのまにか飲み終わった空のティーカップだけが残っていた。
「ここからがお試し時間です」
「どういうことですか?」
水沢はお金を払い、帰宅しようとしていた。
「お試しの時間はここからはじまります。今、彼の心はあなたのものですよ」
「そうなんですか?」
「素敵なお時間をお過ごしください」
時羽はにこやかに見送る。きつねにつままれたかのような不思議な話だが、おいしいコーヒーを飲んだことに水沢に後悔はなかった。そして、失恋という最悪の状態よりも悪くなることはないのだから、と思い家に帰る。
フラれたはずの元彼氏が家の前で待っていた。水沢はとても驚いた。しかも、今まで会っても面倒くさそうにしていた彼がとてもにこやかに手をふって近づいてきたのだ。今まで見たこともないほどの心からの笑顔だった。彼はお金がない。だから、いつもお金を貸してくれと言ってきた。貸さないと不機嫌になる。それでも好きだと思っていた。その彼がお金を渡さなくてもにこやかだなんて。水沢はうれしい気持ちになった。
「今、仕事しているの?」
水沢がきくと彼は答える。
「実は、仕事を辞めてしまったんだ。おまえと別れたことを後悔しているよ」
彼の財布には5000円くらいしかお金がなかった。それでも、水沢は自分が働いてこの人を養わないとという決意をした。やはり彼の顔も声も全てが好きだった。しかし、彼はやはり働こうという気持ちはなく、夢に向かって努力しているという話は口だけのようだった。このまま、この人を養う幸せもあるのかもしれない。
翌日、水沢は昨日行った喫茶店に行ってみる。そして、5年の寿命を渡すことを決意していた。
「5年の寿命で彼の心を購入します」
思いつめた顔で時羽に向かって声をかけた。
「そんなに簡単に5年もの寿命を手放してしまっていいのですか? 彼を忘れたバージョンも体験できますよ」
「本当ですか?」
水沢はほんの少し迷っていた。少しの迷いにその言葉は刺さるものだった。やはり寿命は普通増やしたり減らしたり自己管理ができないので、心のどこかで迷っていたというのが本音だった。
「コーヒー1杯で体験できますが」
「じゃあ、おねがいします」
体験するだけならば安いものだと水沢は快く受け入れた。
時羽は席に案内する。そして、時羽の案内してくれた窓際の席に着いた。外はたくさんの人々が忙しそうに歩いており、まるでこの店だけゆっくりと時間が流れているようだった。室内の観葉植物も水沢の心を和ませた。
「うちのコーヒーは気に入っていただけましたか?」
「はい。あんなにおいしいコーヒーははじめてでした」
「うちのコーヒーは特別なんですよ。みなさんの命のエキスが入っているので、その日によって味が変わるのです。飲む人の好みに合わせて変わるという特徴もありますね」
「飲む人によって味が変わるんですか?」
時羽が丁寧にコーヒーをドリップしている様子をながめていると、なんとなくだが、時がゆるやかに流れているような気がした。彼の所作がそう感じさせているだけなのかもしれないし、窓の外の騒がしさと店の中の静かさのギャップがそう感じさせているのかもしれない。少しずつコーヒーが落ちていく様子はまるで自分の心の迷いを映し出しているようにも感じた。わずかな迷い。それが小さいうちに決意がぶれないうちにここへ来たのだが、もうひとつの世界をお試しできるなんて。思ってもみないことだった。
「今日はどんな味でしょうかね?」
「ここのコーヒーを飲むことがやみつきになりそうです」
水沢はにこりとしてひとくちひとくち味わいながら飲み干した。
レジには妹のアリスがいて、お金を支払う際に水沢にひとこと言った。
「未来はこれから起こること以外にもたくさんあるの。ほんの一例だから、楽しんできてね。今日1日は彼のこと忘れちゃうわよ」
時羽の妹が水沢に説明する。
「彼?」
水沢は彼のことを既に忘れていた。思い出しそうで思い出せないむずがゆい感じがするが、水沢は思い出したいという気持ちにはなっていなかった。
「ひさしぶりじゃねーか」
ガラの悪そうな男が近づいてくる。
「誰ですか?」
「俺だよ、元カレのこと忘れたのか?」
「あなたのことなんて知りません」
全く知らない男が近づいてきた。新手のナンパだろうか?
「じゃあさ、俺がおまえに晩飯おごるから」
「なにそれ? 新手のナンパ?」
「忘れたなら思い出させてやろうか?」
少し強引なタイプの男性は嫌いではなく、むしろ水沢の好きなタイプだった。そして、よく見ると彼の顔立ちや声はかなり好きなタイプだということに気づく。彼は自分の夢を語り、そのために定職にはついていないという話だった。
「俺はおまえと付き合いたい」
真剣な顔で迫られると、ドキドキが止まらなかった。
♢♢♢
「いかがでしたか?」
気づくと水沢は先程までいた店内に戻っていた。
「あれ? 私ここにいたのですか?」
「2パターンありましたが、どちらにしたいですか? 忘れるだけならば1週間程度の寿命で結構ですが」
「忘れても、私は彼のことを好きになってしまうようです。今はふられた状態なので、少し時間を置いて様子をみます。久々に彼に会えてうれしかったけれど、本当にこのまま一緒になっていいのかよくわからないんです」
「時間はたっぷりありますよ。今度は純粋にコーヒーを飲みに来てください」
「飲みに来るだけでもいいのですか?」
「もちろんです。ここは本来喫茶店ですから。運命をおためししたければそれも可能ですがね」
にこやかに時羽は見つめた。
「もしかして、水沢さん?」
ふりむくと知っている顔の男性がいた。優しく整った顔は変わっていなかった。
「あなたは大学の同級生だった木下君……」
木下君はナポリタンを美味しそうに頬張っていた。
「ここの料理は何でもうまい。飯がうまけりゃ人生それだけで楽しいと思うんだよね。実は、ここの常連なんだ。まさか水沢さんに会うなんて、偶然だね」
木下君は相変わらずの優しそうな瞳と笑顔をふりまく。
呑気で幸せそうにただ食べている姿を見たら、人生あんまり考えすぎるとよくないなと思ってしまった。
なぜか彼にはそう思わせる力があったように思う。
木下君は水沢が学生時代に少し憧れていた学生で、特別仲良くなることもなく、卒業してしまった知り合いだった。
「実は、友達と映画に行く予定だったんだけど。ドタキャンされたんだ。もしよければ一緒に行かない?」
「私でいいの?」
「この映画なんだけどさ、興味あるかな? 水沢さんにもナポリタンひとつ。俺のおごりで」
木下は映画の内容をスマホで見せた。
そして、ケチることなくナポリタンをごちそうしてくれた。
そんな些細なことが水沢の心をぐっと引きずった。
この喫茶店には不思議な魔力があって、偶然をひきよせる力があるのかもしれない。目に見えない縁を感じた水沢は新しい気持ちに切り替える。ふられたらそこで終わりにしよう。悲しい気持ちにふたをした。新しい風を感じたからだ。
外に出ると、まるで別な世界のような都会の喧騒感が押し寄せる。道路に面しているので、空気の汚れがひどい。アスファルトに照り付けた太陽が直射日光をそのまま反射していた。道路に熱がこもって空気中には排気ガス。こんなに都会の空気は濁っていたのだろうか? 今まで気づかなかった。落ち着いてまわりを見たらもっと新しいことに気付けるのかもしれない。そして、ここへ来ればまたおいしいコーヒーが飲める。そう思うと失恋の心も少し癒された。失恋の辛さを話すことができるお店があるというだけで、心に余裕ができた。あの店は都会のオアシスなのかもしれない。
二人の影が歩道に長くのびる。それは、偶然という名の縁なのかもしれない。
「アリスちゃんは、小学生なのになかなかしっかりしてるわね」
雪月風花の指定席となった窓際の一番奥の席でにこやかにコーヒーを飲む。
「お兄ちゃんなんかと仲良くしてくれている雪月さんにはいつも感謝しています」
「ここのコーヒーが好きだし、このお店にいると落ち着くんだよね。滅多に笑わない時羽君の営業スマイルも見ることができるし」
「滅多に笑わなくて悪かったな」
「お兄ちゃん無愛想だし、目つき悪いからね」
「おい、俺を悪く言うなよ」
「雪月さんってお兄ちゃんのこと好きなの?」
「好きだよ」
当たり前のように好きだと言う雪月に、時羽は罠が潜んでいるのではないかと警戒する。時羽バリアが炸裂していた。雪月の言う好きの意味は時羽にとっての幼稚園児が好きだと言っている程度の認識で、恋愛感情を変に意識することもない。精神年齢が幼いことは、幻想堂ですらどうにもできないらしい。
「幸運というものがあれば、人間は幸せになれますよね?」
「無理矢理幸せにするならば、強運でしょうか?」
幻想堂に来た客が時羽に質問した。外は蒸し暑く、大学生くらいの客は汗だくになっていた。
「幸運と強運はイコールみたいなものですからね。ここで、強運を購入したいのですが」
「強度によって取引の寿命は変わってきます」
客は寿命を取り引きする店だということを知っていたらしく、特に驚いた素振りはなかった。
「僕はこれからの人生を幸せにするために運を買います。だから、命が短くなるのは困るんです」
「了解しました。だったら、こちらの寿命1年コースはいかがでしょう?」
メニュー表を持ってくる時羽。喫茶店での時羽は教室にいる時とは別人で、何かオーラが違う。そして、とても完璧で紳士的な接客態度だ。とても普通の高校生だとは思えない感じがする。クラスメイトが喫茶店での彼を見たらかなりギャップに驚くかもしれない。影が薄いコミュ力が低めな学校での時羽とはだいぶ違う。
「1年くらいならば……。まだ寿命はいっぱいあるかな?」
男は申し訳なさそうに時羽に質問する。
「詳しくはお伝えはできかねますが、平均寿命程度は生きる予定ですから、大丈夫かと」
紳士的にほほ笑む時羽。もちろん営業スマイルだ。
「僕は運が悪いんだ。だから、もっと幸せになりたい。少しばかりの寿命を売ってでも幸せな人生を送りたいんだ。それ相応の幸福が待っているんだろ?」
「もちろんです。こちらにサインをしてください」
契約書にサインをする。契約書には細かいことはあまり書いておらず、ただ1年分の寿命と引き換えに強運を買いますという文章だけが書いてあった。一瞬サインをする前に男はひるんだが、気合を入れてペンを握ってサインをした。
「こちらは取引のコーヒーです。これを飲むと契約は成立します」
「これで、幸せになれますね」
時羽は不敵な笑みを見せる。
「せっかくだから夜ごはんでも食べていきませんか?」
「じゃあ、オムライスをいただくよ」
卵がふんだんに使われたふんわりとろとろなオムライスは実はナンバーワンの人気メニューだったりする。
初めて来てこのオムライスを注文したということは、既に幸運をつかんでいると時羽は思った。
男はさっそく宝くじを1枚買った。しばらくしてから結果が発表された。男は忘れずに番号をチェックした。すると、当選番号が出たのだが、ちゃんと当選している。とはいっても10万円だ。くじびきでもはずればかりの人生だったので初めての当選は男にとって幸福な気持ちになる出来事となった。このお金で旅行に行ける。そう思って男はうれしい気持ちになった。
男は趣味で書いている投稿サイトのコンテストに書き溜めていた小説を出した。うまくいけば書籍化も夢ではない。しかし、1年ばかりの寿命で本当に幸せが訪れるのだろうか? コンテストの結果は4カ月後に発表だった。すると、最終選考まで残ったのだが、受賞には至らなかった。しかし、男ははじめて最終選考まで残ったことを誇りに思った。今まで1次選考すら通過したことがない。それを考えたら、すごいことだ。男は落ちたが、自信がついた。今まで自分の作品は1次選考通過すらできない実力のないものだと思っていたが、これからは少しばかり胸を張って執筆ができるだろう。そう思っていた。
数日後、運営からメールが来ていた。メルマガ以外きたことがないのだが、【重要】と書いてある。まさか!! と目を疑った。「書籍化についてのご相談です」とかいてある。受賞はできませんでしたが、優秀な作品だったので、書籍化したいという連絡だった。小説家志望の人間にとってこれほどありがたいメールがあるだろうか。男は心から喜んで、1年分の寿命を売ったことに間違いはなかったと確信した。
しかし、効力は思ったほど長く続いてはいなかった。楽しみにしていた旅行の前日に高熱に襲われてしまう。せっかくの楽しみにしていた旅行を棒に振るなんて、効力はなくなったと思い、元の不運な自分になったことをとても悲しんでいた。
腹痛があり、無理をすることもできず、痛みと布団の中で戦っていると、ニュース速報を聞いた。なんと、男が乗る予定だった飛行機が事故に遭ったそうだ。乗客の安否は不明で、多分生きている確率は低いだろうということだった。男は1年分の寿命を売ったことを改めてよかったと感じていた。
運というのは自分ではどうすることもできないことだ。たまたま事故に遭わないとか、たまたま編集者の目にとまったとかたまたま合格したとかそういったことは実力ももちろんだが運というのは大きい。
天気だってそうだ。楽しみにしていた遠足の日に大雨になり、行く場所が変更になったり、突然の大雨で運動会が中止になったり、子供の頃にちょっとした不運に見舞われることが多かった。ちょっと運がよくなることはお金では買えない幸福なのかもしれない。男は自分の腹痛が治って熱が下がっていることに気づく。たまたま体調不良になったことがよかったのか。改めて幻想堂に感謝して拝むのだった。
1年程度ならば寿命を売ってもいいかもしれないと思えるが、取引は慎重にしないといけない。
「あのお客さん、飛行機に乗らなくてよかったよねぇ」
妹のアリスがパソコンのデータを見て、つぶやいた。客は雪月しかいないので、この時間は比較的ゆっくりとした時間が流れる。
「あのお客さんはたしかに不運を背負っていたように思うけれど、実は幼少の時に不運だと思っていたことは、幸運だった可能性もあるよな。雨で中止になったとか行き先が変更になったとか行けなかったという事実は、事故や事件を回避していたり、中止のほうが楽しかったということもある。実際比べていないから、損している気がしているだけだと思うけどな」
「確実に幸運になるのかぁ。私も幸運になりたいなぁ」
雪月がのびをしながら願望を叫ぶ。
「最近、俺とばかりつるんでいて、友達関係とか大丈夫なのか?」
時羽は気になっていることを聞く。
「全然、平気だよ。時羽君といると面白いし」
雪月の事情を知らない時羽は納得するが、彼女が時羽といる理由がのちになって色々わかってくる。この時、雪月は悩んでいたのだろう。
才能はお金では買えないけれど、喫茶店幻想堂に行けば、買うことができる。嘘のような本当の話だ。
「才能ください」
色白の女子高校生が幻想堂にやってきた。制服は時羽と同じ高校のデザインなので、他のクラスの生徒だろうか。はじめてみる女子だった。しかし、この女子生徒、前髪が長く、目が見えない。一見、幽霊なのではないかという色白さで不健康そうなやせ型だ。きっと暗闇に立っていたら、幽霊だと勘違いして逃げ出す人が複数人いるだろうと予想ができる。
最近同級生の雪月はすっかり常連になり、宿題をしながら店に居座ることが多い。コーヒーを飲み終わってもしばらく店の一番奥の席で読書をしていることが多い。店の片隅にいても、席が空いていないというほど混みあうことはないので、迷惑がかかることもない。雪月と時羽の距離はここ最近自然と近い。
時羽は申し訳なさそうに、雪月と距離を取ろうと試みるが、雪月が距離をちぢめる。まるで昔からの友達みたいな感じだった。気を遣うこともなく接する関係。これは、雪月の壁を作らない「ぐいぐい行く性格」のせいなのかもしれない。距離を作らない人間関係の構築は雪月の得意分野だ。つまり時羽とは真逆なタイプだからこそ成せる技なのだろう。
時羽は人間関係を構築しないように得意のバリアで人を寄せ付けない。でも、雪月にだけは時羽バリアは効果がないらしい。
ちらりと客の様子を見たりはするが、雪月は素知らぬ顔をして宿題をこなす。彼女がいると心を見る力を活かして解決することもできるので、いてもらって困ることもない。
「才能は売ることは可能ですが、その大きさによって寿命の年数は変わります」
時羽はビジネスモードになり、幽霊のような見た目の女子高生に説明をする。
「私、小説を書いているんです」
蚊の鳴くような声、という表現が似合いそうな小さな声だ。
「小説家ですか」
「小説家になりたいけれど、ただの素人です。一次選考突破したこともありません。でも、雑誌でもフリーペーパーでもいいんです。自分の文章が文字として紙に掲載されたいんです」
「じゃあ、同人誌とかはいかがですか? 今は自分が書いたものを個人出版できるサービスもあるそうですよ」
「でも、誰かに認められてみたいんです。たとえば、川柳とか雑誌の片隅に何か自分の書いた言葉が載るだけでもいいんです」
「じゃあ挑戦してみたらいいのでは? 今はウェブでブログや小説を公開できる時代ですし。電子書籍を作ることもできるんですよね?」
「やっぱり紙がいいんです」
「そういうものですかね。今はペーパーレス化、IT化が進んでいるにもかかわらず、小説を書いている人は紙の書籍になることを望むものなんですね」
「今まで、雑誌のひとことコーナーとかポエムや川柳、そして小説などのコンテストに出したことはあります。しかし、全部落ちました。才能がないのです」
うつむく女子生徒はさらに暗い表情になったように思う。実際目が前髪に隠れて見えないのでなんとも言えないが、彼女は拳をにぎりしめる。
「女子高生ならば、モデルになりたいとか動画サイトの有名人になりたいっていう人も結構いますけどね」
「私、外見に自信はありませんが、外見を変えたいとか人前に出て目立ちたいとは思わないんです。自分の書いた文章で勝負したいんです」
「あなたの話を聞いていると、大物小説家になりたいとかベストセラーをねがっているわけではなさそうですね」
「はい、自分に自信を持ってみたいんです」
「将来の夢は小説家とか?」
「そこまでは考えていません。今、自分に何か自信を持ってみたいんです。それが文章だったんです」
少し考えて時羽は言葉を選んで話した。
「普通、寿命を取り引きするなんてありえないし、才能を買うことなんてできないという固定概念が人間にはありますよね。でも、あなたは実際に寿命とひきかえに才能を手に入れようとしています。この店では、寿命を譲渡する人もいます。小説など何かを作り出す人には固定観念という概念を取っ払う力が必要で、その意外性と描けることが才能だと思うんですよ。あなたはまだ若いし、脳が柔らかいと思うんです」
時羽の説得じみた言葉を一生懸命うなずきながら女子高生は話を聞いていた。
「つまり、何を言いたいかというと……創作の才能があなたにはあると思うのです」
時羽の言葉に女子高生は固まってしまった。まさか、そんなことを言われるとは思ってもみなかったらしい。今までそんなことを言われたこともない。
「ちょっとした公募に入賞できるようにするならば、1日の寿命で結構ですよ」
「それだけでいいんですか?」
「大きな文学賞となるともっと必要になりますが、どうしますか?」
「1日分の寿命を取り引きします。その代わりちょっとした文章の才能をください」
先ほどまで顔色も悪く幽霊のような顔をしていた女子高生が生き生きしてきたことに時羽は少し微笑んだ。しかし、時羽の微笑みは目つきが怖いが故、あまり優しく見えないので、女子高生は少しおびえた顔をする。それに気づくと、時羽は得意のバリアで保身に走る。人に嫌われたら、人の気持ちを受け取らないようにわざと壁を作るのが彼の流儀だ。
契約書とコーヒーを差し出す。女子高生は用紙に名前を慎重に書き込む。そして、コーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れたものを少しずつ飲む。
「私、コーヒーって苦いから苦手なんです。でも、このコーヒーは苦くない」
「飲む人の嗜好や味覚に合わせて味が変わるので、苦くないのですよ」
女子高生は不思議な顔をして、時羽の顔を見つめた。営業スマイルの時羽はスキのない笑顔だ。
「今日のおすすめはシフォンケーキがあるのですが、いかがですか? 添えられた生クリームが絶品なんです。生クリームがあるのとないとでは雲泥の差、味も本当に違いますよ。少しの違いでもあるのとないのでは別物です」
「私は生クリームみたいに添えられた脇役でいいんです」
「生クリームは枠役と見せかけた主役ですよ」
♢♢♢
「あったー」
フリーペーパー主催の地元の川柳コンテストの最優秀賞に選ばれた女子高生は、進路選択の渦中にいた。小さなコンテストで川柳の最優秀賞を取ったから大学推薦に有利になるわけでもないが、文芸部の彼女にとっては大きな自信につながった。そして、それは文学部に進路を決定するきっかけとなった。
彼女の夢は小説家やライターのような執筆業ではなく、国語の先生になることだった。大学で読み聞かせのサークルに入り、子供たちのために活動をしていると、将来の伴侶となる男性と活動を通じて知り合う。子供好きな優しい男性だった。
ちょっとしたきっかけが何かを生み出す。そして、未来が拓くきっかけになる。幻想堂はそんなきっかけを与える仕事をしているのかもしれない。
♢♢♢
「私、夢ってないんだよね。でも、最近そんなこと考えなくても自分の未来はないと思うとある意味気楽なんだ」
雪月が時羽に胸が痛くなりそうな話をする。
「どういう思考だよ。ちゃんと人間らしく自分を大切にしろ。身近に余命が短い人間がいると俺の心が痛いからさ」
「もしかして、私のために心を痛めてくれているの?」
「と―ぜんだ」
「時羽君の心に入り込んだみたいでちょっと嬉しいかも」
「俺は人として当たり前のことを感じているだけだって」
「だって、時羽君の映像は一般の人と違うから。人として当たり前じゃない映像が多いし」
「どーいう意味だよ」
「人間失格みたいな?」
「人間合格だ」
「時羽君は、私とならば、コミュニケーション取れるようになったよね。成長成長」
時羽ははっと気づく。たしかに、雪月とならばコミュニケーション取れるようになっているということに気づく。そして、その相手が3年後にはこの世にいない事実にどうにもならないもどかしさとせつなさが襲う。
雪月に誘われてきた花火大会。
花火大会の夜は町全体が賑わう。雪月の誘いで時羽は珍しく人ごみに足を踏み入れる。
「ねぇ、時羽君。すっごく満足そうだね」
下から見上げた雪月の顔も満足げだ。
「俺の心を見たのか?」
「見なくてもわかるよ。でもさ、奇跡的なことが起こるといいな。極めて稀でも、私が長生きできるとか」
そんな核心を真顔で言われると、時羽は何も言えなくなってしまった。雪月から生きる長さを奪ってしまった幻想堂の魔力を呪いたくなっていた。もし、そんな特殊な力が店になければ、この人はもっと長く生きていられたのに。
「どうして、取引なんてした」
珍しく時羽は雪月を送っていく帰り道で、憤りを隠せず強い語調で責めるように質問する。
「自分をもっと大事にして第一に考えないから、おまえは長生きできなくなったんだ。心を見る能力なんて身に着けても、解決できないことだらけだ。だから、おまえは馬鹿だ」
きつく言い放った。時羽が感情をあらわにすることは滅多にない、というかはじめてかもしれない。そんな時羽の怒りを直に感じた雪月は何も言えずにそのまま自宅に帰る。時羽は自分の無力さと限界を感じてどうすることもできないことが辛くなっていた。仲良くなればなるほど、別れることは辛くなる。
川のほうに向かって歩くと、生ぬるい風と共に屋台の香りや人々の喧騒が伝わってくる。夏の香りは心地いい。どーんという音と共に花火が打ち上がる。それは、今まで見た中で一番きれいな花火だった。大きな円を描きながら花びらのようなまるい花火を中心に、ハート型や輪が重なっているような変わった形の花火も打ちあがる。
この町の夜の景色が1年で最も華やぐ季節だ。人ごみが嫌いな時羽だが、雪月と一緒に見る花火は本当に美しいと感じていた。そして、それを時羽は言葉にせず映像で雪月に伝えることにした。彼女と繋がることで安心感を得ていることは意外な事実だと思いながらも、あと2回しか彼女はこの町の花火大会を見ることができないということに心が痛む。ズキッという音がする。
「時羽君って優しいよね」
「そうか?」
「私、中学の時に告白された男子と付き合った事があるの」
「初耳だな」
眉間にしわが寄る時羽。
「その人はかっこよくて、愛想がよくて、みんなの人気者だった。だから、きっといい彼氏になるのだろうと思えたの」
「ふーん」
時羽は少し睨むような表情になる。
「でもね、その人は私のこと全然好きじゃなかったんだって。付き合ってみてもほとんど連絡もなくて、私は真剣に付き合おうと思ったんだけどね。問い詰めたらただのゲームだったみたい。付き合えるかどうか賭けをしていたらしいの」
「なんだ、その男」
「男の人が怖いなって思った。でも、心を映像で見る力を得てからのほうが、本心が見えるからそういう人には近づかなくなったの。でも、見えなくてもいい友達の本心が見えたりするから、心にダメージも結構受けたよ」
「その能力は、メンタル的にきついよな。人間はほとんど裏を隠し持っている生き物だからな。心が映像化する力というのは言い方を変えれば、人の裏が見える力だしな」
「だから、誰も信じられないと思った。でも、時羽君に触れた時、私に対する感情がゼロで、そういうのが逆に新鮮だったの。好きでも嫌いでもない。自分は嫌われていると思い込んでいる一人ぼっちの時羽君にはすごく魅力を感じたの。心を盗み見ていくうちにどんどん好きになっていった」
「……」
時羽は嬉しいとは思ったが、それ以上の何かを言葉にすることはなかった。雪月には言葉にしない理由も含めて全部見えてしまうのだから。見られてまずいものは何もない。ならば、正々堂々としていよう。
時羽が視線を落とすと花火を見ずに、時羽をじっと見つめる雪月がいた。雪月は何だかんだで内面を見て好きになってくれたのか。そう思うとますます嬉しい自分がいる。視線が重なると心臓が早く波打つ。でも、相手が視線を逸らさないとそのまま見つめあう形になる。沈黙に耐えかねて、時羽が口を開く。
「誕生日来たのか?」
「うん、最近ね。16歳になったよ」
「夏生まれか。言ってくれれば祝ってやったのに」
頬が赤くなるのを感じるが、夜になっているのがある意味ラッキーだと感じていた。
「私は夏が好きなんだけれど、夏という季節をあと2回しか経験できないのかぁ。この貴重な夏を大事にしないとね」
花火大会の中で雪月は当たり前のように、まるで他人事のようにあっけらかんと話す。
映画のワンシーンのように空を見上げながら花火を見入る雪月は本当に美しい。あと2年と少しという命を怖がることなく受け入れている雪月は、普通の16歳の女子高生が達する心境の境地ではないと思える。不思議なくらい雪月風花は落ち着いてあと2回の夏を受け入れていた。
「俺から、毎年誕生日プレゼントを渡すから」
時羽は決意した顔をする。
「毎年って受け取ることができるのは再来年までだよ。だって……寿命尽きるし」
「そうはさせない。ずっとあと3年という季節を俺が毎年渡すよ」
「……どういう意味?」
雪月は意味が分からず、ただ茫然と時羽の顔を見つめていた。
「幻想堂の店員は他人に寿命を譲渡するならば1年ずつという決まりがあるんだ。だから、今年から、毎年この季節に1年ずつ、君に寿命をプレゼントするよ」
「そんなことしたら、時羽君の寿命が縮んじゃうよ」
雪月の顔が歪む。
「俺の寿命結構長いんだよ。人間が生きられる最高年齢くらい生きるらしい。だから、雪月に寿命をわけることはなんてことはない」
「でも、結婚したら奥さんに止められちゃうと思うし、子供も悲しむよ」
「どうせ俺は結婚できないだろうから、その心配は無用だ」
言い切る時羽は当たり前のように結婚できない宣言をする。まだ自分に自信が持てないのかな、と雪月は感じる。
「時羽君、だいぶ友達もできたし、人気者なのに。そんな悲観的なこと言わないでよ。この先、卒業したらそんなに私と会うこともないだろうし、そこまでする必要はないでしょ」
「それでも、毎年誕生日の日に俺は寿命を1年ずつわけるよ。譲渡は会わなくてもできるんだ」
その横顔を見た雪月は思い切って提案する。
「寿命を一方的にもらうだけじゃ申し訳ないから、私と結婚してよ」
「結婚ね」
何気ない一言を無意識に言葉にした時羽は、音として自分の耳で聞くことによって、改めて重要な話になっていることに気づく。
「け、結婚?」
戸惑いと焦りと驚きを隠せない時羽。思わずのけぞる。
「だって、今のところ結婚相手いないでしょ。私が結婚相手なら寿命を渡すことを忘れないだろうし」
「ああそうか」
変に納得する時羽だが、自分で自分にありえないだろ、と心の中で突っ込みを入れる。
「ありえないだろ」
一応雪月に面と向かって心に思ったことを言ってみる。
「でも、どうしてそこまでして毎年私に命をくれるの? 自分の命は大切にしなきゃ」
「目の前で死に急ぐ友達を見ていると、もどかしくてさ。何かしてあげたいと思ったんだ」
「命を削ってでも?」
「命を削ってでも……だな」
どうにもこそばゆい空気に耐えられなくなった時羽は、自身の気持ちの変化と決意に戸惑っていた。そこまでして、なぜ友達のためにするのかと聞かれたら、時羽は何も言えない。彼自身、なぜなのかも理由を説明できないくらいに当たり前の行動だった。
「どうして、そこまでしてしまったか説明はできないけれど、俺は譲渡を選択した」
「時羽君は、優しいんだね。理由、教えてあげようか」
雪月が下からのぞき込んで時羽の唇に指を当てる。
「私のことが好きだからだよ」
「……恋愛感情というものが最近は理解できなくもない。以前は友達作ることしか頭になかったのに、不思議なもんだな」
時羽の手に触れた雪月は彼の映像を盗み見た。本人も見られることを拒否していない様子だ。無口な時羽としては、見ることによって、自分の気持ちをわかってほしいというのが本音かもしれない。
「時羽君の映像は……素敵な花火の下で、私と一緒にいるという夜空の景色が広がっているね。毎年今見ている景色が見れたらいいね。本当にありがとう。素敵な誕生日プレゼントだね。あと3年を2人で毎年楽しめたらいいね。歳をとっても2人で一緒にコーヒーを飲んでいたいよね。あと、毎日時羽君の料理を食べたいな」
そう言って、花火をながめる二人は、花火は見ているもの視界に入っていないようだ。つないだ手は強く握られ、簡単に離れることはないという決意と象徴のようだ。
最初こそつないだ手を振りほどこうとした時羽だったが、しばらくすると振りほどこうとすることを諦めて受け入れる。手を握り合って二人は光が満ち溢れた空を見上げるのだった。夜空と花火の多彩な光の色合いが、なんとも言えない美しさを醸し出していた。まるで、時羽と雪月のように全く異質なものが混ざり合ってこその良さが花火には確かに存在する。
「なぁ、友達っていうのは気づいたら友達になっているのかもな」
「それは好きな人も同じだよ。気づいたら好きになっているっていうのが人間らしい感情だと思う。あんなに友達が欲しいと思っていた時羽君にはいつの間にかたくさん友達ができたね。そして、好きな人だってできたでしょ」
少し照れながら雪月は見上げてほほ笑む。
自然と縁は結ばれていく。手をつなぎながら二人は感じていた。
これからの春夏秋冬……二人は同じ景色を見て同じ空気を吸う。季節が巡ってもそれは変わらないだろう。
その瞬間、時羽を囲む透明なバリアが崩壊する。まるで、ガラスが割れるかのように粉々に砕け散る映像が雪月には見えた。バリアは必要ないと時羽が感じた瞬間なのだろう。
あと3年がずっと続きますように……。夜空に咲く大輪の花は二人を見守るように大きく夜空に咲き誇る。2人は空に向かってねがい、誓う。
この先もずっと――あと3年の君は心の映像を盗み見る。
時は金なり。今という瞬間、与えられた時間を大切に生きていこう。