体育祭。
この行事において、私の独壇場である競技が一つある。

『騎馬戦』

四人一組で騎馬を作り、一番上に乗った人間がお互いに帽子(または鉢巻)を取り合う。
取られれば失格。その場で場外に出る。
残った騎馬が多いチームが勝ち。

私は、騎手がものすごく上手かった。正面から行くか、背後を取るか、そんなものは関係なく最速で相手の帽子を払いのける。騎馬の上で踏ん張ってぐっと伸びあがり、防御の手を掻い潜ってパッと取ってしまう。女子の中においてはかなり敵なしで、練習の時から大抵は最後まで残る騎馬だった。

「まるで、獅子の仔だな。」
「うんうん!」
「海野さんって、バスケも上手いんだよ!仮入部で会ったけど、どんどんボールを奪ってディフェンス抜いてくの。」
「今はダンス部だよな……お前、中学校の時バスケ部だったのか?」
「闘牛部だったかもしれないぞ!牛になる訓練する方の!」
「うん、色々ツッコミどころあるけど……取り敢えずみんな、いつまで校庭の真ん中に居座るつもりなのかな?退場してないの私たちだけだよ?」
「げっ!まずい!」
「体育委員長が睨んでるよ!ヤバいマイク持った!大音量の放送指示で退去させる気だって!」

そんなこんなで、騎馬戦では優勝し、リレーでは最下位で、ダンスは熱血賞受賞、なんだかんだ私たちのクラスは総合順位3位(全部で8クラスあるので、まずまずの結果だ。)。
熱気に溢れて盛り上がる、よい初夏の思い出となった。

運動の苦手な恵里ちゃんも、自分のデザインしたクラスTシャツをみんなが着ているのは嬉しかったらしく、うちわを振って楽しそうに応援していた。
頭がいい人たちが集まっていると運動能力の平均は大きく下がるかと思えばそんなこともない。運動も勉強もできる秀才は案外たくさんいるもので、リレーなどは土煙を巻き上げて駆け抜ける大熱戦が繰り広げられた。

笑ってしまったのは準備運動で、体育委員がチョイスしたのは何とラジオ体操英語バージョン。こんな日まで勉強させるつもりかと、生徒から大ブーイングが巻き起こった。
もちろん私も例外ではない。恵里ちゃんと一緒に大笑いして、体操をしながら「“spread your arms“ だって〜?」と顔を見合わせ、大いにこの時間を満喫した。


………“それ“に気がついたのは、体育祭が終わって、教室に戻ってからのことだった。


伊藤くん。
全員リレーの時以外ずっと客席から動かず、ひたすらに静かに過ごしていた。それに加え、いったい何があったのか、騎馬戦の時はどこかへ姿を消していた。
不思議に思って近くの男子に『伊藤くんどこ行ったんだろう?』と聞いてみると、『伊藤は騎馬戦には出ないんだよ』とさも当然のように返されただけだった。
伊藤くんは保健委員だから、救護係の仕事だろうか?…いや、競技には被らないように調整されているはず。
……彼はあの時どこにいて、何をしていたのだろう。

気になって、気になって。
しかし、そちらを向けば、窓際に座って外を眺める伊藤くんは………まるで冬の山に眠る蛇のように、静かで冷え切った表情を浮かべていて……。

彼の頭の上に、スノーボールクッキーを飾れば、似合うかもしれない。
そんなどうしようもないことを、考えた。
それにしても、体育祭後の異様に熱された空気の中で、どうしてそんなにも涼しい顔をしているのだろうか。この教室の中で、彼のいるあそこだけに、霜が降りているのではないか、静かに銀色の雪が積もっているのではないか。まるで燃え盛る焚き火の周りに、雪だるまが立っているかのように。
それほどに、冷たい銀色のオーラを彼は纏っていて……。

結局、どうしても教室で話しかける踏ん切りが付かなかった私は、放課後、あの山寺を訪れることにしたのだった。









「好奇心が旺盛なのじゃな。」

私が山路を歩いていると、突然声をかけられた。
キョロキョロと見回すも、苔むした岩影に清流がちょろちょろ流れているのがわかるくらいで、誰もいないように思える。

「ここじゃよ、その白い銀竜草(ギンリョウソウ)の上。」

小さな水鳥の歌うような、ほおずきの実を皮を薄く剥がして丁寧に重ねてつくった鈴をコロコロ転がして鳴らしたような。恐ろしく澄んだ可愛らしい声で、老人のような口調の何かが、またしても語りかける。

「え…?」
「もっと左じゃ、…ああいや、お主から見れば右じゃ。そう、その隣の、小さな葉っぱが浮いとるところ。」
「…………あ。」

ちょこん、と。
白い蝶々———いや、大きな羽を生やした妖精が、水面に浮いていた。薄いベールで出来たキノコのような、不思議な花の上に腰掛けている。
その姿は小さいながら、化粧に余念がないことがひしひしと伝わってきた。血のように紅い唇、雪のように白い白粉をはたいた顔、薄青色の髪の毛。長いまつ毛が、雄々しく、猛々しく、獰猛な野獣の色を湛えた白磁の眼を際立たせている。

「改めまして初めまして…と、言うべきか?わしは“銀竜草の蝶“じゃよ。お主は?」
「えっと、海野なぎです。」
「へえ、海かい。わしはあれを好かん。…塩水は嫌いじゃよ。」
「ご、ごめんなさい。」

ぎゅう、とあからさまに顔を顰めた蝶の妖精に私が謝ると、妖精はいやいやと手を振った。

「お主が気にすることではないがな。名前はただの名前じゃよ。」
「そうでしょうか…。」
「そうじゃよ。」

キッパリと言う。私が見つめている間に、妖精はひらひらと水面から飛び立った。

「え……っと?」
「一期一会。人との出会いは財産。ま、わしとお主とにはご縁があったと思って。せっかくだから交友を深めようではないか。」
「交友、ですか?」
「そうじゃ。わしの集めた花の蜜をやろう。ぐいっと一杯、じゃなくてお主にとっては舌に一滴じゃが……ま、気にせずコロコロ転がして堪能してみな。」
「は、はい……。」

妖精がくるりと姿を消した、と思ったら、いつの間にか目と鼻の先の距離までに近づいていた。
指人形サイズの相手に、思わずたじろぐほどの美貌だった。ギョッとのけぞった私に、彼女はニヤリと笑いかけると、千切ってきた野草の葉っぱを一枚私に握らせ、ふうっと一息。
……ポロリ。
キラキラ光る黄金色の液体が、完璧な球形を維持しながら、その上に落とされた。
私はえっ?とそれを二度見した。

「…えぇと、これが花の蜜ですか?」
「そうじゃよ。」

信じられない。
私はまじまじとその液体を見つめた。何かの宝石か、錬金術で誕生した未知の液体、もしくは魔術師の取り出した生命の結晶だとか言われた方が、まだ納得できる。そう思った。
不用意に手を出した者を酔いどれ気分にさせてしまうような、妖しい魅力のオーラがそれを幾重にも包んでいる、一雫の蜜の玉。
そういえば、ナメクジを退治するために、ビールを置いておくと勝手に溺れて死んでしまうと聞いたことがあったろうか。……なぜだかそんなエピソードを思い出すほどには不穏な気配を感じる。

……ちょっとでも舐めたら、とんでもないことが起こる気がする。
ずっと、身体中の産毛が逆立っている。脳内では警鐘が鳴りっぱなしで、どうかやめてくれと、縋り付いて停めてくる誰かの声が聞こえてくる。

「どうしたんだい。私の贈り物を拒否するつもりかい?」
「い、いい。そんなつもりは……」

恐ろしい。
どうにかこの場を切り抜けなければ。
精霊を怒らせずに、自分の我を通す方法はないのだろうか。

焦りに焦りながら、私は目の前の妖精を見つめた。まるで化粧のお化けだ、と思った。広げた羽はアゲハチョウにそっくり。ガラス細工のごとく繊細で儚い美貌と衣、それが、飢えた獣のような目で自分を見つめている。
それは呆れたように口を開き———

「————ふん。わしは知っているよ。」

「優秀な姉の影に隠れて、”我“という存在がどこにも見えない。」

「さあ、舐めてみよ。」

「お主は、好奇心旺盛だけが取り柄なんだろう?」

「……それを取ったら、いったいお主に何が残ると言うのかえ?」

—————頭が、真っ白になった。

気がつけば、燃えるような怒りのままに、その蜜をペロリと舌で舐め掬っていた。
やってしまった、と、どこか随分と遠くの自分が呟くのを感じた。戻ってきなさい、と。必死の警告をしている。
私はその呼び掛けを無視した。何だってよかった。別にどんなおかしなことが起こっても、世界は大して変わらない。大事なのは、ただ一つなのだから。例えば、冒険を厭わない、その心。私だけの、性質。このアイデンティティが消えてしまえば、この世界は真っ暗闇の無に帰するだろう。空っぽ。色のない油絵。白と黒のモノクロ砂漠。
意味が消える。
私という存在が見えなくなり、そして生きる、という目的すら誰のものでもなくなる。
それを回避できるならば、何だってやろう。他のことは全部些細な問題だ。どうでもいい。世界中の命の、星という名の個々が発する光の中。私は私という存在を証明しなければならない。

姉がいる。

私は、彼女の影に生きている。

…別に、そんなに大きなことではないのかもしれない。
生きにくさ、なんていうものは誰だって持っている。私はいつだって幸福だ。私の心には、火のように激しく燃え上がる、拒絶と嫌悪の感情に裏打ちされた負の想いなんてない。私の中にあるのは、ただただ曖昧模糊にぐるぐる拡散してゆく不安のみ。

羨ましい。そう思ってしまう対象の姉だって同じだ。
姉は、姉で大変なのだろう。
一人先頭で舳先を水平線へ向け、舵を切る。どんなに辛く……孤独だろうか。
あの優しく引っ込み思案な人が、どんな想いであらゆる“初めて”に立ち向かったのか。
彼女にだって葛藤はあり、荒波に揉まれながら自分という存在の喪失を恐怖した、そんな嵐の夜はあるのだろう。

それでも。

私の。

魂は。



———————どこ?








「……翔びたい。」

ふいにそんな思いが弾けた。刹那、私の背中がむず痒くなり、不思議に熱を帯びる。おや、と後ろを顧みると…あら不思議。まるで蝶々そっくりの巨大な羽が生えている。
大きい。しかし、絹のように軽い。
よし、飛べる。

私は何の疑問も抱かず、空へ飛び立った。

天に、青い月が煌々と輝いていた。

周囲は闇だった。森の樹々を覆い隠すように、夜の帳が下りている。
ずおぉ、と風を切って、舞い上がる。どこまでもどこまでも、天を目指して、飛んでゆく。薄い灰色の雲のたなびく青い月が、ゴールなのだ。
私は次第に上手に風に乗る方法を覚え、羽を開いたり畳んだりしながらヒョォッと飛び続けた。
全く疲れない。いつまでだって飛んでいられる。
涙がぼろぼろと頬を伝って流れ落ち、風になぶられて散ってゆく。

もうすぐに、宇宙へ飛び出す。振り返っている暇などない。
青い月が、そこにある。
背景は、ブラックホール。
闇の世界の番人たるそれが、大きな翼を広げて私の魂を迎え入れる。

—————起きろ、これは夢だぞ。

ああ、そうだ。本当に、夢みたいに不可思議な世界だ。美しく、儚い。恐ろしく、優しい。この他のどこにだって、二つと同じ場所はないだろう。
何せ、ここは墓場だ。
魂が吸い込まれて、粉々に砕けて、美しく散る。死という強烈なイメージは抵抗と受容という相反する作用を生み、神に匹敵する莫大なエネルギーの燃焼花火を弾けさせる。

—————おい、醒めろ、戻ってれなくなるぞ。

家に帰れなくなったって、それが何だというのか。どうせ私は生きて、死んで、土に還る。他の人類も同じように、死んで、死んで、死んで、何億年も、ずっと、ずっと………


「おい!いい加減に目を覚ませ!小悪魔に取り入られて死ぬなんて、そんな馬鹿な最後を迎えるな!」


「………え?」

パッと。
まるで煙のように、広がっていた夜の景色が消え失せた。
青い月と灰色の雲、周囲を踊る風、背中で力強く仰ぐ蝶の羽。そういうものが全てなくなって、代わりに体の下でガサゴソ擦れる落ち葉とひんやりした泥の感触が伝わってきた。

どうやら、私は夕暮れ時の山の地面で横たわっていたらしい。
ぶっ倒れたような記憶は全くないのだが、それでも状況証拠はそうなっている。

そして。

「……伊藤、くん?」

墨染の僧侶服。すうっと整った青白い顔の彼は、珍しくもどこか怒ったような表情を浮かべていた。

「……海野。体育祭で疲れているのはわかるけど、小悪魔の中には本当に危ないものもいるんだ。」
「え、えっと」
「気が昂ってる時や疲れている時は、特に付けいられやすい。一度深呼吸して、よく見るんだよ。そういう生き物は化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣だから。」
「は、はい……?」

いったいどうして、ここに伊藤くんがいるのだろうか。
それにしても、意識が曖昧だ。記憶の中で、蝶の妖精に花の蜜をもらったことを思い出せるのだが、思考が纏まらない。身体中がキシキシ軋むようで、どっと疲れている。
ぼんやりと霞がかりそうになる脳味噌を無理やりに焚き付けて思い返せば、徐々に自分がとんでもないことに巻き込まれそうになっていたのでは?と薄っすら気づいてしまった。

…少なくとも、私の命に関わりがある程度の。

すうっと青ざめた私を、伊藤くんは冷たく目を細めるように見下ろしながら、ゆっくりと答えた。

「小悪魔の気配を感じたから急いで駆けてきたら、ここで生気を吸われている海野を見つけたんだ。奴らには弱点というものがいくつかある。例えば清めの塩はその筆頭だから、鼻っ柱に思い切りお見舞いして退散させたよ。」
「な、なるほど……?」
「騙されないようにするには、よく観察することが大事だ。そもそも、銀竜草は泉に浮かぶものじゃない。その花の本物の妖精は、キノコが密生しているような落ち葉ふかふかな土壌に住むものなんだ。」

口調は穏やかだが、言葉の端々に棘を感じる。ひしひしと感じる静かな怒りのオーラは、やはり気のせいではないらしい。

「…だが、そんな細かい知識などどうでもいい。そもそも、小っぽけな悩みを生死にまで発展させる思考へ誘導された時点で、おかしいと気づくべきなんだ。」

私は、「確かにそうだったかも…」と力なく呟いた。本当に、馬鹿なことをしたものだと思う。青い月へまっしぐらに飛び、闇の夜空を背景に、自ら死のブラックホールへ吸い込まれにゆく。

随分とおかしな夢を見たことだ。無論ただの夢で済めばいいが、どうやらそうは問屋が卸さないらしい。伊藤くんの話によると、精神世界の死は、すなわち現実世界の死。心と肉体はダイレクトに繋がっている。

……とはいえ、ちょっとした夢程度で本当に心が死んでしまうことはまずないと思っていいらしい。

人間の魂はそこまで柔じゃないのだ。故にあの夢は、小悪魔が獲物を幻惑するためのマジックのようなものだ。
夢を見せて弱らせ、自身が力を得るために生気を吸い尽くしたあと、息絶えた獲物を使い魔にする。

(…怖い。)

本当に恐るべき森だ。なんという魔物が潜んでいるのだろう。
伊藤くんはため息を吐きながら、「昔は海辺の洞窟にのみ住んでいる無害な生き物だったのに、何かの間違いで塩がほとんどない山奥に連れ込まれてから異常に邪の力が増してしまったんだ。」と呟いた。
そうでなくとも、この森は危険に溢れているように思う。熊のような猛獣に襲われる、というよりも、ふとしたはずみにぽろりと大地の怒りを買ってしまいそうな。

…だけど、とふと思った。
夢を見たこと自体は、小悪魔が原因で間違いない。
ただ、あの夢の内容としては、私の心自身が持っていたもう一つの世界だったのではなかろうか。普段は覆い隠されて日の目を見ることがないが、小悪魔に引っ掻き回されたことで、今日露になった。
つまりは私の心の危うさは、激震となって自分全体を揺らがし、ついには死という名のゴールテープへ全力疾走してしまうほどだと……そういうことなのかもしれない、と。
小悪魔にやられたのは、ある程度は自分のせいだったのではないだろうかと、そういう話だ。

「動けるかい。」
「う、うん。」

そうだ。まずは起きないと。兎にも角にも、このまま地面に寝っ転がっているわけにはいかない。伊藤くんに呼びかけられた私は動こうとして、産まれたての青虫のようにみっともなくもぞもぞともがいた。うぐぅ、という情けない呻き声が漏れる。身体中から、驚くほどに、力が抜けてしまっていた。
はあ、とため息をついた伊藤くんは、私が身を起こすのを手伝ってくれた。

「…ありがとう。」
「いや。御礼はいいよ。」
「でも……。」
「この山は僕の“ガルーガルの蜜樽”だから。」
「ガルーガルの……??」

私が問い返すと、伊藤くんはふと思い出したように瞬きした。私が山寺の人間ではない、ということを今になって認識したかのようだった。
…ああ、これはうちの家だけで使ってる言葉だったか。そう呟いてから、伊藤くんは私に向かって語りかけた。

「これは“自分の手の届く範囲”を意味するんだ。海野は、蜜蜂が一生働いて得る蜂蜜の量がどのくらいだと思う?」
「えっと……」
「ティースプーン一杯、なんだよ。一匹一匹はそれしか仕事が出来ないけれど、集団になれば巣を埋め尽くすほどの金色の液体を貯蔵できる。そういう例えだ。ガルーガルっていう蜂の精霊が、僕の祖母へそう言って諭したらしい。…この世に生を受けた者は、誰もが身分相応の範囲というものを持っているんだ、と。」

伊藤くんは、少し息を吸った。

「…だから、僕の範疇である“藤神寺”の周辺の山だけは、責任を持つ。僕には勉強ができないかもしれないし、普通の職業について真っ当に夜に貢献することができないかもしれない。でも、これだけは言える。このあたりで精霊の闇に溺れそうになる人間がいれば、————


————無論、手を差し伸べる。」


きっぱりと、言ってのける。
燃えるような紅い太陽を背負って、伊藤くんは最高に輝いていた。
山に棲む神々しい白蛇が、静かに細い長い影を纏って、まっすぐに立っている。…とぐろを巻いて蹲っている蛇ではない。見るべき方向を知り、見据え、ひたすらに冷静に立っている。

……しいん。広がる静寂の中、私は唐突に、今日この山を訪れた目的を思い出した。
なぜかはわからない。けれども、今なら聞ける、と思った。“伊藤くんが、騎馬戦に出なかったのはなぜか“。その理由を。

「……騎馬戦は、伊藤くんの範疇じゃないから、出場しなかったの?」
「そうだ。」
「ほ、本当にそうなの?」
「無論。」

あまりにもあっさり返された答えに、どう反応したら良いものか逆に困ってしまった。
伊藤くんは悪びれる様子もない。土の上に乾いた落ち葉を集めて即席の座布団を作ると、ヨイショと座って胡座をかく。そして、不意にあの独特の涼しい眼でまっすぐ私の目を見つめると、聞いた。

「…海野は、ボールが殺人鬼に見えたこと、あるかい。」
「え?いや…ない、と思うけど。」
「大概の人間はそうだろうね。」
「……伊藤くんは、ボールが怖いの?」

恐る恐る聞いた私に、伊藤くんは頷いた。

「攻撃的なものは全部ダメだ。僕はドッヂボールへの参加を避けるために、授業時間の五十分間ずっと御手洗いの個室で鍵をかけて雲隠れしたことすらある。騎馬戦なんか論外だよ。やったら、僕の騎馬はその場から一歩も動けなくなってスタート出来ずに失格になるだろう。基本的に、僕は体育の時間は見学してるんだ。」

彼の口から紡ぎ出される言葉には、卑屈さや嫌味は全くなかった。どこまでも自然に語る彼を見ていると、まるで樹木を相手に会話をしているかのような、不思議な気分が湧いてくる。

「…そっか。…あの、でもよかったね。クラスの男子に聞いたら、“伊藤は騎馬戦には出ないんだよ”って。本当に自然に、当たり前のように受け入れてくれてた。いじめられちゃうようなことがなくて……安心したよ。」
「もしもそうなったら、頼むよ。」
「え?」
「海野は人と交わるのが上手いし、喧嘩しても強そうだから。僕が学校でいじめられたなら、助けて欲しい。」

あまりにもまっすぐな視線が眩しくて、私は少しだけ目を逸らした。

「……多分、私の出番ないよ。この学校、みんないい人だから。いじめっ子はみんな白い目で見て制裁するような雰囲気だから、誰も手を出さないと思う。」
「そうか。」
「うん。」

会話が終わってしまって、気まずい空気が流れた。
伊藤くんは、春風駘蕩たる落ち着きで、静かに樹木に背を預けて雲を見上げている。目は開いているが、まるで眠っているかのように静かで、そよ風にくしゃくしゃの黒髪を流していた。

私は川の流れに耳を澄ませるふりをしながら、何か話題がないものかと懸命に目を走らせる。
おかしいな、と思った。ここには丸いものしかないのでは、と思うほどに丸いものしか目に入らない。どうやら、先ほど小悪魔に蜜の宝玉を盛られたおかげで丸いものに敏感になっているらしい。眩しいものを見た後に目が眩むように、何か一時的な変化が起こったとみるべきか。やたら丸い木の実やら、丸い草露やら、丸いキノコの傘やらが目につく。他にも、丸いアリの巣の穴やら、丸い水面の波紋やら、丸い火の玉やら………ん。
私は瞬きをして二度見した。……火の玉??

「……あ。」
「ん、どうした海野。」

ぐっと眼球に力を入れてその正体を見極める。そこにあるのは、確かに“灯火”だった。
小さめのビー玉ほどの大きさで、夕暮れ時の陽の光に紛れそうになりながらチラチラとオレンジ色の灯火を煌めかせている。…それにしても、よく見つかったものだ。自分でも信じられないほどに、目立たない淡い光の玉だった。

「鬼火?…じゃないような…」
「どこだ。」
「あの楓の樹の下の、草むらの影に…アリの巣があるところのすぐ右隣に、地面から3cmくらいのところで浮いてる。」
「見えない。そもそもアリの巣ってどこにある?」

この山において、私が発見したものを彼が見つけられない事態は非常に珍しい。私は少し誇らしく思いながら、彼を火の玉のそばまで連れて行った。
ほらね、と笑いかけると、彼は唖然としたように口を開けた。

「—————“夜の護符“。」
「え?」

彼にこんな表情をさせたことへの得意げな気持ちと、やっぱり知っていたのか、という少し残念な気持ち。色々な想いが湧いたが、結局は“夜の護符”とは何なのか、という興味関心が最も私の心を支配した。

「…ものすごくシンプルで、有用なものだよ。これを身につけていれば、夜の森の危険をほぼ全て回避できる。」
「夜の森の危険を?」
「闇の中では、昼間とはまったく違う精霊が跋扈する。夜目が効かず、恐怖心を増大させてしまう人間とって、魂を導く灯りは夜の森を歩くときに必要不可欠なものなんだ。暗闇から身を守るために最も簡単な手段は、その身に森自身が生み出した火を宿すこと。故に、そのビー玉もどきの灯りは、“夜の護符”と呼ばれる。」

じゃらじゃら、と衣の襟の内側から首飾りを出して見せながら、伊藤くんが言った。僅かに青白い光を発しているなど、色合いは私たちの目の前に浮かんでいるものとは異なる。が、間違いなく“夜の護符”だった。
私は、彼もまた、同じものを拾ったことがあったのだと悟った。

「…伊藤くんも拾ったことあるんだ。」

呟くと、意外にも彼は首を振った。

「僕のこれは、祖父の遺物だ。その前は曽祖母のものだったらしい。その先は、もう知らない。」
「えっと…そんなに珍しいものだったの?」

恐る恐る尋ねる。彼は、うん、と力強く頷いた。

「少なくとも、僕が生きているうちに発見できるとは思っていなかったよ。」
「へ、へえ……。」
「持って帰るといい。糸も鎖も通すから、ネックレスにすると便利だよ。」

あまりにも夢中になって火の玉を見つめながら、それなのにやけにあっさりとそんな事をのたまう。私が不安になって、「私なんかが持ってて大丈夫なの?」と聞くと、伊藤くんはいつもの調子で、「無論」と頷いた。

「無論だよ。海野が見つけたんだ。拾った者が持っていて、何が悪い。」

私はおっかなびっくり落ち葉を踏んで、火の玉の方へ近づく。掬い上げてみると、仄かな温かみが手のひらを焼いた。不快になるような熱ではない。勇気づけてくれるような、胸の一番奥に眠っている心の琴線を丁寧に奏でて励ますような、そんな暖かさだった。

(これなら、夜の山だって怖くない。)

私は陽の沈みかけた藤神山の景色をぐるりと見渡す。もうすぐ本格的な夏も到来するだろう。私はゆっくりと目を瞑って、胸いっぱいに息を吸い込む。静かに、微笑んだ。