「ありがとうございました」
丁寧にお辞儀をして宿を出てきた主人と狼鬼を、彼は屋根の上から黙って見下ろしていた。
建物の扉がしっかりと閉められたのを確認して、主人が彼と、隣にいた勝の方へ顔を向ける。
「ごめん、待たせて。行こうか」
《うん》
彼らはひらりと屋根から飛び降り、静かに主人について行った。
彼らが山の方に歩いていく途中、山の方角を見ながら突っ立っている女性がいた。物思いに耽るように虚空を見つめている。主人はそれを黙って見ていた。
女性が誰に話しかけるでもなく口を開いた。
「大丈夫かなぁ」
主人は静かに立っていたが、女性の独り言を聞いた途端、無遠慮にずかずかと女性の方に歩いて行った。彼らは少し困って、互いに顔を見合わせた。
《どうすんのアレ、止める?》
《いや、無理だろアレ止めるのは》
勝と狼鬼が焦って不毛な会話を始めた。彼が慌てて主人に声を掛けようとした時には、主人は女性に話掛けていた。
「すみません」
女性はぴくりと肩を震わせて主人の方に顔を向けた。
《普通に考えて、細長い袋肩から斜めに背負って、顔お面で隠して、おまけにでかい犬3頭も連れてる人にいきなり声掛けられたらびっくりするよな》
狼鬼が冷静に分析しているのか馬鹿にしているのか分からない発言をすると、主人が狼鬼の方を見てニコリと笑った。
目が笑っていない主人を見て、狼鬼だけでなく、彼と勝も少し目を泳がせる。
「なんでしょうか」
女性が恐る恐るといった調子で返すと、主人は山の方を指差して口を開いた。
「木暗山はあれで合っていますか?」
「はぁ、そうですが」
「ありがとうございます」
静かに礼を言って主人がさっさと歩いていく。彼らは慌てて主人の後を追った。
「あの、1週間ぐらい前に、16、7歳ぐらいの男性が山に」
彼らが女性のところから5米ほど離れたところで、女性が声を張り上げた。
彼の身体が強張るのが分かった。彼の視界の端で、主人がきつく拳を握るのが見えた。
「知ってます、私は彼の同僚で、私は応援にきました」
それだけ言うと、主人は足早に真っ直ぐ山の方へ向かって行った。
ふいと彼が振り返ると、女性が呆然と突っ立っているのが見えた。
昼間だと言うのに、その山の中は薄暗かった。彼らは主人の後を静かに歩いていく。彼が微かに風を感じて上を見ると、主人が木の横枝に降り立つのが見えた。
「私は走るのは遅いけど、高い所で跳んだり跳ねたりするのは得意なんだ」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた、何年か前の主人を、彼は思い出していた。
しかし今の主人は、そのときの主人とは別人かと思うほど、雰囲気も、声色も、何もかもが違っていた。
「ねえ、お前ら」
主人に声を掛けられて、彼らは揃って顔をあげた。
「手紙に書いてあった洞窟ってこっち?」
《え?》
彼らは思わず素っ頓狂な声をあげた。
さっきまで、何というか......すごく近寄り難い、怖い雰囲気を醸し出していると思ったら、道に迷っていたのか。彼と勝が風の匂いを嗅いだが、匂いが弱すぎて方向がはっきりしない。困って顔を見合わせる彼らをちらりと見て、狼鬼はくんくんと鼻を蠢かせてから答えた。
《うん、多分こっち》
彼と勝の敏感な鼻と比べても、更に鋭い狼鬼の鼻には、微かに冷たくて、妖の匂いを含んだ嫌な風が吹いてきていた。