「あ、起きました?」
「ふ……?」
 目覚めると、そこは見たことのない部屋だった。首元にふかふかの布を感じた。
 どうやらあたしは布団の上に寝かされているようだった。
 声のしたほうを向くと、背の高い男の人がこちらに近寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 心配そうにあたしの額に濡れたタオルを宛ててくれる。
「春人くん……」
 そう呟くと、春人くんは「は?」と呟いて頬を真っ赤にした。
「はるとくん、って……」
 あたしはぼんやりとそれを見つめた。春人くんは気を取り直したようにあたしの枕元にペットボトルを置いた。
「飲めますか? ほんと、びっくりしましたよ」
 のろのろと起き上がると、春人くんは説明をしてくれた。
 どうやら、ごはんを食べ終わった後、あたしは倒れてしまったらしい。救急車を呼んだところ、病名は過労と軽い栄養失調。
 そういえば、昨夜も途中で意識がなくなった。朝起きてざーっとシャワーだけ浴びて朝ご飯抜きで仕事に来たのだった。
「しっかり食べてくださいよ? まさか、空手二段の先輩が、こんな細くて小柄な女性だとは思わなかったですよ」
 身長は百六十あるのでたいして小柄ではないが、まあ、百八十はありそうな人から見たらそうなのだろう。
 あたしは腕に力を入れた。
「しごと、いかなきゃ」
 立ち上がろうとするあたしを春人くんは肩を押さえて押しとどめた。
「芽衣が職場には連絡してくれましたよ。ていうか、もう二時です」
「うわあ、あたし一時間以上ここで!?」
 春人くんは首を左右に振った。
「夜中の二時です」
「よなか……」
 春人くんは立ち上がった。
「今日はお客さんのひけが早かったのでもう店じまい終わりました。家まで送っていってもいいんですが、体調が心配だから今日はこのまま休んでいったらどうですか」
「いや、そんなわけには……」
 そこまでご迷惑をおかけするわけにはいかない。それをどうとったのか、春人くんは苦笑した。
「ここは店のバックヤードの休憩所ですから。俺は山崎さんの無事も見届けたことだし、自分のうちに帰るから、心配しなくていいですよ」
 そういう意味で言ったわけではなかったが、今から帰るのも面倒だ。どうせ明日は土曜日。仕事は休みだ。このまま寝ていよう。
「では、お言葉に甘えて……」
 その時だった。
 お腹の虫が盛大に鳴いた。
「腹、減ってるんですか?」
 あたしは情けない顔をしながら頷いた。半日寝ているだけだったのに、ここ数日満足にご飯を食べていなかったから、お腹が食糧を求めていた。
 春人くんは微笑んだ。
「なんか作ってきますよ。材料があれば、ですが。何がいいですか?」
 あたしは、今心が求めているものを口に出した。
「味噌ラーメン……」
「……だいぶガッツリいくな……」
 春人くんは少し考えたあと、「ちょっと待っててください」と部屋を出て行った。
 しばらく布団の上でぼーっとしていると、春人くんがお盆を持って戻ってきた。
「体調悪くても、まあ、食べたいものは食べたいですよね」
 苦笑しながらお盆を下に置いた。
 そこには、お茶碗に入った白粥と、こちらも小さなお茶碗に入った味噌ラーメンが載っていた。

「春人くんは、このマンションに住んでるんですか?」
 ごはんを食べ終わり、あたしは尋ねた。
「はい。イタリアンで修行してたんですが、去年このマンションが建つ時に声を掛けられたので、転職しました」
「ほえー、イタリアン!」
 口の中がアラビアータになったが、さすがにもう食べられない。あたしは、別のことを考えることにした。
「そういえば、川瀬さんとご夫婦なんですか?」
 川瀬さんはまだ大学卒業したての二十二歳だが、マンション経営者令嬢ともなれば、若くして政略結婚とかもあるかもしれない。そんなご令嬢がうちの会社に勤めてるのは意味不明だが。
 すると春人くんは「まさか」と首を振った。「従兄妹ですよ。あいつが小さい頃から面倒見てるんです。ご両親が仕事忙しい人ですからね」
「なるほど。だから仲良しさんだったんですね」
「仲良しさんというか。ちょっと甘やかしすぎた気はします」
 春人くんは肩を落とした。
「だから、ちょくちょく店に来ては飯食ってくんですよ。ったく、安いからって」
 そこであたしは思い出した。
「そうだ! 今日のお昼代、あと、このラーメン代、おいくらですか?」
 あやうく踏み倒すところだった。
「いや、いいんですよ。このラーメンで金取るほど俺も冷酷な人間じゃないんで」
「じゃあ、とりあえず、お昼代でも」
「あれは、お礼です。芽衣をセクハラオヤジから守ってくれた」
「あれ? 違いますよ」
「え?」
「課長は、女性です」
「そ、そうですか」
 気まずそうに春人くんは立ち上がった。
「じゃあ、今度こそ俺帰りますね。何か具合悪くなったとかあったら、電話その棚の上にあります。俺昼近くまで寝てると思うから、鍵は芽衣に預けてあります。明日の朝ここを開けてくれると思うので、申し訳ないですが、それまで待っててください」
「いえいえ、こちらこそ、かたじけないです」
 恐縮して縮こまると、春人くんは「かたじけないって」と吹き出して扉を出て行った。
 あたしは再び布団に潜り込んだ。
「ふー、お布団、あったかー」
 目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。