どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
 














ねえ、本当の自分って、何なんだろう?
私は、最近、そればかりを考えるようになった。なんで、なのかな。よく、分からない。
けれど、時々、自分の胸をズキズキッと苦しめているのは、気の所為なのだろうか。


「君には、ピアノの才能はないよ」


そうはっきり言われたのは、中学3年生のことだった。
幼稚園の頃から習っている、ピアノの先生から告げられた言葉だった。

「どんな曲であったとしても、君は完璧に弾きこなすことができる。だけど、それはあくまで模倣でしかない。
 音楽は芸術のひとつなんだ。模倣するだけじゃ、何も伝わらない」

私は、ピアノの先生が言っている言葉を、理解できなかった。

「えっと、どういうことですか。私は、なるべくこの曲の作曲者を思い浮かべて弾いて........」

そういう私に、呆れた顔で、めんどくさそうに、言う。

「だから、それこそが模倣の段階なんだ、自分らしさがない。もっと、自分の思いを込めるんだ」

そう言われても、やっぱり分からない。だから私は再び、こう言うしかなかった。

「...................分かりました、先生。.....................................やってみます」

私のことさえ見ずに、先生は背を向けて言った。

「その言葉はもう1年前から聞いているんだが。まぁ、やってみるといい」

その時の私は、胸が抉られたような気持ちになって、ピアノ教室を後にした。
ただ、ただ、悔しかった。

















自分にとってピアノは、生まれたときからあるようなものだった。
なぜなら、両親がどちらも、世界的に有名なピアニストであるからだった。
この事実は、私にとって良いことなのか、悪いことなのか、私は判断できない。
でも、母や父は、私達姉妹に、直接音楽を教えることを嫌がった。
家族愛が入ると、芸術というものは、上手くいかなくなるらしい。
そうして私達は、幼い頃から、父の友人のピアニスト、つまり今私達のピアノの先生から、ピアノを教わるようになった。
それで、芸術家である私の家族は、常に自分の思い描く感情について、話すことが多かった。
これは、私が中学1年生のこと。


「今日は、新しい曲が弾けるようになったんだ。ちょっとみんなに、聴いてほしいな」


かつてそう言ったのは、私の唯一のお姉ちゃんだ。
優しくて、可愛くて、素直なお姉ちゃんは、ニッコリとした笑顔で、家族に笑いかけた。
正直にいって、私のお姉ちゃんのピアノは、私のピアノと比べて、強弱の付け方や、弾き方そのものが、丁寧ではなかった。
要するに、私より、上手ではなかった。これは、私がそう思ったのではなくて、両親や先生からの評価だ。


理由は簡単で、私には、絶対音感があるからだ。相対音感な姉とは、ぜんぜん違うのである。
1度聴いた曲は、頭の中で楽譜が流れてくるような感じで、スラスラと弾くことができる。
2,3回弾けば、もうそれは私のレパートリーに自動的に追加される。
これこそが、私に備わった、ピアノの特技だと、感じていた。
だから、私は、いつもどおりの姉のピアノを鑑賞するものだと思っていた。
でも、それは単なる私の勘違いだった。
その時のお姉ちゃんのピアノは、なんというか、凄く胸に語りかけてくるものがあった。

「すごいわね、真理。こんなにも感情をうまく伝えられるようになっただなんて。ねぇ、あなた?」

「あぁ。とてもきれいな旋律だ。いつまでも聴いていたい」

父と母は、嬉しそうに、満面の笑みで言った。
今思えば、このときからだろうか。
姉のピアノと比較して、自分のそれは、完璧な音色なはずなのに。
言葉に出来ないくらいの、小さな穴があったのかもしれない。
この穴の正体を、私はまだ知らない。

「美月、あなたはどう?ちょっと、弾いてみてよ」

家族にそう促された私は、ショパンの名曲のひとつ、「幻想即興曲」を弾いた。
初めから終わりまで、完璧に弾き切った。達成感を感じつつ、私はピアノから目を離して、聴いてくれた家族に振り向いた。
きっと、さっきの姉のように、褒めてくれるだろうと思った。
けれど、期待していた私は、すぐに、裏切られることになる。

「.............................なんだか、美月のピアノは、好きじゃないな。何か足りないんだよ」

「えぇ、そうね。うまく言葉で表せないけれど.................。真理とはぜんぜん違うのね」

不快な母と父の顔を見て、私は目の前が真っ暗になった。
父と母の評価が、容赦なくふりかかる。
ズキッとした胸の痛みが、また増える。一瞬だけ、顔が引き攣る。
でもそれは、偽りの笑顔の裏に、そっと隠した。

「そっか...............。うん、もう少し、工夫してみるね」

そう言った私は、そのままピアノから離れて、自分の部屋に向かった。
ふりかえってみれば、その予兆は、少なからずあった。






 






一番決定的なのは、小学5年生の、ピアノのコンクールでのこと。
これまで、小学生部門で、3年連続金賞を取り続けていた私は、1年年上の姉と、昨年と同様にコンクールに出場した。
私達は両親のこともあって、有名人だった。
姉が私と同じく3年連続銀賞をを取っていたこともあり、名字と実績から「ワンツー平野姉妹」という名称があったぐらいだ。
今回が、姉妹そろってコンクールに出られる最後の機会だった。
もちろん、私も姉も、今まで以上に練習を重ねた。

「美月、必ず金賞と銀賞を取って、お母さんやお父さん、先生を喜ばせようね」

「うん、お姉ちゃん。絶対に今年も成功させよう!」

そう笑顔で言い合って、私達は最後の大会に臨んだ。
毎回のことだけど、私達の演奏に、1つもミスはなかった。
だからこそ、また今年は、いつもの結果で、笑って帰ることができると、思い込んでいた。
でもそれは、違っていた。


「平野美月さんの演奏、聴いていてどうでした?」

演奏を終えて、たまたま会場の審査員室を通って、客席に戻ろうとしていた私に、そんな声が聞こえてきた。
ドキッとしつつも、足早に通り過ぎようとしていたけれど、次の一言で、思わず足を止めてしまう。

「うーん、なにか足りないんだよな。音も強弱も弾き方も、最後のおじぎでさえも、全てにおいて完璧なんだけどなぁ」

「分かります。それに比べて、美月さんのお姉さん、真理さんの演奏は、とても満足のいくものだと感じました」

「共感です。というか、美月さんの演奏は、一昨年、去年と年を重ねるたびに、どんどん完璧になっているはずなのに、なにか胸に響かないなぁ」

「そうですね。他の演奏者さんも、美月さんほどノーミスで弾けているわけではありませんが、もう一度聴きたくなる演奏をしてくれていますよね」

「あの有名な平野さんの娘さんも、結局はその程度なのでしょうか」

「お姉さんのポテンシャルには、幅広く伸びていきそうなものを感じます。ですが妹さんは........................」

「模倣の面では去年同様金賞だが、ピアノは芸術の一種だと捉えると...............美月さんの演奏は、ここまでかもしれないな」

好き勝手自由に、私の演奏について評価を下している。
審査員であろう人の言葉が、頭の中で繰り返し繰り返し流れ込んできて、エコーみたいに響いている。
聞いているうちに、どんどんと闇に落ちていくような感覚に襲われた。













例えるならそう..................................行き場のなくした、憐れな子猫のように。

あるいは.................................どこまでも広がる黒い穴に、引きずり込まれていくように。














今すぐここから逃げ出したいはずなのに、足が鉛のように重くなって、動かない。













「....................美月?こんなところにいて、どうしたの?お母さんやお父さんが、待ってるよ」

そんな明るい姉の声で、私ははっと姉の方を向いた。同時に、足が軽くなった。

「ううん、お姉ちゃん。なんでもないよ。ちょっと頭が痛くなっちゃっただけ」

慌ててそう言った私に、姉は心から心配した表情を見せる。

「そうなの、大丈夫?」

「うん、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」

「家族なんだから、心配して当たり前でしょ?まったく、早く戻るよ」

「はーい」

このとき、私は、まだあの審査員の言葉を、信じきれていなかった。
きっと、頭が痛くなって、幻聴が聞こえてきただけだと、思っていた。
だって、私のピアノはいつだって、間違えることはないから。
いや、正確には、そう思い込もうとしていただけかもしれない。


「今回のコンクール、金賞は平野真理さんです。受賞、おめでとうございます!」


コンクール主催者の声が、会場いっぱいに響き渡る。
銀賞、銅賞ともに私ではない人が選ばれ、受賞した3人は、壇上に上がっていく。
私は、ただぼうっと、3人の姿を見つめていた。
そして、ヒソヒソとした声が、私にもはっきりと聞こえてくる。

「平野美月さん、今年銅賞にも選ばれなかったのね」

「まぁ、信じられないわ。あの絶対音感を持つ、平野さんの妹さんが?」

「確かお姉さんの真理さんは、絶対音感は持っていなかったはずよね?」

「ほんと、びっくりですわ。お母様やお父様に、似ていないのかもしれませんね」

「まぁでも、そこまで素晴らしい演奏かと言われれば、そうではない気もしますけれども」

「ちょっと、本人に聞かれたらどうしますの。もう少し声を落としましょうよ」

「でも、銅賞も取れない娘さんなんかに聞かれても、どうってことありませんわ」

「ご両親が、少しお可哀想ですわね。あんなに優秀ですのに...........」


聴きたくない言葉が、自然と耳に入ってくる。
特に両親のことを聞いた瞬間、私は反応し、隣に座る母と父の顔を見つめた。
2人とも、金賞を受賞した満面の笑みの姉にしか、目を向けなかった。

授賞式が終わると、母と父は私の方を見た。そして言った。

「美理、あなた本当にここまで頑張ってコンクールに臨んだのかしら?」

「絶対音感を持っているからって、あまり練習していないのではないか?」

私は、すぐに反論した。

「えっ..................。私は、この1週間はピアノしか練習してないよ。ずっとずっと、何度も弾いて.................」

「真理はもっと練習していたぞ。朝昼晩、一日中だ。わかっているのか」

「でも.....................私は..........私も..」

「言い訳なんか聞きたくないぞ、なぁ、お母さん?」

「えぇ、美月、次こそは、失敗せずに、やりきってくれるわよね?
 これ以上、お母さんを失望させないで頂戴。先生にだって、どう顔向けすればいいのよ」


次々と私を追い詰める、容赦のない剣。
見たことがない、父と母の、冷たい目。思わず、ビクッとしてしまう。
今までの、築き上げてきたものが、次々と壊れていく。
あぁ、結局、私は、ただの道具だったんだ。誰も、私の気持ちを受け入れてくれないんだ。




私は、苦しい思いを隠して、言った。

「お母さん、お父さん、ごめんなさい。もう、落胆させないようにするよ」

















ーーーーーーーーー私は初めてここで、偽りの笑顔の作り方を、自分なりに理解した。




























今現在、私は高校1年生。
優秀な姉は、世界有数のアメリカの音大に、17歳という史上最年少で見事に入学を果たした。


え、私は何をしているのかって?


私は...................あの後、小学6年生最後のコンクールで、賞をとることはできなくって。
中学3年生に言われた、「才能がない」という先生の言葉で、再練習して弾いてみるけど、ずっと認めてもらえなくって。
両親には、「もう期待もしてないし、これ以上親の顔に泥を塗るな」と叱られて。
ピアノ教室はやめたけど、未練がましく自分の部屋で、ピアノを弾き続けている。


考えてみれば、あのときに、ピアノなんかやめてしまえばよかったのに。


何をしているんだろうな、私は。




私の存在価値って、あるのかな。





結局、いつまでも感情を込めることができないままでいる私は。








ーーーーーーーーーーこれからもずっと、偽りの笑顔を作り続ける。





































「美月ー。音楽室に、筆箱忘れてたって、担任の先生が言ってたよ。放課後に、音楽室まで取りに来て、だってさー」

「りょうかーい!すぐ行くね!」

私は、今、普通の公立高校で、高校生活を送っている。
もちろん、ピアノのいざこざのことは、誰にも話していないし、楽に生きている。
高校2年生になり、未練がましく弾いていたピアノも、ピタッとやめた。



そう、ピアノを完全にやめて、自由なはずなのに。
私はまた、時々胸を抉るように、息苦しく、生きている。







新校舎の3階の右奥。第3音楽室まで、私は急いでやってきた。
ここはあまり人気がなくて、あたりはシンと静まりかえっている。

「(ここが、さっきの音楽室だよね。あれっ、鍵が開いてる?)」

ちょっと開いている音楽室のドアに手をかける。
ドアを開けようとしたその時。



「(......!これは、ピアノの音...?)」

中から、ピアノの音色が聞こえてきた。

「(しかも、この曲って、ショパンの幻想即興曲...。普通ににすごいな、きれいな音色...)」

「(あれっ、でもこの音色の感じ...。どこかで聞いたことがあるような...?)」


何か聞いたことがあるようで、はっきりと思い出せない。でも、どこか懐かしいような、そんな弾き方。
わたしは夢中になって、目を閉じて聴き入っていた。
だから、自分が音楽室のドアの開いている隙間に、身を乗り出していたことに、気づけなかった。

「ん?そこに誰かいるの?」

中から声がしたその時、私は初めて我に返って、ドアから離れて逃げようとした。
その前に、あちら側からドアが開けられる。

「....................................」

目が合う。
お互いに、何も話さない。

「(..........................................何か、話さなくっちゃ!)」

気まずくなる前に、先に口を開く。

「...........................えっと、その。盗み聞きしてしまい、すみません。
 私、その。忘れ物してしまって。筆箱を取りに来たんです。赤い筆箱、なんですけど...」

焦って早口になってしまう。自分でも何を話しているのか、分からない。

「あぁ、そうだったんだ。その、俺がいたせいで、入りにくかったよね。.........................これかな?」

「それです、ありがとうございます」

そう言って顔をあげると、私は息を呑んだ。
すごく、きれいな人だった。さらさらの髪に、形の良い眉と唇。鼻筋もよく、やさしそうな大きな瞳。
おまけに、女である私も羨ましいぐらいの、長いまつ毛が、美しい目を縁取っている。そして、顔に影を落としている。
思わず、じっと見つめてしまう。

「..................あの、俺の顔に........................何かついてる?」

ポリポリと頭をかきながら、彼は言った。
はっとなって、慌てて、目をそらす。

「すみません、その、あの、きれいな顔だなって思って............................」

「.............................」

「(ん?私今、なんて言った?)」

自分の失態に気づき、顔が青ざめる。
彼の顔をおそるおそる見ると、それはわかりやすいほどに真っ赤になっていて。

自分の顔も、だんだん赤くなっていくのを感じる。
お互い、何も言えずに、立ち尽くす。
彼はしびれを切らして、私をまっすぐに見つめて。

「えっと.................そんなことを言われたのは、初めてだったから。その..............ありがとう」

恥ずかしそうに、でもにっこり微笑みかけられて、そんなふうに言われる。
ありがとうという言葉が、頭の中でこだまする。

























ーーーー人から感謝してもらうのなんて、いつぶりだろうか。

ーーーーーーまっすぐに自分を見つめて、笑いかけてくれた人は、今までにいただろうか。




















自分の中で消えかかっていた欲望が、押さえつけていたはずのものが、一気にこみ上げる。
ほら、いつもみたいに、笑ってよ、私。偽りの笑顔をつくるのは、得意でしょ。
そう自分に言い聞かせるのに、なぜかできない。
そう、いちど出てきてしまったものは、止めることができない。
体が、心が、じんっと熱くなる。
この気持ちは、きっと。











彼はそんな私を、不思議そうに見つめた。

「どうしたんだ?.........!」

そうすると彼はオロオロとしながら、私にゆっくりと...ハンカチを差し出した。

それからだった。私が泣いている、ということに私自身が気づいたのは。
一粒、また一粒、頬を伝って流れていく。
拭っても拭っても、止まらない。むしろ、せきを切ったように、流れ落ちる。

「すみません、私...すみません。その、本当にごめんなさ」

「謝らなくていい!」

彼は強い言葉で、私の謝罪をさえぎった。
その力強い声に、一瞬、涙が止まる。
ポカンとした顔の私に、彼はバツが悪そうな顔をして、言う。

「違うんだ。その、君はさっきから、謝ってばかりだから。...もう大丈夫だから」

そう言って、彼は優しく、ハンカチで私の涙を拭う。










「つらいときは、泣いたって良いんだ」











その言葉を聞いた瞬間、私の中から何かが弾けとんだ。








「う、う、うわぁぁぁぁぁぁ。うわぁぁぁぁぁぁぁぁ」

























ーーーーーーーーーーーーーー私はその時、初めて人の前で慟哭した。





























「少しは、落ち着いた?」

ずっと泣き叫ぶ私に、黙ってただそばで背中を擦ってくれた君。
涙も流れすぎて、すっきりした私は、すくっと立ち上がって、頭を下げた。

「あの、本当にありがとうございました。あきれましたよね、初対面なのに」

「..............初対面、か」

ぼそっとつぶやかれた言葉が、うまく聞き取れなくって、私は聞き返す。

「ん?どうしました?」

「いや、なんでもないよ。そういえば、まだ俺、名乗ってなかったよね。
 日野悠陽。よろしくな。ちなみに、君は平野美月さんであってる?」

「っ、知っていたんですね、私のこと。そうです、合ってます。よろしくおねがいします、日野さん」

「......................敬語で喋ってるけど、俺、君と同じ高1だよ」

苦笑いしながら、日野さんは言う。

「えっ、そうなんですか。てっきり、先輩かと」

「そんなことより、君。どうしてそんなに思い詰めてるの?」






見透かされるような目で見つめられ、私の目に動揺が駆け巡る。








「思い詰める、ですか?そんなつもりは」

「なかったって言いたいの?絶対ウソでしょ。なんかあるでしょ..............話してみなよ」

「だから、話してどうにかなる問題ではなくて............................あっ」

この言い方はだめだ、ミスったな。

「ほら、なんかあるじゃん。.....................吐き出してみなよ。さっきみたいに、楽になれるかもよ?」



彼の屈託のないその笑顔で、言われる。
不思議だ。この人といると、自然と肩が重くない。
日野さんなら、何も批判せずに、聞いてくれるかもしれない。










あぁ、そっか。私ずっと、誰かに聞いてほしかったんだ。











「実は、その.....................」

私は、昔のことについて、洗いざらいすべて話した。


































「................でももう、いいんです。私は、もうピアノはやめましたから。」

全部話した後、私はニコッと笑って、自虐的に言った。そうでもしないと、心が持たない。
どうせ、『そっか』とか、『災難だったな』で終わるだろう。
そう、思っていたのに。

「嘘だな、それは。」

私の言葉を、一刀両断されるなんて、思ってもみなかった。

「嘘、なんてついてません。私はありのままで」

「違う、そこじゃない。..................まぁ、いい。美月、明日、放課後、ここに来い。
 もし、俺のピアノに、少しでも興味があるなら」

「あっ、待ってください!」

私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼は身をかわしてひらりと教室を出る。
まだ、ありがとうも言えてないのに。





でも、くいっと頬がゆるむのを、自分でも感じる。









ーーーーーーーーー人の前で、自然体でいられたのって、いつぶりだったかな。
ーーーーこんな自分も、悪くないや。

















翌日。
私は、やっぱり昨日の事が気になって、音楽室へと向かっていく。
ちょっと日が傾いた太陽が、教室棟を照らしている。



「......................来たんだな、美月。早く入ってこいよ」

また昨日と同じように、ドアの前で気配を伺っていると、先回りしてそう言われた。

「はい、来ましたけど。ていうか、いきなり呼び捨てですか!まあ、良いですけど。
あの、それより、昨日の私の話の何が、嘘なんですか?」

矢継早に聞いた私をなだめるように、日野さんは言う。

「そう焦るな。まずは、俺のピアノを聞いてくれ」

そうすると彼は、そっと私のもとから離れて、ピアノの椅子になれた手付きで座った。
どこかで見たことがある気がするのは、気のせいだろうか。

それでも、私は何も言わずにピアノのそばに立ち、日野さんのきれいな手を見つめた。
日野さんは私のことなんか気にせずに、すっとピアノを弾き始めた。










ーーーーーすごく、きれいだな。













私が日野さんのピアノを聞きながら、一番に思った感想は、これに尽きる。
まず、私にはできない、オリジナル曲で、どこか胸を叩くような感情が込められていて、それが聞き手に凄く伝わる。
急に激しい音になったかと思えば、切なく悲しい感情もあって。
純粋に、すごいな、と思った。
そして、久しぶりにピアノの音を聞いていて、気分が良くなった私は、体全体でリズムを取っていた。
るんるんとしていた最中に、曲が終わる。
日野さんは、私に聞いた。

「どうだった?」

「.................すごかったよ、なんだかもう一度、聴きたくなった」

「そうか」

そうすると彼は立ち上がって、私の方に近づく。そして、軽く私の手を握る。

「えっ、何?」

音楽ばかりで今まで彼氏ができたこともなく、男子になれていない私は、一気に顔が真っ赤になる。

「一回でいいから、今の俺の曲、弾いてみて」

「え、そんなの無理だよ。てゆうか、ピアノはもう嫌だって.............」

「いいから早く、やってみろって、ほら」

私を優しく椅子に座らせて、握っていた手をピアノの鍵盤に乗せた。

「弾けないなんて、言わせないからな」

「え」

内心、弾けないって言って誤魔化そうと思ってたのに、そうはいかないらしい。

仕方なく、私は、言った。



「...............何個か間違えたら、ごめんね。できるかぎり、間違えずに弾くから」



そうして、演奏を始める。
頭の中で、組み合わされていく楽譜を、次々に作り出していく。
この感覚、久しぶりで、もう嫌いなはずなのに。














なぜか、楽しくなって、次々とアレンジを加えた。
















それから、私は日野さんの事を忘れて、夢中で弾き続けた。












「はぁ、はぁ、疲れた」
夢中になりすぎて、久しぶりすぎて、思ったより疲れた。

「ごめん、どうだった?久しぶりすぎて、ちょっといろいろ力が入っちゃったけど」

彼は神妙な顔をしたが、一瞬で、穏やかに笑った。

その笑顔に、胸がトクンと跳ねる。

「やっぱり、音楽、好きなんじゃないか、美月」

その言葉に、私はすぐさま反論する。

「違うよ、それは」

「だって今お前、すごく笑顔なんだぜ、ほら」

いつの間にか撮っていたのか、彼はスマホを見せてきた。
そこに映るのは、いままで見たことのないほどの、幸せそうな私。
これはきっと、偽りの笑顔じゃない。

「お前は昨日、自分の感情を音楽にのせることができないって言っていたな。
 でも、俺は、それはちょっと違うと思う。だって、美月のアレンジには美月の楽しそうな気持ちが、音に乗って響いてきたんだから」

そう言って彼は、太陽のような笑顔で言った。







「才能がないって、決めつけたのは親か、先生か。そんなことなんか、どうでもいい。
 ようは美月、お前しだいだ。どこかでまだ、諦められないんだろ?」








はっとなって、顔を上げて、彼を見つめる。
ニヤッと挑戦的な笑みで、彼は続ける。











「エピローグには、まだ早いぜ。
 まだ、中途半端じゃ、終われないんだろ?なんなら、最後まで、好きなように、暴れてみせろよ」















ーーーーーーまだ、中途半端なままで、終われない。

















そのとおりだ。あきらめきれていないから、やめると苦しい。
好きだから、何よりもピアノが、私にとって大切で、楽しいから。
だから、やりたいんだ。















ーーーーーーそれ以外に、やり続ける理由なんて、必要あるの?
ーーー他人によって左右される人生なんて、つまらない。














空気が、浄化されていく。
私、遅かったな。気づくのが。
今の声色で、確信した。
目の前の彼が、私の最後のコンクールで。私の代わりに金賞を取った人。
やっと、それに今気づくなんて。
だからこそ、私は言う。











きっと、私にとって、こんなにかっこよくて優しくて、人を導くことのできる君は、私の初恋の人になるんだろうけど。
恋の気持ちよりも、私は今、ライバル心が強い。












「...........日野、悠陽くん。次こそは、私、絶対に負けないから。覚悟、しててね」

彼は驚いたように目を見張ったが、私の強気の笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。

「あぁ、いつでも待ってる。それと...............」

彼は私に近づき、軽く私の頭を引き寄せて、耳元で囁いた。








「ーーーーーーーーー俺も、容赦しないぜ?」









その優しくも男らしい声に、顔が真っ赤になっている私。
そんな私を見てくすくす笑っている君。

「あ、明日から、どちらがいい曲弾けるか、勝負ね!」

焦って言いながら、音楽室を飛び出す。
彼ーーーーー悠陽くんの笑い声が、廊下に出た私にも、聞こえてくる。

恥ずかしいような、照れくさいような。
そんな気持ちもあるけれど。

ーーーーーーーーーこんな、ありのままの私でも、いいじゃん。







夕日がかった廊下の窓で、私は顔を出して、ゆっくりと、口を開けて。








少しだけ息がしやすくなった気がした。