「……でもね、本当は識だけに見せようと思ってたんです」
ポツリと落とされた香夜の声に、識は目を開く。
「今回はちょっとふざけちゃったかも……ですが、識がひとりで過ごした年月分、これからは楽しいことをしたいんです。哀しいことを忘れてしまうほどの、楽しいことを。……一緒に生きるってそういうことでしょう?」
は、と見開かれた識の赤い瞳には、眉を下げて微笑む香夜の姿があった。
凍てついた心を蝕んでいた黒々しい感情が溶けていく。今回のことは、香夜が人の世を懐かしんで催したことだとばかり思っていた。しかしその実、全ては自分のためだったということをようやく理解したのだ。
「……そんなこと、お前が考える必要はない」
「え……?」
「過ごした年月分ならば、もうとっくに取り返している。ここにいるつがいを見つけた瞬間からな」
そうささやき香夜の唇を優しくなぞれば、薄桃色に染まる愛らしい頬に識は目を細める。
彼女は、自分と生きていくことを自ら選択してくれた。それならば、不安に心を支配される必要などどこにもない。
「……しかし、俺のつがいは、誰彼構わず他者を誘惑するのに長けているようだ」
「へ、ちょ……っ」
「俺のものだということを、しっかりその身体に刻み込め」
おぞましいほどに美しい妖が口角を上げてそう囁くと、香夜の顔色がサッと青くなる。
これから自分がどうされるのかを察知し、逃げようと後ずさった香夜の身体を捉えた識は満足気に笑みを浮かべた。
容赦なく降りかかる識の甘い口づけと、繊細に優しく動く指先に香夜はまたもや涙目を浮かべて抵抗する。
拒まれながらも識の微笑みが柔らかいままなのは、香夜の心が穏やかに潤み疼いていることを全身で感じとっているからに他ならない。
凪や伊織、本当は他の誰の目にも触れさせたくはない。
心も、身体も、彼女の全てを自分のものだけにしてしまいたい。胸に浮かぶ常夜頭の紋印が、香夜に触れるたびに切なく鼓動する。
「……っ、は、識……っ」
「香夜、お前は……俺だけを見ていればいい」
深い口づけの合間、識の唇から無意識に紡がれたのは、小さな、小さな、愛の言葉。
それはまだ、思い通りには出てこない不器用な感情。お互いがお互いを求め合うように触れ合い、唇が合わさる。
永い夜の帳の中、甘く優しい口づけはそのまましばらく、終わることがなかった。
【甘やかな宵闇・終】