職場の入っているビルを出て、自宅とは反対方向に向かう。すぐの道を曲がると、大きな高級そうな十四階建てのマンションが見えた。
「ここ、入ってください」
「え、マンションのエントランスじゃ……」
 部外者が立ち入ってもいいのだろうかと腰が引けた。すると、川瀬さんはカードを取り出した。
「ここ、うちの母が経営してるんですー」
「けいえい……」
 突然の「マンション経営」というパワーワードに腰がさらに引けた。
 おそるおそる中に入る。ロビーを抜けて、左右にいくつかの扉がある広い通路を前に進む。しばらく歩いていくと、突き当たりに意外な光景が目に入った。
「飲食店?」
 シャッターがしまってはいるが、看板が出ていた。その名もずばり「食堂」と。
 あたしは首を傾げた。ここに入れるのはマンションの住民だけだろう。経営が成り立つのだろうか。
「山崎さん、どうしましたか?」
 川瀬さんが首を傾げた。
「いや、珍しいなって」
 飲食店が入っているマンションは便利だが、デメリットもあると聞いたことがある。ゴキブリなどの害虫、害獣や、匂い、騒音などだ。マンションを探す時、そういう場所は避けるように親に言われた。あたしはなんとなくそれを守っていた。
 すると、川瀬さんはにっこりと笑った。
「そうなんです! 母のチャレンジなんです」
「チャレンジ?」
 聞き返そうとしたところで、川瀬さんは突然しゃがんだ。
 ここがお目当てのお店だったのだろうか。そんなにがっかりしなくても。
「お休みだね、仕方ないから……」
 あたしがそう言いかけた目の前で、川瀬さんはシャッターに手を掛けると、勢いよく持ち上げた。
「な、何して……!?」
 焦って止めようとするも、構わずに川瀬さんはシャッターを全開にした。引き戸を引いて中に入っていく。
「ごはん食べに来たー!」
「……っざけんなよ、まだやってねえんだよ!」
 奥からずかずかと男の人が大股で歩いて来た。
「あー。春人(はると)くん、また昼間っからお酒飲んで-」
 春人くんと呼ばれたその人の手には、ビールのサンゴー缶が握られていた。
 うわあ、酔っ払いかよ、とあたしが引いていると、春人くんとやらは川瀬さんの腕を取った。
「夜に飲めねんだから、仕方ねえだろ。さあ、帰った、帰った……と?」
 春人くんはようやく店の外にたたずむあたしに気づいたようだった。
「えーと?」
 春人くんがきょとんとしてあたしを見下ろしながら首を傾げた。背が高い。
 あたしは焦った。咄嗟にバッグから名刺入れを取り出した。
「春人くん、こちら、山崎さんだよー」
「え、この人が!?」
 春人くんは目を見開いた。あたしを知っているのだろうか。
 あたしがバッと勢いよく名刺を差し出すと、春人くんは困ったように「いや、名刺もらっても……」と呟いたが、受け取ってくれた。名刺に目を走らせる。酔っ払いかと思ったが、お酒に強いのか、全く酔いは見て取れなかった。
「えっと。山崎……つむぎさんとお読みするのですか」
 あたしは名乗っていなかったことに気がついた。
「は、はい! 山崎紬と申します。以後、お見知りおきを!」
「いや、お見知りおきって」
 そうぶつぶつ呟いたあと、春人くんは営業スマイルを作った。
「川瀬春人です。この店の店主をやってます。芽衣(めい)が世話になったようで」
 芽衣とは、川瀬さんの下の名前だ。気づくのに三秒かかった。
「そう、この人が、あたしが課長に『いやー、若い子は花があっていいねえ。今度二人っきりで飲みに行こうね?』って肩揉まれてたところを助けてくれた空手二段の人だよ!」
 そんなこと、社外の人に言わなくてええやん。と頬が熱くなったが、春人くんは真面目そうな表情になって頭を下げた。
「芽衣を助けてくれてありがとうございました」
 あたしはふと気づいた。
「もしかして、川瀬さんの旦那さんですか?」
「は?」
 春人くんは鳩が膝かっくんされたように目を丸くした。
「いや、川瀬って、同じ苗字……」
「さー、そんなことより、早くごはん、ごはん!」
 川瀬さんがあたしの腕をぐいぐいと引っ張った。
「そうですね、中入ってください。シャッター閉めますんで」
 そうか、まだ開店前だと言っていたな。
 あたしはおとなしく店内へと足を踏み入れた。
 店内は、昔ながらの定食屋さんという雰囲気だった。が、定食屋につきもののメニューの食品サンプルがディスプレイされていない。 窓際の席に案内される。春の日差しがぽかぽかと暖かい。ここにもメニュー表は置いていなかった。
「山崎さん」
「はいっ」
 春人くんに呼びかけられて、あたしはしゃきっと背筋を伸ばした。
「おにぎりと味噌汁くらいしか出せないけど、いいですか?」
「はい、もちろんです!」
 まだ開店前なのだ。きっとまかない飯を分けてくれるのだろう。十分だ。
 彼が厨房に去って行くのを見送ってから、あたしは川瀬さんのほうに目をやった。
「定食屋さんなら、ランチの時間も開けた方が儲かりそうなのにね?」
 コップに出された水を飲みながら尋ねる。
「ああ、このお店、夜が遅くまでやってるんですよう」
「あ、それで」
「はい、夕方四時から夜中の二時までやってますー」
「は? 二時? そりゃ頑張っちゃってるねー」
 ファミレスか、ラーメン屋か。どちらにしろ、それではランチはきついか。
「はい。このお店、マンション住民のお夕飯の為の食堂なんですー」
「へ?」
「一般のお客さんは入れないんですよー」
「そうだよねえ」
 だから、さっき言っていたのか。「チャレンジ」だと。採算が合わないかもしれないから。川瀬さんは拳をぶんぶん振った。
「現代日本人は働きすぎなんです。仕事や家事でくたくたになって疲れてきて、夕飯の支度をする。とても大変なことです。だから食生活がいい加減になる。その対策として、栄養バランスを考えた格安の夕ご飯つきマンションを始めることにした! と、お母さんが言ってました」
「ほうほう」
 あたしは川瀬さんの話に聞き入った。確かにこのあたりに住んでいる人はあたしのように社畜、いや、企業戦士が多いのではなかろうか。睡眠を取る方が大事だ。
「はい、おまちどう」
 春人さんがテーブルにことんとお皿を置いた。おにぎりとお味噌汁だけだと言っていたが、お漬物と卵焼きも付いていた。
 ていうか、すごくおいしそう。
「いただきます!」
 あたしはまずおにぎりを手に取った。炭水化物は後回しに食べるのが健康の為には良いようだが、ごはんの白い粒があたしを誘惑していたのだ。
「美味しい……! 何コレ、おにぎりの宝石箱やー」
 あたしは顔を上げて春人くんを見た。春人くんはちょっと引いていた。
「よ、喜んで貰えて良かったです」
 あたしは二口目もぱくりといく。
「シャケだ!」
 再び顔を上げて春人くんを見上げた。春人くんはちょっと余裕が出てきたようで微笑んだ。
「はい。とっておきのトラウトサーモンですよ。塩は今日は岩塩を使ってます」
 あたしはもぐもぐと食べ続けた。
「味噌汁も、うまっ! これ、ネギと油揚げのハーモニーが!」
「このお漬物、ゆずの味がする!」
「卵焼き、めっちゃ色も形もきれい。食べるのもったいない! でも食べる!」
 お行儀悪く感動の言葉を紡ぎながら、あっという間に食べ終わった。
「ありがとうございました。あたし、こんな美味しいごはん食べたの、何年ぶりだろう!」
 春人くんは苦笑した。
「そんな、大袈裟すぎでしょう」
「いえ、あたし、就職してからいつもコンビニ弁当かスーパーの惣菜で! いや、今時の弁当やお惣菜はあなどれない美味しさがありますが! けど、こんな、こんな、家庭的な……」
 感動のあまり、頭に血が上った。あたしはテーブルにがくんと突っ伏した。
「ちょ、山崎さん!?」
「わ、どうしよ、山崎さん死んじゃう?」
「アホなこと言ってんじゃねえよ!」
 そんな二人の声を遠くに聞きながら、あたしの意識はそこで途切れた。