三月十一日。球技大会、当日。
学校に登校してきた生徒たちは、誰かが買ってきたリンゴジュースとオレンジジュースを紙コップで飲み放題にしていた。
教室に入るなり前黒板に集まり、群がって感嘆の声を上げたり、文字やイラストを書き加えたりし始める。そこに振る舞われるジュースやお菓子。朝っぱらからお祭りの空気で盛り上がり、羽目を外して楽しみまくる。普段真面目な生徒が多い代わりに、弾けるとすごい。ここの行事はいつもそんな感じだ。

恵里ちゃんのペガサスは、毎度お馴染みの大喝采を浴び、恥ずかしがった本人が真っ赤になってお手洗いに逃げてしまった。

—————この黒板は、いつもと違うものにする。

そう言った恵里ちゃんの声を、私は忘れない。彼女は確かに、何かを振り切ったのだ。
私は静かに黒板を見上げる。光に溢れた青と白が輝いている。お花畑の丘に色が溢れ、金色の太陽が燃えている。神々しく、勢いのある絵画。
別に、以前までの絵と何かが違うわけではないように見える。実際、いつも彼女はこんな風に命の希望に満ちた絵を描いていたし、こんな風にエネルギーに溢れた絵で人の称賛を浴びていた。

ただ、描いている時の恵里ちゃんの表情が、違った。
あんな風に迷いなく。まるで神様からの啓示を受けたかのようにぐいぐいと。

「………おはよう。」
「おはよう。一郎くん、頑張ってね。」

私は一人一人のもとに、リンゴジュースを配って回っていた。すでに登校していた一郎くんは、すうっといつにも増して血の下がった青白い顔で自席に付いていた。まるで吐きそうだ。

「……ボールはお団子だよ。」

私はそう言って微笑むと、提げていたビニール袋から和菓子屋で買ってきた三色団子を取り出した。目を丸くする一郎くんに悪戯っぽく笑うと、私はそれを差し出した。

「…ありがとう。」

呟くように一郎くんは言って、団子を受け取った。どうすればいいかわからない、といった困惑の色を目に浮かべている。私は苦笑して言った。

「これでちょっとは恩返しになるかなって思って。」
「………恩返し?」
「ほら…。精霊関係で、何度も危ない目に遭いそうになった私を助けてくれたでしょう。」

そうかもしれない、と一郎くんは呟いた。そうだよ、と私は力強く返した。
私の手にはもう松葉杖はない。ぐるぐる巻きのギプスはあるけれど、少しずつ自力で歩けるようにはなっていた。私は一郎くんに背を向けると、ジュースを待つ次のクラスメイトのところへゆっくりと歩き出した。

「————生徒の移動を開始します。呼ばれたクラスから順にアリーナへ集合してください。」

……ついに、球技大会が始まる。





「これより、球技大会を開会いたします!みなさん正々堂々と闘い抜きましょう!」
「「「おおー!!!」」」

体育委員会委員長の掛け声で、球技大会が幕を開ける。これからアリーナ、格技室、そして運動場、テニスコートが開放されてトーナメント戦が始まるのだ。まだまだ誰も熱戦の実感のわかないフワフワした空気。とりあえずアリーナに集まって開会式に参加しているものの、どこに移動したらいいのかすらわからない。そんな曖昧な空気の中、舞台上で叫んでいた委員長が、おもむろにジャージを脱ぎ捨てる。

………青と白の鮮やかな服が姿を現した。

お?と首を傾げる観衆たち。その目の前で、舞台袖からわらわらと追加で五人。
みなおかしな格好に身を包んでいる。

「……何が始まるんだろう?」
「うーん。お笑いかな?」
「………いや、なんか踊るっぽいよ。」

ざわめく生徒の前で、舞台に並んだ六人が珍妙なポーズをとって構える。
タカターン!!
大音量で曲が流れ出すと、みんながオォーッと歓声を上げた。そして広がる笑いの波。どう考えても幼児向けのダンスを、微妙に洗練された振り付けでコミカルに踊るダンス部&体育委員の有志たち。
特に知り合いが踊っている生徒たちは、指を指して友達に教えながら盛り上がっていた。

「よかったね。なぎちゃん。」

不意に、隣から声がかかった。
恵里ちゃんが、舞台を眩しそうに眺めながら、ニコニコと私に向かって微笑んでいた。

「……うん。」
「みんな喜んでるよ。」

私は頷いて、恵里ちゃんに向かって静かな笑みを浮かべた。

(…私は今、幸せだ。)

心から、そう思う。
私は今、とても嬉しいと感じている。あの壇上に上がれず、ダンスを踊れず、羽を折られたペガサスのように惨めな気分だった私。それなのに、影の舞台で私が力添えしたことが実現すると、今までの鬱気分が嘘だったかのように晴れていた。

————そうか。

私は合点した。

————私は、誰かの役に立たなきゃいけない人間だったんだ。

途端に、スッキリした。
闇が晴れたように、もやもやが取り払われた。

私は妹としてこの世に生を受けた。これがそもそもの、皮肉だったのだ。いつも誰かに世話をされて、上から目線にものを言う大人と半分大人の姉に囲まれて。誰かの役に立つことで個を世に認めさせたかった私は、いつも押し潰されそうになって喘いでいた。
いつも満たされなかった。どんなに人の役に立とうと努力しても、“自分は誰かの世話になるものだ”という私自身の無意識の思い込みに縛りつけられて、自由に泳ぐことができなくなっていた。

だから、姉が羨ましかった。

産まれたその時から、“誰かを守る“という役職についているあの人が、羨ましかった。

それでも。

いや、だからこそ。

「……ありがとう。銀ちゃん。」

小さな小さな呟きは、みんなの発する歓声に呑まれて揉み消される。私は俯いて、目に浮かんだ涙を拭った。

「私を、守ってくれて。ありがとう。」

素直に微笑むことができた。
だって。姉のおかげで。彼女の背中をずっと追いかけていたからこそ私は。
妹の心を持ち、理想の姉とはなんたるかをも知る、最強の姉になれる。

「—————今度は、私がこの宇宙全部を守る番だよ。」

——————刹那。群集が純白に、アリーナ全部が真っ赤な夜に染まった。

神が降臨する。
鴉が騒がしく鳴いて、バサバサと飛び交う。
そこには巨大な影があった。このアリーナ全てを多い尽くしてもまだ足りないくらいの深い暗黒の影法師。闇の仮面に顔を覆い、心臓から血を流して泣いている。それには顔がない。名前もない。悪魔であり、同時に天使でもある。太陽の光であり、月の闇である。
これを何と呼べばいいのか。

“神“。
これしかないだろう。

神の周りには、剥がれ落ちたペンキのように、裂けた空間が穴を開けている。きっと、隠されていたのだ。私自身が、景色を塗って、油絵のように何度も重ねて、塗り固めて。巧妙に隠していた。

……ああ、よくもまあこんなに大きなものを、私は隠したものだ。

しかも、自分自身に対して。

私はふらりと立ち上がると、自嘲気味に笑った。
ずっと探していたのに、見つからないわけだ。なんといったって、自分自身が隠していたのだから。
私は“私の心”に向かって丁寧にお辞儀をすると、迎え入れるように手を広げた。

「見つけたよ。“私“。」






目を覚ますと、そこは白い天井だった。

「あれ…?」

私は布団を跳ね除けて起き上がろうとして……やけに頭が重いのに気がついた。喉がカラカラに乾いていて、熱を帯びた瞳がぼんやり霞んでいる。
自分を囲んでいるのは、クリーム色のカーテンで仕切られた小さな部屋だった。

「あら。目が覚めたかしら。」

カーテンを引いて現れたのは、看護教諭の大川先生。……と、そこまでいって私はようやく事態を思い出した。
38℃の熱を出して保健室へ担ぎ込まれたのだ。ちょっと変だな、と思っても放置していたのがよくなかったらしい。青い顔をしてふらふらになっている私に恵里ちゃんが気づいて、即座に観戦を中止。熱で朦朧として幻覚じみたものまで見ていたのだから当たり前だ。怪我人の処置の準備を整えて臨戦体制となっていた大川先生に有無を言わさずにベッドに転がされ、そのまま寝落ち。

怪我した上に当日病気になるとか、私は球技大会に呪われているのだろうか…?と真剣に悩みたくなるほどの運の悪さだ。
私の沈んだ気分とは裏腹に、大川先生は元気よくカーテンを開けると、にっこりと目を細めた。

「よしよし、大丈夫そうですね。今スポーツドリンクとか飲めそうかしら?」
「はい。」
「親御さんに連絡したんですけどね。ちょっと仕事の手が離せないから五時くらいになっちゃうそうなんです。それまではここでお休みしましょうか。」

小さな紙コップに、経口補給液を注いで手渡す大川先生。私はゆっくりとベッドに起き直って、そっと紙コップを受け取った。

「……あの、球技大会の方は……?」
「うーん。私はタイムスケジュールをよく知りませんんが、平均してみなさん三回戦目くらいだと思いますよ。さっき二回戦目のバスケで捻挫患者が出ましたから。」
「三回戦……。」

このくらい進んでくると、上位リーグに進むかどうかが決定される頃だ。
私はぼんやりと重い頭を枕に戻して、飲み干した紙コップを先生に返す。そのままカーテンの奥へ消えそうになった大川先生に、私は思い切って声をかけた。

「あの!先生!」

大川先生は、くるりと振り返ってこちらを見た。

「…球技大会、一試合だけ観戦してもいいですか。…その、知り合いが出るんですけれども。」
「うーん。」

大川先生は、困ったように私の顔を見下ろした。私は恥ずかしくなって、目を逸らした。…わかっている。無理な注文だ。私がここから出れば、友達に感染るかもしれない。または、私の病気が悪化することも考えられる。そして、その責任は全て学校側に被される。

「…御免なさいね。」

申し訳なさそうに眉をハの字にする大川先生。私はハイ、と蚊の鳴くような声で答えた。

「友達に連絡して、撮影してもらえるように頼みますか?今日は写真部以外にもカメラが特別に貸し出されていますし。」
「……いえ。大丈夫です。そういうの、あまり好きじゃなさそうな人なので。」
「そうですか。」

大川先生が、静かに微笑んで、カーテンの向こうへ去る。
一人ぼっちになった私は、天井を見上げたまま、ゆっくりと両手で顔を覆った。


静かに瞼を閉じる。
しっとりと雨に濡れたように冷たい暗闇に浸る。
夢に、奈落の底へと、転がり落ちてゆく。
眠りという魔物を介して、私は旅をする。
会いにゆく。
赤い糸がつながっている、その向こう岸へ。

「—————ねえ、イチローくん?」

私が見つけたのは、赤い夜だった。
真っ赤な月を抱いているのは、“私“の影。闇夜を塗り変えるほどの鮮やかな紅は、彼女の心臓から流れ出す血の色だった。

本当に、宇宙の天体を撫でることができるほどに。空を血の海で満たすことができるほどに、大きかったのだ。私という存在は。

「なぎちゃん?」

地面には、銀の砂のように撒かれた天の川の星屑が降り積もっている。そこに埋もれそうになっている小さな男の子—————イチローくんは、怯えたように私の目を見つめ返した。
私はその目をまっすぐに見つめ返して、問うた。

「イチローくんは、太陽が好きなの?」
「うん。大好きだよ。」
「どうして?」
「そりゃあ、とっても雄々しく、美しく、真っ赤に命を燃やして光り輝くからだよ。」

イチローくんは、滑らかに言葉を紡ぎながら、時々うっと詰まりそうになるような、不思議な喋り方をしていた。震える手を胸に掻き抱き、病的に青白い肌を隠すように俯きながら、歪んだ表情でこちらを見ている。

「太陽が燃え尽きた時、イチローくんはどうするの?」
「そんなの、ありえないよ。太陽は永遠なんだよ。」
「それは違うよ。」

私がそう言った瞬間、イチローくんが、小さく息を呑んだ気配が伝わってきた。

「違う。この世に永遠はない。」

私が“私”を手招きすると、彼女はゆっくりと舞い降りて、私のそばに寄り添った。

「光ある時、そこに影あり。」

“私” が賛同の意を示して、頷く。

「生ある時、そこに死あり。」

“私” が鷹揚に手を広げて、血を流し続ける心臓をあらわにする。

「希望ある時、そこに絶望あり。」

“私” が蜘蛛のような手を天に差しあげて、頭を抱える。

「故に、永遠は存在しない。」

絶望したような表情で私を見上げるイチローくん。ああ、悪いことをしてしまったかな、と思う。いやしかし、これは必要なことだ。過去に引き摺られたままでは、未来に進むことが出来ない。無論人間の心は一枚岩ではないのだから、泥に塗れた悲哀や後悔を清算する程度で、全てが解決することは稀だ。
しかし、マイナス地点から進む人にとっては、これが第一歩だ。

…私は恵まれている。
本当にそう思う。心から、こんなに幸せな人間は世界にいないと思う。
何故か?
私は、この世界の全てを慈くしむ祈りの心を持っている。
光、闇、生、死、希望、絶望。全てを呑み下して包み込み、宇宙という名の薄青い海のヴェールで覆い尽くす。
もう、私はとっくに“世界“という枠組みすら超越しているのだから。

“私たち“は努めて優しく語りかけた。

「「しかし、案ずるな。」」

おもむろに私は、“私”を迎え入れた。重なり合い、溶け合い、白い小魚と宇宙の海が、真の意味で一体化する。

『迷いある時、そこに必ず悟りあり。』

幾重にも混ざり合う響きが、天地を轟かせる。
津波のごとき大波が、地を裂き噴き出し溶岩流のように流れだし、轟音と共に隕石のような飛沫を巻き上げた。

『今宵を、よく覚えておけ。』

踊り狂う真紅の海。
この世紀末のような光景は、ずっと昔に予言がなされていた。

—————残念。正解は、『僕たちの色』でした!

イチローくんが、なぜあんな言葉を口走ったのか、今でもよくわからない。それでもあれは、大切な思い出であり続ける。彼と、私の、始まりと終わりの記憶。

『びくともしなかった壁も、崩れる時が来る。岩や煉瓦の如く堅牢な壁に見えていたものが単なる幻であり、柔らかな布でできていたことに気づく時がやって来る。大切なことは、ただ一つ。』

“私たち“は包み込むように世界を抱きしめた。

『————よく、見ること。』

刹那。
イチローくんが、ぐんと立ち上がった。背筋を伸ばし、頭を上げ、どんどん伸びてゆく。まるで鎌首をもたげた蛇のように、どこまでも伸びてゆく。
あぁ、やはり彼は蛇神様だった。森の中で白い体躯を波打たせ、清らかに、そして恐ろしく、出会う者に祝福と信仰を与えてゆく。

あはは、と“私たち“は笑った。

あはは!あはは!わっはっは!
簾のように藤の花が咲き乱れる。
そうだ。これは結界だ。
万人を受け入れる寺がここにあることを示す、メッセージ。
人も、精霊も。光も。闇も。
みんなで世界中を揺らして笑い続ける。

『見よ。そこに死んだ太陽がいる。』

“私たち“の言葉に、一郎くんは挑戦するように頷いた。
暗黒の穴が、ぽっかりと空いている。
ぐちゃぐちゃに嵐が吹き荒れるこの世界の中心に、ただ静かに存在する穴。
それはゆっくりと、近づいてきていた。
衝突する。
いつかこの宇宙にぶつかって、何もかもを呑み込んでしまうだろう。

『あれを何とかできるのは、お前しかいない。ちょうど、私が“私“を何とかしたように。』

一郎くんは、もう一度頷いた。
その瞳に宿った覚悟の色に、私はこれなら安心かと肩の力を抜く。

“私たち“の見ている前で、一郎くんは両手を広げる。
優しく受け止めるように。
まっすぐに天を見つめ、親鳥が雛鳥を見るかのような慈しみの視線で、この世界全てを見渡す。

「さあ…おいで。」

彼が静かに呟いた、その刹那。彼の胸を目掛けて、死んだ太陽が落っこちた。

眠るように目を閉じる。
“彼ら“の表情は、この上なく安らかだった。