笑愛は言葉通り熱いお風呂と新しい着替えを用意してくれた。そして彼女の部屋に通してくれた。
「何もないね……。」
「いつ死ぬかわからないからね」
笑愛は苦笑いしながらサラっと答えた。
彼女はとても綺麗だ。私と違って、死ぬことや、自殺することを恐れていない。私と違って、死のうと思ったり、生きようと思ったりしないのだろう。
笑愛は私を部屋に入れてから何も言わなかったし何も聞かなかった。彼女は何も言わずに机に向かって何やら本を読んでいた。
「聞かないの?何があったか」
「聞かないよ。私には関係ない」
笑愛はこちらを振り向かずに答える。
「……そう」
「でも話してくれるのなら聞くよ」
今度はこちらを向いて言った。
「もし、私が羅月さんの立場で、クラスメイトに見つけられて家に連れ込まれたとき、どうして、何があったの、とか聞いてほしくないもの。勝手に人の心に入ってくるな、介入してくるな、って思うわけ。だから聞かない。けれど、君が話してくれるのなら、私は聞く」
笑愛はいつもそう思っているのだろうか。
「聞いてほしいって言ったら聞いてくれるの」
「うん。でも条件がある」
普通、他人の話を聞くとき条件なんか出すか。出さないでしょ。
「泣きなよ」
「へ?」
「だって、いろいろ我慢してきたんでしょう?泣きたいのをずっと堪えていたんでしょう?痛いのに、耐えてきたでしょう?だから、泣きなよ。別に今日だけのことじゃなくていいの。今までのこと。過去のこと。さんざん耐え忍んできたんだから。もう、我慢とかしないで。ていうか、しちゃだめ。もちろん、声を出して泣いたっていいし、泣き顔見られたくないのなら、私は出ていくし。それに、こんな大雨なんだから、泊まっていきなよ。そしたら、たくさん話し聞けるから」
結局、私は笑愛の家に泊まることになった。たくさん泣いて、たくさん話をした。過去のことも、今のことも。死にたいことも、生きたいことも。
どうして泣きたいのが分かったのだろう。どうしていつも私の気持ちを汲み取ってくれるのだろう。
「学校にも、家にも、居場所がない。帰ったら、母親に怒られないように、息を潜めるのに必死。学校では、三嘴に何か言われないようにするのに振る舞うのに必死。だから休めない。苦しい。痛い。辛い」
私の嗚咽声が、笑愛の部屋に響く。
「お母さんに、自傷がバレて、ビール瓶で殴られた。私は悪くないのに、お父さんに出ていけって言われた。もう、どこにも帰れない。帰れないよぉぉ」
帰れない、その言葉を発したとたん、涙がまるで洪水のように流れた。嗚咽が混じって、つっかえながらも言葉を紡ぐ。
「せっかく産んでやったのに、自傷するなんて、どういうご身分なのって聞かれた。ただ、辛かっただけなのに、なんで怒られなくちゃいけないのよぉ。私は悪くないに、なんで殴られなきゃいけないの?」
「お母さんなんて死んじゃえ!消えちゃえ!どっか行っちゃえー!もう、なんで私が出ていかなくちゃいけないの?なんで、私、悪くないのに追い出されるの?なんでよ、なんでよぉ……」
笑愛は、ただひたすら私の背中を優しく叩いて、安心するような声で言う。
「そう、羅月さんは何にも悪くないの。何一つ悪くないよ」
「じゃあ、なんで私、追い出されたの?」
「お父さん、なんて言っていた?」
「今は出ていけって」
「そっか、でも、追い出すなら、お母さんのほうがいいよね。ていうか、お母さんを追い出すほうが筋、通っているよね」
「じゃあ何で?やっぱり、いらない子だから?」
「羅月さんは必要な子だよ。羅月さんだけじゃない、みんな、必要な子だよ」
「じゃあ何で、自傷はだめなのよぉ」
「だめじゃない。全然だめじゃないよ。私だってやっている。この世界で自傷している人ってたくさん、たくさんいるの。だから、だめじゃない。やめなくていい。我慢なんてしなくていい。辛かったら、むしろ、やっちゃえ」
笑愛はたとえ私が間違っていても、否定しなかった。
彼女の温もりはかけがえのない物だった。だからこそ彼女が自殺願望だということが嫌になった。
自分だって他人のことを言えない。矛盾していることは、分かっている。
それでも私は彼女に生きて欲しかった。自殺願望に生きたいと思ってほしいだなんて。エゴだということは、分かっている、分かっている。
それから、また沢山話をした。夜は長い。まだ明けぬ夜に二人の声が響く。
何故か質問したかった。何故か、彼女との会話を途切れさせたくなかった。
「えー。じゃあ好きな数字は?」
「ホント、いつもいきなりだよね。で、えーと、好きな数字は、素数だよ」
「は?」
「素数だよ。あれ?知らない?一年の数学で習ったと思うけど」
「?」
素数、聞いたことも見たこともなかった。
「素数知らないって言われるの、私の地雷なんだけど。羅月さんは可愛いから教えてたげる。一とその数以外で割れない数、つまり約数が二つしかない数のことね」
彼女の言っている意味が全く分からないのは、やっぱり私が馬鹿なせいなのか、と少しばかり思う。
「で、好きな数字は?」
彼女は諦めたかのように肩を落として続けた。
「十三。いろいろ誤解されているけどさ。あんまりこの数字って不吉ではないんだよね。十三は、西洋でははみだしものの数だけど、日本では江戸時代までは吉数だったんだよ。明治時代じゃ、陰陽道が禁止されて、そういった考えは消えちゃったけど、仏教では未だに吉数なんだよ」
「じゃあ好きな曜日は?」
「金曜日。理由はイエス・キリストが処刑された日だから。でも本当は違うらしいよね」
「イエス様嫌いなの?」
「別に好き嫌いとかじゃないよ。なんとなく」
「好きな日にちと曜日は?」
「十三日の金曜日」
「不吉の日だから?」
「それもあるけど。私が好きな人が殺された日だから。古代ローマの軍人であり政治家だった、ジュリアス・シーザーが十三日の金曜日に殺されたの」
「どうしてそう暗殺やらなにやら起こった日が好きなの」
「それこそ、なんとなくだよ。ねぇ羅月さんもう夜は遅いよ。おやすみ」
本当に、一体どこにそんな蘊蓄をしまうのか、不思議だった。脳内にどれだけ引き出しがあるんだよ。あ、シャーロックホームズ系の頭なのか。不要な知識は忘れる的な。
笑愛はおやすみと言ってから、また喋りだした。
おい、おやすみと言ったら寝るのが道理じゃない?
「羅月さん。君はもう頑張っちゃだめだからね。これ以上羅月さんが頑張ったら、壊れちゃうから。もう……頑張らないでね」
頑張らないで、と言われても、頑張ることしかできない。だって、そうしないと、今日を繋げないから。
「笑愛はどうして私のこともクラスメイトのことも名前で呼ばないの?」
頭に浮かんだことを何も考えずに彼女に問う。でも答えは返ってこない。
自傷行為がバレた日は、なんだかんだ言って充実した日だった。
大丈夫、まだ大丈夫。
その三文字を繰り返す。大丈夫じゃなくても、紡いでしまう単語。もう口癖となった言葉。
私にとっての夜は長い。だって必ず過去のことが蘇ってしまうから。けれども彼女の声は夜にともる灯火のようにひどく安心した。
そして、ずっと頭から離れなかった疑問を、吐き出すように呟いた。
「なんで、生きなきゃいけないんだろうなぁ」
遠のく意識の向こうで、誰かの声が聞こえた。
「ごめん」と。
「何もないね……。」
「いつ死ぬかわからないからね」
笑愛は苦笑いしながらサラっと答えた。
彼女はとても綺麗だ。私と違って、死ぬことや、自殺することを恐れていない。私と違って、死のうと思ったり、生きようと思ったりしないのだろう。
笑愛は私を部屋に入れてから何も言わなかったし何も聞かなかった。彼女は何も言わずに机に向かって何やら本を読んでいた。
「聞かないの?何があったか」
「聞かないよ。私には関係ない」
笑愛はこちらを振り向かずに答える。
「……そう」
「でも話してくれるのなら聞くよ」
今度はこちらを向いて言った。
「もし、私が羅月さんの立場で、クラスメイトに見つけられて家に連れ込まれたとき、どうして、何があったの、とか聞いてほしくないもの。勝手に人の心に入ってくるな、介入してくるな、って思うわけ。だから聞かない。けれど、君が話してくれるのなら、私は聞く」
笑愛はいつもそう思っているのだろうか。
「聞いてほしいって言ったら聞いてくれるの」
「うん。でも条件がある」
普通、他人の話を聞くとき条件なんか出すか。出さないでしょ。
「泣きなよ」
「へ?」
「だって、いろいろ我慢してきたんでしょう?泣きたいのをずっと堪えていたんでしょう?痛いのに、耐えてきたでしょう?だから、泣きなよ。別に今日だけのことじゃなくていいの。今までのこと。過去のこと。さんざん耐え忍んできたんだから。もう、我慢とかしないで。ていうか、しちゃだめ。もちろん、声を出して泣いたっていいし、泣き顔見られたくないのなら、私は出ていくし。それに、こんな大雨なんだから、泊まっていきなよ。そしたら、たくさん話し聞けるから」
結局、私は笑愛の家に泊まることになった。たくさん泣いて、たくさん話をした。過去のことも、今のことも。死にたいことも、生きたいことも。
どうして泣きたいのが分かったのだろう。どうしていつも私の気持ちを汲み取ってくれるのだろう。
「学校にも、家にも、居場所がない。帰ったら、母親に怒られないように、息を潜めるのに必死。学校では、三嘴に何か言われないようにするのに振る舞うのに必死。だから休めない。苦しい。痛い。辛い」
私の嗚咽声が、笑愛の部屋に響く。
「お母さんに、自傷がバレて、ビール瓶で殴られた。私は悪くないのに、お父さんに出ていけって言われた。もう、どこにも帰れない。帰れないよぉぉ」
帰れない、その言葉を発したとたん、涙がまるで洪水のように流れた。嗚咽が混じって、つっかえながらも言葉を紡ぐ。
「せっかく産んでやったのに、自傷するなんて、どういうご身分なのって聞かれた。ただ、辛かっただけなのに、なんで怒られなくちゃいけないのよぉ。私は悪くないに、なんで殴られなきゃいけないの?」
「お母さんなんて死んじゃえ!消えちゃえ!どっか行っちゃえー!もう、なんで私が出ていかなくちゃいけないの?なんで、私、悪くないのに追い出されるの?なんでよ、なんでよぉ……」
笑愛は、ただひたすら私の背中を優しく叩いて、安心するような声で言う。
「そう、羅月さんは何にも悪くないの。何一つ悪くないよ」
「じゃあ、なんで私、追い出されたの?」
「お父さん、なんて言っていた?」
「今は出ていけって」
「そっか、でも、追い出すなら、お母さんのほうがいいよね。ていうか、お母さんを追い出すほうが筋、通っているよね」
「じゃあ何で?やっぱり、いらない子だから?」
「羅月さんは必要な子だよ。羅月さんだけじゃない、みんな、必要な子だよ」
「じゃあ何で、自傷はだめなのよぉ」
「だめじゃない。全然だめじゃないよ。私だってやっている。この世界で自傷している人ってたくさん、たくさんいるの。だから、だめじゃない。やめなくていい。我慢なんてしなくていい。辛かったら、むしろ、やっちゃえ」
笑愛はたとえ私が間違っていても、否定しなかった。
彼女の温もりはかけがえのない物だった。だからこそ彼女が自殺願望だということが嫌になった。
自分だって他人のことを言えない。矛盾していることは、分かっている。
それでも私は彼女に生きて欲しかった。自殺願望に生きたいと思ってほしいだなんて。エゴだということは、分かっている、分かっている。
それから、また沢山話をした。夜は長い。まだ明けぬ夜に二人の声が響く。
何故か質問したかった。何故か、彼女との会話を途切れさせたくなかった。
「えー。じゃあ好きな数字は?」
「ホント、いつもいきなりだよね。で、えーと、好きな数字は、素数だよ」
「は?」
「素数だよ。あれ?知らない?一年の数学で習ったと思うけど」
「?」
素数、聞いたことも見たこともなかった。
「素数知らないって言われるの、私の地雷なんだけど。羅月さんは可愛いから教えてたげる。一とその数以外で割れない数、つまり約数が二つしかない数のことね」
彼女の言っている意味が全く分からないのは、やっぱり私が馬鹿なせいなのか、と少しばかり思う。
「で、好きな数字は?」
彼女は諦めたかのように肩を落として続けた。
「十三。いろいろ誤解されているけどさ。あんまりこの数字って不吉ではないんだよね。十三は、西洋でははみだしものの数だけど、日本では江戸時代までは吉数だったんだよ。明治時代じゃ、陰陽道が禁止されて、そういった考えは消えちゃったけど、仏教では未だに吉数なんだよ」
「じゃあ好きな曜日は?」
「金曜日。理由はイエス・キリストが処刑された日だから。でも本当は違うらしいよね」
「イエス様嫌いなの?」
「別に好き嫌いとかじゃないよ。なんとなく」
「好きな日にちと曜日は?」
「十三日の金曜日」
「不吉の日だから?」
「それもあるけど。私が好きな人が殺された日だから。古代ローマの軍人であり政治家だった、ジュリアス・シーザーが十三日の金曜日に殺されたの」
「どうしてそう暗殺やらなにやら起こった日が好きなの」
「それこそ、なんとなくだよ。ねぇ羅月さんもう夜は遅いよ。おやすみ」
本当に、一体どこにそんな蘊蓄をしまうのか、不思議だった。脳内にどれだけ引き出しがあるんだよ。あ、シャーロックホームズ系の頭なのか。不要な知識は忘れる的な。
笑愛はおやすみと言ってから、また喋りだした。
おい、おやすみと言ったら寝るのが道理じゃない?
「羅月さん。君はもう頑張っちゃだめだからね。これ以上羅月さんが頑張ったら、壊れちゃうから。もう……頑張らないでね」
頑張らないで、と言われても、頑張ることしかできない。だって、そうしないと、今日を繋げないから。
「笑愛はどうして私のこともクラスメイトのことも名前で呼ばないの?」
頭に浮かんだことを何も考えずに彼女に問う。でも答えは返ってこない。
自傷行為がバレた日は、なんだかんだ言って充実した日だった。
大丈夫、まだ大丈夫。
その三文字を繰り返す。大丈夫じゃなくても、紡いでしまう単語。もう口癖となった言葉。
私にとっての夜は長い。だって必ず過去のことが蘇ってしまうから。けれども彼女の声は夜にともる灯火のようにひどく安心した。
そして、ずっと頭から離れなかった疑問を、吐き出すように呟いた。
「なんで、生きなきゃいけないんだろうなぁ」
遠のく意識の向こうで、誰かの声が聞こえた。
「ごめん」と。