とある、月が綺麗な宵。男は一枚の紙を片手に固まっていた。
ゆらゆらと漂う狐火が照らし上げたのは、『まんじゅうでもたべながら、花見でもしませんか』の文字。
奇怪な筆跡で書かれた文字を凝視し、男――、十八代目常夜頭、識は深く眉をひそめた。
人の世において、桜が咲く季節に『花見』と称して酒や菓子をたしなむ文化があることは識も知っていた。
しかしそれは自身の右腕である烏天狗から聞いた入れ知恵程度の浅い知識である。当然話半分にしか聞いていなかった識は、力を持たない人の子が花を見るのもそこそこに、なにやらどんちゃん騒ぎをする、くらいの雑な知識しか持ち合わせていない。
「……まんじゅう」
四季が定まっていない常夜ではいわゆる季節のイベントというものが滅多にない。
そのため理解はしかねるが、『花見』とは花を見ながらまんじゅうを食べる決まりがあるのだろうか。果たしてそれに何の意味があるのだろうか。そう数分フリーズしていた識だったが、ふわりと紙から香ってきた匂いにわずかに目を見開いた。
鼻腔を柔らかく刺激する、無意識に安堵してしまうこの香りは、香夜のものだ。
よく見てみると紙には『隣の部屋を開けて』という指示が矢印と共に書かれている。
今でこそ妖が住まう常夜で自分と共に生きていく道を選んだ香夜だが、彼女が人の世で生まれた人の子という事実は変わらない。もしかすると、この奇怪文は、彼女なりの故郷への追憶なのかもしれない。
そう一人納得した識は、小さく息をつくと隣の襖へと手をかけた。
理解はできないままだが、とりあえず、紙に書いてある指示に従ってみようと判断したからだ。
少し前からは考えられなかった識のこの行動は、他人を慮ることのなかった彼にとって大きな変化ともいえるものだった。