梅雨の湿気。
 うねる前髪。
 鏡の中で前髪が気に入る方へ落ち着かない――。
 琴音(ことね)は神の見えざる手みたいに梅雨前線を巨大な片手で握りつぶしたくなった。

 今の肌色と合っているのかわからないファンデーションを顔全体に塗り、荒れた肌を隠す。
 ピンクのチークを頬に塗り、茶色のペンシルで眉毛を作り、アイラインを描き、ビューラーでまつげを上げ、最後に淡いピンクの口紅をつけ完成。

 杏奈(あんな)が結婚してから2年が経つ。一方、琴音は真面目で独身の書店員だ。いつもより、3分ほど出勤をする準備が早く終わった。
 窓の外は雨が降っている。
 琴音は手持ち無沙汰だったから、卓上カレンダーを手に取った。
 今日、6月10日は親友の杏奈の結婚記念日で、2年経ったことをほんの少しだけ考える。6月10日にはぐるりと赤丸。

 何故、世間はどんどん丸くなるのか。
 深い感傷をファッションにすることは今や古臭く、パステル色したポップが至る所に氾濫する。毎日が感動の安売り。
 感動が世間を騒がせ、感動に民衆は煽られ、そりゃあ、涙、涙の有頂天。
 かわいいという言葉を安売りし、言葉は数列の暗号から液晶内で何も匂いがしない平べったい電子文字になり、言葉はインク臭い手紙より簡単に届くようになり、人々は普段の会話で主語を語らずとも意思疎通ができるようになったと。

 あっという間に3分が経ち、卓上カレンダーを置いた。置いたときにテーブルにカレンダーを叩きつける恰好となり、大きな音が部屋に響いた。




 きっかけは数日前。
 琴音はその日もいつも通り、電車を下車し、駅前の交差点で信号待ちをしていた。
 外ではゆったりと雨が降っている。
 職場の制服で着ていた安上がりな白いワイシャツの上に淡い水色のカーデガンを着ていた。傘はお気に入りの青い水玉模様の折り畳み傘。

 横断歩道の向かい側に小学校低学年くらいの男の子と女の子が並んで待っていた。
 とても仲がよさそうにじゃれあっている。小さな駅前通りを走る車と車の合間から時折見える、じゃれあっている二人の小学生の様子を琴音は眺めていた。
 信号が青になり、小学生二人がこちらの方へ走り出した。

 すれ違う時の二人の顔。
 うきうきしている。
 満面の笑みで、琴音の横を走り去っていく。男の子の後を追いかける女の子。待ってよ。とそこら一杯に響きわたる声を張り上げる女の子。
 琴音は横断歩道を渡りながら、二人の後姿を目で追う。
 琴音がいた反対側の歩道に男の子が先にたどり着く。
 女の子が、息を切らしながら後に続く。二人はまたじゃれながら去って行った。



 こども園の頃、仲のいい男の子がいた。
 男の子といつも二人でおままごとをし、夫と妻。おもちゃのごはんを食べるふりをしたり、赤ちゃん人形の子守をしたり、夫婦喧嘩ごっこをした。
 家に帰り、夕食を食べているときも風呂を入っているときもずっとずっとおままごとのことを思い出していた。記憶は鮮明で男の子がどういう返事をしたかも自然にあふれでた。
 ベッドの上でもおままごとは琴音の心を離れず、ずっとずっと頭の中で男の子とおままごとをしていた。
 そして、そのまま眠る。

 そのおままごと。
 最初の一週間は幼少の記憶にある情景をそのまま瞼の裏に投影し、男の子と琴音の一対一で人形の赤ん坊をあやしているところを繰り返し、繰り返し、再生。就寝。
 日が経つと、同じ情景を再生するのに飽きて、男の子と食事しているところや、男の子の肩をマッサージしているところや、朝食の支度をして寝ている男の子を起こすところやと、覚えている情景を瞼の裏に次々投影。
 頭の中ピンクに染まって、夢に堕ちる。

 それだけでは物足りず、けれども琴音が覚えている情景はすべて出し切ってしまった。
 今まで見たことがない情景が次々と動き出す。
 琴音と男の子が朝食中、男の子がプラスチック製ご飯をこぼす。
 琴音は慌てて、布巾を持ってきて、男の子の上に落ちた、プラスチック製おもちゃ、おもちゃのハンーバーグやら、おもちゃの目玉焼きやらを布巾で包む。
 一旦、木で出来たキッチンにそれらを持っていき、布巾で包んだプラスチック製おもちゃを流し台に放り投げる。
 キッチンにある新しい布巾に持ち替えて、また男の子のところに戻り、今度は丁寧に男の子の膝の上を新しく持ってきた布巾で拭く。

 男の子の膝を拭きながら、まだおなか減ってるでしょ。これ食べなよ。と、そのへんに落ちている小さい食パンのおもちゃを男の子のおもちゃの皿に乗せる。
 男の子はそれに対し、気が利くね。と優しく琴音を褒める。
 琴音は優しいね。と男の子に言う。
 少し、頬が熱くなる。もうこれは事実を投影した情景ではなく、琴音が脳内で脚色した新たな情景を脳裏で投影するようになり、それを繰り返し、繰り返し、再生。就寝。

 ここ1年くらい、琴音はそんなことをずっと考えている。自分でもどうかしていると思う。27歳にもなって、こんなこと、考えているなんて、どうかしている。
 駅に向かう多くの人の流れに乗り、雨に濡れて灰色の駅前通りを歩きながら、琴音は次に憂鬱な仕事のことを考え始めた。



3 
 お洒落な石鹸屋さん。
 琴音が働いている書店と同じ駅ビルの中にあり、琴音はそのお店で、カラフルな香料つきの石鹸やバスボムを給料日に無数に買う。固形から液体までありとあらゆる商品がありとあらゆる香りとともに置かれている。柑橘やら、フローラルやら、ハーブやらの香りが店全体を包み込む。

 それはあのデパート1Fにある化粧品売り場のあのけばけばした匂いとはほど遠く、吟味された香料の数々。香料が一つ一つ放つ、独立した香りはやがて石鹸屋さんの店内で一つの集合体となり素敵な香りを放つ。
 鼻から吸い込み、香りが情報として侵入し、神経伝達物質が神経に行き渡り、琴音の脳に直結、これが琴音の脳内。
それはお花畑に迷い込む少女で、舞い、踊り、香りをしっかり感じる。それが琴音にとって最高の瞬間で、唯一の現実社会からの報酬に思えた。
 琴音は今日も疲れを忘れて、ベルガモットとイランイランの固形石鹸を手に取り、それをPayPayで決済した。



 だから、琴音は普段から、2時間かけて入浴をする。
 浴室にiPhoneや本らを持ち込まず、ぼんやりと湯船に浸かる。これが琴音の趣味で、他に趣味と言えるものを琴音は持ち合わせてない。
 だけど、琴音はそれに満足していた。そんな地味な性格は昔から変わらない。10代の頃も日々やることもないので黙々と勉強をしていたし、そのおかげで、偏差値は有り余っていた。
 鉛筆の六面に番号を油性マジックで書き、それを転がして文学部に進むことにした。
 結構、名前が知れた大きめで、そこそこいい大学に入学できたから、キャンパス内はキラキラした世界の人たちばかりだった。それが、琴音にとって、まぶしすぎて、吐き気がしそうだったし、なにより、話が合わなかった。
だから、最低限の授業だけ出て、アルバイトやサークル活動はせず、大学とアパートを行き来した。面白くなかった。

 ある日の講義で川の水浴びから始まり、ギリシャで大衆浴場ができうんたらこんたらという内容の講義を聞いた。その帰り、今まで行ったことない洒落た石鹸屋へ行き、ハートの形で淡い黄色のベルガモット香料の入浴剤を購入した。
 アパートに戻って、狭く四角い浴槽を洗い、湯を張ってベルガモットの入浴剤をいれた。一瞬で幸せの電撃が走った。
 
 翌日、ありったけの金で、ありったけの香料を同じ石鹸屋で買った。
 そうして5年経ち、27歳になった琴音は今もなお、石鹸を心の拠り所としている。 





 書店はあらゆる臭いが店内を充満する。
 店に来るお客さんも変化せず。黙々とレジ打ち。
 お客さんは途切れることなくレジ前に並ぶ。レジ10台、10人のスタッフで会計をする。いらっしゃいませ。と言いながらお客さんが持っている本を確認、ハードカバー、新書、文庫であればブックカバーを付けるかどうかの確認、二段バーコードをスキャニング後、レジ操作し、合計金額を言う。
 お客さんがお金を出している間に本を袋に入れる。あるいはブックカバーを素早く掛ける。
 お金を預かり、レジに入力し、お釣とレシートを一緒に渡す。お客さんが財布にお金を入れている間に袋を渡す準備。そして、お待たせいたしました。ありがとうございます。と言い、袋を渡す。それを無理やり頬の筋肉を牽き吊り上げ、不器用な笑顔。

 レジで接客をしているときに夫婦らしき男女のお客さんが気になる。
 赤ん坊を抱えながら、育児誌を買う母親。ありきたりな光景。父、母、子の三人あるいは二人、あるいはもう一人子どもがいて四人を見ていると琴音もああいう風に三人のうちの一人になりたいなと幸せの空想を広げる。
 休日は特に親子連れが多く、男と女と子どもから出ている幸せのオーラが琴音を卑屈にさせる。
 
 琴音をこういう気持ちにさせているのはいつの日か、二人でおままごとをした男の子にほかならず、琴音はその気持ちに関しての一切合財、責任を求めたところで期限切れだと思った。





 琴音が園に通っていたとき、延長保育を受けていた。それはほぼ、毎日のことで、
入園の際に琴音の延長保育を申込み、琴音は朝の8時から夜の7時半までこども園で3年間を過ごすことになる。3歳になる前までは認可外こども園で過ごしていたらしいけど、琴音のなかではもうその時のことを覚えていない。
 
 こども園の記憶は一部分を鮮明に覚えている。特にその延長保育の時間だ。
 そして、その延長保育で一緒だった男の子が、寝る前に脳内で再生している、おままごとに出てくるその子だ。

 こども園が3時くらいに終わり、みんなは帰りの会なんかで浮かれてさよならの歌を歌い、バスに乗り込む。
 玄関前にバスがあり、一人ずつ先生と手を振り、さよならをして、バスのステップを駆け上がる園児。
 琴音が延長保育される教室は二階で窓から玄関を見渡せる場所にあった。琴音はその姿を教室の窓から眺めることが毎日の日課であった。こども園は幼稚園と保育園が混じった形態だから、クラスの半分の、保育園組はそのままこども園で過ごし、そのうちの半分は5時に帰り、更にもう半分が6時に帰る。
 そして、7時になるまでに、ほとんどの子が帰っていき、気がつくと、琴音と男の子の2人になっていた。

 最後の30分になると決まって、男の子とおままごとをした。男の子は飽きもせず、毎日、琴音とおままごとをしてくれた。子どもでなければ、このまま夫婦でもいいなと思った。

 男の子の母は大体において7時10分頃にやってきた。
早く大人になろうと努力していた琴音は3歳のときに時計の読み方を練習したいと母に頼み、それで4歳になり、字は読めないのに時計だけは読めるようになっていた。

 そんな琴音のことを両親は天才だと、もてはやし、今でもたまに、あのときは天才だったと言われる。本当はこども園の先生に時計のことを教えてもらって、あの針がもう一周したら、迎えにくるよと言われていたから、それだったら、あの読み方、わかれば、いいんじゃないかって思って時計に興味を持ったのは、今でも誰にも言っていない。

 琴音は決まって、こども園で一番最後に帰ることになる。
 7時半になるまでの、最後の20分は、そのまま一人でおままごとをしたりすることが多かった。だけど、結局、ぽっかり心に穴が開いた感じで一人では盛り上がらず、おままごとのセットをプラスチックの衣装ケースに片付けることが多かった。

 琴音の母は7時半に必ずやってきた。
 琴音の母はWebデザインの仕事をしていて、朝から夕方7時くらいまで働いていたらしい。だから琴音はこども園に通っている子どもの中で一番最後に帰ることになった。
いつも待たせてごめんね。って母は琴音を迎えに来るたびに言っていた。
 そんな母に対して、琴音はいつも頷くだけだった。
 



 駅を出てアパートまで歩いている途中、鉛色の空から夕立が降ってきた。朝は晴れていたので傘を持たず、うかうか出勤した自分がバカだった。徒歩15分のうち10分は雨に濡れた。雨は急に降り始め、琴音はびしょ濡れになった。どこかで雨宿りする暇もつかないくらい雨だった。
 雨に濡れて琴音はもうどうでもよくなった。

 アパートに着き、リビングにあるプラスチック製の白い棚から、ラベンダーの入浴剤を手に取り、洗面所で服を脱ぎ捨て、バスルームへ向かう。
 40度に設定したお湯がバスタブについている丸い銀色の循環アダプターから出始めた。
 琴音はアダプターの向かい側に体育座りをして、お湯がたまるのを眺めていた。
 徐々に溜まっていく40度のお湯を眺めているだけ。お湯がへその穴から右上にある小さなほくろくらいまで溜まったところで、給湯器のパネルから音楽が流れた。
 持ってきていた入浴剤の袋をあけて、紫色の入浴剤をお湯の中に投入した。炭酸を含んだ入浴剤が小さく細かい泡をたて、お湯の中で徐々に溶けていく。お湯はだんだんと紫色になり、バスルームは一気にラベンダーが香る。
 
 バスルームを出て、バスタオルで身体を拭き、バスローブを着る。
 バスタオルを頭に巻き付け、そのまま、リビングまで歩き、カーペットの上に寝転がる。
 真上には白い蛍光灯が琴音を照らしている。一瞬、眠気。
10数えてから、琴音はカーペットから起き上がり、夕食の支度を始めた。
 



 すっきりと晴れ。蒸し暑さが戻ってきた。今日は遅番で13時からの出勤だ。だけど、琴音の身体は重かった。
 琴音は浴室でシャワーを浴び、ネット通販で取り寄せたオーガニックシャンプーとリンスとボディソープで身体を洗い流す。どれも一つ当たり、三千円と割と高値であるが、その分髪の傷みが減った気がするし、肌の調子もいい気がする。
髪をドライヤーで乾かし、雑な化粧をし、アパートを出た。

 駅のホームには初老の男女、小さい子連れの主婦など数人がバラバラと並んでいた。改札抜けて、少し右側に鉄筋の柱があり、そのすぐ右横に電車の乗降口が来るようになっている。琴音はいつもそこで電車を待つ。立ちくらんだ。ほんの一瞬だったけど、そのまま、意識がすっと抜ける感覚がした。
 



 白い天井、左腕には点滴。
 やってしまった――。
 
 琴音はホームで倒れ、数分間、失神した。高校生のとき、2度やったことがある、あの症状だったけど、すでに周りではおおごとになっていて、結局、私は救急車に乗り、病院まで搬送された。
 医師には、神経調節性失神だったね、一応、点滴しておくかと、軽い感じで言われた。

 点滴が終わり、中年女性の看護師から点滴の針を左腕から抜いてもらった。ベッドから起き上がったとき、頭がくらりとした。
会計カウンターで、受診料を支払い、琴音はこのままアパートに帰ることにした。

 iPhoneを見ると職場から無数の着信履歴が残っていた。
 電話をかけ、事情を説明すると明日と明後日は休みになった。
 運び込まれた病院はいつも通勤で使っている駅の一駅先の場所にある。だから、琴音は歩いて、その駅まで向かった。



 駅に入ると人がたくさんいて、人の声と足音で雑然としていた。
 琴音が知らない日常がそこには広がっていた。
 時計の針は15時10分頃を指していた。次の列車までには15分程度余裕があった。琴音は待合室のベンチに座った。

 待合室のベンチからは右手に出入り口が左手には改札口を見ることができ、正面には売店やら、数店のテナントが見える。駅にいる三割くらいの日本語が読める人は2か月に一回発売される少年コミックの新刊をどこかで買い、それらを読んで、全巻で70冊以上になるコミックを本棚にコレクションしているのだ。それがもし石鹸であったらその三割の人は琴音と変わらないなって、思わずくすっと笑ってしまった。そんで、また真顔になって、何事もなかったように冷静な顔をした。
 
 この駅で折り返しの電車に乗り込みシートに座る。五分後に発車するそうだ。車内はガラガラで午後の陽気が強く射していた。ここで気絶して、まさかこの街まで来てしまうとは思わなかった。大きくため息をついた。

 きっと清純な少女コミックのヒロインであれば、麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを身体にまとってセンチメンタルな吐息を吐くのだろうなって思った。
 真夏の昼下がりなんて、幻想に溢れすぎている。
 それを自らに投影し、清純なヒロインになれば、人生、とても気持ちよく、健やかに送れるはずだ。けれども、大抵のヒロインにはその時の体調は考慮されてなく、能天気にいつもその場、その時の感情の起伏だけで、相手と言い合ったり、トラブル起こしたり、対処したりととても果敢な青春を送っていることでしょうが、体調は考慮されないと勝手に思った。

 たとえば、青春もので真夏の昼下がりに麦わら帽子をかぶり、白いワンピースをまとったヒロインが、不安な気持ちのまま、電車に乗り、隣町のとある彼に会いに行くとしよう。
で、そのヒロインは物語が始まろうとしていたそのときに、失神して、救急車で運ばれたってことになれば、きっと、センチメンタルさは、増すかもしれない。
 それで隣町の彼が病院まで迎えに来てくれたら、もっと、その話は美しくて、青くなるかもしれない。
 もし、琴音が物語を作るとすれば、物語の世界の人がみんな不健康で病に伏してしまって、血も涙も何でも流してお互い様に仲良く生きていきましょうと世界融和でも書いてしまえば物語ができてしまうのではないかと考えた。

 だけど、そんなのはすべて不毛だ。




 いつもの家の近くの駅に着き、琴音は安堵した。
仕事に行くだけだったのに、こんなことになってしまうとは思わなかった。空はきれいに晴れていて、突き抜けるくらい青くて、綺麗な夏空のように感じた。
 だから、琴音はゆっくり歩いて帰ることにした。

 書店に勤めてから、琴音は休みの日も外に出ても遊ばず、書店とアパートを往復する日々を送ってきた。これとしてなにも面白みのない日々をこの三年弱送ってきたんだなって。
 なにもいいことなんて起きない――。
 少女コミックのように。

 駅とアパートとの間のこの静かな住宅街をゆっくりと歩いている。この道はいつもとなにも変わっていない。
街はいつもと変わらず、平日の午後のゆっくりした雰囲気が漂っていて、琴音だけが何か異質でこの静かな街に馴染んでいなかった。

 この道の向かい側から、あの一緒におままごとをした5歳の時の男の子が出てきて琴音の手をこのままとって、どこか遠くの街で、希望としては坂の上にある小さな白い三角屋根の家で、二人でゆっくりと過ごし、一日中おままごとをして、いや、もうそれはリアルで暮らすのだからおままごとではないか。
 同棲をし、石鹸に塗れたバスルームで甘いひと時を過ごせばいいんだ。

 それによって琴音はその男の子に守られているという、家庭的幸福感に満ち溢れ、ずっと小さな白い三角屋根の家で、男の子の帰りを、家事をしながら待ち、家を隅から隅まで綺麗に掃除をし、帰ってくるまでずっと心配で心配で、そわそわして、帰りが遅いと包丁を両手で握りしめて帰ってきたら、血まみれの両手で男の子を抱きしめるのだろう。

 そうすれば、今日のように惨めな思いをしなくていいのではないか。わざわざ体調の悪い時に外に出て、仕事をしなくてもいいのではないのかと思った。しかし、決定的に琴音の中に欠けているのは繊細さではないのか。
 ――すべてあの男の子の所為だ。



10
 アパートまで帰ってきた。
 鍵を鍵穴に差す前に鍵を落としてしまった。鍵を拾い直し、開錠し、扉を開ける。むわっとした湿気が流れてきた。
 靴を脱ぎ捨て、そのままリビングに行き、ローテーブルにあるエアコンのスイッチをオンにし、カーペットの上に寝転がる。西日が窓から差し込んでいる。西日が琴音を照らしつけている。天井は白と西日のオレンジ。

 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。
 サイレンが音の境目を通り音が急にくぐもる。やがてサイレンが去り、無音。琴音がどれだけ一生懸命に身体を石鹸で洗ったり、いいブランドの洋服を着て私を変えることはできても、この肉体は変えることはできない。化粧したって、着飾ったって、  香料をつけたって、勝手に不調になる身体は変えることができない。私の身体は人形のように擬態したものみたいに。

 寝ころんで、急にこの倦怠感。
 琴音の大きなため息は部屋中に反響した。その直後に琴音のiPhoneが鳴った。


 
11
 こども園の部屋は窓が開いていなく、むわっと蒸しあがっていた。
琴音は慣れた手つきで窓を開け、いつものようにバスに乗るほかの園児を見ていた。杏奈ちゃんが私に気付いて、手を振っている。私も笑顔で、杏奈ちゃんに手を振る。5秒程度の挨拶だ。気まぐれな私はたまに手を振らないときがある。でも、いつも杏奈ちゃんは手を振ってくれる。

 なんというか、もう、あの子はいつもああやってくれたりして優しい。
 いつだって、杏奈ちゃんは優しい。
 そして、可愛らしく、人懐っこく、人をまとめ上げる。クラスの中でいち早く先生の問いかけに元気に答える。先生がピアノでお決まりのカレーの歌を弾くと誰よりも最初に、にんじんという。
 イントロですぐに対応する。にんじんと少数の人が言っているのを聞いて続いて、たまねぎとクラスのほとんどの幼児が続くのである。私はいつもたまねぎの方だった。杏奈は毎回ぴったりとメロディに合わせてにんじんと歌う。

 杏奈の誕生日は4月の頭だ。
 クラスメイトのどの子よりも誕生日が早い。
 4月のお誕生日会でも常に杏奈は目立っており、ステージの上で先生にマイクを向けられてインタビューを受けているときも堂々と落ち着いて、適切に受け答えをしていた。それを見ている3月生まれの琴音はすごいなと感心しきりであった。

 杏奈はあっさりと25歳で結婚をし、つい最近、腹の中に子どもが出来た。20年以上経った今でも琴音の親友杏奈からの電話はそのような内容だった。
 妊娠したよ。と嬉しそうに電話をかけてきた。
 琴音は素直に喜んだ。

 杏奈。
 それはそれは華やかで、こども園からの愛嬌は大人になっても変わらず、いや、磨きをかけて可愛らしい大人に成長したのだ。
 だってね、それは小さいころから可愛かったらそうなるよねっていうような綺麗な成長を遂げ、考え方、仕草なんか何をとっても早熟であり、華やかなオーラを纏って、うまくそれを使いこなして、中学生の頃にはもう男友達と交際していた。杏奈ちゃんは毎日が華やかで琴音は爪を噛んだ。

 幼少のときは琴音と同じようにきらびやかしていた純粋さは小学校、中学校、高校と歳をとるごとに徐々に失われ、成長曲線と反比例になるように杏奈は大人の女性になっていった。
 27歳になっても未だ、内面、外面ともに純粋さを持つ琴音と杏奈を比べてみると、内に秘めている杏奈の純粋さと琴音の純粋さは何か共通するものがあるように思える。だから、今でもこうして杏奈と話ができるのだ。

 杏奈はもったいない子だ。
 顔立ち、スタイルとも綺麗で、対人関係の中で生きていくのも上手いのに、社会に出て、2年足らずで使うのをやめて、すべてを家庭に振ってしまうのがもったいなく思える。

 杏奈は琴音から見ると桁外れた素晴らしい人間で、こんな家庭みたいな内側だけで生きる人間ではないはずなのにと琴音は思ってしまう。
 一方、当の杏奈はもう、これでいいんだ。家庭で円満に暮らしたいと通話のなかで話していた。
 杏奈は小さいときからそういうようなことを言っていた。

 だって、こども園のとき、そう4月の誕生会のとき、先生に将来の夢はと杏奈が問われたとき、杏奈はお嫁さんになりたいって言っていた。その時はそうなんだって単純に感心して、一方の琴音は蛙になりたいなんて、先月の誕生会で言ったことが恥ずかしくなってしまって、杏奈ちゃんってすごいなって思ってしまって。

 あの日も母と二人で歩いていて、銀行からこども園にお迎えに来てヘロヘロになっている母にこども園であったことをあふれるくらい母にしゃべっていた。
 大きな川の堤防の上にある歩道を歩いていた。そのアスファルトで舗装された歩道はさっきまで降っていた雨の色を吸収していた。歩道に小さい緑色の蛙、たぶん、あまがえるが蛙が二匹で一匹、つまりおんぶ蛙の状態になっている蛙に遭遇した。
なんで二匹で一匹なのと母に聞いたら、寂しいからだよ。と母は言った。

 それから半年くらいずっと蛙になりたいって心に秘めていた。
 それで思い切って、3月の誕生会の先生からのインタビューで琴音が蛙になりたいって言ったらみんなに笑われた。笑われたことに驚き、それで、恥ずかしくて、恥ずかしくて、みるみる赤面になり、とっさにやっぱり蛙になるのはやめて、銀行のお姉さんって言った。
 
 杏奈は小さなときからお嫁さんになりたくて、大学で英語の教員免許を取り、結婚するためにお金貯めなくちゃって、そのまますんなり公立高校の先生になり、一年後に結婚。そして昨年の春、3年務めたところで先生を辞めて、つい最近、妊娠した。

 琴音も大学で国語の教諭免許を取得した。実習に行った際、それはもう、辛い日々で、人の前に出るのが得意でない琴音がこなせる仕事ではないと実習期間中にげんなりした。
 毎日、手書きで処理する実習日誌やら、授業の準備やらで朝から晩まで学校にいて、家に帰ってからも日誌やら次の日の授業準備に追われ、寝る暇なんてなく、もう、ノイローゼ気味にそれらを泣きながら処理し、睡眠時間3~4時間でまた実習先の学校までいき、けちょんけちょんに疲れて、免許なんてもういらないと思いつつ、結局最後まで実習し教員免許はとった。実習が終わった次の一週間は大学をさぼった。

 琴音にとって辛い職業を杏奈はよく2年も就いて、働いたなと思った。杏奈は要領よく、頭もよく、器用に毎日をこなしていたに違いない。琴音にはそれができない。

 琴音と杏奈は対極的だ。
 琴音はただの書店員で、せっせと棚に本を戻すだけ。

 書店員のイメージは神経質で愛想もなく、ぶっきらぼうな人が多いと琴音は常に思っている。本が売れたら、自動発注が勝手に掛かって入荷した本を棚に戻す。
 永遠にそれを繰り返しているからだからと思う。と思う琴音も日々、棚整理に追われ、自分のことしか見えてなく、横や上の繋がりも淡泊で、棚の前で一人で悩みながら立っているときは大勢で働いているはずなのに、一人でポツンと誰も居ないところに置いて行かれたような感覚になる。本を戻すたびに自分が平たくペラペラになっていくような、冷たい感じになる。おそらく、琴音以外の書店員はそう思っているだろう。

 本を棚に戻しているときは無心になる。自分のペースで本を戻す。おびただしい量の本を本棚に戻す終わりのない作業。
その作業の合間にお客さんから声かけられて振返ったときに本を戻すのに集中している顔が人から見れば、ぶっきらぼうに見え、世間知らずとも捉えられるし、幼稚に見えるのかもしれない。
 だから、人が見るよりこの仕事は肉体的にも精神的にも疲労が積もる。

 それなのに、楽でしょ。と人から言われると、私は一体なんの仕事をしているのだろうと余計に一人悶々と自分の気持ちが宙に浮いてしまう。宇宙飛行士が宇宙遊泳をして、ポツンと一人を感じるように。

 杏奈が高校の先生をしているときに何度かご飯を一緒に食べたが、杏奈は杏奈のままであった。人当たりが良い所為か、特に困ったこともなく、人生そのものが順調に進んでいるようにも見え、疲れているように見えた。それでも杏奈は話しているときのさりげない笑顔や優しさは変わらず、会食しているときは常に笑顔で可愛いらしく、気がしれた琴音にすらずっとその調子で話してくる。

 よく見ると杏奈ってこんなに綺麗な箸の持ち方してたっけ。
 って思ったり、琴音の気が付かないうちに食べ終わった皿を重ね、テーブルの端に寄せて。琴音がサラダを取り皿に入れようとしてレタスをテーブルにこぼしたとき、杏奈はそれをみて機敏に紙ナプキンでレタスを丁寧に取り、親密に気遣いの言葉を琴音にかけた。はっと琴音は驚いた。



12
 雨音で目が覚めた。
強めに大粒の雨がバルコニーのアルミでできた柵をカンカンと叩く。カンカンと合わせて、腹部もそのカンカンのリズムに合わせるように痛む。
 身体は重く昨日より増してどんよりしており、二度寝しようと無理やり目をつぶっても上手くいかなかった。冷蔵庫から買いだめしていた小さい3個付きパックのヨーグルトを1つ取り出し、小さいスプーンでゆっくり咀嚼した。

 杏奈と電話で話をしていたとき気持ちが、少しだけ明るくなったのが嘘みたいに今日は気怠い。
カンカン。
 琴音は数日前に見た夢のことを思い出した。

 杏奈はあと7か月もたたないうちにその日がやってくる。夢は妙にリアルで気持ちが悪かった。

 一方、琴音。
 琴音だって、すぐに結婚できると思っていた。おんぶかえるのように二匹で一匹に琴音もなりたい。それにはもう一匹の蛙が必要だけど、もう一匹がいないとおんぶのしようがない。

 甘ったるい臭いの預け保育の部屋。
 そこで男の子と二人でおままごとをしていた琴音。男の子の服から仄かに洗濯洗剤のつんとした匂いと幼いころ特有のあのあまったるい汗の臭いが混じっていた。その匂いが琴音は好きだった。
 淡い恋心。
 琴音はその匂いで幸福に浸れていたのかもしれない。
 たまに洗濯洗剤で男の子と似た匂いのものがあり、匂いで琴音はその時を思い出す。

 琴音は結婚の衝動に駆られている。
 年齢、外的環境要因、ありとあらゆる原因が琴音を取り巻いている。
 琴音も幸せな家庭を築きたい。琴音だって、身体だって、特に太っているわけでもなく、顔も特別綺麗なものではないが平凡な顔つきをしているはず。話は面白くないとよく言われる。だから琴音は聞き役に徹する。
話がつまらない以外はそんなに難点はないように自分では思えるけど。

 一昨日、雨に打たれたことを思い出す。
 びしょ濡れで平然と歩いている琴音の姿が、水たまりに映し出されていた。
 その姿はどことなく、暗く、素朴で地味なグレーかかっており、琴音はグレーの人間だって思った。

 こども園のころ、夕立の中、母が傘を差し、琴音は黄色い雨合羽を着て帰る日があった。母はいつも通り、疲れていたけれど、雨の日は特に疲れているように見えた。母はきっと雨が嫌いだったんだと思う。
いつもあの分厚いコテコテの化粧をし、琴音をこども園までお迎えに来る頃にはファンデーションがところどころ、汗と滲み、ぐちゃついていた。
 琴音もあと一年もすれば、母が父と結婚した27歳に差し掛かる。

 ある雨の日。
 夕立の日に母は花柄の傘を差し、琴音は雨合羽を着て、手をつないで歩いて帰ったあの日。黄色い雨合羽を着ていた琴音は自分の姿が水たまりに黄色く映っているのが可笑しくて笑いながら、そのことを母に何回も言いながら歩いていた。

 それで、こども園でいつだか大きくて白い、ビジュアルカラーで写真だらけの生き物の図鑑を見ていた時、蛙の種類を紹介するところに黄色い蛙を見つけた。

 その時は字もまともに読めず、先生にこの蛙がどこに住んでいるのか尋ねたらそれはコロンビアってところに住んでいて、モウドクフキヤガエルっていうんだって。
 と言うものだから、そのモウドク、フキヤ、カエル、と三つの単語が合わさってできているのを理解できず、けれどもモウドクフキヤって言うのが面白くて、琴音は今、黄色だからモウドクフキヤガエルなんだよって母に言ったら、母はすごい名前だねって琴音のことを笑って答えた。

 それで、琴音も母が笑っているのを見て、それが可笑しくて、モウドクフキヤガエルを連呼しながら時折、水たまりを飛び越えるために飛び跳ね、蛙のふりをしていた。

 それで、小学校に上がって字が読めるようになって、ある日の夕方の図書館の窓際の端っこの席で、あのオレンジの西日をもろに当たる席で、モウドクフキヤガエルを生き物の図鑑で調べてみたら、バトラコトキシンたる地球上でもっとも強い毒を持っており、コロンビアの原住民が狩猟で使う吹き矢の先にモウドクフキヤガエルから抽出したその猛毒を塗って、狩猟をしていたから名前の由来になった。
 と小さな文字で写真右下に書いてあった。
 そのとき初めてその言葉が一つの意味を成し、モウドク、フキヤ、カエルが三位一体となり、モウドクフキヤガエルとなり意味としてモウドクフキヤガエルは琴音に強烈な印象を植え付けた。

 この間映った、水たまりに反射する琴音のグレーはヒキガエルのように思えた。
 図体だけ大きくなって、中身は伴っていない。あのときのまま、気がついたらここまで来てしまった。
 
 琴音はバスルームを隅から隅まで洗うことにした。
 風呂用洗剤を乱射し、床タイルを泡だらけにした。蛇口を捻り、スポンジをぬるま湯で濡らし、ユニットバスのプラスチックで出来たタイルをごしごしと洗う。無心で右手を動かし、やがて、一畳ほどのバスルームの洗い場は簡単に泡だらけになる。

 次に、壁に洗剤を乱射し、壁の至ることころに白い泡の固まりを作り、それをまた、スポンジで、琴音の手が届く高さから、床手前まで全面をスポンジで壁を撫でてく。
 シャワーからぬるま湯を出し、洗剤を洗い流す。白い泡は排水溝の方へ向かい、排水溝も水を一気に吸おうと大きな音を立て排水するが、洗い流した水が次から次へと流れ、排水が追い付いていなかった。

 次に浴槽に洗剤をばらまく。合わせて浴槽側の壁にも洗剤をまく。
琴音は洗い場を洗うときと同じように壁と、浴槽をスポンジで泡だらけにした。それをまたシャワーの水で洗い流す。

 ここまで終え、琴音は大きく息を吐いた。
浴槽に丸く黒いゴム栓を浴槽の小さな排水口に差し込み、給湯器のお湯はりのボタンを押して、お湯を出した。

 一旦、バスルームから出て、琴音は服を脱ぎ、洗面台にあったシトラスのバスミルクを手に取り、バスルームに戻る。
 バスミルクのキャップを開け、キャップの中にバスミルクを入れ、適量になったら、まだお湯が若干しか溜まっていない浴槽に注ぐ。それを二回して、キャップを締め、手に持っているバスミルクは洗い場の床に置いた。

 ようやく琴音は浴槽の中に入る。
 いつも通りの体育座りをし、お湯が溜まるのを待つ。湿気と一緒になってシトラスの香りが室内に充満し、ふわりと気が緩む。まだ、お湯が十分に溜まりきっていないので、バスミルクは白く、濃い濃度を保ったままである。琴音はそれをできるだけ早くお湯に馴染ませるために右手でお湯をかき混ぜる。
 お湯が琴音のへそ右上のほくろまできたところで、いつものようにお湯はりが終わった。

 琴音が内気になってしまったのは、あの4歳になったときにこども園での誕生会でのインタビューで蛙になりたいと言ってしまったのがきっかけだと思う。
 なぜ、私の夢に皆が笑ったのか、どうして、蛙になることを望んではいけないのか、琴音は混乱した。それ以降、何事にも自信が持てず、引っ込み思案になってしまった。

 もしかしたら、ここで杏奈みたいにお嫁さんになりたいって言っていたら、琴音の性格も杏奈みたいに人懐っこく、可愛くなっていたのかもしれない。
 いや、無いな。

 家に帰っても両親はともに疲れていて、休日は遊んでくれたけれども、平日の夜は遊んでくれなかった。
 琴音一人でシルバニア人形を使って遊んでいるだけだった。だから、琴音はその中で、家族を再現して、家に帰っても、一人で、シルバニア人形でおままごとをしていた。

 琴音の4歳の誕生日プレゼントにシルバニア人形用の大きなドールハウスを両親は琴音に買ってくれた。それ以来、シルバニア人形のうさぎ4体と、リス2体を合わせて、6体の人形を使って家族を作った。シルバニア人形で遊ぶときはおままごとのときと同じように集中力が途切れず、朝から晩まで遊んでいられた。

 頭がくらくらしてきた。琴音は浴槽を出た。
 
 バスローブを着て、コップに水を注ぎ、それを一気に飲み干した。琴音は現実世界に戻った。
体調悪く、風呂を上がった琴音にはもう、何も残らなかった。
 シトラスの香りの中であの雨の残像を感じ、モウドクフキヤガエルもなければ、シルバニアファミリーもそこには存在しない。
 部屋の中には棚いっぱいに石鹸やらアロマオイルやらの入浴剤があふれており、今、こうしてこれらを見ると何一つ心に響くものがなく、無駄としか思えなかった。
 


 翌日も昨日と同じく、気怠く昼過ぎに起き、外はゆったりと梅雨らしい雨が降り続き、昼間なのに色は色彩に欠けるグレーに覆われて、部屋までもグレーに覆われており、雨音やら車が水をはねる音でうるさい、うるさい。
 音、色彩とも何もかも今日はとても嫌で、嫌で気持ちを暗くさせる。
 身体を洗い、半身浴をし、頭くらくら。昨日より体調は回復傾向にあるけど、琴音の気持ちは上向くことはなく、料理を作る気にもなれず、夕飯は適当にカップヌードルを食べ、グレーに染められたベッドに寝ころがって一日が終わった。
 


13
 5時半に起床し、オーガニックシャンプーやら、石鹸で身体を洗い、オーガニックシャンプーの仄かなシトラスの香りを纏い、傘を持ち、7時ちょうどにアパートを出た。身体はすっきりとしている。朝の空気は雨が降っていても新鮮で澄み渡っている。

 駅の改札を通り、いつもの鉄筋支柱横で電車を待つ。
 電車がホームに滑り込み停車。ドアが開き、電車に乗り込む。この電車は琴音が利用する駅の隣駅が始発で、他の遠くからくる電車よりも乗っている人が少ない。琴音は空いている座席に座る。
 
 書店に着き、何人かと挨拶を交わし、店長に休みをもらったことを詫び、そこから、雑誌を梱包から開ける作業に入った。

 今日は珍しく、雑誌が少なかった。
 数量があるのはパズル誌程度で、付録のある雑誌はあまりなく、雑誌を出すのも、20分程度でおわってしまった。
 あとは琴音の担当である文庫の注文品を出していくことになる。琴音が休みの間、他の社員とアルバイトがそれを行ってくれていたようだ。琴音がいてもいなくても仕事は回るし、きっと、大した変わらない。
 
 昼休憩に入り、従業員休憩室で休憩を取る。
 琴音は食欲がなく、昼食を食べないことにした。やることもなく、ぼんやりと休憩室のテレビを眺めていた。テレビでは午後のワイドショーがやっており、梅雨はいつまで続くのかと天気の話をしていた。
 ワイドショーは天気の話題の後にエンタメ情報が入った。
 琴音は芸能情報に興味がなく、小説原作の映画、ドラマ作品があるかどうか、仕事中にネットで検索するくらいだ。気が付いたら最近は感傷に浸らなくなってしまった。どの音楽を聴いても、映画を観ても琴音の心には響かなかった。



 勤務が終わり、アパートに帰って、全裸になり、浴槽に入りながらお湯を溜める。
 へそ右上のほくろを見る。ほくろを見ていると焦点が合わなくなり、二重、三重になり、ぼやけて丸。焦点をほくろ一点に戻し、もし、へそ右上にあるこのほくろを5歳の男の子が一緒にお風呂に入っているときに右人差し指の腹でそっと丸を描くようにそれを触ってくれたらと、一瞬よぎる。

 琴音にとって、5歳の男の子はもう、象徴的な男性像でしかなく、琴音の脳内人物コレクションの一つだ。それはリアルに石鹸をコレクションしているのと同じく、琴音の脳内人物の一人としてコレクションされていく。と言っても、琴音の脳内人物コレクションなんて、その男の子しかいない。

 それでもって、その男の子はもう脳内でむちゃくちゃな書き換えをされて、琴音の脳内、何もかもごちゃ混ぜだ。それでもって、王子様みたいに琴音のしみったれた日常を救ってくれるのかなとも思うし、かといって、男の子はいまも実際に27歳の男性として生きているし、リアルな方も知っているわけで、けれども琴音の脳内では強烈なイメージとして5歳の時の男の子そのものだし、それを消そうとしたってもう消せるものではないし。

 琴音はこの二日間、男の子のことを思い出していないことに気が付いた。
 思い続けてきた相手を、琴音の体調不良の所為で思い出さずにいたことは琴音の中で、その男の子の存在を否定してしまったことになる。
 琴音が脳内で男の子を思い続けないと脳内での男の子の死を表すこととなり、思い出さない時間だけ、どす黒い、琴音の脳内の思考の海に吸い込まれ、男の子の意識が消滅するのだ。

 琴音はその男の子とともに生活してきたと言ってもおかしくないと思った。
 その男の子が勝手に琴音自身の心を支えていて、リアルを追い求めすぎるとやがて、脳内のイメージとリアルの境界線が曖昧になり、その男の子がでてくるのではないかと絶望的な期待感で胸を高鳴らせようとしたが、それはもう、ね。
 琴音自身が人生を変える選択を怠ってきたツケという、ね。

 そういった人生の中で繰り返してきた数々の後悔が重く琴音にのしかかる。
 あの時こうしていればとかこういう環境があれば、といろんな要因を琴音は思い出すけど、ね。そうしようと思ったって。
 もうさ、時は過ぎ、琴音はしみったれた書店員をしているわけで、それをいとも簡単にそう、杏奈のように思い通りに過ごすことはできない。

 ならば、過去世界に時空を超えて戻り、人生をあの4歳のときからやり直して、男の子と一緒におままごとして、卒園したら、また時空を超えて戻って、4歳になっておままごとを続ければいいんだ。そうすれば、その一年を一生続けちまえば、書店員になんてならず、5歳の男の子のお嫁さんになれたのかもしれない。

 それでも、琴音は4歳の誕生会のときにはステージで蛙になりたいと言って、みんなに笑われるんだ。きっと。
 それが琴音なんだ。

 黄色いモウドクフキヤガエルこそが琴音の人生になっていたかもしれない。
 そういうしみったれた人生しか歩めない琴音の今の望みは本棚を解体するのでもなく、お嫁さんになるわけでもなく、新しい石鹸を買うことでもなく、男の子とおままごとがしたい。
 ただ、それだけなんだ。
 


14
 寝て起き、また色んな臭いがする書店に行き、自分の与えられた担当の本を棚に戻す。勤務が終わると琴音の身体はぐったりして何やっているんだろうって思う日々は続いた。
 いつものように電車に乗り、いつもの駅に着き、駅前のスーパーで食材を適当に買い、ビニール袋をぶら下げながら徒歩で帰る。

 今日は灼熱だった。
 梅雨なんて忘れられたみたいに熱がまだ残っていて、夕暮れ時の今でも、夏が空気を支配し、息苦しく、歩いているだけで汗が次から次へと吹き出る。
 朝せっかく顔に塗ったファンデーションはもう汗でドロドロに溶けている。
 もうどうでもいい。
 そもそも、この汗でファンデーションが溶けたのではないのかもとまたまっ平らな書店を罪なく呪う。
 
 アパートに着き、エアコンのスイッチを入れ、スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、そのあと、バスルームに行き、湯船にぬるいお湯を張る。

 その間に洗面台にてファンデーションでドロドロになった顔面を洗顔し、一気に洗い落す。バスタオルで顔を拭く。
 服を脱ぎ捨て、ヘアゴムで髪を束ね、まだ、あまりお湯がたまっていない湯船に浸かる。琴音は幾度も幾度も、自分なんてどうでもいいや。とつぶやき、琴音は自分のへそ右上のほくろを見て、大きくため息をついた。

 今抱いている虚無感をこのまま抱え込むにはあまりにも辛く、重たい。
 琴音はずっとこの先一人で生き、冴えない書店員として文庫を担当し、別に好きでもない本相手に仕事を続けていくのだろう。
 それが小さい時からの夢ならそれで満ち足りた人生になっているだろうけど、琴音は蛙になりたいのであり、蛙にはどうしたってなれないから、杏奈の真似をしてお嫁さんになりたいけど、それ相応の勇気と器量と人生経験を持っておらず、時は残酷に流れ、琴音が好きと言える男の人との出会いもないままに、このままに煮詰まらない、もやもやを抱え続けるのだろう。

お湯はりのボタンを押そうとしたとき、右の二の腕を見たら少し細くなった気がした。
 


15
 風呂から上がったあと、身体をバスタオルで拭き、バスローブに身を包んだ。
久々に体重計に乗ると、数字が5キロ少なく表示されていた。部屋はエアコンでギンギンに冷えており、今度は寒く感じた。

 琴音はクローゼットから40ℓのごみ袋をだし、部屋にあるベルガモットの石鹸を右手で取り、ラベルにお洒落に書いてある、  Bergamotの文字を凝視する。
 Bの文字がやけに焦点が合わなかった。
 左手に持っているごみ袋にそのまま石鹸を放り捨てた。そこから、右手は素早く、部屋にあるありとあらゆる石鹸やら入浴剤をどんどん捕捉。

 レモン、ペパーミント、グレープフルーツ、それらを廃棄。
 無数にあるこのコスメどもはもう、いつ買ったかもわからないような商品もあり、どうしてこんなに買い込んだんだろう。

 イランイラン、オレンジ、ラベンダー、容易にコスメを好きになってしまい、楽しみだったコスメたち。
 これらの香料は私を彩ったつもりだったけど、もはや意味なんてなにもなく、ただの臭気でしかない。

 ライム、ローズ、シトロネラ、アプリコット、ジュニパー、クラリセージ、ユーカリ、ゼラニウム、マンダリン、共々すべて、捨ててしまった。
 そして、それらをコレクションしていた棚はすっからかんになった。
 琴音は左手に持っている重たくなったごみ袋を見つめた。
 もう、匂いなんかに囚われなくていいんだ。もう、なにも匂いに対して、何も思わなくていいのだ。石鹸はもう琴音にとっては、なにも意味を持たない。
 部屋にあったあれだけ飾ってあった石鹸はすべてごみ袋に入ってしまうと、今まで琴音を飾りつけ、虜にさせた香りはすべて、すべて、すべてごみであった。

 琴音はごみ袋に入っている今まで囚われていたつまらない香りを見て、虚しさが永遠に続けばいいなと思った。



16
 夕食を食べる気力がわかず、琴音はそのままベッドにもぐりこんだ。
 暗くなった天井をじっと見ていたら、久しぶりに脳内おままごとのことを思い出した。

 男の子と一対一でおままごとをし、私は幸せだった。
 赤ん坊の人形をあやしているときにその赤ん坊が琴音の子どもだったらいいのにと思った。琴音はその時、女性になるなんて思っていなかった。
 ずっと少女であり、赤ん坊なんて少女なら当たり前のように与えられるものと思っていた。それが琴音の希望であった。
 それを抱きしめてさえいれば、赤ん坊は赤ん坊のまま、それで琴音は幸せだったのだろう。けれど、いま女性になった琴音はこうも赤ん坊を望むことが困難で、現状では叶わぬ夢であることに落胆し、そうなるには男がやはり必要で琴音の内部に男の遺伝子を入れなければならず、それがどんなことなのか、この年になってもわからず、皆が気持ちいいということが、気持ち悪く、嫌悪の固まりであり、それを想像することはもう、嫌で、嫌で。

 高校生の時に杏奈とそんな話題を大層、興味深くお話していたときにそれはどんなことなのだろうか。感覚的に。という話をした。

 杏奈はなるようになるんじゃないのかなと優しく答えていたけれども、今思うと、もうその頃、杏奈は男と付き合っており、初めてのそれをもう済ませていたのかもしれない。そういう曖昧な返事が杏奈の優しさなんだなって。

 それをなにもわからずにそのまま当時そうなんだと。
 けれでも、これがこういう感覚でということを琴音は杏奈に語っていたことに今更恥ずかしくなった。
 杏奈はもう、あの時すでに大人の女性になっていたんだ。
 それはもう天性としか言いようがないような感覚。
 それでもって、琴音は少女のふわふわとした実体のない感覚のまま、今も過ごしている。
 


17
 翌朝、目覚まし時計の音が鳴る前に目が覚める。
 涙で頬が濡れていた――。

 そして、ものすごく空腹。昨日の夕飯を抜いた所為なのは明白だった。それは事実として、感覚で知らせてきている。
 琴音は空腹を我慢して、先にいつも通り浴室でシャワーを浴び、その後バターを塗ったトーストを2枚を食べ、7時ちょうどにアパートを出た。
 今日も相変わらず外は暑く、昨日の暑さがまだ残っていた。太陽はもはや昼顔負けの日光を照射していた。
 


 バックヤードに入ると、ビニールに梱包された雑誌の山が3つあった。
 今日は女性ファッション誌が複数発売される日で、ビニールに梱包された雑誌の束がいつも以上に大量あった。それをみて、琴音は絶望した。

 ここから時間に追われる。
 開店まで、あと30分を切る。琴音の今日の当番は雑誌あけの係りだ。琴音ともう一人の社員の一つ年下の女の子と一緒にものすごい勢いで、それも、無言で黙々と、安全カッターを巧みに使い、梱包されたビニールとプラスチック紐をばさばさと切り、雑誌を一旦取り出す。

 付録つきの雑誌は大体、一番上に梱包された段ボールの束が入っており、その中には安っぽいポリエステル製のポーチやトートバッグが入っている。
 それを一旦取り出すと、下にもう一つの付録、綴じ込みの冊子の束が入っており、更にその下に雑誌本体が8~12冊程度入っている。この梱包には一つの雑誌しか入っていないのだが、付録と雑誌本体が分厚く、梱包一つの高さが50センチメートル近くなっている梱包もある。女性ファッション誌に付録2点をはさみ込み、それをビニール紐で綴じる。

 汗だくになりながら、なんとか開店5分前に開けるのを終わらせたが、今日は開店までに雑誌を陳列するのは難しそうだ。雑誌だしは夜番のスタッフが発売日前日に明日発売される雑誌の先月号を抜き取り、翌日発売の雑誌を置く場所を作る。そうすることで、朝はその空いた平台や雑誌ラックに最新号の雑誌を置くだけでいい。

 雑誌を置く作業は15分くらいかかってしまうので今日は開店して最初の10分は一部雑誌が売り場にない状態が出来てしまう。本当はいけないことだけど、ここでは暗黙の了解となっている。朝早くから狙ったように雑誌を買うお客さんなんてそう滅多にいない。

 9時になりお店が開店する。やはり、早々に来られるお客さんは10人程度だった。
そこそこ規模が大きいうちのお店では10人のお客さんが来店しても大したことはない。一つ年下の女の子と黙々と作業をすすめ、手早く雑誌だしを難なく終えた。
 琴音はのどが渇き、バックヤードに戻り、買っておいたペットボトルの水をゴクリと三分の一程度飲んだ。鏡で自分の顔を覗き込むとすでに顔面のファンデーションが崩れ始めていた。

 従業員休憩室はいつもと変わらずいろんな食べ物が混じった臭いが充満し、話声ばかりで雑然としている。 
今日のテレビではワイドショーで天気予報の話題を飽きもせず放送している。ここ数日晴れているので本当に梅雨は明けたのかとキャスターが気象予報士に訪ねていた。

 休憩が終わり、琴音はレジに入った。一日中忙しいこの店は飛ぶようにあらゆる本が売れていく。レジをひたすら打つ。
 
 終業一時間前、今日最後の一時間は自分の棚をいじることにした。
今仕掛けている商品の売上が下がってきたので、新しく目を付けていた商品を取次先のウェブサイトで発注をかけた。

 次に、出版社に電話をかけ、その本のA4サイズのパネルPOPをもらう約束を取り付けた。それをやってしまうと、すべてが面倒くさくなった。
 商品整理をしてるふりをして、退勤まで残りの40分を潰すことにした。たまに棚下にある引き出しを無意味に開け、在庫を確認しているふりをする。しゃがみ込み、気を休めたいときに琴音はこれを使い、少しの間気持ちを落ち着かせる。なにも考えずに引き出しの中にある本を一点だけ見ている。

 声をかけられた。お客さんだ――。
 いらっしゃいませと返事をするとそこに立っていたのは5歳の男の子、いや、違う。
 そこに立っていたのは私と同じ、27歳になったスーツ姿の男の子。というか男性であった。

 あまりにも突然すぎて、とっさに出てくる言葉がなく、先に男性が久しぶりだね。いま、たまたま出先で寄ってみたんだ。と気さくに声をかけてくれた。
 5歳の男の子と会うのは2年ぶりで、前に会ったのは琴音が杏奈の結婚式に行ったときだった。

 杏奈から婚前に相手のことはもう、話には聞いていたけど、こうして結婚式で20年ぶりに会う男の子はそう変わってはいなかった。
 男の子のその姿、雰囲気を久々に感じ、琴音は懐かしく感じた。
 なにか心くすぐられた。



 結婚式はこじんまりとした、双方の親しい友人と親しい親戚が集まる最近はやりの少人数結婚式であり、この街から車で一時間ほどの場所にあるリゾート地にあるチャペルで結婚式を挙げていた。杏奈にしては意外だった。もっと交友も広いはずの杏奈がこの小さな式場で決して盛大ではなく、ささやかにおしとやかに式が行われたことに。

 式の後、チャペルの隣にあるリゾートホテルでささやかな会食が行われた。その際に20年ぶりに5歳のときの男の子と話をした。
 軽やかに久しぶりだねとか、杏奈から話は聞いていたけど、まさか二人が結婚するとはね。とか、本当に軽い世間話程度しか話さなかった。しかし、そのときこども園の延長保育でおままごとをしたことは全く話さなかった。
 結婚式が終わってその日はリゾートホテルにそのまま琴音は泊まった。

 夜、ホテルの部屋に入り、この日のために買った青いドレスを脱ぎ捨て、ベッドに寝転んだ。無駄に高い天井は白い。
 白い部屋のダブルタイプの広いベッドの上で、琴音は5歳のときの自分を思い出した。あの時の琴音と5歳の男の子が延長保育の時にやっていたおままごとの光景をぼんやりと映写機みたいに白い天井にその時の光景を映し出す感覚で思い出したのは赤ん 坊の人形を二人であやしている光景。涙が頬を伝う。
 琴音はとても悲しくなり、悲しみの正体が掴めないまま、込み上がる涙が次から次へと、内側からせり出して来て、もう止められなくなり、ずっとずっと静かに泣いた。




18
 16時に仕事が終わり、電車に乗り、シートに座る。窓の外にはどす黒い雲がだんだんこちらに向かってくるのが見えた。
二駅目に電車が着いたときに、どっと大量の雨が降ってきた。にわか雨であった。
 いつもの駅に電車が着いてもやむ気配はなく電車から降りるときに一瞬濡れた。改札を出て、どうやって帰ろうか迷った。入口近くの窓越しから空を見ると、雲が切れ始め、切れ目から光が射し込んでいた。琴音は駅のベンチに座り、雨が弱くなるのを待つことにした。
 10分後、雨は簡単に小降りになり、雲もいつの間にか通り過ぎ、青空が見えてきた。琴音は歩いてアパートまで帰ることにした。

 駅を出て、いきなり信号に引っ掛かり、交差点で琴音は立ち止まる。
 交差点の向かい側から小学校低学年くらいの男の子と女の子がじゃれながら走ってくる。小学生を交通量の少ない道路を挟んで姿を見る。
 二人とも仲がよさそうに笑いながらじゃれあっていた。信号が青になり、その二人はまた走りはじめ、男の子を女の子が追いかけている。琴音はまた横目でその子たちを見て、自然と笑みがこぼれた。

 そうやって、杏奈と男の子は20年も年を取ってもそうやって、じゃれあって、笑って過ごして、そうやって、いろんな出来事を共有してきたのか。琴音はずっとそれが出来なかったんだ。
 きっとこども園のときは自然に母にやって、杏奈にもやって来たはずなのに。
 きっと琴音も自然に出来ていたはずなのに。

 それがいつの間にか出来なくなって、人前でぎこちなく振る舞って、なにか透明な膜に覆われて、人は私のことに興味なんて持たずにただ、自分の話ばかりして、私はそれを聞くだけ。そして、自分のことなんて話したら、そこから私は宙に浮いてしまって、どうやってこの話題を着地させたらいいのかすらわからなくて。石鹸の知識や香りに集中すればするほど、琴音の生活は鬱屈し、人とじゃれあうことを嫌った。琴音はその恐ろしい魔物を抱え込んで、ここまで来てしまった。



 書店で男の子に声をかけられたとき、あなたの所為で、私はおままごとから始まり、おままごとで終わり、ついこの間、いい匂いの入浴剤と石鹸を捨てた。とは言わず、自然とあなたと杏奈との間に出来た子どもに対して、まず、おめでとうを言うべきだと脳のシナプス回路が繋がり、おめでとうと言う前にあなたは、ちょうど出先で近くに来たから元気かなって思って、と変わらない安い気さくさと、安い優しさを私に振ってきて、私はとっさに元気だよとあざとい、いやそこではあざとくはない、嘘を一つついた。

 だって、あなたの所為で、私はここ最近、とても体調が身体的、精神的にもすぐれなかったから、いや、最初の1週間は厳密にいうと優れていた。
 だって、あの時は幸せだった。
 私はここ最近で5キロもやせちゃったんだよ。
 いや、やせるってこんなに自然に出来てしまうことなんだって思った。

 それを軽々しく、元気かなって聞かれたらそれはあなたに私は優しい嘘をつかなければならないでしょ。だって私、あなたの影を追い続けるあまり、やせちゃったなんて笑えてしまうし、あなたの影を追うあまり、夢でうなされましたなんて言えないし。

 それで、高ぶる気持ちを抑えて、杏奈、妊娠したんだってね。って言ったら、そうなんだよね。なんて言って、笑う。笑う。
その笑み、腹が立つ。
 あなたの所為で。あなたの影で私はこう、少女から女性になってしまった。妄想上の体験だけれども。
きっと、このことを忘れない。

 これからさ、いろいろ準備があって大変だし、杏奈なんてうきうきしてるしさ。

 私に言う言葉なのか。
 うきうき。

 それは間違えていると思うよ。
 結婚する前からもう杏奈はうきうきなんだよ。

 杏奈がお誕生日会で蛙になりたいって言ったらそれはもう、うきうきしなかっただろうけれども、あの子オマセちゃんだから、5歳のころにはもううきうきでお嫁さんになりたいって言って、それから杏奈はずっとずっと杏奈が発生させたウキウキの渦の中に周りを巻き込んだんだよ。

 ずっとずっと。
 私はそれが出来なかった。

 それで私、あなたに聞いた。
 私がこども園のお誕生日会で、将来、何になりたいって言ったか覚えてる。って。そしたら、あなた、面白可笑しく驚いて、やっぱ、琴音は変わっているなって笑って、昔から変わったことばかり言ってたからもう覚えてないよ。と笑いながらあなたは私に言う。

 そうだよね。
 もう20年前以上のことなんて覚えてないよね。って私、愛想笑い。
 私って、やっぱり安直だなって思って。

 あなたがそれを察したのか、あ、誤解しないでね、いい意味での変わっているってことだから。つまり、発想力が豊かってことだよ。だから本屋さん勤まるんだよ。って。

 私だって、好きで本屋やっているわけではないのに、やっぱり、変人だから本屋がお似合いだね。みたいな言い方じゃん。それ。
 もうそろそろ行くね。とあなたは言う。

「おめでとう」と琴音は既婚男性にそう告げた。