パリン、と音がした。
 彼女が音のした方を振り返ると、黒っぽい袴に白縹(しろはなだ)の羽織を着て、1匹の犬を連れた女の人ーー恐らく、15、6歳といったところだろうかーーが、割れた空っぽの丼を拾おうともせずに、立ち尽くしていた。でも、女の人の目は、砕けた丼を見ていたわけじゃない。何もない、真正面を見つめて、ただ立っていた。
「お客さん、どうした、大丈夫か?」
 「うどん」と書かれた屋台の中にいた男の人が、心配そうに声をかけていた。
 普段の彼女がこれを見たなら、微かな恐怖すら覚えて、見なかったことにして通り過ぎるだろう。
 でも、どうしてだろうか。
 吸い寄せられるように、立ち尽くす女の人の方に歩いていった。

「お姉さん、どうしたの?大丈夫?」
 声をかけても、女の人はぴくりとも動かない。唐紅の目をした小さい犬が女の人の方を見ると、やっと女の人は口を開いた。
「いや、何か......聞こえなかったか?」
 尚も虚空を見つめたまま、女の人が呟いた。しかし、彼女の目には、その言葉、話し方さえも、不自然に映った。まるで......まるで、犬に話しかけているような。
 それに、「何か聞こえる」と言っても、ここは町だ。絶えることなく、何か音はしている。
「お姉さん」
 彼女がもう一度声を掛けると、やっと女の人の目が彼女を捉えた。
「あぁ、ごめんね。どうした?」
 その目が、優しく、ふわりと微笑む。
 女の人の顔は、何故か白い狐のお面で隠されているので、本当に笑っているのか、彼女にはよく分からなかった。
「どんぶり割れちゃったのに、なんか、何処も見てない感じだったから、大丈夫かなと思って」
 女の人が、はっとしたように目を見開く。
「あ、やば」
 慌てて丼を片付け、屋台の人に謝る女の人の姿を見て、彼女はすこしほっとする。なんだ、案外普通の人じゃないか。きっと、何かびっくりするようなことが起きて、それで丼を割っちゃったのだ。
 しばらく待っていると、女の人が戻ってきて、彼女が座っていた縁石の、その隣に座った。
「さっきはごめんね、話しかけてくれたのに無視しちゃって」
 女の人が申し訳なさそうに、彼女に詫びた。
「ううん、大丈夫。お姉さんは、平気?」
「うーん......うん、大丈夫だよ、ありがとう」
 女の人が曖昧に笑う。彼女は、安心したように微笑んだ。その後は、色々な話をした。
 彼女からは、自分は千歳(ちとせ)という名前であること、今8歳で、初めて1人で町に来たこと、両親になにかお土産を買っていこうと思っていること、などを話した。女の人は、楽しそうに彼女のお話を聞いてくれた。
 女の人は、自分と犬達の名前(それから大きな2匹の犬が居る場所)を彼女に教えてから、自分は生き物の心の声を聞くことができて、それで犬たちとお話ししていること、犬たちは心の声で一方的ではあるものの普通の人にも話しかけられること、自分が前に戦っていた、「アヤカシ」のことを話した。
「妖の始祖を私たちの組織みんなで頑張って倒したから、妖はいなくなった、と思う。でも、残党が残ってるかもしれないから、暗いところに1人で行っちゃ駄目だよ。」
「わかった。......ザントーって何?」
「生き残り、みたいな意味かな」
 女の人は軽やかに笑って、そう教えてくれた。

 キッキッと、聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえた。
 あ、と女の人が短く言って立ち上がり、左腕を掲げた。
 バサバサ、と羽ばたきの音がして、女の人の腕に、小さい鳶のような鳥が止まる。彼女は少し怖気付いた。鋭い爪と嘴を持ち、辺りを暗褐色の瞳で見回す姿は、とても強い、邪悪な何かに見えたのだ。
「大丈夫だよ、私の友達。隼なんだ。顔は怖いけどね、優しいから。お手紙届けに来てくれたの」
 女の人が優しくそう言ってくれて、彼女は少し安心する。
 ありがと、と女の人が言うと、隼は飛んでいった。
「どんなお手紙きたのー?」
彼女が明るく問うた。
「私が入ってる、妖と戦う組織の偉い人から、かな。えーっとね」 
 縁石に座り直してから、ガサガサと音を立てて、女の人が短い手紙を開く。
 彼女が手紙を覗き込むと、彼女には何で書いてあるのか分からない部分もあったが、筆で書かれた、綺麗な文字が見えた。
『   、妖ノ残党ト戦闘ノ末、死亡 ヨッテコノ任務ハ、汝ニ引キ継ギトスル
場所ハ木暗山(こぐれやま)、山中ノ洞窟』
「......へ」
 女の人が、か細い声を上げた。
「何で書いてあるの?」
 彼女が恐々と聞くと、女の人が、声を震わせて答えた。
「私の、同期が、お友達がね、妖の残党と戦って、死んじゃったんだって。それで、その妖を倒すお仕事を、私がやってねって......お手紙」
「え」
 彼女の声が、掠れた。上手く声が出せなかった。お姉さんの、お友達が、「アヤカシ」と戦って、死んじゃった......?
 女の人は、俯いて、動かなくなってしまった。膝を抱えて、膝に額を押し当てて、震えていた。彼女には、なんだか、今さっきまで頼もしく、優しい、姉のように見えていた女の人が、急に小さく、幼くなってしまったように感じた。