「はぁ…。」
雅は口から魂が抜けそうなくらい暗いため息を付いた。今日ついたため息が何度目かなんて数える気力は残っていなかった。
 
――今日は散々な日だった。今日の学校の全部の授業では忘れ物はするし、体育のドッジボールではボールをキャッチするときにうまく取れずに顔面に直撃して鼻血が出るし、極めつけにはお母さんが作ってくれたお弁当を家に忘れてきたのだ。今日はツイてない日だ。

そんなことを思っていると、いい匂いが雅の鼻孔に伝わってきた。どこかの家で夕食の準備でもしているのだろうか。とても美味しそうで雅の空腹を加速させた。早く帰って夕食を食べたいところだが、あいにく今日はお母さんの帰りが遅くなると聞いているので雅が作らなければならない。

 「こんばんは。学校から帰るとこですか。」
急に聞こえてきた声に驚き顔をあげると雅と同じくらいかそれより低いだろうか、小柄な女性が立っていた。女性の背後には
『食堂~ふくふく亭~』
と書かれた看板が上にかかっている。このあたりに食堂なんてあっただろうか。

「最近お店を出したばかりでして…。お疲れのようですね。よかったらなにか食べていかれませんか。」

――せっかくだし、食べていこうかな。

雅は黄金色の暖簾をくぐり店の中に入った。店の中はカウンター席が4つとテーブル席が2つほどあり、壁には達筆な字でメニューが書かれている。雅はカウンター席に座ることにした。席に座ると温かいお茶と小鉢にい入ったポテトサラダが出された。多分お通しだろう。お茶を一口飲んでほっとしてからお箸でポテトサラダを口に運んだ。まだ温かいじゃがいもは口の中に入るとふんわりとしていて疲れた心を癒やして慰めてくれているようだった。そこに少しかけられた胡椒がアクセントとしてピリリと走り絶妙なバランスを保っていた。

――美味しい。

「ご注文はどうされますか。」

ポテトサラダがあまりにも美味しかったのでこれがあくまでもお通しであることを忘れてしまっていた。雅は壁にかけられたメニューを見ているとふと目にとまるものがあった。

『唐揚げ定食』

唐揚げといえば小学生くらいの子供ならば100人中100人が好きだと言ってもおかしくないくらいの人気を博す定番メニューだろう。雅も例にもれず唐揚げは好きである。しかし雅の目に止まった理由はそれだけではない。

――鶏と…くじら?だよね。昔食べたけど、美味しかったなぁ…また、食べたいな。

そう懐かしみ、注文をした。
「じゃあ…鯨の唐揚げ定食で。」
「鯨の唐揚げ定食お一つですね。かしこまりました。すぐにお作りいたしますので少しお待ち下さい。」
そう言うと唐揚げを作る準備を始めた。雅は女将さんのことをカウンター越しに見つめていた。顔立ちは和風美人と言うべきだろう。化粧っ気がなく濡れ羽色の髪はお団子に一つにまとめられており稲穂とそれに集まる雀が刺繍されている。どこか懐かしくも感じられる女将さんに雅はどこか親近感を覚えていた。昔、雅が小さい頃にどこかであったことがあったような。

…ジュワァァ

雅が考えを巡らせていると揚げ物特有の食欲をそそる音が聞こえてきた。女将さんの方を見ると鍋の中にはちょうど揚げられている唐揚げが浮いており、雅のお腹は唐揚げを欲するかのように声を上げた。少し目を離すと、土鍋と蓋がされた手持ち鍋が置かれていた。きっとご飯とお味噌汁だろう。お味噌汁の具はなんだろうか。雅はお母さんの作る豆腐の入ったお味噌汁がとても好きだ。 

しばらくすると、雅の前にはお盆に載せられてご飯とお味噌汁。そして鯨の唐揚げが現れた。

「おまたせしました。鯨の唐揚げ定食になります。出来立てで熱いので気をつけて召し上がってください。」
「いただきます。」

雅は合掌をするとお味噌汁を少し冷ましてから一口飲んだ。少しだけ熱いお味噌汁は疲れた身体と心に染み渡り、こころなしか気力が湧いてきたような気がした。お味噌汁の具は雅の好きな豆腐ではなくじゃがいもだったが、丁度良く火が通っていて噛む前にほろほろと崩れていきそうだった。雅はほっと一息つくとお味噌汁の入ったお椀を置き、鯨の唐揚げに手を伸ばした。雅が知っている唐揚げとは違い少し小さいような気がしたが、味と量は関係ないと思い口に入れた。噛んだ瞬間にジュワッとした肉汁とお肉の噛みごたえに、雅の頬は落ちそうなくらいだった。そこに炊きたての白米を組み合わせる。
――美味しいもの食べてるときって、やっぱり幸せな気分だ。レモンとタルタルソースのどっちも合うし…

雅は今日あった嫌なことなんて忘れてしまいそうだった。次の唐揚げを食べようと思いお皿を見るともう唐揚げはなく、ご飯もお味噌汁のお椀も空になっていた。どうやらさっきの一つで最後だったようだ。少しだけ残念な気持ちになっていると、女将さんがクスクスと笑っていた。

「あまりにも美味しそうに食べていらっしゃるので、こちらとしても嬉しくて。それに声をおかけしたときよりも元気のなっていらっしゃるようだったので。」

雅が食べているところを見られていたのだろうか。恥ずかしいが、女将さんの料理は美味しかったのだから夢中になっていて気が付かなかったのも仕方ない。と、雅は自分を説得していた。それに自分自身学校からの帰り道よりも元気になっているような気がしていたのだ。

「あんまりにも美味しくて…。今日は良いことがなかった日だったので、少し落ち込んでいたんです。でも、女将さんの料理を食べたらすごく元気になれました。」
「そうなんですか。今日一日良いことがなくても明日にはあるかもしれませんし、嫌なことや悪い事の中にも些細な良いことがあるものですよ。あと、私のことは”とよ”とお呼びくださいな。女将さんなんて呼ばれるのはなんだか、恥ずかしくなってしまいますしね。」

そうふんわりと笑いかけられ、雅の顔にも自然と笑顔になっていた。そろそろ帰らないと陽が落ちて暗くなってしまう。そう思い席を立ち、お会計をしようとするととよさんは「お支払いは結構ですよ。」と言った。雅が困惑していると、とよさんはお客さんの元気な姿と可愛らしい笑顔が見られたのでそれで十分です。と言われてしまった。
 
「あの、また来てもいいですか。」
「もちろん。またのお越しをお待ちしております。ぜひいらしてください。」
そう、とよさんに言われ見送られながら帰路を辿った。
 
雅の家へ帰る足取りは先程とは打って変わって軽かった。

――そうか、良いことがないと思っていても些細なことでも良いことってあるんだ。その証拠に今日とよさんに会えて、美味しい料理を食べられた。なんだ。簡単なことだったんだ。

翌日の帰り道。とよさんの料理を食べようとお店を探したが、どこにもない。昨日と同じ道を通っているのにお店のあった場所には何もなく、ただ数羽の雀が畑からつまんできたであろう稲穂をつついているだけだった。昨日のことは嘘だったのだろうか。しかし、雅は食べた唐揚げの味を覚えている。その日は狐につままれたような気持ちになりながら家へと帰り、お母さんにこのことを話すと心当たりがあるようで

「たまにつくも町のどこかに現れるお店があるって話が昔からあってね。雅がいったお店もそれじゃないかしら。きっと、運が良かったのね。」
と言われた。噂と聞いて肩を落とした雅だったが、とよさんが再び訪れるのを待ってくれているような気がして心がじんわりと温まった。

――また、会えるよね。とよさんにも、ふくふく亭にも。