「立花先生!」

 廊下のはるか彼方から聞こえる声に足を止め振り返れば、青い弾丸もとい、青いユニフォームに身を包んだ少女が猛スピードで走り寄ってくる。

「・・・廊下は走らない」

 ひと呼吸、気が付かれないように気持ちを落ち着けてから声をかける。走る勢いそのままに抱き着いてくる少女の体を半歩で避けた。

「相変わらず照れ屋ね!」

 フフンと何故か満足気に鼻を鳴らしながら見上げてくる少女の瞳は青空のように澄んでいる。タンクトップ式のユニフォームから延びる白い首筋ににじむ汗が窓から差し込む光を受けてキラキラと光り、うっかり太陽を見上げてしまった時のようなまぶしさに目を細め逃げるように目をそらす。

「お前なぁ。先生には敬語を使いなさい、敬語を」

 少女こと立花ヒカリは僕が養護教諭として勤める高校の女生徒。
 年頃にしては背が高く大人びているほうだが、僕よりは頭一つ小さく、一度も染色したことがないであろう真黒な髪を無造作にひとつにくくるうなじは子供のような柔らかい産毛が浮いていた。

「いいじゃない、同じ苗字のよしみってやつで?」
「意味が分からない」

 奇妙な縁で、僕、立花徹と立花ヒカリは同じ苗字だ。入学名簿を見たときに同じ苗字がいるな、位の認識だった。名前の雰囲気も似ているから知らない人から見れば身内かと勘違いされているかもしれないが、正真正銘赤の他人だ。

 にもかかわらず、同じ名字だというただ一点だけでヒカリは僕に付きまとう。男の養護教諭というだけで周囲からは白い目で見られることが多いというのに、彼女だけはそんな邪推さやからかいの色を欠片もうつさない、素直でまっすぐな好意を向けてくれていた。

 僕の方も、大人としてふたまわり年下の少女に対する態度とはどうなんだと言われても仕方がないような乱暴な言葉を彼女にはつい向けてしまってしまう。同じ名字だというだけなのに。

 子供というのは残酷だ。あっという間に大人になって、この狭い学び舎から飛び出していくくせに。幼稚な理論で、同じ名字というありきたりな偶然を運命だと喜び、大人の純情を弄ぶ。


「お前、部活はどうしたの」
「突き指しちゃった」

 効果音でも付きそうな勢いでヒカリが立てた左手の人差し指。きれいに整えられた爪先からなぞるように視線を落としていけば、第二関節のあたりがかすかに赤く腫れている。なるほど、間違いなく突き指のようだ。

「お前、学習能力はないの?」

 目の前の細い指をへし折ってやりたい衝動に駆られる。

 何度目だろうか、この細い指が痛々しく腫れる様を見るのは。今この指を折ってしまえば、しばらくは痛い思いをしないだろう。健康を体現したようなこの少女はバスケ部に所属していて暇さえあれば些細な怪我をして保健室に駆け込んでくる。
 そんなことで選手が務まるのかと疑わしくもなるが、顧問に聞いてみれば、そこそこに優秀でレギュラーでもあるそうだ。なら余計に怪我をするなと叱ってみれば「これは勲章」などと芝居かがった口調で笑うのだ。

「透先生がいるから、つい油断しちゃう」

 照れくさそうに笑うヒカリの頬が赤いのは走ってきたからだろう。スポーツ少女らしい薄くてしなやかな筋肉が付いた体からにじみ出る健康的な熱に汗が出てくる。そうと気が付かれないように速足で歩きながら眼鏡を治すふりをして袖口でこめかみを拭った。

 ヒカリはそんな僕の挙動を気にする様子もなく、同じく速足で隣を歩きながらペラペラとしゃべっている。

「保健室に行く前に先生に会えてよかった」
「・・・どうせ保健室で会うんだからどこで会ったって一緒でしょ」
「運命の人に早く会いたくなるのは当然じゃない?」

 不意打ちのような言葉に足が止まりかける。努めて冷静なフリをして持っていた日誌でヒカリの頭を軽く叩いた。

「そういうことを軽々しく口にしない」

 本気だのなんだのと喚くヒカリの声をシャットダウンするように進む。こんな薄っぺらい言葉にこんなにも動揺してしまう泥のような自分がひどくみじめに感じる。



 じゃれつくヒカリを振り払いながら保健室のカギを開ける。鼻につく消毒液の匂に自分のテリトリに戻ってきたと心が少しだけ落ち着く。一歩遅れて入ってくるヒカリの存在だけが浮いているようだ。

「そこに座って」
「うん」

 素直な返事は年相応に幼くて、普段の芝居がかった口調が嘘のようだ。丸椅子にキィと音を立てて座るヒカリを見下ろす。

 彼女がこの保健室に入り浸るようになったのは夏の初めだ。

 初めは他の生徒に付き添ってやってきたように思う。
 次は足にほんの些細な擦り傷を作ったから絆創膏が欲しいと声をかけてきたのだ。そのまま貼るよりもと消毒をしてやったら、くすぐったいと身をよじった姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 血交じりの消毒液が伝った細い足首を脱脂綿で拭ったときに触れた皮膚の熱さは、この先死ぬまで忘れないだろう。

 陳腐な言葉を使えば、電流が流れたような感覚。
 その瞬間、反射的に見上げてぶつかった視線は同じ感覚を得たのだと無言で伝えてきていた。
 そして彼女は嬉しそうにふにゃりと笑ったのだ。

 それからというものヒカリは保健室に来るレベルではない怪我を繰り返しては顔を出してくる。そして馬鹿の一つ覚えのように「運命だ」と言ってのけるのだ。


「指」
「ん」


 何の躊躇もなく差し出される左手を右手で受け取って、人差し指に冷却材を当てる。

 僕の手のひらに収まる小さな手は間違いなく少女のものだ。傷の具合を見るふりをして手のひらをしげしげと眺める。運動部らしく短く切りそろえられた爪は薄く、その下に流れる血流を淡く反射して桜の花びらのようだ。力を籠めたら簡単につぶれてしまいそうだ。

「ふふ」

 ヒカリが鈴のような声で笑う。頭の中をのぞかれたような気がして身がすくむが、次に彼女が口にした言葉は僕の妄想なんて一瞬でかき消してしまうような破壊力を持ったものだった。

「ねえ先生、まるで結婚式みたいじゃない」

 ――突き指したのが薬指ならよかったのに。


 言葉の意味を理解した途端、体中の血が逆流したかのように全身が戦慄いた。

「お前・・・」

 怒鳴り散らしたいのを喉の奥でかみ殺す。
 今すぐに小さな手のひらを握りしめて華奢な体を引き寄せ抱き上げベッドに放り投げて、手荒く壊すように搔き抱いて、空っぽの頭に永遠に消えない記憶を刻み込みたい。そんな妄想が一瞬で脳内を駆け巡る。

「人の気も知らないで、クソが」

 かみ殺せなかった唸り声にヒカリは瞳を細めて、また笑った。

「どきどきした?」

 心底嬉しいという感情を隠しもせずに頬を染めて、幼く妖艶に笑うこの少女は果たして天使か悪魔か。

「クソガキ」

 およそ、女子に対する形容詞とは思えない暴言が勝手に口から零れた。
 流石に怯んだのか、ヒカリの手のひらがびくりと竦む。怯えるように逃げようとした手首をつかんで引き寄せる。

 このまま先ほどの妄想を現実に書き換えてやろうかと睨み下ろした視界の先では、さっきまでニンフィトみたいに微笑んでいたはずのヒカリが年相応の少女そのものの狼狽と羞恥と驚きに頬を染め泣きそうに瞳を震わせ眉頭を寄せていた。

「せんせい」

 震える声に計算や演技はなく、先ほども今も全てが本心だと考えなくても分かった。
 だからこそ、僕は彼女が恐ろしい。

 ほんの数センチ、あと少し力を籠めたら触れ合ってしまうくらいに近づいた体。
 この距離ですら熱く感じるヒカリの体温に直接触れたら溶けてしてしまうのではないだろうか。鼻腔をくすぐる甘酸っぱい汗の匂いにクラクラする。

 息を感じるほどに唇と唇を近づけて間近で青空のような瞳をのぞき込めば、僕だけが映り込む。
 瞬きすら忘れて僕だけを見つめる瞳がゆらゆら揺れて、まるでガラス細工のようだ。

「透先生」

 うっとりとその瞳が細まる。

 僕を呼ぶ声に滲む感情に胸が音を立てそうなくらいに苦しくなる。
 ヒカリの手首をつかんでいる僕の手のひらから温度が消えて汗がにじんでいくのが分かる。それに反比例するように握っている手首は、熱い。とろとろとそこから全身が溶けていくような錯覚すらある。

「頼むから」

 ようやく絞り出せた自分の声は先ほどの悪態をついたものと同じとは思えないくらいにかすれていて、みっともない。きっと今の僕はみっともない顔をしているのだろう。


「頼むから、早く大人になって」

 そして、臆病な僕を抱きしめて。