真守はまだ夏の熱気が抜けない夜の空気の中を歩いていた。周りには仕事終わりであろう疲れた様子の大人たちが歩いていた。自分も社会人の枠組みに入っているはずなのに、自分だけそこから外されているような気持ちだ。せっかくいい大学を卒業して、良い企業に就職ができたと思ったのに、仕事はうまくいかず、同僚や先輩とのコミュニティに未だに入れずにいた。

見上げた家々には家族の温かい明かりが灯り、真守にはそれが眩しく感じて俯いてしまった。

それからすこし歩いたところで、人通りが少なくなってきたと思い顔をあげると、知らないうちに他の道に入ってしまったのか、見慣れない通りに居た。真守の目線の先には『食堂~ふくふく亭~』と書かれた看板の下がった飲食店があった。

――家帰っても誰も居ないし、自炊する気も起きないし、ここで食べていくか。

そう考えると、真守はふくふく亭の暖簾をくぐった。店の中に入ると、カウンター席に先客の女性が一人と、店員の女性が一人いた。店員の女性は真守に気がつくと「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」と、真守を出迎えた。

奥のテーブル席に座ると、温かいおしぼりと冷たい麦茶、それから塩もみしたキャベツの載った小鉢がお通しとして出された。真守はおしぼりで手を拭き、麦茶で夏の熱気で熱くなった身体を冷やすと、キャベツを口に運んだ。

キャベツはシャキシャキと、音を立て、しみている塩が味を出す。これは、ビールが欲しくなる味だ。一杯頼もうと思い、壁にかけられたメニューを見ると、ビールは見当たらず、ただ、定食の種類が書かれているだけだった。

――まぁ、やけ酒するような気分でビールを飲みたいわけでもないし、なくてもいいか。

そう思い改めてメニューを見ると、様々な定食があり優柔不断な真守には決めがたいものだった。

「ご注文お決まりでしたら、お伺いしますよ。」

しばらく、メニュー表を眺めていると、店員の女性が気を利かせて真守の近くに来ていた。

「いや、決まったっていうか…どれも美味しそうなので、決められないというか…あの、おすすめってありますか。」
そう尋ねると、先客の女性が振り返り
「生姜焼きが、おすすめですよ。とよの作る生姜焼きは美味しくて、よく頼んじゃうんです。まぁ、今日は生姜焼きじゃなくて、焼肉定食なんだけど。」
と、笑いながら教えてくれた。よく頼むということは常連客なのだろう。

せっかくおすすめのメニューを教えてくれたのだ。これは頼むしかないと思い
「じゃあ、生姜焼き定食で。」
と注文した。
「かしこまりました。少々お待ち下さいね。」
そう、返事すると店員…とよさんは厨房に消えていった。

しばらくすると、厨房からは美味しそうな匂いが真守の鼻をくすぐり、食欲の限界値を超えさせた。
――いい匂いだなぁ。僕もこんな美味しそうな料理が作れるようになりたいな。
そんな事を考えていると、とよさんがお盆を持って真守の席にやってきた。

「お待たせしました。生姜焼き定食です。お味噌汁とご飯、炊きたてで熱いのでお気をつけてお召し上がりください。」
「ありがとうございます。いただきます。」
そう言って、箸を持ち生姜焼きを口に入れた。
「うまっ。」
「美味しいですよね。ここの生姜焼き。おすすめしてよかった。」

――確かに、おすすめしてもらってよかった。

なんて考えながら、白米を口に運ぶと熱々の白米は生姜焼きの甘辛いタレと絡み、食事をする手を早めてしまう。こんなに美味しい生姜焼きなんて食べたことがないと思うくらいだ。わかめと豆腐の入った味噌汁は丁度良く熱く、体の疲れがとれたようだった。

夢中になって箸を進めていたせいでもう完食していることに驚いた。
――もう、食べ終わったのか。全然気が付かなかった。
先客の女性は先に店を出たようでカウンター席に姿がない。真守も会計を済ませようと席を立ったが会計をする場所がなく、キョロキョロと周りを見渡しているととよさんが気がついたようで近寄ってきた。

「あの、お会計って。」
「お会計ですか。お金は頂戴いたしませんよ。」

――お金は頂戴しませんってまさか、僕は狐か何かに化かされたのか。いや、もしそうであっても、生姜焼き美味しかったのは現実であってほしい。

何を考えているのか察したようで、とよさんはクスリと笑い
「お客様が元気になられた様子でしたので、私はそれで十分です。」
「そんな、悪いですよ。僕が困ります。」

すると「そうですね…」と言い、とよさんはすこし考え込むと何かひらめいたようで顔を上げた。
「では、今度、実家に帰省されるのはどうでしょうか。しばらく帰られていないと、お母様も心配なされているのでは。」
「そんなことでいいんですか。それでいいなら…」

本当にそれで良いのだろうか。確かに最近実家には帰れていないのは本当なのだが…。とよさんがそれでいいと言うのならそうするしかないだろう。
「わかりました。今度実家に帰って母の顔を見てきます。きっと最近帰ってないからって心配してるだろうし。」
そう答えるととよさんの顔は明るくなりとても嬉しそうだった。

店を出る直前に
「またのお越しをお待ちしております。きっと真守さんのお母様帰ってこられるの待ってらっしゃると思います。」
と言われ、「ごちそうさまでした。」と挨拶して店を出た。

店を出てすこし歩いていると見慣れた道に出た。真守の家への足取りは軽く、疲れなど感じられなかった。

家につき、寝る直前にふくふく亭のことを思い返していると、不思議に思うことがあった。
――僕、とよさんに名前教えたっけ。まぁ、」今日は眠いしまた今度考えようかな。
そう頭の片隅で思いながら、真守は夢の中へと落ちていった。

それ以降、真守は仕事で悩むようなことがなくなり、同僚や先輩との関わりももてるようになった。あ

ある日の昼休憩にふくふく亭のことを話すと、同期の社員が心当たりがあるようで
「じいちゃんが昔行ったことがあるって言ってたなぁ。なんでも神様が開いてる店で、たまにしか開かないから行けたやつは運がいいんだってよ。あそこの料理は今でも忘れないってよく話してくれたなぁ。」
なんて思い出話とともに話してくれた。

――とよさんって神様だったんだ。なら、名前知っててもおかしくないわけか。

真守は納得すると残りの休憩時間に母に電話をかけた。
「今度の休み、そっちに帰るよ。うん。母さんの好きなもの買って帰るね。うん、うん。じゃあまた、日程決まったら連絡するよ。」

母さんにふくふく亭の話をしよう。
もし、また行けるなら、今度は母さんと一緒に行きたいな。

そんな真守を見守るように夏の爽やかな風がふわりと吹いた。