廊下の先に見つけた白衣の背中に勝手に足が動き出していた。本当は背が高いくせに猫背のせいで小さく見えるその背中に飛びつきたいけど、きっとものすごく怒られるから我慢する。代わりに大きな声でその人の名前を呼んだ。

「透先生!」

 びくりと白衣の背中が震えてうっそりとした動きで振り返る様子は猫みたいだ。眉間に思いきりしわを寄せ眼鏡ごしにこちらを見る瞳はほんのりと青くて、不思議なパワーが込められているような気がする。誰かが先生のおじいさんは外国の人だと言っていたのは本当なのかもしれない。

「廊下は走らない」

 面倒くさそうな口調ながらも注意してくれる優しさに先ほど我慢した気持ちが抑えきれなくなる。両手を広げてその腕の中に飛び込みたいとスピードを出すが、住んでのところで避けられてしまった。運動神経なんてなさそうなのに、時々すごく俊敏になる。やっぱり透先生は猫みたいだ。

「相変わらず照れ屋だな」

 本当はすごく優しいくせに。
 立花透先生は保健室の先生だ。男の先生は珍しいらしくて、入学当初からよく話題になっていた。
 あと、無口で怖いという噂もあってか女子の間ではよっぽどのことがないと保健室にはいかないというルールが出来上がっているほどだ。
そのおかげか、保健室に入り浸る生徒は殆どいない。透先生が本当はすごく優しくてカッコいいって知っている生徒は、きっと全校生徒でこの立花ヒカリただ一人だ。

「お前なぁ。先生には敬語を使いなさい、敬語を」
「いいじゃない、同じ苗字のよしみってやつで?」
「意味が分からない」

 同じ苗字だなんて運命だとしか思えない。最初は偶然だって思っていたけど、透先生に初めて会ったとき、運命だって直感したんだ。
 先生はそんなありきたりな偶然を運命と思うなんて馬鹿だというけど、私は直感したんだから仕方がないじゃない。大した思入れのない苗字だったけど、先生と一緒というだけで今は大好きな名前だ。

「お前、部活はどうしたの」
「突き指しちゃった」
「お前、学習能力はないの?」

 優しい透先生は部活のことも体のこともいつも心配してくれている。不器用だから言い方はぶっきらぼうだけど、傷を見るたびに自分がケガしたみたいな顔で顔をしかめるんだ。その顔が自分だけに向けられていると思うと胸の奥がぎゅっとする。

「透先生がいるから、つい油断しちゃう」

 嘘だ。本当は先生がいるから怪我をしてしまう。
 小さな擦り傷や突き指なんて部活をしていれば日常茶飯事だ。つぶれたマメくらい絆創膏を貼っとけば治る。
 でも、先生がつらそうな顔をして優しく治療してくれるのがうれしくてうれしくて。つい、保健室に行く口実を作ってしまう。

 怖そうで不器用そうな雰囲気とは正反対の優しくて丁寧な治療がたまらなく好きだ。太くて少し荒れた指先が触れるたびにそこから電流が流れたみたいにビリビリして逃げ出したいようなもっと触ってほしいような変な気持ちになる。

「保健室に行く前に先生に会えてよかった」

 一分一秒だって早く会いたい、一分一秒だって長く一緒にいたい。そう言ったら透先生は困ってしまうだろうか。

「・・・どうせ保健室で会うんだからどこで会ったって一緒でしょ」
「運命の人に早く会いたくなるのは当然じゃない?」

 案の定、先生は思い切り顔をしかめて日誌で頭を叩いてきた。パスッと乾いた音がするくらいの優しい力加減で。

「そういうことを軽々しく口にしない」

 軽々しくなんかじゃない。本当はもっと声を大にして叫びたい。先生は運命の人だと。他の誰のものにもならないで。ずっとこっちを見てて、って。

 先生に置いて行かれないように速足で後ろを追いかける。こっちを向いてほしくて思いつく限りの話題を切り出すけれど、先生は一向にこっちを向かない。広い背中とか見上げる首筋とかも好きだけど、こっちを向いてほしいのに。

 保健室までの道のりはあっという間だ。不在の時は鍵をかけているからすぐわかる。いるときは絶対鍵が開いている。いつだって仕事は面倒くさいと言っているくせに、居留守をつかわない透先生が好きだ。

「そこに座って」
「うん」

 いつもの定位置。治療用の丸椅子。少し安定が悪くて座ると音がするけど、ここに座ると透先生が目の前に立ってこちらだけを見てくれるからすごく好きな場所だ。
 そっと突き指した左手を掬い取られる。手を怪我することが増えたから、透先生にいつみられてもいいように爪先を整える癖がついた。少しは綺麗だと思ってくれるだろうか。

 人差し指に冷却材が当てられる。
 冷たくて気持ちがいい。手汗をかいていないか心配になる。
 透先生に気持ち悪がられたりしたらいやだな、と思う。視線だけを上にあげて顔を盗み見る。
 じっと患部を見つめてるから視線に気が付きもしない。真剣な表情で傷の具合を見ている。真面目で優しい人だなぁと思う。

 本当はこちらを見てほしい。怪我なんかじゃなくて瞳を見つめ返して、優しく微笑んでほしい。こんなの全部子供じみたわがままだってわかってる。
 こんな不純な気持ちを抱えた子供なんて透先生は気にも留めてないんだろう。
 運命だって騒ぎ立ててるけど、相手にもしてもらえないと本当は気が付いている。優しいから、無下にされないだけなんだって。

 これが、学校で保健室じゃなかったらいいのに。
 
 服装だって白衣と色気のないユニホームなんかじゃないほうがいい。
 教会で、タキシードとドレス。
 そして、先生が持っているのは、指輪。

 子供っぽい想像がおかしくてつい笑ってしまった。

「突き指したのが薬指ならよかったのに」

 結婚式みたいでロマンチックだったのにと冗談のように笑った。
 先生も一緒になって笑ってくれるかな。

「人の気も知らないで、クソが」

 ぞくりと背中が震えた。
 聞いたことのないような低い声は透先生の声だって気が付いて、怒らせたと血の気が引く。早く謝らないと。
 嫌われちゃう。冗談だってと言わないと。

「どきどきした?」

 ジョークだよ、と続けようとして見上げた先生の顔は近い。

 こんなに近くで顔を見たの初めてだ。伸ばし気味で寝癖のついた前髪とうつむきがちで猫背のせいでみんなは知らないけれど、透先生は整った顔をしている。
 きれいな青い瞳が自分だけを見つめている。
 嬉しくて恥ずかしくて心臓が試合中みたいにバクバク跳ねた。口元が勝手に緩む。

「クソガキ」

 それが怒りをはらんだ声だと気が付いて、舞い上がり掛けた気持ちが叩き落された。
 怒らせた、嫌われた、どうしよう。

 手首に痛みを感じて腕が強く引っ張られる。さっきの比じゃなくらい透先生が近い。いつもの数倍眉間にしわを寄せて、怖い顔をしている。
 クラスの男子とも家族とも違う、男の人の匂い。
 手首をつかむ手のひらは大きくて、どうあがいたって逃げられそうにない力強さだ。

「せんせい」

 ごめんなさいと言いたいのに唇が震えて言葉が出てこない。
 こんなに近くにいるのに、気持ちの半分も伝えられない。

 このまま怒られて、二度と来るなって言われるのかと考えて頭の中が真っ白になる。
 そんなの嫌だ。そうなるくらいなら、今ここで大好きだと愛の告白をしてこのまま抱き着いてしまおうか。若い体に一瞬でも血迷ってくれれば、キスの一つもしてもらえるかもしれない。

「透先生」

 透先生の瞳に映る自分は情けない顔をしている。

 小さな子供である自分には何もできないのだと思い知る。目の前のこの人を好きだという気持ちは本物なのに、思いを受け止めてもらえる方法が思いつかない。

 生徒と先生。
 立場だってあるのは理解してる。
 でも、好き、大好き。
 理屈じゃなくて好きなの、先生。
 お願い、ほんの少しでいいから、好きになって。

「・・・から」

 かすれた声がなんと言ったのか聞き取れない。
 耳を澄ませて見つめれば、なぜか泣きそうな顔をした透先生が唇を震わせてこう言った。

「頼むから、早く大人になって」

 心臓がぎゅんと音を立てた。

 死んだんじゃないかと思うくらいに胸が痛くて、体が熱くて頭が痛くなってくる。

 先生、本当?大人になっていいの?待っててくれるの?

 次々に浮かんでくる言葉は口にできないままに、透先生を見上げる。
 このまま背中に手をまわして抱きしめたい。そうして伝えたいことがたくさんある。


「お願い先生、好きって言って」


 そしたらすぐに大人になるから。