「はは、まあええわ。……どっちにしろここで僕がいなしてしまえば全部済む話やしなぁ」

 凪のまとった風が、屋敷全体を揺らす勢いで吹きつけた。
 識の髪が舞い上がり、形の良い額が露わになる。瞬間、識の脳内でプツンと何かが切れる音がした。
 
 ――こちらの台詞だ。

 細かいことを考えるのは性に合っていない。
 どちらにせよ、目当てのもの(香夜)にたどり着くには目の前の男を倒せばいい話なのだ。

 屋敷を渦巻く二つの色濃い魔力がぶつかり合い、大きな層になっていく。
 むせ返るような花の香りが空気をも震撼させる。

 識が羽織をはためかせると、美しい蝶の群れが現れた。桜の芳香を身にまとった蝶が、幻影の鱗粉を舞わせながら凪の刀にまとわりつく。そのまま識が手のひらをゆっくりと宙にかざすと、まばゆい光を放った凪の刀が打ちたての鉄のようにぐにゃりと曲がった。

「ああああぁあ!? 何すんねん!!」
「たやすく勝てるとでも思ったか? 俺を誰だと思っている」

 腹の底から、黒々とした力が湧いてくる。
 識は、自身の心にはびこった強い感情に内心戸惑っていた。それは、怒りにも似た、芯から焦がれるような感情。
 自分の知らない香夜の姿を、凪が知っている。そう考えるだけで、酷く苛立たしく心が焼き切れていくようである。

 識は、その感情が単純な‟嫉妬”によるものだとは微塵も気が付いていない。
 気が付いていないからこそ、行き場のない苛立ちを目の前の凪にぶつけるしかなかった。

「……――――」
「無言で即死級の魔力ぶつけてくんのやめてくれんか!? おい、僕やなかったら数秒も持た……っ、危な!」

 そう言って焦った表情を浮かべながらも、識の容赦のない攻撃を全て体術でかわす凪に軽く舌打ちを打つ。
 蝶が舞い、羽織に当たって消える。識は黒い愛刀をすっと撫で上げ、迷うことなく凪へと向けた。脳裏に浮かんでいたのは、少し前の光景だった。

 自分が少し目を離した隙にまんまと親しくなっていた香夜と凪。仲睦まじそうに身を寄せる二人を見て、識の脳内は即座に沸々と茹だり、黒い感情が心を占めた。
 何故自分以外の男にそのような表情を見せるのだ、という理不尽な感情と共に、感じたのはほんの少しの焦燥。

「なあ、識。僕が香夜ちゃんのこと本気やって言うたらどないする?」

 
 そう言っていたずらに笑ってみせた凪は、識に向かって再度攻撃を放った。
 凪がこのように、むき出しの感情を露呈させることは珍しい。
 あの日だってそうだ。いつも飄々と世の中を俯瞰してみているような凪が、香夜の前では幼い子供のように笑っていた。
 凪が香夜に向けている淡い感情に、その時初めて気が付いた識は半ば強引に二人を引きはがした。香夜を自分の胸へと収め、戸惑う彼女をさらうようにしてその場を去った。自分がなぜそういう行動をとったのか、理解もしないままに。

「香夜は渡さない」
「……ああ、ほんまに苛つくねん。お前のそういう顔がな」

 据えた目をした凪が、識の魔力によってぐにゃりと曲がった刀を放り捨てる。
 そのまま腕を一振りした凪の元へ集まった風が、黄金色の柔い髪を巻き上げていく。

「識、お前は香夜ちゃんに甘えすぎや」
「……何のことだ」
「その力任せの嫉妬も、独占欲も、無自覚のもんやろ。自覚もないまま、ただ当たり散らしとるだけや。今の自分の顔見てみ、びっくりするで」