どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。

 星の見えない夜、俺は独り自転車に乗って坂を下った。

 線路の前まで来て、遮断機が降りるのを見ると、自転車を止めて先ほどの塾でのことを思い返す。



「お前は人を信じたことがあるのか?」
「……わかりません」
「わからないってどういうことだ?」

 俺が所属する、塾の特進クラスでいつも使っている教室の最前列の机で、俺はこの校舎の校長先生と向かい合った。

 威圧感のある容姿をしている校長先生だが、今故意に威圧しているわけではないことは読み取れる。

「信じるっていうことが」

 先生は、このまま俺が言葉を続けると思ったのか、喋るのをやめたが、少しして気づいて話し出す。

「じゃあそれは人を信じたことがないってことだよな?」
「はい」

 表では平然と『はい』などと言って見せたが、心の中では動揺していた。

 生徒のことを見抜く能力、さすがの経験だ。

「どうだろう、悪いようにはしないから一度俺たちを信じてみないか?」
「というのは?」

 先生たちを信じる、と聞いて咄嗟に訊き返したが、直ぐに先生たちを信じて言う通りの勉強とか、生活をやってみないか、という意味だと気づき、その素振りを見せる。

「それとも、俺たちは信じられないか?」

 なんとも質の悪い。まるで『俺の酒は飲めないのか?』という問いかけのようだ。

「信じられますけど、わざわざ勉強する目的が見つからない、というか……」
「それを信じられないって言うんじゃないか」

 正論でしかない。つまりその目的までも先生たちを信じて任せる、という意図を俺は読み取れなかったわけだ。

 その正論は理解できるのだが、今のところ正直信じることはできない。どうせ社会に出ても碌な大人にならないことは見えている――この思考回路が一番の元凶なのだろうが――ので、今を楽しむ方が優先だと感じてしまうのだ。

 ただここで断ってしまうともっとこの場所に拘束されることになる。

「わかりました、信じます」
「ちゃんと勉強するのであれば特進に残ることもできるけど、どうする?」

 ……先生を信じるとは言ったものの、特進クラスほどハードな勉強はしたくないので、特進に残れるという話は丁重にお断りしておく。

「ついていける気がしないので遠慮させていただきます」



 確かその後は、週3の授業に加えてもう1日自習に行く日を決めさせられたのだった。

 回想が終わると同時に、遮断機が上がった。

 線路を超えてもまだまだ続く下り坂。

 俺は坂を下る勢いに任せて夜の藍の空を突き進んでいく。このままこの身が藍に解けても悪くないかな、と心の片隅で夢想した。



「佐藤くん、起きなさい」

 典型的な昭和教師の様相を呈する、うちの教室の担任且つ数学担当の御神先生が、俺が寝ているうちに俺の目前までやってきていた。

「授業はちゃんと聞きなさい」

 如何にも事務的であり惰性的な口調だ。外から見た限りでは昭和教師ではあるが、中身は生徒など気にもかけていない先生なので、仕方のないことだろう。昭和の教師が生徒を気にかけるのかは知らないけど。

 俺は一瞬返事に困ったが、相手も事務的な様子であるから、こちらも分かりやすい演技のように応える。

「わかりました。注意します」

 とは言ったものの今教わっている範囲は特進で3回は繰り返し教わった範囲。すべての用語が説明の7割を聞けば思い出せるほど習熟しているので、意識を飛ばすか空を見上げたくなる。

 特進に所属しているうちであれば、少しでもいい点を取ろうと躍起になって熱心に授業を聞いていたが、もうそんな気分にもなれない。

 本気度が足りない、そんな俺自身が、俺は余裕で嫌いだ。

 特進はステータスだったわけではないが、なくなればなくなったで寂しくなるものだ。



 授業が6時間全て終わり、今日のいわゆるホームルームも、今日は昼にあったので部活に向かう。

 所属している部活は小学生の時にはやっていたものにしたのだが、小学生のころやっていたのはノリで入ってしまって嫌々だったことを完全に失念していた。夏からずっと辞めたいと思っている。

「もう、決着をつけてしまおうか」

 嫌々続ける部活に意味はない。

 皆楽しそうに部活の準備をしている。顧問は今ならたぶん空いている。

「――ちょっと話がしたいんですが」

 俺は顧問の先生に話しかけた。



「なるほど、辞めたいと。じゃあその理由は?」

 理由。そんなことも訊かれるのか。

 これまで使ったことがない速さで頭を回転させる。

 人間関係が悪かったわけではない。どちらかと言えば良好だ。

 では何かしら挫折をしたかというと全然そんなこともなく平和に部活を続けている。――俺にとって部活をやっている時間は平和でも何でもないけれど。

 ならば――

「この部活を続けて行くことに精神的に苦痛を感じるからです。具体的には、まず一つ目はこの部活が掲げている全体主義的な思想と、自らの考えているどちらかと言えば個人主義的によっている思想には食い違いを感じるからです。二つ目に、放課後にわざわざ自分の時間を削って活動するということに心の余裕を奪われるからです。三つ目は、部活と勉強を両立することには必ずと言っていいほど肉体的な苦痛を伴い、それは精神的苦痛にもつながり得るものだからです」

 よし、即席にしてはなかなか悪くない回答ができたと思う。若干オタク特有の早口味は混じっているけれど。

「そうですか。私としては佐藤くんの実力は良いものがあるので残っていただけると嬉しいですが、私に止める権利はありません。親御さんとご相談してから決めてください」

 またもや見逃しだ。うちの親がそう簡単に首を縦に振ってくれるはずがない。これは持久戦になりそうだ。



 と思っていたのも束の間、うちの親はあっさりと頷いてくれた。もうこれ以上続けさせても金がかかると判断したのか、もしくは俺の気持ちを尊重してくれたのかは俺にはわからないが――これでもう自由だ、完全に。

 そう思っても、心の奥に小さな喪失感が突っかえているような気がした。