《  》
 彼が呼び掛けても、主人はぴくりとも動かなかった。妖から離れ、主人をそっと地面に降ろす。
《  》
 煌が呼び掛けると、主人が微かに呻き声を上げた。
「っ......」
 妖が足音を立てずに近づいてくる。
 彼は咄嗟に主人の前に立ちはだかったものの、彼らだけでは此奴に敵うはずもない、ということは残酷なほどはっきりと解っていた。
【ソこ、どイて】
 彼と妖の目が合った。彼の首筋の毛が一気に逆立って、喉から唸り声が漏れた。
《断る》
 挑発的な笑みを浮かべて、彼が答える。妖がつまらなそうに舌打ちをした。と、突然、鋭い爪が目の前を横切り、彼の左の前脚と地面を抉った。鋭い痛みが走ったのも束の間、抉れた前脚がみるみる回復していく。
 彼が妖の気を引いている隙に、勝が音もなく妖の後ろから飛びかかったものの、意図も容易く衝撃波に吹き飛ばされてしまった。甲高い悲鳴が、煌と彼のぴんと立っていた耳と尻尾が徐々に下げ、主人と彼との距離が少しずつ縮ませていく。
《  、起きて》
 なんとか起き上がった勝の、祈るような声が彼の耳に届いたとき、視界の端で倒れていた主人の右手がぴくりと動いて、姿が消えた。妖が狼狽えるのを見て、彼らはにやりと笑った。
《  、遅いぞ》
 煌が妖に向かって歯を剥き出しながら笑った。
《煩いなぁ》
 主人が、妖の真後ろに立って溜息を吐いた。
 右手の甲についた爪痕のような模様が紅く光り、白狐面の向こうに妖しく覗くのは、彼とお揃いの唐紅の瞳だ。
 その姿は、紛れもなく「鬼」そのものだった。

「  、一応選択肢として挙げたが、断じてお薦めはしないぞ」
 先生の険しい声が彼の耳に届いた。
 2年前、咲羅が妖にやられてすぐのことだ。
「承知の上、覚悟の上です。どうか、この通り」
 主人が深々と頭を下げる。先生が、はぁとため息を吐いた。
「確かに、狼鬼の血を分けて貰えば瞬間的に強くなる、ほぼ不死身と言ってもいい。
だが、血を入れる時、血を覚醒させる時、傷を再生させる時、術を使う時......何か行動を起こす度に、お前の寿命を差し出していくということだ。また一度血を入れると二度と抜けない、後戻りはできない。人の身を捨てることにもなる。それでも......やるというのか......?」
「ええ。勿論です」
 主人がニコリと笑った。
 嗚呼、この人は。本当に、妖を倒すことに全てを捧げているのだ。
 先生の目を真っ直ぐ見つめ返す瞳を見て、どうしようもない無力感に襲われたことを、今でもよく覚えている。

【刀は抜カなイのカ?】
「いや必要ないっしょ」
 主人は音もなく、目にも留まらぬ速さで妖の顎に飛び蹴りを食らわせた。骨が砕けるような音がして、妖の頭がぐらりと揺れる。
 主人が楽しそうに笑って、妖の鳩尾に回し蹴りを打ち込む。妖は両腕で抱えられないほどの大木を何本も端折りながら吹き飛ばされ、血を吐いた。それを主人がしつこく追い回す。
 勝が応援に入ろうとするのを、彼と煌が慌てて止めた。
《巻き込まれるぞ、死にたいのか?》
《巻き込まれるぞって、何に》
《  と妖のたたかいに、だよ》
 勝が脚の力を抜いたのが分かった。
 妖がもう一度此方に吹き飛ばされてきて、彼らはびくりと身を竦ませた。
「頼める?」
 主人のその声が彼らの耳に届いた瞬間、彼らもまた目にも留まらぬ速さで妖に向かっていく。
 煌と勝が妖の腕に噛み付き、彼は後ろから首に噛み付いて妖を地面に叩きつけた。
 空中から妖の胸に向かって刀を突き出す主人の唐紅の瞳がみるみる元に戻っていく。
 ガァン、というような金属音が辺りに響き渡って、主人の刀はしっかりと妖の心臓を貫いていた。
 主人は一瞬驚いたように目を見開いた後、目を閉じてふぅと息をついた。

《  、生きてる?》
 彼が木にぐったりと寄り掛かり、座り込んだ主人に声を掛けた。
《なんとか》
 主人の心の声が聞こえてきた。
《やっぱり声出ない?》
 勝がヒョッコリと隣から顔を出した。
《全然出ない、まぁ喉が潰れてる訳だからね》
 うーわ、痛そう、と声を上げる勝に、主人の隣で腹這っていた煌が静かに話しかけた。
《勝、お前怪我は?》
《ぜーんぜん平気だよー》
 いつものように軽い答え方に、彼と煌は揃ってふっと笑った。
《あ、そうだ、お前ら》
 主人が思い出したように顔を上げた。
《洞窟の中見てきてくれる?》
《財宝が埋まってるかどうか?》
 煌が珍しく冗談で返した。
《違う》
《はいはい、ご遺体と遺品の有無ね》
《ん。頼む》
 彼らは見えない号令がかかったように
同時に立ち上がると、洞窟の中へ音もなく歩いて行った。

 湿っぽい洞窟の中を10米ほど進むと、着物や武器が堆く積まれていた。様々な人間の匂い、そして大量の血の匂いに、鼻の良い彼は目眩さえ憶えた。
 隣に目をやると、煌と勝が目を見開いて、着物と武器の山の一番上を見ていた。
《ろ、うき、これ》
 つかえながら呟いた煌の目線を辿って、彼も目を見開いた。
 裏葉色の羽織、呂色の薙刀。
 血が付いて汚れてはいるが、見間違う訳がない。
 間違いなく、主人の同期のものだ。
 静かに息を吐いた。
《ここにいたんだな、 。久しぶり》
 他の着物や武器を傷つけぬよう、慎重に羽織と薙刀を咥えた。
 彼の瞳から一筋、涙が溢れた。
《  、ねぇ、見つけたよ》
 大きな声をあげながら、勝がタカタカと走っていく。
 洞窟の出口で、主人は催眠術にでもかかったかのように突っ立っていた。
 彼が羽織を、そして煌が薙刀を地面に降ろすと、煌は淡々と報告をした。
《ご遺体はなし。遺品はかなり沢山あったかな。今は のだけ持ってきたけど、他にも結構着物とか武器とかがあった。全部 と同じように討伐に来てやられた奴なんだったら、彼奴相当な数食ってたぞ》
《了解、ありがとう》
 静かに呟いてから、主人は震える手で羽織を自分の方に引き寄せた。そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
《おかえり》
 雫が主人の頬を伝って、裏葉色の羽織に水玉がじわりと拡がっていった。