初めての定期テストの結果が返ってきた日。
クラス中が歓声奇声の嵐の渦に巻き込まれた。
クラスのムードメーカー田中碧くん、世話焼きお母さんタイプ筆頭の水原優香さんが揃って机に突っ伏して「ア“ーッ」という謎の声をあげているのを筆頭に、食い入るように自分の成績を見つめ続ける生徒、互いの成績を盗み見ようとちょっかいを出し合って軽い乱闘のようになっている生徒、早々に閉じて鞄にしまい、素知らぬ顔をしている生徒。

私は自分のテストの点数を見て、(思ったよりも良かったな)と思った。
東京の名門校へ進んだ姉が取っていた点数を見慣れていたからかもしれない。彼女は私よりも頭がいいのに、通っていた学校のレベルが高すぎるせいでロクな点数を取ってきたことがなかった。それでも彼女曰く、「お化けはこの世に存在するのよ。お化け屋敷?ホラー映画?あんなものバカらしくって見ていられないわ。……このテストで九十点を叩き出すアホ天才め…あれは人の皮を被ったコンピュータお化けよ!」というわけで、この世には限りなく上の上というものがいるらしい。どんな難しいテストでも、高得点を叩き出すことは不可能ではないのだ。

自分が間違えた問題の軌跡を辿ってゆくと、数学のケアレスミスが多すぎることに気が付いた。
最後の最後で詰めが甘く、「なんとなく」で解いてしまっていることがわかる。考え方が思いつかないわけではないのに(もちろんそういう問題もあるのだが)、肝心なところで正しい答えに辿り着けていない。

「……はぁ。」
「難しいよね。この学校のテスト。私は特に国語と英語が壊滅してて……どうやって対策したらいいんだろうなぁ。」
おっとりした性格の牧田恵里さんが、隣の席から私に向かって微笑んだ。彼女は誰よりも絵が上手で、黒板アートやクラスTシャツデザイン企画の時に、スーパーヒーローのようになっていた。
数学も得意で、地頭もいい。しかし今本人が認めるように、英語の授業や国語の授業では指名されても口籠もることが多い。一応は人気者なのにあがり症で恥ずかしがり屋なのも、玉に傷、だろうか。
私はそんな彼女が自ら話しかけてきたことに少し驚きながらも、ニコリと笑って滑らかに返事をした。

「私は逆に、数学がだめで。国語と英語はまだ大丈夫何だけど、数学に関してはもう、ちょっと捻られた問題は手出しができなくなっちゃうんだよね。頑張ろうとはしてるけど、すでに諦めかけてる。」
「そっかぁ。海野さんでも、苦手教科があるんだね。ちょっと安心しちゃった。」

牧田さんは、少し驚いたように微笑んだ。
もしもまかり間違って私が多芸多才の天才だなどと勘違いされては困る。私は、うんうんと頷きながらはっきりと言う。

「みんなそうだよ。みんな何かしらは、苦手なものがあるに決まってるよ。」
「確かに…でも、世の中勉強何でもできて、スポーツも万能で、歌や絵も結構できる、みたいな完璧超人もいたりして…。海野さんは、そういう人を見ると少し自身を無くしちゃったりしない?」
「うーん。例え欠点がないように見えてもさ、例えば乗り物酔いがひどいとか、アレルギーがあるとか、偏頭痛に罹りやすいとか、霜焼けで指が爛れちゃうとか……そういう悩みなり何なりは必ずみんな持ってるわけで。絶対にみんな、何かあるもの。……まあ何というか、そう思うと結構気が楽になるよ。」

おぉ〜なるほど。
すごく納得できる言葉を聞いた、というように何度も頷く牧田さんは、側から見ているだけでとても素直な女の子なのだなぁと実感した。
牧田さんは、何かを決意したように私の方に向き直る。
…え?戸惑う私の目をまっすぐに見つめながら、彼女はものすごく真剣な表情で、言った。

「………海野さんのこと、なぎちゃんって呼んでもいいですか?」
「え?もちろん、いいに決まってるよ。」
「よかった……。」

私がオーケーを出した途端、牧田さんが目に見えて肩の力を抜いたのがわかった。急に敬語になったあたり、相当緊張していたのだろう。
牧田さんは、ほんのり頬を赤く染めながら、微笑んだ。

「実は、とっても努力家のなぎちゃんが入学してすぐの頃から憧れで……私もこんな風に自分に自信を持って凛と立ちたいなって、思ってたの。だから、友達になりたくて、だけど意気地なしだからあんまり声もかけられなくて…。」

私は驚いて、牧田さんの方を見つめた。
確かに牧田さんはシャイだ。そして私はそれほどでもない。気が向いたなら勇気を振り絞らずとも適当に話しかけてしまえばいいし、逆に特にどこか友達グループに入ってお喋りを楽しむタイプでもない。どこか一匹狼のような雰囲気があるのかもしれない。堂々と二本の足で立ち、物怖じしない。自分でも誇りに思っているそれを“憧れている”などと言われたのは初めてだし、素直に嬉しい言葉だった。ただ……

……努力家、と聞いて、あまり実感が湧かなかった。
確かに私は休み時間にはいつも勉強しているし、課題は必ず期限内に提出する。行き帰りのバスの中では英単語帳と数学の参考書のどちらかを開いて勉強している。部活にも入っていて、練習を絶対にスッポ抜かさない中心メンバーの一人として信頼を集めている。真面目一辺倒の努力家にも見えるのかもしれない。

(…だけど。そんなんじゃないよ。)

私は家に帰ったら、ほとんど何もしていない。テレビでアニメや映画を見たり、昼寝をしたり、好きなダンスグループの踊りを真似て踊ったり、怠惰の見本のような生活を送っている。そんな私の姿を、牧田さんは見ていない。

私は牧田さんに、私がいかに怠け者かを説明しようとした。しかし彼女のキラキラした目を見ていると、なんだかそんな小さなことにこだわっている自分がどうしようもなく恥ずかしく思えてきた。
私は、力無く牧田さんに微笑んだ。

「…ありがとう。自信を持ってるっていうか、だめな自分も含めて丸ごと肯定しようと思ってるって感じかもしれないけど…。でも、そんな風に言ってくれた友達はいないから、嬉しい。私こそ、恵里ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろん!」
「……あと、恵里ちゃんこそ本当にすごい才能を持ってると思う。一緒に話しているだけでみんなが幸せになれるみたいな不思議な感覚になるし、絵も描ける。私にはあんな絵は描けないよ。」
「そっかぁ…。」

キラキラした目で顎に手を当てる牧田さん———もとい恵里ちゃんは、やはりおっとりのんびりしたペースを崩さない。……その時だった。私の心に、魔が差したのは。チラリと。これはやってはいけないことだとわかっていながら、私は彼女のテストの点数表を盗み見た。

数学———89点。

ちくりと、心が痛んだ。
知っている。彼女は国語と英語が苦手で、他のほとんどの暗記科目も評価は芳しくない。
しかし……

学年全体の平均点は65点。私の点数は、そこからさらに30点を差し引いたものになる。


(………羨ましい。)

ふと、漏れ出てしまった本音。
ぎゅっと鷲掴みにされたように軋む心臓。暗がりに置いていかれるような不安と憂悶の中、傷ついた獣の出すような咆哮が暴れ出した。
脂汗を流しながら抑えつけ、何度も深呼吸をして、心を無にしようと努める。

—————なぎちゃんは、なぎちゃんよ。生まれてきてくれただけで嬉しいの。何があったって関係ない。特別な私の……妹よ。

呪文のように繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせる。
姉の、あのぎゅっと抱きしめてくれた日の温もりを思い出す。あの時はまだ、小学生だった。両親共働きで中々時間が取れない両親の代わりに、姉が子守をしてくれた。
優秀な姉。数学が得意で、英語が大の苦手で、私と何もかも正反対な……優しい人。
…どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく落ち着いた、と思った時、私は唐突にある思考が頭の中へ浮かび上がってきたことに、気がついた。

(……藤神寺に、行ってみよう。)

あの山奥のおかしな寺へ行けば、何かが変わるかもしれない。
なんの根拠も理由も、そうなるという確信すらない。
それでも、行きたかった。

行かずにはいられない。
魂が呼ばれている。
砂漠で行き倒れた旅人が水を求めるように、衝動的で本能的な願いだった。

五月二十五日。私は三度、藤神寺を訪れた。







藤神寺の丸太ん棒の門をくぐると、私は鐘つき堂の方へと足を向けた。そちらには井戸や池、青い竹林などのより集まった、独特の色彩の水場が広がっている。
まるで浮世絵だ。青と緑と黒を刷った、しっとり濡れた景色。梅雨の時期に河童を見たのもここだ。
夏には蚊が大発生しそうなので、訪ねてゆくなら今の季節がギリギリだろう。

生い茂る草を踏んで、鐘つき堂へと歩みを進める。
近くで見るほどに、巨大な鐘だった。お椀を伏せたような形の山葵色の金属に、緑青のサビが浮き出て、歴年の貫禄が滲み出している。
そばに、木の立て札が立っていた。墨塗りの文字が書いてある。

『ご自由におつきください』

私は俄然やる気を出した。
こういうものは、何がなんでも、それこそ周りを押し除けてでも挑戦してみないと気が済まない。ただでさえそうだというのに、この立て札を見た途端に突然、私の胸の中の心が暴れ足りないぞと疼くように叫び出したのだ。なぜかと聞かれても困るが、どうしようもなくむしゃくしゃして、孤独が渦巻いている。私は噛み付こうとする野獣のように、綱でぶら下がっていた丸木のつき棒を思いっきり引いて、勢いよく鐘に向かって叩きつけた。

ゴォオオ〜ン!

耳が割れるかと思うほど、ものすごい音が鳴り響いた。ビリビリと空気が震える。私はぎゃっと小さく叫ぶと、思わず地面にへたり込んで耳を塞いだ。一気に目が醒めた。頭がガンガン鳴っている。しかし一瞬の衝撃がすぎると、おかしさが込み上げてきた。ゾクゾクッと身体中を震わせて、抑えきれない喜びの笑いを、クツクツと口から漏らす。

—————楽しい。

本当に、心の底から楽しかった。
私は再び静かになった鐘つき堂の中、ゆらりと立ち上がった。もう一度棒へ手を添えて、ゆっくりと引く。

ゴォオ〜ン!

さっきよりも、柔らかに。再び突いて、鐘の響きに酔いしれる。もう一度。もう一度。
四度目につこうとしたその刹那のことだった。鐘つき棒が鐘に触れたその時、山葵色の鐘からポンッと何かが飛び出した。慌てて手を差し出して、危うく受け止める。
じんじん音の名残が震わせている腕を近づけて、その手のひらの上のものをよくよく間近で観察する。これはまるで、小さな薄い黄土色の豆のような……というか、まさに、豆?

「大豆?」

「———うん。大豆だね。」
「へ?」

上から声が降ってきて、私はギョッと上を見上げた。鐘つき堂の屋根の上に……というよりも、どうして毎度毎度そんなおかしなところに人がいるのだろうか?ここの寺の人は地に足をつけるという習慣がないのだろうか……僧侶服の伊藤一郎くん、ではなく、その父親らしき男性がそこにいた。
四十か五十くらいの年齢だろうか。その男性は一郎くんと違い、完全に頭を丸めている。もしかすると、ここの現住職なのかもしれない。
彼は逆さまに顔を出して、こっちの方をニコニコ見つめていた。

「…あのう、鐘を突いたら飛び出てきたんですが……。」

私が恐る恐るそう言うと、彼はほう、と唸った。

「大豆が?」
「えっと、はい。その通りです。」
「ふむ。」

彼は屋根からするりと滑り降りると、猿のようにトンッと軽々着地した。黒い法衣に紫色の袈裟。優しい目元は一郎くんと似ているところがあるものの、その悪戯っぽく半月を描いた唇はどこか違う。
………猿だ。
私は思った。ちょっとした小皺でくしゃくしゃな顔も、その楽観的な表情も。

「うんうん。これは、座敷童だね。」
「はい?」
「ほら、ちょっとこっちへおいで。」

その人に言われるままに鐘つき堂から出てみれば、ぬかるんだ地面に点々と足跡が続いていた。草がボウボウ生えていてわかりにくいが、こんなに新しい泥であれば、さすがに気づく。

「きみのスニーカーの跡でも、私の木靴の跡でもない。小さな子供の、足跡だろう?」
「えっと、まあ。言われてみれば…。」
「基本的に、座敷童は土間や座敷、蔵などに住み着いて出てこないものなんだがね。あまりにも長い間家主が家を空けていると、寂しさが長じて出てきてしまうこともある。きっと鐘つきの音を聞いて誘われたんだろうね。きみに、贈り物までするぐらいなのだから。」
「贈り物……。」
「そうだよ。大事な種をくれたんじゃないか。ちょうど五月あたりが種撒きの季節だよ。この豆は。」

私は、まじまじと手元の大豆を見つめた。艶々の、よく太った豆だった。きっと一粒しかなくても、鈴なりに実をつけて重く頭を垂れるのだろうと直感させる、立派な豆だった。

「…なんだか、面白いプレゼントですね。」
「全くだ。」

私は、男性の笑みから目を逸らして、大豆という贈り物に籠められた意図を読み取ろうとした。座敷童は、なぜこんなものを私へ渡したのだろう。
もしかすると、成長できない自分の代わりに、ぐんぐん伸びてゆく植物の種を、プレゼントしようと思ったのかもしれない。
誰にも見られず、小さな悪戯で家主を慌てさせる毎日。ちょこちょこと土間を駆ける座敷童の姿を思い描いて、私は寂しげに心が疼くのを感じた。

「…せっかくだから、家へ上がってくかい?」

ふいに問いかけられて、私は慌てた。

「えっと、そんな…いいんですか?」
「無論だよ。一郎に会いにきたんだろう。あいつ、暇すぎてのんびりあくびでもしてる頃だろうから、いくらでも邪魔してやってくれ。」
「そ、それは…。」

困ったように眉を下げる私に、彼はあはは、と苦笑いをして頭をかいた。

「ごめんよ。ただ、リラックスしてって伝えようとしただけなんだけどね。逆効果だったかな。」
「は、はあ…。」
「ま、うちは寺だから。万人に開かれた門を、閉ざしたりはしないよ。」

……やっぱり親子だ。
黒い法衣に紫色の袈裟。格好はつけているが、ただの人間のお父さん。
私は少しだけ安心して、静かに笑った。






屋敷は、鐘つき堂から本堂の方へぐるりと歩いて、五分程度のところにあった。
雑木林の奥にひっそりと建つ、日本家屋。
巨大な家だ。山の中の立派な伊藤家の邸に少々気が引けるも、前言撤回するわけにもいかない。そのままお邪魔することになった。

恐る恐る中へ入ると、案外玄関は普通だった。運動靴や革靴がならび、靴べらもある。さっきの一郎くんのお父さん———仁朗という名前らしい———に案内されて板敷の床へと上がる。
長い廊下を進んでガラリと一番手前の襖を開けると—————

——————いきなり畳敷の部屋が現れた。

やっぱり普通の家ではなかった。当然のように現れた畳部屋の内装を覗いた私は、息を呑むしかなかった。
板の間には水墨画の掛け軸がかかっていて、部屋の中央には、一輪挿しの乗ったちゃぶ台。壁には曼荼羅のような飾りがいくつか飾られている。

…正直に言って、こんなに立派な部屋を見たことがない。
何がすごいかといえば、余計なモノが全くないのがすごい。

「おや。一郎は外か。」

ぐるりとその部屋の中を見渡した仁朗さんが、落胆したように肩を落とした。

「……あのう、ここが一郎くんの部屋なんですか?」
「まあ、そういうことになるかな。大抵は一番玄関から近いここに入り浸ってる。寝室は別だけどね。部屋は大量にあって使ってない場所だらけだから、遠慮せずに好きに使っていいよ。うちはお客もほとんどいないしね。」
「な、なるほど。」

私は早くも居心地悪くなってきたのを感じて、恥ずかしくなった。疑念が湧いてしまう。いったいこの洒落ただだっ広い部屋で、落ち着いて過ごせるのだろうか?もしやこれは、心が貧乏な人間の感覚なのだろうか。小さな部屋で布団や本やその他生活空間を占める色々な物の中にいる方が落ち着く、というのは。

確か、姉が似たようなことを言っていたように思う。
曰く、『金持ちは本当に必要なものを少量持ち、貧乏人はどうでもいいものをたくさん捨てずに取っておく』だったか。だから、いらないものはどんどん捨てて片付ける癖をつけないと、貧乏根性が身について本当にお金がパタパタ飛んでゆくようになる…と。


「————よし。縁側と繋げてみようか。」
「え…?」

考え事をしていたので、答えるのが遅れてしまった。私が驚いて顔を上げた頃には、仁朗さんはずんずん部屋の奥へと歩いていって、ガラリと襖を開けた。その向こうには、板敷の廊下があった。ただしその廊下の奥は壁ではなく、スライド式の杉の戸でピッタリ閉まっている。
…もしや、この奥は縁側で、庭と直結しているのだろうか。
固唾を呑んで見つめる私の前で、仁朗さんはカラリと引き戸を開け放った。

—————森の芳香がさあっと吹き込んで部屋を満たした。

「うわあ。庭だ…」
「縁側は初めてかい?」
「はい。すごい…桜の木が緑色に茂ってるし、菜の花が黄色に咲いてます。なんていうか、その…森です!」
「一応、森の中の庭だからね。」

一枚の額に飾られた絵画のようだった。
水彩絵の具をぼかして滲ませたような、鮮やかで淡い彩りが広がっている。家の中に上がってから聞こえなくなっていた虫や鳥の鳴き声も再び聞こえてきて、私はすうっと深呼吸をした。

「悩みがあるなら、森が聞いてくれるよ。」

唐突に、仁朗さんがそんなことを言った。
私は驚いてその顔を見上げた。

「…私に悩みがあるって、なぜわかったんですか?」
「人は誰しも悩み苦しみを抱えて生きている。大小はそれぞれ、だがね。」

さらりと息をするように、そんな台詞を言う仁朗さん。ニコニコと猿のように悩み苦しみの欠片もないような笑顔を浮かべている。
私は仁朗さんの方を静かに見ながら、冗談のように言った。

「………仁朗さん自身は、私の悩みを聞いてくれないんですか?」
「ふむ。」

仁朗さんは、顎に手を置いてひとしきり考えると、またニッコリと微笑んだ。

「私は森の一部だ。一本の人間サイズの切り株がここにあるんだと思って、話してご覧。話は、それからだ。」
「………ふふ。」
「おかしいかい。」
「いえ。でも、私の話なんか聞いてもつまんないですよ?」
「森はつまんなくても聞くもんだ。」

私は、うーんと考えて、それからポツリと呟いた。

「進路に、悩んでるんです。」
「うん。」
「将来の夢とかあんまりなくて。自分の能力にあった仕事を…って思っても、なまじ中途半端になんでも出来るからよくわからないんです。取り敢えずお医者さんを目指そうかなって思ってるけど、それもあんまり本気じゃなくて。」

ここまで語って、私は苦笑した。

「やっぱり面白くないでしょう。進路の悩みなんてありきたりすぎて。」
「そうだね。解決しようにも、問題が細く深く根を張っているから、刀でバッサリと断ち切ることで解決出来る類のものじゃない。」
「そうなんですよ。私は生まれてこの方虐めの標的になったこともないし、家族はいい人たちだし、友達にも恵まれてきました。障がいもなければ、重篤な病気もない。勉強も運動も得意で、容姿だって、そんなに悪くないと思ってます。だから、誰それと仲直りして解決、とか、嫌いだった自分を認めて好きになって解決、みたいにシンプルにはいかないんですよ。まあ、その分問題自体は深刻でもなんでもないんですけれど。」

言葉が次から次へと流れ出すように自然に唇から流れ出てくる。
そう。私は客観的に見て、何ら問題のない生活を送っている。冗談抜きに、私は自分がこれ以上幸福にはなれないと思っている。自分以外の誰かに生まれてきたかったと本気で願ったことは一度もない。

……それでも。
インドの釈迦が、王族であったことは有名な話だ。どんな立場や環境に産まれようと、人は悩む。

「……はあ。ちょっとだけ、面白い話をしましょうか。」
「面白い、と?」
「ちょっとだけ、ですよ。まあこれも、ありきたりと言えばありきたりかもしれませんけど。」

露に濡れて揺れる菜の花が、風になぶられてたわむ。さわさわと吹きすぎてゆく森の風に目を細めながら、私はふっと天を見上げた。真っ青な空に、眩しいあの人の笑顔が浮かぶ。

—————海野銀子。

これは、私の十歳年上の姉の名。
名前の通りに、銀の鈴を転がすような繊細な声が特徴で、雪の中で毛糸帽子を被って微笑んでいるのが何よりも似合うような人。
彼女は、本当によくできた人間だった。
アーモンド型の綺麗な顔で、ショートボブがよく似合う。ピアノと書道とバレエが上手で、おっとり優しい数学の天才少女。
一人ぼっちの作業が好きな割に面倒見もいいので、妹の私はそれはもう可愛がられた。

とれたボタンの付け方。
壊れたラジオの修理方法。
栄養バランスの整った献立を考えるコツ。
快眠を得る科学的習慣。
面白い漢字パズルの解き方。

一から十まで、姉は本当に全てを私に教えてくれた。年が離れているので一緒に遊べない代わりとでもいうように、姉は世話を焼きまくり、知識を伝授し続けた。
そして、年齢が上がれば、もっと抽象的なアドバイスが増えてゆく。

生きてゆくために、必要な知識は何か。
勉強するのは、なんのためか。
辛い時、私たちはどうするべきか。

「私には、十歳年の離れた姉がいます。それがまあ、いい人なんですよ。私にとって、親よりも親みたいな存在です。」

姉の体験談や読んだ本から得た知識が、私に流れてくる。
長女として、彼女はいつも先頭を歩む。鎌を片手に新たな世界という熱帯雨林に立ち向かう姉は、切り払った薮の向こうの光を、後続の者に見せようと努力を弛まない。

「すごい人です。尊敬してます。彼女が先頭に立って生きてくれるおかげで、いつも私は姉の一歩後ろの、安全な道を歩むことができるんです。」

もちろん、それは私が姉の猿真似をするという意味ではない。
例えば私は中学校時代バスケの強豪チームのメンバー、現在はダンス部に入っている。基本的に体を動かすのが苦手な姉とは正反対だ。他にも、姉は本を読んで知識を得るのが好きだが、私は実際に見て聞いて挑戦して確かめてこなければ気が済まないタチ。

…ただし、大抵のことで姉を参考にして生きてきたのは間違いない。

困った時は姉に助言を頼むこともしばしば。完全に選択を丸投げすれば、姉も『選ぶのはあなた自身よ』と突っぱねるが、何かを選択する時の心構えやテクニック、または情報の集め方や資料のありかなどは惜しみなく教えてくれた。

「…この前、大学受験の大学や学部の選び方について姉に聞いたとき、嬉々として色々教えてくれました。どのような教科が得意で、自分の勉強の仕方の特徴は何か、それを把握していればだいぶ絞り込めるそうです。……ちなみに姉本人は苦手な英語を捨てて私立の情報系へ進み、その後無事に企業へ就職を果たしました。」

大学選びという分野においても無論のこと、私たちは全然タイプが違う。
全くもって、本当に、同じ海野でもアザラシとトビウオほどに違う。
私は文系であるが、暗記は得意なので数学以外は大体なんでもできる。加えて、コツコツタイプなので成績にはある程度の安定的な伸びが期待できる。つまり、天才肌で努力が苦手な姉とは真逆だ。
姉曰く、『努力できるのも才能。自覚して、強力な武器にしなさい。』
あとは、私が将来、何をしたいのか。ものすごく大まかな別れ道を考えれば、文系学部ならばその後企業に就職し、営業や企画、財務の管理といった仕事をこなす一般的なビジネスマンとなる。理系学部ならば、食品会社や医薬品会社、はたまたプログラマーやエンジニアへの就職など、より実践的な職業に就くことが多い。

…………だ、そうだ。

『他人事』

————そういう感覚が、拭えなかった。

私は、何にもなりたいとは思えなかった。
企業で働く未来を、思い描けない。かと言って、自営業やその他諸々の職業、またはNGOやNPOなどで働きたいかと問われれば、そうでもない。パティシエになりたい、花屋さんで花束を作りたいと目を輝かせた子供時代の夢も、熱も、すうっと氷に包まれた熱燗のように冷めてしまった。

ただ、一つ。
『医者』

別に、本気でなりたいと思ったわけではない。
興味を持った理由すらよくわからない。私の知り合いに、誰も医者はいない。きっかけがあるとすれば、医療ドラマで見てなんとなくかっこいいなと思った。本当にそれだけ。
しかし私はこれを、“仮“のゴールに定めた。自分の道を、見失わないための。
幸いなるかな、最難関の一つであると謳われるこの選択肢も、努力さえすれば私には不可能ではない道だった。私の脳みそは人より恵まれている。両親から受け継いだ遺伝子は、勉強をそれほど苦だと思わない人間を生み出していた。

これは可能な未来だ。
…正しい努力さえすれば。
大丈夫、私は努力が得意だ。受験に数学は必須だが、医師国家試験にこの教科はいらない。要は、受験生が論理的思考ができるかを測るためのものでしかないのだから。

これが今のところの一番しっくりくる未来。医者になりたいという夢はいつ変わるかしれない仮のものだが、それでもようやく自分で決めた未来。他の学部への道も維持しつつ、医学部対策も全力でやっていきたいと、そう決意した。…………しかし。

困ったことが、一つある。それは私自身の、微妙に低い学力だった。

私はどこかの大学には絶対入れるだろう。医学部だろうと、関係ない。現役で行く、自信がある。……けれども、それだけじゃダメなのだ。私立大学は特にレベルを落とすほどに学費がかかるし、医学部というのは将来のキャリアに大学が直接関わってくる。故に、できるだけ上の学校に入る必要がある。

…そう、これは全て姉の分析によるもの。
分析系動画サイトや予備校の情報、各大学の公開した入学情報を読み漁り、完璧に大学情報を網羅した彼女は、距離・お金・偏差値・特徴医学部に行くとした場合に通学可能な志望大学を、六つほどに限定した。この中で、私がさらに比べて評価して、最終的にどこを受けるのか決めるのだ。
こん中ならどこでも大丈夫、と姉は言ってたが、私はそうは思わない。姉が言った通りなら、どれを選ぶかで自分と家族全部の未来がガラリと変わる。

「何かが、決定的に今までと違うんです。姉が未来を示してくれているのに、未来が見えない。」

こんなにも具体的に情報を提示されているのにも関わらず、自分の将来に自信が持てない。それどころか、もやもやと霞んだ向こう岸は一切覗くことができず、不安に包まれて立ち尽くすことしか出来ない。

「……初めての定期テストの結果が返ってきました。数学が、足を引っ張っているんです。これ以上どうすればいいんでしょうね。………いえ、わかっているんです。これ以上のことはできない。コツコツと、ゆっくり落ち着いて、いつもの自分を続けるしかないって。」

私は、どうしたらいいのだろう。
恵まれている、私。
これ以上を望むことすら烏滸がましいほどに、幸福な星のもとに生まれついた。
だからこそ、道が見えない。

「何にでもなれる。どこまでも上を目指せるって、わかってます。」

そう言われて、育った。友達にも、羨ましがられることが多かった。大抵なんでも、人よりできた。

「でも。…いいえ、だから、辛い。」

……それなのに、劣等感が消えることがない。

「進むべき道が、見えないんです。」

ぐるぐると、巡り始める。霞に包まれて、煙に巻かれて、不可視の蛇が、私を雁字搦めに縛り付ける。炎に蒸された草いきれが呼吸を邪魔して、蛇のとぐろに絞め殺される。




「—————白玉と見えし涙も年ふれば唐紅にうつろひにけり。」

ふっと顔を上げると、仁朗さんが遠くを見つめて、そんな和歌を呟いていた。え…と、目を見開いて、やけに視界が青くぼんやりしていることに気づく。慌てて目を擦り、私はようやく、自分が泣いていたことを認識した。
音が、色が、…現実が戻ってきた。
庭のどこかで、チュンチュンジージーと五月蝿く小鳥や虫が鳴いている。春の花や草が揺れていて、静かな温かい風が周囲を満たしている。私は縁側に仁朗さんと肩を並べて座っていて、森を見つめている。

呆然とする私の顔を振り返ることなく、仁朗さんは静かに喋り続けた。

「これは紀貫之の和歌だ。恋の歌だね。想い()めた頃は美しい宝石のようだった涙も、年月が経つにつれて辛い気持ちが重なり、血涙になってしまった……と。」

唐突に思い出したよ。私の好きな和歌だ。理由は自分でもよくわからないがね。
そして、これを今きみに伝えねばならないと思った。

そう朗らかに笑う仁朗さんに、私はなんとも言えない感情を覚える。

「…私の好きな和歌は『村雨の露もまたひぬ槇のはに霧たちのほるあきのゆふ暮』です。」
「ふむ。理由は?」
「一番最初に覚えた百人一首の歌だからです。」
「なるほど。」

私はしばらく黙って、そして不意にニッコリと笑ってみせた。

「……そういえば仁朗さん。切り株のふりをするんじゃ、なかったんですか。」
「なんだい、切り株が和歌を喋くっちゃおかしいとでも言うのかい。」
「ええ、絶対おかしいです。」
「ふむ。」

悪戯っぽくニヤリと笑う仁朗さんに、私はなんとも言えない不穏な空気を感じた。冗談で空気を緩ませるつもりだったのに、あべこべに緊張してしまった。……もしかするとこの森において、和歌を詠む切り株など珍しくもなんともないのかもしれない。
私は気まずくなって、話題を変えることにした。

「……そういえば、座敷童に貰った大豆、どうすればいいんでしょう。」

露骨な話題転換にも、仁朗さんは気にした様子はない。
うーん、と腕を組んで考える。

「そうだなぁ。土間に植えるか。おそらく、そこが一番よく育つからね。」
「…でも、土間なんて私の家にありません。」
「なんと!」

演技でも何でもなく、本気で驚いたらしい仁朗さん。私はツッコミを入れる以前にちょっと唖然としてしまった。今の世を知らないのにもほどがある。いったい何年前からやっって来た昔人だろうか。
頭を掻きながら、仁朗さんはうーんうーんと悩んでいる。

「…台所に鉢植えを置いちゃ、ダメでしょうか。」
「ダメだ。」
「あっはい。」
「地面に直接根を張らねば、生気が補給できない…特に山から離れれば離れるほどに……」

ぶつぶつと何ごとか呟いている。
横槍を入れていいものだろうか。一度目の案をにべもなく否定された私は迷いながらも、これしか無いのではと思われる二つ目の提案をした。

「…大豆はこの屋敷に植えて、時々私が面倒を見にくる、というのはどうですか?」

ん。そう言って顔を上げた仁朗さんは、一瞬ぽかんと口を開けて、そしてポンと手を打った。

「無論、問題ないとも。」
「よ、よかったです。」

あっさりと、決まってしまった。仁朗さんは、ツルツルの頭を撫でながら、私の目をまっすぐに見つめた。

「ただ、きみは……私たちが預かってしまっていいのかい?座敷童の贈り物なんて、滅多に頂ける代物ではないよ。」
「いいです。きっと私なんかよりも世話の焼き方を知っていると思いますし。むしろ安心です。」
「それはそうかもしれないがね。」

仁朗さんは、黒い僧侶服を翻して立ち上がった。紫色の袈裟が陽の光に煌めく。
彼は私から大豆の粒を受け取ると、ふと振り返って言った。

「もう暗くなる。早く山を降りたほうがいいよ。」
「はい。」
「私も会える日と会えない日があるからね。せっかく運が良かった今日はゆっくりしていってもらいたいところだが、残念ながら泊まらせるわけにはいかない。夜の山を彷徨かせるわけにはもっといかない。」

…精霊が出る。
そう言う仁朗さんは、嫌な思い出でもあるのか、への字に唇を曲げていた。

「そうですね。母に連絡してないですし、早く帰ったほうがいいとは私も思います。」
「ああ、特に、こんな時はそれが一番だ。」

ん?私はふと首を傾げた。

「こんな時?」
「無論だよ。なんと言ったって———

——————今宵は満月じゃないか。」

ぞくり。
何気なく、と言った調子で放たれた言葉に…なぜか悪寒が走った。
思わず仁朗さんの顔を見上げ、ギョッとする。

————夜の森が、そこにあった。
仁朗さんの穏やかな黒い瞳の奥に、ゆらりと揺らめく紅い炎。牙を剥いた獣の影が、ほんの一瞬、垣間見える。闇の中、光る瞳孔。踊る狂気、喰い散らかす獲物……森に潜むその正体は……

「……ひ!?」
「ん。どうしたね?」

瞬きする間に、その幻は消えた。
人間の、黒い瞳。何の変哲もない。
傾きかけた麗らかな春の日差しの中、ニコニコと微笑む仁朗さんが、さっきまでと同じように私の顔を見つめていた。

「な、なんでもありません。」
「そうかい。まあ、気をつけてお帰りよ。」
「え、ええ。」

さようなら!と頭を下げて、私は汗びっしょりで寺を後にした。


——————仁朗……ジンロウ………人狼。

(…まさか、ね。)

同級生のお父さんが、精霊だなどと信じられるものか。
バスの中で、私は自分のあり得ない想像を打ち消しながら流れてゆく景色を眺めていた。
…鞄の中には、英単語帳と数学の参考書がセットで入っている。
気が昂りすぎているのか、いつもは取り出して勉強を始めるそれを、どうしても開く気になれなかった。

…眠ろうかな。
終点まで乗り過ごしたらどうしよう、とふと不安になって、別にいいかと力を抜いた。
運転手さんには迷惑をかけるだろう。親には心配をかけるだろう。今、アラームもかけずに居眠りすべきではないことはわかりきっている。

それでも、人生が終わるような大惨事は起こらない。
唐突に、フッと仁朗さんの声が蘇った。

—————悩みがあるなら、森が聞いてくれるよ。

そうかもしれないな、とごく自然に納得できた。あの親にしてこの子あり。一郎くんも、あの父親に育てられて、あんな風にするすると心の中に入ってゆくような言葉の語り方を身につけたのだろう。

—————人は誰しも悩み苦しみを抱えて生きている。大小はそれぞれ、だがね。

本当に、その通りだ。
恨み辛みの欠片もない朗らかな笑顔を貼り付けているくせして、仁朗さんも色々あったのだろう。
…あの瞬間、垣間見えた獣の顔は恐ろしいものだった。

「……これから、どうしようかな。」

目を閉じて、呟く。
夕暮れ時の涼しい風に運ばれてきたのだろうか、ふうっと、藤の香が鼻腔をくすぐった。

結局、何も解決していない。
私の悩みは晴れていないし、パッと解決できるような単純な悩みでもない。そもそも、悩みと呼べるのかすらわからない。

それでも。

—————これは、座敷童だね。

脳裏に、照り輝くように太った大豆を思い出す。
もしかしなくても、吉兆ではなかろうか。
『十五夜の森で、座敷童にプレゼントをもらった夢を見たよ。』そう言ったら、友達になったばかりの牧田恵里ちゃんは、いったい何と返すだろうか。
じっとりと粘つくように纏わりつく眠気に負けて、ずるずると瞼が下へと引き摺られてゆく。目を閉じる直前、バスの茜色に染まった窓に、小さな子供の顔が映ったような気がした。

丸く白く太った顔に、稚児髷。冬でもないのに赤い半纏姿で、まるで酢漬けのベリーのように真っ赤にのぼせている。

—————おまめを、おねがい。

一生懸命な、細い声が聞こえてきた。まるで、五歳ほどの幼い子供が喋っているかのような。

『大丈夫、わかってるよ。』
私は静かに微笑んで応えた。

—————ゆめを、だいじにしてね。

『全部、全部わかってる。あの仁朗さんだって、良い人でしょう。だから安心して、山にお戻りなさい。』
私は、赤い半纏姿に向かって親指を立てる。

—————ありがとう。


あれが、光の悪戯に化かされてみた幻だったのか。本当に、怖いもの知らずの座敷童が麓へ降り、バスを追いかけてまで私に会いに来たのか。
それは、今でもわからない……謎に包まれた思い出だ。