午後0:27 クロイス公が、長い隠し通路を抜け、東苑のルコット邸にたどり着いたとき、彼はどこかで銃声が鳴るのを聞いた。

「何だ今のは……?」

 それほど遠くではない。おそらく同じ東苑の敷地内だ。

「何かやったのか?」

 クロイス公は私兵隊長に尋ねる。

「今のは……」
「私からご説明しますわ、お父様」

 隊長の言葉を遮る声。屋敷の玄関ホールに、ルコットが立っていた。

「ルコット! 無事であったか!」
「ええ。お父様もご無事で何よりです」

 娘はにこやかに答える。このような事態に全く動じず、いつもと変わらぬ様子だった。その未来の国母に相応しい佇まいに、クロイスは頼もしさを覚える。

「今の銃声は、この屋敷を守っていた兵士たちのものです」
「この屋敷の? では、何者かの襲撃を受けたのか」
「いいえ、逆です。私が命じて襲ったのです。皇妃の村落を」
「なんだと!?」

 思いがけぬ言葉だった。

「一体、何ために……」

 いや、尋ねるまでもなかった。当然、女帝の命を奪うつもりなのだろう。
 ならば、今朝謁見の間に女帝はいなかったということか? 別におかしくはない。これだけの変事起こしたのだ。顧問は、女帝の身柄を安全なところに移すのが自然だ。
 そして、本来なら選ばれた者しか入れぬ東苑はうってつけの場所と言える。

「何のために? 愚問ですわ、お父様」
「愚かなのはお前だルコット! なぜ女帝を直接狙った!?」

 クロイス公とて、マリアン=ルーヌという存在を認めてはいない。これから挙兵し、"百合の帝国"の帝政をあるべき姿に戻すつもりだ。
 しかし、打倒すべき敵はあくまで顧問を名乗り国政を欲しいままにするグレアン侯爵だ。血の正統性がないとはいえ、マリアン=ルーヌはこの国の至高の存在。それを討とうとすれば他の貴族たちはついてこない。

「儂はこれからグレアンの小娘を討つ。女帝はその後で穏便な形で退位を迫れば良いのだ!」
「……そうですね。お父様ならそう言いますわね。けどご安心ください。女帝が死ぬことはありませんので」
「なに?」
「彼女が教えてくれたのです。我がクロイス家が生き残る道をね」

 すると横の扉が開き、思ってもいない人物が現れた。

「貴様っグレ……」

 その名を呼ぶ前に、ルコットが右手の人差し指を突き立てた。何かの合図? クロイスが娘の仕草に違和感を持った瞬間、背中が灼熱し、何か鋭利なものが身体を貫くのを感じた。

「がっ……ぶふっ……!?」
「閣下、お許しを」

 私兵隊長だった。ここまでクロイスを連れてきた男が、剣を抜き放ち、主人の背中に突き立てたのだ。
 急速に全身の力が抜け、肥満気味の身体がどすりと崩れ落ちた。

「ルコ……」

 娘の呼ぼうとしたが、その隣にいる女の顔を見て絶句する。
 グレアン……。なぜこの女がルコットの隣にいる? ルコットとてこの女を蛇蝎の如く嫌っていたではないか。

「お父様が宮廷で人を斬った時点で、我がクロイス家は終わりました。」

 娘の声が、初めて聞くもののように感じられた。

「少なくともあなたの孫アルディスが、帝位を継ぐ可能性は消えたのです」
「そ、それは……ちがうぞ、ルコ……」
「ええ、お父様はこれから兵を挙げ、勝利すれば全てを覆せると思っているでしょう。ですが、私には博打にしか思えません」

 ルコットの隣でグレアンの小娘が頷く。
 
 いや……。

 長年、帝国を牛耳ってきた策謀家の頭脳は、今際の際でも回転し続けている。

 この女、本当にグレアンか?

 なぜそう思うかまではわからないが、政敵として彼女を警戒し続けていた彼の直感が、目の前にいる女とアンナ・ディ・グレアンという名前を結びつけることを拒否している。

「私たちの筋書きはこうです」

 ルコットは続ける。

「宰相職を奪われた逆上したお父様は秘密の通路を通って、この屋敷にたどり着きます。そして、ここの衛兵たちを皇妃の村里にさし向けるのです」
「な……に?」
「私たちは必死でお父様を止めました。しかし怒り心頭のお父様は聞く耳も持たない。そこでやむを得ず、私たちはお父様を成敗します」

 実の娘が、十数年手塩にかけて育て、宮廷に送り出した我が娘が、信じがたいことを話している。何なのだこれは……?

「これならば、我がクロイス家が逆賊として歴史に汚名を残すことは無くなります。逆賊はお父様、あなたお一人。その後も綱渡りの駆け引きは続くでしょうが、少なくとも我が息子アルディスの名誉は守られるでしょう」
「な、ルコ……」

 ルコットが再び指を立てる。今度は人差し指と中指の2本だった。
 倒れたクロイスの身体の上で、カチン……と金属的な音が鳴る。短銃の撃鉄を起こす音。
 クロイスはまだ残っている全ての力を振り絞り、身体が仰向けになるよう動かした。すると、真っ黒な銃口が目に飛び込んできた。

「やめろ……あ……あ……」

 私兵隊長の名を呼ぼうとするが、出てこない。彼を隊長として招き入れた後、早々に忘れてしまった。そのような瑣末なこと、いちいち覚えていられない。

 次の瞬間、玄関ホールに銃声が響いた。稀代の専横者の人生はこうして幕を閉じた。

 一時は帝国の全てを手にしたその栄華と比べると、あまりにも惨めな末路であった。

「……ポルトレイエ夫人」

 ルコットは隣に立つ貴婦人の名を呼ぶ。

「はい」
「あなたの言う通りにしたわ。これで良かったのよね?」
「ええ。あとは我が兄、ウィダスが良いように取り計います」

 貴婦人は答える。ルコットには彼女の顔が、真珠の間で女帝の寵愛を得ている人物として映っている。
 それが、父が今際のに見た顔と、全くの別物であることなど知る由もない。
 
「勘違いしないで欲しいのだけど……私は真珠の間の連中に尻尾を振ったわけではないわよ」
「もちろん存じております」
「私の望みはアルディスが帝位につくこと。その邪魔者を排除するために。あなた達に協力しているだけ」
「はい。ドリーヴ大公殿下の御ため、実の父すらも討つというあなた様のお覚悟に、私も感銘を受けました」

 ポルトレイエ夫人を名乗る女の言葉に、ルコットは血まみれになった実父の姿を見た。
  
「……お父様が悪いのですよ」

 父の骸を見下ろしながら、ルコットは言う。

「あんな小娘に先手を取られ続けていたから、此度のような騒動が起きたのです。帝国貴族の盟主にあるまじき不手際。自業自得ですわ」

 骸の虚な眼は天井を見つめ、当然ながら何も答えない。
 ルコットはぷいと顔をそらし、それから永遠に父の顔を見ることはなかった。

「ところでポルトレイエ夫人、あなた文才はあるかしら?」
「ええ。人並みか、それ以上には持っていると自負していますが」
「よろしい。ならばこの骸に添える嘆願書を書いてちょうだい。クロイス家とアルディスの将来を、女帝陛下に安堵してもらうための、ね」
「かしこまりました」