彼女が刀を引き抜くと、妖は霧のように形を崩して消えた。
「さて、楽しい茶番はこのくらいにして」
 彼女が少し戯けて言った。
「こいつは分身かな、影武者?まぁどっちでも良いや。ホラ出てこいよ、本体」
 彼女は右斜め後ろに振り返りながら、ぼそりと呟く。薮を掻きわけ、音もなく現れた2頭のオオカミも、前からいた1頭と共にその方向を睨みつけ、低く唸り声をあげた。

 先程の分身の妖よりも遥かに威圧感が強い、「本体」が姿を現した時には、彼女は再び刀を抜いていた。オオカミ達も一気に首筋の毛を逆立てた。
【バレてタのか】
「うーん、最初は気づかなかったんだけど、こんなに弱い奴に がやられる訳無いと思ってね」
【そうカ】
「よっし、じゃあ、始めるかー」
 軽やかな彼女の掛け声で、オオカミ達が走り出した。彼女も今一度戦闘体制となる。
 彼女は再びヒュウと息を吸い込み、蝶のように舞い上がった。
「いーち」
 彼女が妖の真後ろに回り、オオカミ達が妖の前方を固める。
【これデ追イ込んだつモりか】
 妖の嘲笑が彼女の耳にも届いた。
 しかし彼女は、何故か全く焦っていない。
《良いよ、狼鬼。始めて》
 彼女が心の中で指示を出すと、狼鬼がまっすぐ妖を見つめた。
 狼鬼の目の色と同じ、唐紅の玉が狼鬼の鼻先に浮かび上がったと思った瞬間、一気に「ソレ」は大きく口を開けて、妖を呑み込んだ。
《やっぱり何回見ても綺麗だなぁ》
 勝の感心したような明るい声とは裏腹に、妖は目を見開いて、驚きを隠しきれずにいた。
 それは自分が外に出られないように封じ込める、掌のように見える。
 それは大きな、彼岸花の形をした結界だった。

 彼女は結界の中に飛び込むと、妖の脇腹に強烈な回し蹴りを打ち込んだ。妖の身体がぐらりと揺れた。
 妖が彼女に向かって伸ばした腕を切り落とし、再び結界の外に出て、彼女は少し咳をしてから静かに言った。
「あなた、そこから逃げられる?」
 妖の腕がみるみる再生していく。
 キン、と音を立てて、彼女は妖に刀を突き出した。
 妖はただ、恨めしそうに彼女を見ているだけだった。

【あんマり舐めてクれルなよ】
 妖が、身体全体に力を入れるのが分かった。ドォン、と低い爆発音が辺りに響いて、狼鬼の結界は最も容易く粉砕された。
 彼女も、オオカミ達も、10米ほど吹っ飛ばされると木や岩壁に強かに身体をぶつけた。
 公と勝は上手いこと受け身を取り、すぐに立ち上がったが、狼鬼は一番爆心に近かったのだろうか、左の前足を持っていかれて踠いている。
「狼鬼」
 彼女が掠れた声で呼びかけると、狼鬼は意外にもはっきりとした声で返事をした。
《問題ない》
【オ前、そレじャあ戦エなイだろう、無茶ヲ言うナ】
 再び妖の嘲笑が静かに響いた。
《お前、さっき  に腕切り落とされてたよな、アレどうしたんだ?》
【妖ハ再生能力が高イからスぐに傷も治ルんだ、残念ダったな】
《そっか、妖は再生するのか、じゃあ「鬼」も出来るかもね》
 狼鬼がニヤリと笑った。いつの間にか血は止まっている。
 ビキ、と音がして、一瞬にして狼鬼の前足は元に戻った。
「大丈夫?」
 彼女が立ち上がりながらもう一度狼鬼に問う。
《うん、ぴんぴんしてるよ》
 狼鬼は笑いながら答えた。
「結界術は効かなかったか、残念。
じゃ、もういっちょ」
 彼女は掠れた声で小さく呟くと、再び息を吸い込んで跳び上がった。