それから三週間。マンションの面接やら退職手続きやら引き継ぎやらで慌ただしい日々を送った。
 川瀬さんは面接で落とされたそうだ。面接官のお母様曰く「あなたもうちょっと世間を知りなさい」だそうだ。が、さすがに今の会社はブラックが過ぎるということで退職した。今は家事をしながら転職活動をしていると楽しそうに言っていた。
 そして、今日。あたしは管理人としてこのマンションの一階に引っ越してきた。
 ゴミ屋敷のゴミはきっかり処分。使わない物はリサイクルショップで売ると、わりといいお値段になった。つまり、それだけ無駄買いをしていたということだ。
「あれ、紬ちゃん。もしかして荷物それだけ?」
 手伝いに来てくれた春人くんが驚いたように目を丸くした。
 あたしの荷物はスーツケースひとつに、リュックひとつだった。なんせ、夜逃げのようにぼろぼろになりながら今のマンションに引っ越してきたので、他の荷物は全部実家に送ってしまってあるのだ。両親から「片付けろ」と言われているのでそのうち片付けに行かねばならないが。
「手伝うこと、もしかしてないか?」
 春人さんは幾分がっかりしたようだった。親切な人だ。あたしはつい微笑んだ。
「あの、生活に必要なものの買い物、手伝って欲しいなあって。今度は自炊しようと決めたから!」
 春人くんは嬉しそうに微笑んだ。
「よし、荷物持ち、まかせとけ」

「ふー。疲れたねえ」
 あたしは春人くんと向かい合って座布団に座りながらオレンジジュースを飲んでいた。
「そうだな」
 春人くんもスポーツドリンクを飲みながら同意した。
 ある程度買い物が終わり、一段落すると、夕方になっていた。とは言え、六月の空は五時でも明るい。春人くんは今日は食堂のお仕事はお休みだそうだ。
「春人くん、ごはん食べてく?」
「ぶっ!」
 あたしが先程買ってきた食料をごそごそしながら尋ねると、春人くんは飲んでいたスポーツドリンクを吹き出してむせた。
「大丈夫?」
「いや、紬ちゃん。警戒心なさすぎだろ。……他の男相手でもそうなのか?」
 春人くんが探るようにあたしの目を見つめた。あたしは今までの人生を思い返す。
「あんまり、男の人の友達いなかったから、わかんないなあ」
「……そっか」
 ほっとしたような、悔しそうな、微妙な表情をして、春人くんは黙った。
「で、食べる? シーフードとカレー、どっちがいい?」
 あたしはカップ麺を意気揚々と両手に持って尋ねた。
「初日から自炊断念かよ!」
 春人くんの鋭い突っ込みがあたしを襲った。「だ、だって。疲れちゃったし」
 半泣きになりながらカップ麺を持っていると、春人くんが焦ったように「あー、ごめん、ごめん!」と頭をかきむしった。
「良かったら、俺が軽く作ってくるから。ちょい待ってな。紬ちゃんはちょっと休んでろ」
「え、悪い……」
「いーから」
 そう言ってあたしを座布団に座らせると、春人くんはドアを開けて出て行った。そして、隣の部屋のドアが開いて締まる音がした。春人くんのおうちはお隣だから。
「ほい、お待たせ」
 しばらくすると、春人くんは鍋とタッパーを抱えて戻ってきた。
「あ、そのエプロン」
 あたしがあげたベージュのエプロンだ。
 実はこの三週間、夕飯を食堂に食べに行くたびに、あのエプロンを着けていないだろうかとそわそわ観察していたのだ。が、今まで一度も着けているのを見たことはなかった。
「今日、おろしたの? うん、似合う、似合う、イケメン、イケメン」
 あたしは満足してうんうんと頷いた。春人くんは「いや?」と首を振った。
「もらった日から着てたけど」
「そうなの? 着てるの見たことなかったから」
「もったいないから、家で使って……いや、なんでもない」
 春人くんは頬を染めて口ごもった。
 気に入ってくれたんだ。良かった。
 あたしはにこにこしながら、鍋とタッパーを受け取った。わくわくしながら鍋を開ける。湯気がぼわっと出て、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
「肉じゃが作っといた。多めに作っといたから、明日の夜も食えると思う。そっちのタッパーはサラダ入れといた。ドレッシングはさっき買ってたよな?」
 春人くんが説明をしてくれる。あたしはじゅるりとよだれが出そうだった。
「早速、食べよう! 冷めないうちに!」
 スキップしそうな足取りであたしはキッチンに向かった。
「おう、食え食え。鍋は急がないから後で返してくれればいいから」
 春人くんは部屋を出て行こうとする。あたしは首を傾げた。
「食べていかないの?」
 春人くんはわずかに眉を寄せた。そして少し考えてからふわりと笑った。
「紬ちゃんは男にもっと警戒心持ったほうがいいぞ」
「え、でも春人くんは友達だから」
 きょとんとしながらそう返すと、春人くんは苦笑した。そして、あたしの頭をぽん、と軽く一回叩いた。
「友達レベルがもっと上がったら、な」
「……了解しました」
 春人くんが出て行ったドアをしばらく見つめる。
 あたしとて二十も半ばの女性だ。男は狼なのよ、ということくらい知っている。相手によってはそれなりに警戒すると思う。多分。が、これは春人くん個人への信頼なのだが。
「春人くんは、彼女とか好きな人にしか、狼にならない人だと思うんだけどなあ」
 まあ仕方がない。友達レベルが足りないと言われてしまったのだ。これからお隣さんだ。そのうちレベルアップしていくことだろう。
「そうだ、冷めないうちにー」
 あたしは気を取り直して歌いながらキッチンに行った。買ってきたばかりの白いお皿に肉じゃがとサラダを盛り付ける。ドレッシングは色々種類があっても使い切らないのが経験上わかっていたのでイタリアンドレッシング一種類だ。肉じゃがとイタリアン。それもなかなか合うのだ。
 まずはじゃがいもからいく。
「うまっ」
 味の染み方はいまいちだが、これは明日の夕飯に期待できる。
「次にお肉ー」
 美味しくて食が進む。けれど。
「一緒に食べたかったなあ」
 今まで夕飯を家族以外と一緒に食べたことなどほとんどない。一人で食べるのがデフォルトだ。
 けれど、今日はどこかとても寂しい気持ちがした。