翼を広げたペガサス。
水色のたてがみが風に舞い、神々しいまでの太陽の輪を背に負っている。
波打つ草原には、色とりどりの花が咲き乱れる。

ふわふわと地に足がついていないような感覚は、まだ続いていた。けれども、これは遠い国の出来事ではなかった。歴とした目の前の現実で、砂上の楼閣のような揺らめく幻ではない。

私は放課後の教室に残って、恵里ちゃんとスケッチブックを覗き込んでいた。
球技大会はいよいよ明日に迫っている。体育館からは威勢の良い自主練習の掛け声が聞こえてくる。遠くから響いてくる足音や声は、薄暗い教室に飛び込んでくることはなく、廊下と隔てる壁やドアにはっきりと阻まれれているようだった。
窓の外を見ると、藍色と桃色の混ざったような夕焼け空が広がっている。もうそろそろ日も長くなり始めているが、まだまだこの時間は暗いらしい。冬が終わり、春が始まる。机や椅子の影は中途半端に長く伸びていた。

「———ここは、明日みんなが追加のイラスト描いたり、メッセージとか全員分の名前を書き込んだりするために残しておく余白?」

私はスケッチブックのある一部分、ペガサスの翼の下にぽっかりと空いた空白を指さしながら、恵里ちゃんに尋ねる。
恵里ちゃんは、色鉛筆をくるくる回しながら頷いた。

「うん。…それで、私が大体の輪郭を描くから、中身の色塗りは全部お願いしてもいい?」
「そうする。でも、多分この上の方は……」
「そこは私が椅子に乗って描くから大丈夫だよ。」

スケッチブックの中身は、黒板アートの計画書。
恵里ちゃんが球技大会において、おそらく全精力を注ぎ込む段階。このクラスの非常識な黒板アートのレベルの高さは他クラスまで響き渡り、行事のたびに写真を撮りにカメラを携えてくる人が後を絶たない。

恵里ちゃんは本気だ。
最初に気合いを入れてしまったので引っ込みがつかない、などといった消極的な理由ではなく、毎回全身全霊をかけて黒板に向き合っている。

麒麟、人魚、ケンタウルス、そしてペガサス。主役はいつでも幻獣だった。
体育祭で初めて麒麟を見せつけられた時は唖然とするばかりだったクラスメイトも慣れたもので、二回目からは投票で黒板アートのテーマにする幻獣を決めるようになった。
想像上の生物が大迫力の威容で黒板に現れる。強さと誇りと希望に溢れた、命を燃やし尽くして輝く〈魂〉(ソウル)の象徴。恵里ちゃんの十八番。

生と死は紙一重。生きるということは、死ぬということ。死ぬということは、生きるということ。

恵里ちゃんは文字通り、命をかけて絵を描く。
人生をかけて、己を表現し続ける。

「……私が足手纏いになるようだったら、遠慮なく言ってね。」

私が言うと、恵里ちゃんはブンブンと首を振った。

「そんなことないよ。なぎちゃんに手伝ってもらえるだけで、私は嬉しいよ。」
「………ありがとう。」

誠実で、真っ白な女の子。
そう思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
白があるということは、黒もあるということ。ものに絶対の色はない。彩度も明度も色の種類もいくらでも変化して、時の経つごとに複雑に移り変わってゆくものなのかもしれない。

私は息を吸って、今まさにチョークを取ろうとする恵里ちゃんに呼びかけた。

「恵里ちゃん。」
「どうしたの?」
「本当に、ありがとう。」

涙を拭って、笑いかける。

何気なく振り向いた恵里ちゃんが、驚いたように立ちすくんだ。

………あぁ、そうだった。泣き顔を見せたのは、初めてだったかもしれない。実のところ、私はものすごく泣き虫なのだけれど。
困ったようにオロオロしている恵里ちゃんの前で、私は静かに言葉を紡いだ。

「……ガルーガルの蜜樽。」
「え、…な、なぎちゃん…?」
「いつか、ちょっと変わった人に聞いたことわざでね。“自分の手の届く範囲“って意味らしいんだ。人には分相応ってものがある。ただ、私ができることをすればそれで良いんだ、ってね。………だけど、実践するのは結構難しい。頭ではきちんとわかっている。でも、みんな欲張りだから、自分の分の蜜を躍起になって増やそうとするし、減れば誰かに奪われたような気がして必要以上に落ち込んだり憎悪したりする。」

私は恵里ちゃんの目をまっすぐに見て、言葉を続けた。

「それなのに。恵里ちゃんは、私に優しくしてくれただけじゃなくて、あまつさえ自分自身の蜜を分けてくれた。黒板アートは一人でやっていたのが誇りだったはずなのに、私っていう第三者が介入することに文句一つ言わずに頷いてくれた。美術室に誘ってくれたのも嬉しかったよ。…私は怪我して球技大会に出られなくなって、みんなに申し訳が立たない…って鬱気味になってたけど、今はだいぶ救われた気分になってる。だから————

私は胸に手を当て、静かに目を閉じる。

—————本当に、ありがとう。」

私が言い切った瞬間、教室の空気が変わったのを感じた。
まるで麗日な春の風が吹きこんだかのような……いや、文字通りに、あたたかな春の空気が部屋を満たしたのだ。のぼせたようなあたたかさ。そしてあっという間に塗り替わる景色。

「えっ…?…え、ええ?!」

恵里ちゃんが叫ぶ。無理もない。
私たちは、飛んでいた。
真っ青な空に、ぷかぷかと浮かぶ綿飴のような白い雲。背景には、ニコニコと優しく照らす金色の太陽。
冬の格好でセーターなど着ていると、じわりと汗が滲んでくるぐらいの春の気温。

「…どう、恵里ちゃん?」

私は自分の背中に生えた翼を大きくはためかせて、バタバタもがいている恵里ちゃんの手を取った。
彼女の背中にも私と同じように、真っ白で大きな翼が生えている。

「どうって!?なぎちゃん?!何コレぇえ?!」
「恵里ちゃんの絵だよ。」
「絵?!ペガサスの飛んでる絵ですかあぁあ?!」
「うん。」

ちょっと落ち着かせた方がいいな、と私は判断して、手近な雲の上にふわりとおりることにした。正直に言って、私もこの事態を予想していたわけではない。ただ、驚いてはいなかった。何が起こったのか正確なところを把握しているかと言われればそうではないが、これがちょっとした夢の世界だということはわかる。そして、私がそれを作り出したのだということも。
なぜわかるのか?
わかるから、としか言いようがない。

私にはわかる。この世界のどこかに、ペガサスがいる。今私たちが乗っている雲の上から飛び降りて、真っ逆さまに地面まで落ちて行けば、お花畑に舞い降りることができる。そしてそこで、翼を広げたペガサスに会うことができる。私には確信がある。なぜなら、ここは恵里ちゃんのスケッチブックの中身……を私の想像で補って具現させたイメージの場だ。

恵里ちゃんをいざなって、波打つ雲の海へ舞い降りる。おっかなびっくり着地した恵里ちゃんを押し倒して、二人して勢いよくゴロンと寝転がる。背中がぽふん、と跳ねた。雲はまるで、ふわふわのお布団だ。きゃっと小さく叫んだ恵里ちゃんも、だんだんと事態を把握してきたようだった。
目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。最後にフーッと息を吐いて、私を見上げた。

「…あの。これ、なぎちゃんの作った幻?」
「そうだよ。」
「なぎちゃんが幻術使えるなんて知らなかった……もしかして、忍者だったの?」
「ふふふ。そんなわけないよ。夢幻をちょっと具現化するくらい、誰にでもできることだよ。」
「そ、そうなの…?」

私は少し落ち着いたらしい恵里ちゃんに、静かに語りかけた。

「ねえ、天を見て。」
「天……。」
「太陽が燃えている。私たちを照らすために、身を焦がして燃えている。」
「………。」
「あれも、いつか死んじゃうんだよね。」

太陽さえも、永遠ではない。命あるものは、いつか必ず、燃え尽きる。
当たり前の理論だ。
宇宙に生きる私たちはちっぽけな存在で、ほとんどこの世界の秘密の何も知ることのないままに、その生を終える。何千年も、何億年も、私たちはリレーをしながら命を繋いできた。その一つ一つに悩みがあり、苦しみがあり。幸せがあり、喜びがあり。
命。
当人にとっては世界一大切なものなのに、あっけなく散ってゆく。
矛盾。
全てには裏表がある。
正と負がある。

「だから、恵里ちゃんは怖いんだよね。」

私は恵里ちゃんの目を見つめた。
くるりと起き直って、そして手を取る。

「大丈夫だよ。私がついてる。」

目を見開く恵里ちゃんと一緒に、雲の海へと頭から突っ込む。そして引き摺り込んだ。奈落へ落ちる。闇の中。雲の底。真っ白で眩しい世界の、裏の顔。真っ逆さまに、落ちてゆく。

—————そこは、根の国だった。

いつか見た、恵里ちゃんの油絵の世界。
真っ暗闇の中、棒のようにまばらに佇む樹々の影。仄青く狐火が揺らめいている。あれは全て、死者の魂なのだろうか。不気味に思えるそれらも、落ち着いてよく目を凝らせば、だんだんと心が安らかになってくるような不思議な気配を纏っている。

…“彼“の言うことは本当だった。

私はぎゅっと握ってきた恵里ちゃんの手を、握り返した。

「大丈夫だよ。怖がらなくても、大丈夫。」
「…………。」
「恵里ちゃんは世界中のどこに行ってもやっていけると思う。それぐらいにすごい人だよ。心から尊敬してる。」

色褪せた闇の中に時折ぼんやりと浮かび上がる、植物や川や岩の煌めきを見る。そのはっとするほどの神々しい美しさよ。闇の中の光というものは、こうも尊いものなのか。私は思わず唇を三日月型に引き上げて微笑んだ。ゆっくりと、口を開く。

「それでも不安とか心配ごとがあったら、こうやって絵に描ける。そうして描いて描きまくって、その絵にすら一人で向き合うのが怖くなったときは—————

——————友達を頼っていい。」

……彼の、一郎くんの言葉。
人を守ると決めた時。そして、守るべき者を抱いた時。私たちは、信じられないほどの勇気を手にするんだ。と。

お決まりの、少年漫画やアクション映画なんかでよく登場する、陳腐な台詞に思えるかもしれない。しかし、これは真実だ。まごうことなき、世の真理だ。

(今、私は怖くない。)

恵里ちゃんの力になりたいと願い、その言いようのない不安に寄り添いたいと祈り。表も裏も魅力的な彼女を励まそうとして、その魂の描く絵画に飛び込んだ時。しっかりと握りしめてくる彼女の手の温かさは、聳え立つ山のごとく巨大でな勇気を産み出した。

「………ありがとう。なぎちゃん。」
「ううん。こちらこそ。」


気付けば、私たちは薄暗い教室へと戻ってきていた。目の前には何も書かれていない黒板。後ろの教卓には、開いたスケッチブックが無造作においてある。
隣を向くとそこにはしっかり恵里ちゃんがいて、私はほっと安心した。夢から醒めたらどうなるか少し不安だったが、元通りの現実に戻って来れたようだ。
……いや。一つだけ変わったことがある。目の前の恵里ちゃんは、表情から何かが抜け落ちて、スッキリした笑顔を浮かべていた。黒く丁寧に編み込まれた二本のおさげまでもが、力を抜いてすとんとまっすぐに流れ落ちているかのよう。
恵里ちゃんは、私と顔を見合わせると、優しく目を細めた。

「………ありがとう。」
「…………。」

恵里ちゃんは白いチョークを持つと、くるりと振り返って黒板に向き直った。

「………この黒板は、今までとは違うものにする。」
「……………。」
「……見ていてね。」

うっすらと闇夜が忍び寄る。仄暗い教室の中、黒板の上に踊り現れた幻の獣の咆哮が響き渡った。