「え? 管理人やめる?」
 春人くんは驚いた顔をした。
 管理人さんナンパ事件から一ヶ月ほど経ったある日。
 昼下がりのマンションのロビーで、あたしは春人くんとソファに並んで座っていた。
 あたしは頷いた。
「うん。なんか、女性管理人さんも警備会社の空手三段の職員を派遣することになったんだって」
 どうやら、あの騒ぎのあと、マンション住民から治安が不安だとの声が出て行われた対策のひとつらしい。
 春人くんは目に見えて動揺していた。
「そんな、いきなり決まっても。だいいち、紬ちゃん、仕事と住むとこどうすんだよ」
 あたしは春人くんを安心させようとにっこり笑った。
「それは大丈夫だよ。あの部屋にはしばらくいていいって。仕事は、まあ始めるまでは節約して暮らすから大丈夫!」
「いや、しばらくって、てか、節約ったって」
 春人くんは口をぱくぱくさせた後、押し黙った。そして、思い切ったように顔を上げた。「紬ちゃん!」
「は、はいっ」
 あたしはびっくりして咄嗟に背筋を伸ばした。春人くんは少し言い淀んでから、顔を上げて口を開いた。
「もし、紬ちゃんが嫌じゃなかったら、だけどな。俺の店を一緒に……」
「山崎さーん!」
 甲高い声が聞こえて振り向くと、川瀬さんが大きく手を振っていた。それを見た春人くんは、がっくりと項垂れた。
 こちらに辿り着くと川瀬さんは満面の笑みであたしの両手を握った。
「お母さんから、飲食店許可出ました!」
「ほんと!?」
 あたしは思わず立ち上がった。
「やったね。じゃあ早速開店準備を……」
「ちょ、待て」
 春人くんも立ち上がって待ったをかけた。
「ちょっと、話が見えねんだけど」
 あたしは胸をはった。
「実は! なんと! あたしたち、このマンションにご飯屋さんを作ることになったのです!」
「待て、待て、あたしたちってなんだ、ていうか、ご飯屋はうちがあるだろが」
 春人くんは混乱していた。あたしは説明した。
「あのね、朝食需要に目をつけたの」
 そう。春人くんのお店は一日の終わりの疲れを癒やすご飯屋さん。あたしのお店は一日の始まりの活力をチャージするご飯屋さん。
「管理人さんやってて気づいたんだけど、このマンションの人たちって夜も疲れ切ってるけど、朝忙しくって抜いてる人も多いんだよね。あたし、自分が朝飯抜きの人だったからわかるんだけど、力出ないよ。だから、そういう人たちが、出勤前に気軽に立ち寄れるご飯屋さんを作ろうと思ったの」
 春人くんは口をぱくぱくさせている。川瀬さんが横からあたしの腕を引っ張って絡めた。
「山崎さんの案、あたしもすっごくいいなって思ったからお母さんに言ったの。このマンション建てた理由が『忙しい現代人にきちっとした食生活を』だったから、お母さんも大賛成」
 川瀬さんと目が合うと、春人くんは「お前、その腕わざとだな」と睨んでいた。それにかまわずあたしは続けた。
「おにぎり、お茶漬け、お味噌汁。トースト、スクランブルエッグなどなど。和も洋も扱うよ」
 あたしはうきうき気分で春人くんに説明する。
「扱うよ、って、たとえ軽食ったって、そんなに簡単に飲食店経営はできな……」
 あたしはその言葉を途中で遮った。
「何事もチャレンジ! あと、あたし調理師と栄養士の資格持ってる」
 あたしの学生時代は、興味を持ったことには何事にもチャレンジ、だったのだ。長い社畜生活で忘れていた。
「色々持ってんな……」
 春人くんは降参したようだった。ソファにどかりと腰を下ろした。
「負けないからね!」
 あたしが拳を握ってそう宣言すると、春人くんは目を丸くしたあと、苦笑した。拳を軽く振って「望むところだ」と応戦してくれた。
「じゃ、山崎さん、あたしお母さんと相談してくるんで、また明日!」
「うん、ありがとう。お母様によろしくね」
 そう手を振ると、あたしは春人くんの横に再び腰を下ろした。春人くんは複雑そうな表情だ。
「よく、飲食店やろうなんて思いついたよな」
 あたしは春人くんのほうに体を向けた。
「うん。春人くんのおかげだよ」
「俺の?」
 あたしはにこにこ微笑んだ。
「春人くんのご飯は心がぽわんてあったかくなるの。あたしも春人くんみたいになりたいなって思って、それでチャレンジしてみたくなったんだよ」
 春人くんがいたから。春人くんはあたしの目標だ。
 あたしはちょこんと頭を下げた。
「春人くん、ありがとう」
 頭を上げようとすると、大きな手が頭を押さえつけた。顔が上げられなくて「むう!」と上目遣いで睨むと、春人くんは顔を真っ赤にしていた。
「こっち、見んな」
「なんで?」
 頭を押さえつけられたままちょこんと首を傾げた。春人くんはそっぽを向いたままぼそりと呟いた。
「紬がかわいくてヤバいからだよ」

 おわり