彼女は、日が暮れかけた中を急いで歩いていた。
 アヤカシの残党が残ってるかもしれないから、暗いところに1人で行っちゃ駄目だよ──ふた月ほど前に出会った女の人が言っていた言葉を、彼女は思い出していた。
 あの人は、お友達を殺したアヤカシを、ちゃんと倒せたのだろうか。
 あの人は無事なのだろうか。
 考え始めると止まらなくなって、彼女は更に家に向かう足を早めた。アヤカシが出る前に、ちゃんと家に帰らなければ。そんなことを考えながら、彼女は家までの近道である、薄暗い小道に入った。

 彼女が小道の中ほどに差し掛かった時、前から女性が歩いてくるのが見えた。こんな薄暗い時に、これから町に行くのだろうか?彼女はぺこりと頭を下げて、女性の横を通り抜ける。
 ザァと風が吹いて、木の葉が舞った。
 彼女の姿は、忽然と消えていた。


 彼女はハッと目を開けた。
 見慣れない木々が、薄暗闇の中で不気味に揺れている。
 声を出して助けを求めた方が良いのだろうか。それとも静かに何処かに隠れた方が良いのだろうか。
【こんばんは】
 聞き慣れない声が聞こえた。奇妙なほどに澄んだ声。
「あなた、誰......?」
 冷たい汗が首筋を伝うのが分かった。
【魔魅。穴熊の妖よ】
 その声は、不自然なほどに丁寧に名乗った。
「わたしのこと......食べるの......?」
 声が震えた。
【ええ。でも大丈夫、ちゃんと殺してから食ってあげる、だから痛くないわ】

 身体の中心がかっと熱くなって、手足の先が急激に冷えるのを感じた。

 嫌だ、嫌だ、死にたくない、
 食べられたくない、
 誰か、助けて。お願い、
 わたし、まだ──



 目尻から涙が零れた。
 助けを呼ぼうにも、声が出ない。
 自分で逃げないといけないのに。
 足の力が抜けて、立ち上がれないのだ。
 ただなんとか息をしながら、座ったまま後ずさっていった。
 逃げても無駄よ、という妖の声が、自分の心臓の音の奥に微かに聞こえる。

 妖が彼女の首筋に手を伸ばした。
 彼女はぎゅっと目を瞑った。
 わたしも、食べられちゃうのかな、あの人のお友達と同じで。
 そんな考えが、彼女の心の中にストンと音を立てて落ちてきた。
 そっか。食べられちゃうのか。

 震えた息が、彼女の口から漏れた。


 嗚呼、でも、本音を言えば。
 もうちょっと、生きたかったな。


 彼女の首に、妖の鋭く尖った爪が触れた。彼女は目を瞑ったまま、ぴくりとも動かない。
 その瞬間、びりびりと空気が震えるような音が辺りに響いて、妖の動きが止まった。
 ウオオオオオオオオオオン!
 獣の、力強い、咆哮。
 彼女は目を開けた。
 妖は、それを聞いてたじろいだ。
 彼女の胸に、暖かい光が差した。
 誰の声かは分からない。
 聞いたことがない声だけど、恐怖は感じない。それどころか、どこか安心するような、その歌声は。
 どこまでも気高く、そして、暖かい。
 アオオオオオオオオオン!
 オオオオオオオオオン!
 3種の歌声が、彼女の頬を優しく撫でた。
 妖が後ずさる。何かに怯えたように、彼女から離れていく。
 ザザザ、と木が揺れるような音がした。その直後に、ダン、と大きな音が真ん前でして、彼女は驚いて目を見開いた。
 見覚えのある白縹の羽織が、残光に照らされて目の前で揺れていた。
「千歳!大丈夫、生きてる⁉︎」
 振り返り、大声で彼女に呼びかけたのは、紛れもない、あの人だった。