昼間だというのに、ひっそりと薄暗い山の中を、彼は静かに進んでいった。
山の麓で、泣き叫んでいた女性の声が、耳の中に蘇る。
「化け物よ!化け物が出たの!私、それに襲われたの!」
一年前に、妖の始祖を、彼が入っていた組織の人間全員、総力戦で倒した。
しかし、考えたくはないが、残党が残っている可能性も無くはない。だから生き残った彼らは、一箇所に留まらず旅を続け、残党を探して回っているのだ。
彼も最終決戦でかなりの怪我を負い、以前ほどは速く動けなくなった。ただ、雑魚の妖の討伐ぐらいなら、全くもって問題ない。
「もし化け物が妖なら、しぶとい奴らだよなぁ、本当に」
森に住む獣か、もしくは植物を化け物と見間違えた、という感じであって欲しい。狐や、貂の妖も本当に存在したのだから。
呂色の薙刀を持ち、女性が「化け物が出た」と言っていた辺りへ向かう。
薄暗い洞窟だった。気配は無い。
「やっぱり見間違いかなぁ」
声を出したそのとき、後ろを何かが素早く通ったような感覚があった。
反射的に素早く地面を蹴り、6米程離れたところに着地する。
妖の姿はない。
代わりに、ひらひらと木の葉が舞っているだけだった。
ふぅ、と息をつく。
見間違いか、もしくは、いたとしても、もう他の場所に移動したのだろう。
ここにはいない。
そう思って洞窟に背を向けた瞬間、何かに口を塞がれた。
冷たく、鋭い爪が頬を撫でるのがわかる。
冷や汗が、こめかみから流れた。
目を見開いて、呻き声を上げた。
何故、と思う。
ここまで気配なんて、全くしなかったのに。「ここにはいない」確実にそう思ったのに。
小さく、細い笑い声が、耳元で聞こえる。奴が、彼の頬を撫でて、声を上げた。
【美味しソうだナぁ】
妖だった。
はぁ、はぁ、はぁ。
彼は、乱れた呼吸を、必死に元に戻そうとした。
記憶が、ぼんやりと戻ってくる。
妖を討伐しに行って、妖に捕まって......
喉がひゅっと音を立てた。
「あれ、俺、生きてる......?」
普通、妖に捕まったら、もうお終いだ。食われる運命しか残っていないはずだ。ましてや、〝あれ〟は、全くもって弱い方ではない。今の彼が仮に全力で戦っても、勝てるとは言い切れない程だ。それに捕まったのに、彼は、何故か生きている。
【アぁ、起キた?】
さっきの妖の声がする。
薙刀、は、見当たらない。
そりゃあそうか。
彼は自嘲の念を込めて小さく笑った。
食糧に武器を持たせて、自分が攻撃されたら、元も子もない。
【ごめンねぇ、乱暴なことトして。
デも、もウ、大丈夫。】
妖が、また、彼に話しかけてきた。
身構える。
攻撃がくる──そう思ったのだが、妖は、何故か彼に、彼の薙刀を手渡してきた。
【キみに、選ばせてあゲる。
俺とタたかって、君が勝ッたら、君はニげられる。で、俺ガ勝ったら、君は俺のごハん。どウ?】
にやりと笑う妖に、体が震える。
歯を食い縛って、薙刀を握る。
彼は、最後かもしれない精一杯の強がりを見せた。
「選ばせてくれんだな、ありがてぇ。良いぜ」
もし負けたら食われる。でも、戦わなかったら確実に食われる。そんな状況で戦闘を放棄する程、彼は馬鹿ではなかった。
【よかっタ!】
ふわり、と妖が宙に浮かぶ。
彼も、戦闘体制になる。
ダン、と同時に地面を蹴って、妖と彼は、戦闘を始めた。
もっと強く、もっと速く。
呪文のように心の中で繰り返す。
ヒュンと音を立てて、力強く薙刀を振り回した。
【君の攻げキ、綺麗だネぇ。
俺ノも、見てヨ】
と、一気に、彼は、煙に包まれた。真後ろに、気配を感じる。気配をめがけて、彼は思い切り薙刀を投げた。
ドス、と音がして、血の匂いが鼻を突いた。薙刀が妖に突き刺さり、彼の裏葉色の羽織に返り血が飛び散った。急所ではないが、それなりの痛手にはなるだろう。
【君、速イね、でモ、俺、そっちジゃない】
妖が言った言葉が、彼はすぐには理解できなかった。
だって、刺さってるじゃないか。俺の薙刀が、お前の腹に。
【残念でしたッ】
真後ろから楽しそうな声がして、彼は息を止めた。
苦々しそうに笑った。
「分身か」
【当タり】
彼の身体が、ふわりと浮いたかと思うと、強かに岩の地面に叩きつけられた。
「っ......」
声が、出ない。
息が、できない。
目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。
【俺の、カち。君ハ、俺の、ゴはん】
妖の声がした。彼は目を閉じた。
俺、死ぬのかな。
そっか、俺、妖のご飯か。
仲間の顔が浮かんだ。
たった1人の、同期の顔だった。喧嘩することも多いけど、まあ、良い奴だ。いつもオオカミを連れてる、不思議な奴。できることなら、もう一度、会いたいけれど。
《 、ごめん、俺、無理かも》
首筋に鋭い痛みが走って、彼は意識を失った。
バサリと音がして、洞窟の前の木から、何かが飛び立った。
雨が降り出した。
彼と、妖は、暗い洞窟の中に居た。