右手が痒い。
かさぶさができている。
通学途中で右手を近所の犬にまた噛まれた。
いつも可愛がっていた
撫でると尻尾をふって喜ぶ、
庭先に繋がれた犬。
犬の名前はフレッシュという。
飼い主には会ったことないが、
犬小屋にはそう書かれている。
犬種はわからないがたぶん中型犬の雑種で、
毛は手入れされておらず、若くも見えない。
人懐っこい性格のせいで
番犬にもなっていない。
高校に通うようになって、
フレッシュと友達になった。
フレッシュだけが友達だった。
そんな友達に今朝、噛まれた。
所詮、犬は犬だった。
あくびを2度も繰り返す。
高校生になってからしばらく経つが、
夜更かしをする不良になった。
夜更かし程度で不良と呼べるか微妙だけど、
ろくに勉強もせず、深夜まで起きて
荒唐無稽な映画を楽しんでいる。
第一志望校に落ちたからか、
受験が終わった反動からかは
僕本人でさえわからない。
親父に言わせればこんな映画は
くだらない内容なんだろうけれども、
僕にとっては楽しい逃避先だった。
高校生活は退屈の繰り返しだ。
第一志望に落ちた先の高校では、
授業は中学校のおさらいのような内容。
くだらない映画の方がよほど有意義だ。
僕はそうして授業を受けず、
だいたいぼんやりと聞いて、
教科書を閉じたまま微睡む。
教師に呼ばれようとも、
嫌々な生徒らに起こされようとも、
僕は無視を決め込み目を閉じる。
こんな見下した態度だから、
僕には友達ができないのだろう。
でも僕は友達を作りに、
学校に来ているわけじゃない。
友達なら犬でも足りる。
こんな牢獄のような場所で、
得られるものは無い気がする。
空腹と悪臭の中で、僕は目を覚ました。
これは毎朝香る、
フレッシュのうんちの匂いだ。
匂いは記憶を呼び覚ます。
授業はとうに終わっているのか、
教室には誰もいない。
遠くで黄色い声が聞こえる。
僕はあくびを噛み殺して席を立った。
購買部へ昼食の惣菜パンを買いに行く。
惣菜パンは昼休み前に売り切れるからだ。
休憩時間中に買っておけば、昼休みに
残ったアンパンで妥協せずにすむ。
どの教室も生徒が出払っている。
体育館で集会でもやってるんだろうか。
文化祭の準備で看板や装飾、
衣装やらいろんな物が、
教室内に散っている。
そんな室内の机やイスは荒れ放題で、
災害時の緊急避難をしたあとにも見えた。
なんせ扉や窓は開けっ放しだ。
みんな貴重品はちゃんと
持っていったんだろうか。
財布を持ち歩いているからか、
僕はなんとも無駄な心配をする。
購買部にいるパートのおばちゃんも不在。
財布を持って途方に暮れる僕。
それとも僕が寝てる間に、
相当な規模の大災害でも発生したのか。
でも購買のショーケースには、
貴重な食料が置きっぱなしだ。
仕方なく台に身を乗り出して腕を伸ばし、
ショーケースの裏から惣菜パンを手にした。
人気のローストビーフサンドを掴んだ。
これは未だに食べたことがない。
フランスパンのバゲット半分のサイズに、
上下に分割されたパンから具材がはみ出る。
牛肉の赤身が厚切りで何枚も詰め込まれ、
レタスとオニオンが申し訳程度に挟まった
高校生男子の視覚に訴える人気商品。
このローストビーフサンドは
3年生の不良たちが授業時間など無視して
取ってしまうのだが、夜更かしに慣れた
いまの僕なら不良に匹敵するかもしれない。
パートのおばちゃんも居ないので、
吟味台にお金を置いて残しておく。
不良とは思えない善良な行動。
不良であっても僕は悪人ではない。
無敵の小さな優越感にひたり、
誰もいない静かな廊下を歩く。
女子と遭遇した。
知らない2年生の女生徒で、
僕に気づくなり驚き慌てて口を塞ぎ、
近くのトイレに戻ってしまった。
女子って大変だな。
たぶん、事情があるんだろう。
男子にも不意の生理現象が起きるから、
お互い様だと思いたい。
だからつまり、僕の顔を見て
失礼な反応をしたのではないと信じた。
外が騒がしい。
バタバタとヘリコプターの羽の音がする。
遠くの空を飛んでいる程度の音量ではない。
向かいの校舎を見ると、
屋上に朱色のヘリコプターが
人影を吊り下げている。
この学校にはヘリポートはない。
普通はないし、駐機できるところは
校庭くらいしかない。
それから、ヘリコプターが吊り下げている
人影はひとつではなかった。
人影がアリの群体のような山となり、
巻き上げ機から伸びるワイヤーを
無理矢理によじ登ろうとしていた。
大量の群衆に引っ張られ、
ヘリコプターの高度はみるみるうちに下がって
やがて機体は群体の山にしがみつかれた。
まるで映画のワンシーンのような光景に、
僕はローストビーフサンドを持ったまま
呆然と見上げた。
ヘリコプターは屋上から
バランスを崩して中庭に墜落し、
燃料を爆発させ、その風圧と破片で
校舎の窓ガラスが盛大に割れた。
耳をつんざく爆音と共に、
廊下に散乱したガラス片を見つめる。
現実感のなさに恐怖は湧かず、
興奮で鼓動が高鳴った。
僕は声もなく笑っている。
爆音で聾しているから、
自分の笑い声など聞こえないのだ。
だってこんな光景、
誰だって笑うしかない。
それからして、女子生徒の悲鳴が響く。
風通しが良くなったからか、
叫び声やら物音が聞こえはじめた。
その音に引き寄せられるかのように、
どこからともなく生徒たちが集まる。
野次馬たちかと思えば、
上体をふらふらさせながら歩いている。
顔中痛々しい怪我をして血を流している。
爆風とガラス片によるものではない。
血色が悪く、目は虚ろで、
口を開けっ放しにしている。
そのうえ、ひどい腐敗臭を垂れ流す。
「ゾンビだっ!」
僕は心の中で叫んだ。
映画で見た、ゾンビの格好の生徒がいる。
詰め襟の、セーラー服の、メイド服の。
メイド服?
どこかのクラスが文化祭で、ゾンビ衣装の
お化け屋敷とメイド喫茶でもやるのだろう。
提供する食事は納豆、チーズ、ヨーグルトに、
くさやにキムチと発酵食品がメイン。
菌類同士でケンカになるメニュー。
当然ながら酒類の販売はないが、目玉は
世界一臭い缶詰めのシュールストレミング。
そりゃ悲鳴も上がるし、
逃げ出す生徒も居るだろう。
なお、うじ虫チーズは
食品安全上の理由で、残念だが
出入り禁止となった。
などと勝手な妄想を膨らませていたが、
ゾンビたちは目の前の僕など無視して
ほかの生徒を追いかけている。
そのゾンビの群衆の中には、
僕が嫌悪している女教師の
草丈の姿もあった。
草丈は僕のクラスの副担任で、
学校嫌いにさせた張本人の中年女だ。
忌々しいゾンビメイクの草丈を睨んだ。
◆
入学して早々のことだ。
クラスの男子どもはどいつも馬鹿なので、
体育の時間の前に、女子更衣室見学しようぜ!
と笑えないことを言い出すやつがいた。
夷山という、同じ中学の男子生徒だ。
俺も夷山に見学に誘われたが無視をした。
本人にとっては冗談のつもりでも、
周囲にとって笑えない話を繰り返す
迷惑な存在がこの馬鹿、夷山だ。
相手にされないと馬鹿は…夷山は、
あぁ、お前ホモか…。と言い出すのである。
そのくらいは別にいい。
こいつは、自分にとって気に食わない相手に、
レッテルを貼らなければ生きられないやつだ。
夷山など相手をしないのが正解で、
中学時代も徹底してこいつを無視をした。
しかしそんな他愛のないやり取りを、
事もあろうに副担任の草丈は
烈火の如く怒った。
怒っただけでは収まらず、
生徒全員を集めて体育の授業を中止にした。
もちろん、女子更衣室見学も中止だ。
暴走した正義感で草丈は夷山を叱責した。
夷山は叱られているにも関わらず、
みんなに注目されることを
喜んで笑っている。
一体なにがこの教師の逆鱗に触れたか
といえば、アウティングだった。
つまり、秘密を暴露した、というのである。
アウティングもなにも事実無根だが、
草丈の迷惑行為が原因で、僕はクラスの
全員からゲイ認定を受けたのである。
否定も虚しいが、嘘でも肯定はできない。
夷山のくだらない冗談によって
草丈のヒステリックな説教で授業が潰れ、
俺は教室内の腫れ物扱いになった。
無視を決め込んだ俺が悪いのか?
ゾンビの装いで化粧と香水の中に、
フレッシュのうんちが混ざった
臭いを撒き散らす草丈。
よろよろと歩き、迫真の演技は立派だが、
夷山のゾンビは腐っても元気に走っている。
知力か、演技力か、年齢の差があるのだろう。
先程トイレに隠れた2年の女生徒が、
ゾンビたちに見つかったらしく
地べたを這って誰にでもなく、
助けを求めて廊下で叫んだ。
ゾンビたちは彼女を取り押さえ、
引っ張り、覆い隠すように群がった。
若いゾンビの中に、草丈ゾンビまでもが混じる。
やがて群衆にそっぽを向かれた女生徒は、
引き裂かれた制服と血だらけの
ゾンビの装いとなり仲間入りを果たし、
死んで元気に廊下を徘徊した。
◆
ゾンビはどうして食べ残しをするんだろうか。
深夜にくだらない映画を見ている
僕の疑問は、常にそこにある。
人間が菌かウイルスに感染すると、
代謝が著しく下がり、脳と脊髄の
命令系統を奪われる。これがゾンビ化。
運動機能は映画などの作品で左右するが、
食欲に支配されて人間を襲い、噛みつく。
噛みつかれた人間はゾンビになる。
ゾンビは人間を食べきるわけでもなく、
感染を拡大させるために皮膚を食い破る。
唾液に含まれる成分を血管内に侵入させ、
神経系の壊死、筋肉の腐敗を促進させる。
こうして新たなゾンビの感染者、
つまり子供を作る仕組みだ。
宿主に性差は関係はない。
しかしそんな宿主は、
死んでいて、腐敗の影響で動けなくなる。
墓場から蘇るタイプなら、
骨だけでも動けるのだろうか。
それに食欲が暴走して
咬合力がついたところで、
生肉食おうとなるかは微妙だ。
必要なビタミンなら、
野菜で補ったほうが手っ取り早い。
異性に噛みつけるからだろうか?
そういえば、吸血鬼はそんな設定だ。
他人に噛み付けば違法だ。
遵法精神すらなくなるわけだ。
昼夜関係なく活動するゾンビは、
繁殖力の旺盛な不良といえるだろう。
僕も最近は夜更かしが原因で、
まともな食事を摂ってない気がする。
獲物を見つけて、元気に走り回る
ゾンビたちのほうが健康かもしれない。
惹かれる思いで、ゾンビの居なくなった
トイレに行き、鏡で自分の顔を見た。
そこに写し出されたのは、
血の気のない薄ら白い顔。
落ちくぼんだ目は生気を失い、
だらしのない口元からよだれが垂れ、
脂ぎった髪は親父そっくりだった。
◆
そんな悪夢で目を覚ました。
ヘリコプターといい、
力の入った文化祭の催しの夢だ。
教室はお化け屋敷の衣装の準備で
盛り上がっていたが、寝ていた僕は
そんな空気に馴染めず、こみ上げる
気持ち悪さに胃液を吐き出した。
嘔吐した先が夷山だった。
僕の机の前で寝そべってサボっていたのだ。
ヒリヒリと焼け付くような喉の痛みと、
羞恥によって体温が高まるのを感じた。
僕は聞こえるような小声ですまんと謝って、
カバンを肩にかけて黙り早退しようとした。
枕にしていた腕がしびれ、
カバンのベルトから手がすっぽぬけると
右手の甲が夷山の顔面にヒットした。
中指の拳が丁度鼻の下に当たり、
彼の唾液が手についた。
厄日だな。僕にとって。
胃液にまみれ、激痛に悶える夷山は
放っておき、僕は教室を去ろうとしたが、
廊下で副担任の草丈に捕まった。
両手を掴まれ、ちゃんと謝りなさい!
と、金切り声を上げられて聾する。
その不快な声よりも化粧と香水の
刺激臭に目と鼻が痛くなって、
僕は盛大なくしゃみをした。
僕から飛び出た黄緑色をした鼻水が、
草丈の厚化粧を上塗りする。
斬新なメイクの完成。
発情期の犬みたいに興奮していた草丈。
急に静かになったと思えば、
手で顔を拭って大声で泣き出した。
病院を怖がる犬かな?
情緒不安定な年頃なんだと察し、
僕は廊下を足早に去った。
騒ぎを聞きつけ、ほかの教室の生徒たちが
ゾンビのように集まる。
トイレから出てくる2年の女生徒と遭遇した。
夢で見た生徒に似ている気がするが、
彼女はセーラー服姿ではなく、
メイド服を着ていた。
夢の中の彼女とは違い、学校に馴染めている。
そんな彼女に僕などが視界に入るはずもない。
真逆の僕は玄関を出て、帰路につく。
◆
犬のフレッシュに会おうと思ったが、
飼い主の家の周囲はなんだか騒がしい。
警察車両が交通整理をしていて、救急車やら
防護服の役人らしい姿も遠目に見えた。
そういえば、フレッシュのうんちは
散乱しっぱなしで、掃除の様子もなかった。
友達にも会えない寂しさと、
吐いた直後の空腹感に脳が支配される。
カバンから購買部で買った
ローストビーフサンドを手にする。
掴んだ右手はフレッシュの噛み跡があった。
そうだ。犬は友達でもなかった。
もう学校に行くのはやめよう。
夷山にゲロをして不可抗力とはいえ殴り、
草丈を鼻水まみれにして泣かせてしまった。
ゲイ扱いしてくれた
夷山と草丈ならどうでもいいか…。
なんせ、僕は不良だ。
朱色のヘリコプターが
けたたましく低空飛行している。
僕は犬に噛まれた右手を軽く掻いて、
いつの間にか買っていた生肉のような
ローストビーフサンドを口にした。
(了)
かさぶさができている。
通学途中で右手を近所の犬にまた噛まれた。
いつも可愛がっていた
撫でると尻尾をふって喜ぶ、
庭先に繋がれた犬。
犬の名前はフレッシュという。
飼い主には会ったことないが、
犬小屋にはそう書かれている。
犬種はわからないがたぶん中型犬の雑種で、
毛は手入れされておらず、若くも見えない。
人懐っこい性格のせいで
番犬にもなっていない。
高校に通うようになって、
フレッシュと友達になった。
フレッシュだけが友達だった。
そんな友達に今朝、噛まれた。
所詮、犬は犬だった。
あくびを2度も繰り返す。
高校生になってからしばらく経つが、
夜更かしをする不良になった。
夜更かし程度で不良と呼べるか微妙だけど、
ろくに勉強もせず、深夜まで起きて
荒唐無稽な映画を楽しんでいる。
第一志望校に落ちたからか、
受験が終わった反動からかは
僕本人でさえわからない。
親父に言わせればこんな映画は
くだらない内容なんだろうけれども、
僕にとっては楽しい逃避先だった。
高校生活は退屈の繰り返しだ。
第一志望に落ちた先の高校では、
授業は中学校のおさらいのような内容。
くだらない映画の方がよほど有意義だ。
僕はそうして授業を受けず、
だいたいぼんやりと聞いて、
教科書を閉じたまま微睡む。
教師に呼ばれようとも、
嫌々な生徒らに起こされようとも、
僕は無視を決め込み目を閉じる。
こんな見下した態度だから、
僕には友達ができないのだろう。
でも僕は友達を作りに、
学校に来ているわけじゃない。
友達なら犬でも足りる。
こんな牢獄のような場所で、
得られるものは無い気がする。
空腹と悪臭の中で、僕は目を覚ました。
これは毎朝香る、
フレッシュのうんちの匂いだ。
匂いは記憶を呼び覚ます。
授業はとうに終わっているのか、
教室には誰もいない。
遠くで黄色い声が聞こえる。
僕はあくびを噛み殺して席を立った。
購買部へ昼食の惣菜パンを買いに行く。
惣菜パンは昼休み前に売り切れるからだ。
休憩時間中に買っておけば、昼休みに
残ったアンパンで妥協せずにすむ。
どの教室も生徒が出払っている。
体育館で集会でもやってるんだろうか。
文化祭の準備で看板や装飾、
衣装やらいろんな物が、
教室内に散っている。
そんな室内の机やイスは荒れ放題で、
災害時の緊急避難をしたあとにも見えた。
なんせ扉や窓は開けっ放しだ。
みんな貴重品はちゃんと
持っていったんだろうか。
財布を持ち歩いているからか、
僕はなんとも無駄な心配をする。
購買部にいるパートのおばちゃんも不在。
財布を持って途方に暮れる僕。
それとも僕が寝てる間に、
相当な規模の大災害でも発生したのか。
でも購買のショーケースには、
貴重な食料が置きっぱなしだ。
仕方なく台に身を乗り出して腕を伸ばし、
ショーケースの裏から惣菜パンを手にした。
人気のローストビーフサンドを掴んだ。
これは未だに食べたことがない。
フランスパンのバゲット半分のサイズに、
上下に分割されたパンから具材がはみ出る。
牛肉の赤身が厚切りで何枚も詰め込まれ、
レタスとオニオンが申し訳程度に挟まった
高校生男子の視覚に訴える人気商品。
このローストビーフサンドは
3年生の不良たちが授業時間など無視して
取ってしまうのだが、夜更かしに慣れた
いまの僕なら不良に匹敵するかもしれない。
パートのおばちゃんも居ないので、
吟味台にお金を置いて残しておく。
不良とは思えない善良な行動。
不良であっても僕は悪人ではない。
無敵の小さな優越感にひたり、
誰もいない静かな廊下を歩く。
女子と遭遇した。
知らない2年生の女生徒で、
僕に気づくなり驚き慌てて口を塞ぎ、
近くのトイレに戻ってしまった。
女子って大変だな。
たぶん、事情があるんだろう。
男子にも不意の生理現象が起きるから、
お互い様だと思いたい。
だからつまり、僕の顔を見て
失礼な反応をしたのではないと信じた。
外が騒がしい。
バタバタとヘリコプターの羽の音がする。
遠くの空を飛んでいる程度の音量ではない。
向かいの校舎を見ると、
屋上に朱色のヘリコプターが
人影を吊り下げている。
この学校にはヘリポートはない。
普通はないし、駐機できるところは
校庭くらいしかない。
それから、ヘリコプターが吊り下げている
人影はひとつではなかった。
人影がアリの群体のような山となり、
巻き上げ機から伸びるワイヤーを
無理矢理によじ登ろうとしていた。
大量の群衆に引っ張られ、
ヘリコプターの高度はみるみるうちに下がって
やがて機体は群体の山にしがみつかれた。
まるで映画のワンシーンのような光景に、
僕はローストビーフサンドを持ったまま
呆然と見上げた。
ヘリコプターは屋上から
バランスを崩して中庭に墜落し、
燃料を爆発させ、その風圧と破片で
校舎の窓ガラスが盛大に割れた。
耳をつんざく爆音と共に、
廊下に散乱したガラス片を見つめる。
現実感のなさに恐怖は湧かず、
興奮で鼓動が高鳴った。
僕は声もなく笑っている。
爆音で聾しているから、
自分の笑い声など聞こえないのだ。
だってこんな光景、
誰だって笑うしかない。
それからして、女子生徒の悲鳴が響く。
風通しが良くなったからか、
叫び声やら物音が聞こえはじめた。
その音に引き寄せられるかのように、
どこからともなく生徒たちが集まる。
野次馬たちかと思えば、
上体をふらふらさせながら歩いている。
顔中痛々しい怪我をして血を流している。
爆風とガラス片によるものではない。
血色が悪く、目は虚ろで、
口を開けっ放しにしている。
そのうえ、ひどい腐敗臭を垂れ流す。
「ゾンビだっ!」
僕は心の中で叫んだ。
映画で見た、ゾンビの格好の生徒がいる。
詰め襟の、セーラー服の、メイド服の。
メイド服?
どこかのクラスが文化祭で、ゾンビ衣装の
お化け屋敷とメイド喫茶でもやるのだろう。
提供する食事は納豆、チーズ、ヨーグルトに、
くさやにキムチと発酵食品がメイン。
菌類同士でケンカになるメニュー。
当然ながら酒類の販売はないが、目玉は
世界一臭い缶詰めのシュールストレミング。
そりゃ悲鳴も上がるし、
逃げ出す生徒も居るだろう。
なお、うじ虫チーズは
食品安全上の理由で、残念だが
出入り禁止となった。
などと勝手な妄想を膨らませていたが、
ゾンビたちは目の前の僕など無視して
ほかの生徒を追いかけている。
そのゾンビの群衆の中には、
僕が嫌悪している女教師の
草丈の姿もあった。
草丈は僕のクラスの副担任で、
学校嫌いにさせた張本人の中年女だ。
忌々しいゾンビメイクの草丈を睨んだ。
◆
入学して早々のことだ。
クラスの男子どもはどいつも馬鹿なので、
体育の時間の前に、女子更衣室見学しようぜ!
と笑えないことを言い出すやつがいた。
夷山という、同じ中学の男子生徒だ。
俺も夷山に見学に誘われたが無視をした。
本人にとっては冗談のつもりでも、
周囲にとって笑えない話を繰り返す
迷惑な存在がこの馬鹿、夷山だ。
相手にされないと馬鹿は…夷山は、
あぁ、お前ホモか…。と言い出すのである。
そのくらいは別にいい。
こいつは、自分にとって気に食わない相手に、
レッテルを貼らなければ生きられないやつだ。
夷山など相手をしないのが正解で、
中学時代も徹底してこいつを無視をした。
しかしそんな他愛のないやり取りを、
事もあろうに副担任の草丈は
烈火の如く怒った。
怒っただけでは収まらず、
生徒全員を集めて体育の授業を中止にした。
もちろん、女子更衣室見学も中止だ。
暴走した正義感で草丈は夷山を叱責した。
夷山は叱られているにも関わらず、
みんなに注目されることを
喜んで笑っている。
一体なにがこの教師の逆鱗に触れたか
といえば、アウティングだった。
つまり、秘密を暴露した、というのである。
アウティングもなにも事実無根だが、
草丈の迷惑行為が原因で、僕はクラスの
全員からゲイ認定を受けたのである。
否定も虚しいが、嘘でも肯定はできない。
夷山のくだらない冗談によって
草丈のヒステリックな説教で授業が潰れ、
俺は教室内の腫れ物扱いになった。
無視を決め込んだ俺が悪いのか?
ゾンビの装いで化粧と香水の中に、
フレッシュのうんちが混ざった
臭いを撒き散らす草丈。
よろよろと歩き、迫真の演技は立派だが、
夷山のゾンビは腐っても元気に走っている。
知力か、演技力か、年齢の差があるのだろう。
先程トイレに隠れた2年の女生徒が、
ゾンビたちに見つかったらしく
地べたを這って誰にでもなく、
助けを求めて廊下で叫んだ。
ゾンビたちは彼女を取り押さえ、
引っ張り、覆い隠すように群がった。
若いゾンビの中に、草丈ゾンビまでもが混じる。
やがて群衆にそっぽを向かれた女生徒は、
引き裂かれた制服と血だらけの
ゾンビの装いとなり仲間入りを果たし、
死んで元気に廊下を徘徊した。
◆
ゾンビはどうして食べ残しをするんだろうか。
深夜にくだらない映画を見ている
僕の疑問は、常にそこにある。
人間が菌かウイルスに感染すると、
代謝が著しく下がり、脳と脊髄の
命令系統を奪われる。これがゾンビ化。
運動機能は映画などの作品で左右するが、
食欲に支配されて人間を襲い、噛みつく。
噛みつかれた人間はゾンビになる。
ゾンビは人間を食べきるわけでもなく、
感染を拡大させるために皮膚を食い破る。
唾液に含まれる成分を血管内に侵入させ、
神経系の壊死、筋肉の腐敗を促進させる。
こうして新たなゾンビの感染者、
つまり子供を作る仕組みだ。
宿主に性差は関係はない。
しかしそんな宿主は、
死んでいて、腐敗の影響で動けなくなる。
墓場から蘇るタイプなら、
骨だけでも動けるのだろうか。
それに食欲が暴走して
咬合力がついたところで、
生肉食おうとなるかは微妙だ。
必要なビタミンなら、
野菜で補ったほうが手っ取り早い。
異性に噛みつけるからだろうか?
そういえば、吸血鬼はそんな設定だ。
他人に噛み付けば違法だ。
遵法精神すらなくなるわけだ。
昼夜関係なく活動するゾンビは、
繁殖力の旺盛な不良といえるだろう。
僕も最近は夜更かしが原因で、
まともな食事を摂ってない気がする。
獲物を見つけて、元気に走り回る
ゾンビたちのほうが健康かもしれない。
惹かれる思いで、ゾンビの居なくなった
トイレに行き、鏡で自分の顔を見た。
そこに写し出されたのは、
血の気のない薄ら白い顔。
落ちくぼんだ目は生気を失い、
だらしのない口元からよだれが垂れ、
脂ぎった髪は親父そっくりだった。
◆
そんな悪夢で目を覚ました。
ヘリコプターといい、
力の入った文化祭の催しの夢だ。
教室はお化け屋敷の衣装の準備で
盛り上がっていたが、寝ていた僕は
そんな空気に馴染めず、こみ上げる
気持ち悪さに胃液を吐き出した。
嘔吐した先が夷山だった。
僕の机の前で寝そべってサボっていたのだ。
ヒリヒリと焼け付くような喉の痛みと、
羞恥によって体温が高まるのを感じた。
僕は聞こえるような小声ですまんと謝って、
カバンを肩にかけて黙り早退しようとした。
枕にしていた腕がしびれ、
カバンのベルトから手がすっぽぬけると
右手の甲が夷山の顔面にヒットした。
中指の拳が丁度鼻の下に当たり、
彼の唾液が手についた。
厄日だな。僕にとって。
胃液にまみれ、激痛に悶える夷山は
放っておき、僕は教室を去ろうとしたが、
廊下で副担任の草丈に捕まった。
両手を掴まれ、ちゃんと謝りなさい!
と、金切り声を上げられて聾する。
その不快な声よりも化粧と香水の
刺激臭に目と鼻が痛くなって、
僕は盛大なくしゃみをした。
僕から飛び出た黄緑色をした鼻水が、
草丈の厚化粧を上塗りする。
斬新なメイクの完成。
発情期の犬みたいに興奮していた草丈。
急に静かになったと思えば、
手で顔を拭って大声で泣き出した。
病院を怖がる犬かな?
情緒不安定な年頃なんだと察し、
僕は廊下を足早に去った。
騒ぎを聞きつけ、ほかの教室の生徒たちが
ゾンビのように集まる。
トイレから出てくる2年の女生徒と遭遇した。
夢で見た生徒に似ている気がするが、
彼女はセーラー服姿ではなく、
メイド服を着ていた。
夢の中の彼女とは違い、学校に馴染めている。
そんな彼女に僕などが視界に入るはずもない。
真逆の僕は玄関を出て、帰路につく。
◆
犬のフレッシュに会おうと思ったが、
飼い主の家の周囲はなんだか騒がしい。
警察車両が交通整理をしていて、救急車やら
防護服の役人らしい姿も遠目に見えた。
そういえば、フレッシュのうんちは
散乱しっぱなしで、掃除の様子もなかった。
友達にも会えない寂しさと、
吐いた直後の空腹感に脳が支配される。
カバンから購買部で買った
ローストビーフサンドを手にする。
掴んだ右手はフレッシュの噛み跡があった。
そうだ。犬は友達でもなかった。
もう学校に行くのはやめよう。
夷山にゲロをして不可抗力とはいえ殴り、
草丈を鼻水まみれにして泣かせてしまった。
ゲイ扱いしてくれた
夷山と草丈ならどうでもいいか…。
なんせ、僕は不良だ。
朱色のヘリコプターが
けたたましく低空飛行している。
僕は犬に噛まれた右手を軽く掻いて、
いつの間にか買っていた生肉のような
ローストビーフサンドを口にした。
(了)